「このゴミはどうにかなんねぇのか!」
廊下に転々と散らばるゴミくずに俺は思わず大声を出し、誰もいない実習棟の廊下に響いた。
今月の頭はまだこんな状態じゃなかったはずだ。
確かに少しはゴミが落ちてはいたが、1フロア精々二つ三つ拾っていたくらいだった。
けれど今は違う。
ゴミ箱まで行くのが面倒なのか、窓の桟に隠すように置いてあったりガムが床にくっ付いていたり、
とにかく汚い。そして教室棟より、普段はあまり人が来ない実習棟の方が明らかに汚かった。
「掃除自体も手抜きになってきてやがるな‥‥」
はっきり言って俺はきれい好きだ。
自室はもちろん保健室だって毎日整理整頓している。‥‥毎日の放課後清掃の他にも。
そうしなくては落ち着かない性分なんだから仕方ないが、よく学生時代の仲間(とくに桃城)に細かすぎるとからかわれたものだ。
ふしゅー、と一息吐いて気分を落ち着かせる。
校内見回りを始めて正解だった。こんな状態じゃ衛生上悪すぎる。
「‥‥来月の保健だよりに書いてやる」
俺はそんな決意と共に、白衣の下、腰に下げているポーチからアイシングスプレーとヘラを取り出した。 まずは、ガム退治だ。
順調に階を登っていって、四階までたどり着いた。
この学校は四階までしか無い。
一箇所、その上に屋上へと続く階段があるにはあるのだが、物置き状態になっていてとても入れたものじゃない。
汚れたタイルを雑巾で磨きながらぼんやり考える。
(確か、あっちの階段だったよな)
生徒だって立ち入らないのだから行ったところで何があるわけでもない。
けれど何故か無性に気になりだした俺は、水道の下の引き戸を開けて雑巾を仕舞って階段の方に足を進めた。
目の前を白い物体が横切っていく。
俺は驚いてその行方を追った。
すると、それは窓際に設置されているゴミ箱の口に当たって弾かれコロコロと転がって、やがて止まった。
とりあえずそれを拾い上げてみれば、ノートを丸めたものだった。
不思議に思い、これが落ちてきた方向を辿っていくと、そこにはやはり生徒がいた。
しかも、その人物は目下の悩みの種。
「‥‥‥乾‥?」
階段の上に立っていた乾は、いつもの彼ではなかった。
分厚い眼鏡でその表情のほとんどは読み取れないが、雰囲気が違った。
(‥なんか、泣きそうだ‥‥‥)
俺は戸惑っていた。乾と直に接したことは二回しかない。
どちらの時も彼は異様に大人びていて、正直扱いづらかったのを記憶している。
どう声を掛けていいか分からずに視線を手元に落とすと、握った紙くずに見慣れた文字を見つけた。
(ん?‥海、堂?俺の名前‥‥?)
思わず開いて確かめようとした。
「‥っ!!見るなっっ!!!」
「!!」
怒声に弾かれたように頭を上げると、乾はものすごい速さで駆け下りてきて、あっという間に俺の手首を掴み上げた。
その手加減のない力に俺の手首は悲鳴を上げ、ぽとりと紙くずを落とす。
「い、‥た‥っ!」
「あ‥、すみません‥‥」
俺の発した声に我に返った乾は慌てて手を放した。
俺はできるだけ乾が気にしないように掴まれた手首をさすって、彼に苦笑いを向けた。
「いや、俺の方こそ悪い。だから気にするな」
乾は何か言いたそうに口を開くが、結局声にはならなかった。
「だけど、ゴミはちゃんと入れろよ」
さり気なく拾ってゴミ箱の中に入れる。これで乾はもう気にしないだろう。
「‥‥どうして、先生はここに?」
「校内の見回りだ。いつの時代も学生は掃除が苦手らしくてな‥‥」
大げさに溜息を吐きながら言うと、乾は少し笑ったようだった。
「ご苦労様です」
「まったくだ」
肩を竦めて乾を見上げる。
とたんに空気が固まったのが感じ取れた。
(ああ‥またか‥‥?)
もしかしたら俺が睨んでるように見えて、気分を害したのかもしれない。
昔からそういうことが多かった。
それを肯定付けるように、乾はさっきの表情なんてまるで無かったかのように踵を返してしまった。
「では、俺は授業に戻りますので‥」
(戻るって言ってもなぁ)
ちらりと腕時計に目をやるとあと少しで三限目が終わる。
確かに今から戻るなら休み時間の騒がしさに紛れて次の授業に参加することもできるだろう。
だけど、だ。
「ちょっと待て」
今度は俺が逃げようとする乾の手首を掴んで(もちろん力はそんなに入っていない)引き留めた。
唇が青い。もともと乾は血色が良い方ではないが、この色は少し異常だ。
身体か、もしくは精神が参っている証拠。
(仕方ねぇな‥‥)
「どうせサボるんなら、こんな埃っぽい所じゃなくて、もっと絶好の場所があるだろ?」
「え‥?」
「おとなしくついてこい」
「へ?ちょ、‥海堂先生??」
わけも分からずにいる乾の手を引っ張って俺は階段を下り始めた。
向かう先は俺の城、保健室。
「ほら」
ことん、とマグカップを乾の目の前に置くと、中身を見て「ほっとみるく」と呟いた。
それに俺は頷いて、ベッドの準備に取り掛かった。
「それ飲んだら横になれ。一時間だけ貸してやるから」
「どうしてですか?待遇が良すぎますよ」
訝しがるのも当然か。俺だって自分の態度に驚いてるくらいだもんな。 そっと息を吐いて乾の方を向いて、自分の目を指差す。
「?」
「隈、できてるぞ」
「!」
なんだか答えになってないような気もするが、相手はそれには気づいてないみたいだから、それで言葉を区切った。
「さっき4限目のチャイムもなっちまったし、今更教室帰れねぇだろ?」
「そう、ですが‥」
「養護教諭が良いって言ってるんだ。遠慮するな」
逡巡した後、乾は渋々ながら頷いた。 ちょっと納得いっていなかったようだが、まあそれには目を瞑ろう。
「‥‥じゃあ、お言葉に甘えて」
ようやく説得できて、俺はほっとした。
準備が終わって、行儀が悪いなと思いつつもベッドに腰掛けると、何故だか乾は咽っていた。
驚いて駆け寄り、右手で背中をさすってやる。
「だ、大丈夫か?」
「‥っ、こほっ!い、いえ、‥大丈夫です」
そのあと何かぶつぶつ言っていたが、聞き取れなかった。
(やっぱこいつ、よく分かんねぇ奴だ‥)
静かになった保健室にほんの少し開けた窓から春の終わりの風が舞い込んでくる。
カーテンの影がそれに合わせて揺れていた。
「あーあ‥、せっかくベッド用意したのにな」
あの後どちらも喋らずにいたら、乾はいつの間にかテーブルの上で眠ってしまった。
眠たくなるような、何とも言えない居心地の良さがあった。
俺は掛けていた椅子から立ち上がると、そっと乾の表情を隠す眼鏡を外して、落とさないようにテーブルの中央に置き、ベッドから薄手の毛布を持ってきて肩から掛けてやった。
夢の中を漂っている乾は時々言葉ともつかない寝言を呟き、身じろぐ。
そんな様子を見ていると、こいつもまだまだ子どもなんだなと思えて、どこか優しい気持ちになれた。
(昼休みまであと三十分といったとこか)
今日も菊丸と不二の悪がきコンビは性懲りもなく、またやって来るだろう。
そして、あいつらに見つかれば絶対いろいろ詮索されるに決まっている。
それはなんだか可哀想な気がするので、あいつらが来る前に起こしてやろうと思う。
ちょきん、とハサミで湿布を切る音と微かな寝息が保健室に響いていた。