雲間から差す光


次の授業は休みだと前回の授業で聞いていた。
俺は休み時間の内から賑やかな教室を抜け出し、ゆっくりとした足取りで例の場所に向かった。
すれ違う生徒たちは何とも平和だ。
昨日のテレビ番組が面白かった、今日の宿題は難しかった、誰と誰が付き合っている‥‥など、他愛の無い会話をしながら過ぎ去っていく。

正直俺はクラスの奴らとそういう話を積極的にするタイプではない。
俺はいつも周りがそういう話題で盛り上がっているのを傍観している。 話を振られたらもちろん俺だって話すが、基本的には聞く側だ。
そんな俺を皆は「聞き上手」や「口が堅い」などと都合よく解釈してくれているようで、よく相談相手を頼まれたりする。
だけど、それを受けながらいつも疑問に思う。
こいつにとって俺は本当に信用の置ける人物となっているのだろうかと。
俺はそいつを、いや、ほとんどの人間を信用していないというのに。
一方通行の気持ちを誰かが見たとして、それを信頼関係と呼ぶだろうか。
答えはノーだ。だから俺に相談ごとなんかしない方が得策だ。 けれど、それを正直に伝えるほど俺はバカではない。
この関係が崩れてしまったら。もし俺が他の奴らとの間に線を引いていると知られてしまったら。
考えるだけでも恐ろしい。俺は一変して孤独の海に叩き落されてしまうだろうから。

いつの間にか暗闇に落ちていた思考を慌てて引き上げて、俺は歩みを進めた。

だんだんと人気が少なくなっていく。
それもそのはずだ。 この通路は実習棟へと繋がっていて、大体の移動が終わってしまえば生徒数の多い教室棟と違って静かになるのだから。
右に曲がるとすぐ横に階段があり、所々剥がれたタイルに足をとられないよう気をつけながら上っていく。
最初に上り始めたのは二階で、俺が目指すのは五階‥封鎖されている屋上へと続く踊り場。
屋上の扉は鍵が掛けられている上に鎖でノブを固定されているから流石に出ることはできない。 その扉から踊り場にかけては、要らなくなった棚や机、椅子、学園祭で使った看板などを置く物置のような状態だ。 一般の生徒はそんな埃っぽい場所に来ない。
だから俺にはうってつけの場所だった。

机の一つに隠していた雑巾を取り出して自分が座る場所だけ埃を払う。 手すりに近い端をきれいにして、雑巾をまた隠して腰を下ろした。
足を階段に投げ出すと少しだけ開放的になれた。

ここには誰もいない。誰も来ない。

ここでなら楽ができる。
誰かに気を遣う必要もなければ、誰かから干渉を受けることもない。
自分が存在して、ただそれだけだ。何よりも自分の意思が尊重できる。
けれど楽ができる代わりに、楽しくもなんともない。
誰かが声を掛けてくるということもなく、テニス部の気の置けない奴らが訪ねてくることもない。 かすかに音楽が聞こえてくる以外は何も無い世界だった。

俺は天を仰いだ。視線の先には青い空があるはずもなく、薄汚れた天井がある。
ここはまるで俺の心の中だ。
見上げたまま手摺りの足の壁に寄りかかると、ひんやりとして気持ち好い。 オーバーヒートしてしまいそうな頭にはちょうどいいと自嘲的に笑った。




『乾』

朝練が終わって部室で着替えをしていたところに手塚から声を掛けられた。
俺がシャツのボタンを留めながらそちらを向くと、手塚はいつも以上にむっつりとした顔で俺を見ていた。

『‥どうかしたか?』
『何故俺が巻き込まれなければならん』
『は?』
『不二と喧嘩したそうじゃないか』
『‥‥‥はぁ!?え、手塚?何それ??』

全く身に覚えがないことを告げられ驚いて訊き返すと、手塚もその反応に訝しがって確認してきた。

『違う、のか?』
『ああ。別に俺達は喧嘩なんてしてない。誰に聞いたんだ、そんなでたらめ』

部室内を探すと何故か不二の姿がない。
本人が言ってくれれば一番手っ取り早いのに、と思っていると、手塚が眉を寄せて答えた。

『本人から聞いたのだが‥‥乾は喧嘩だと思っていないのか』
『不二が自分で言ったのか!?』
『ああ。どことなく悲しそうに言っていた』

ありえない。データ外にも程があるぞ。いつの間に俺達は喧嘩していたんだ、不二。 しかも「悲しそうに」‥‥って。絶対手塚は騙されている。

『乾、‥乾!聞いているのか!?』

不二の読めない行動に頭を悩ませていたので手塚の声が届かなかったらしい。 怒鳴られて初めて呼ばれていることに気づく。

『‥!悪い、手塚。ちょっと考え事してて‥‥』
『人と話しているときは考えることばかりに耽るな』
『気をつけるよ‥』
『まあ、良い。早く受け取れ』
『え?』

そこで漸く手塚の手に気づく。茶封筒が俺に向かって差し出されていた。

『何だそれ?賄賂か?』

俺がからかうと手塚は眉を顰めた。それに笑って今度はきちんと受け取る。
ご丁寧にも封がされているそれを光に透かした。 けれどもそれで中身が見えるはずもないのでもう一度訊ねた。

『知らん』
『知らん、って‥‥』
『俺は渡すように頼まれただけだ。気になるなら自分で確かめれば良いだろう』
『はいはい』

どうせ開ければ正体が分かることだし、この時は気にもせず二つ折りにして制服のポケットに突っ込ませた。




それが今ここにある。
今朝は深く考えもしなかったが、今改めて考えてみると嫌なものを受け取ってしまった。
話の流れからいって、おそらくこれの差出人は不二だ。 それだけで十分、嫌な予感がする。
けれども気になる。結局それに負けて恐る恐る開けてみることにした。
ビリビリと上の部分を千切るようにして開けて中を覗くと、ルーズリーフが二枚、三つ折になって入っていた。
やけに鈍い動作でそれらを取り出し、広げる。
一枚目は俺に宛てた手紙だった。


『 意地っ張りな乾貞治さまへ


僕から渡したんじゃ受け取ってもらえないと思ったので手塚に託しました。
その際、説明するのはいろいろ面倒だったので、けんかしたことにしちゃった。 仲直りの手紙を渡してって言えば、いくら手塚でも断らないだろうからね。 僕はその場面を見ないだろうけれど、君が驚く様子は容易に想像がつくよ。

さて、本題だけど、二枚目にとても重要な意見を記したよ。 まずはそれを読んでみてくれないかな。
大きなお世話だって言われるかもしれないけれど、やっぱり見過ごせないんだ。
君は自分の実情を把握するべきだよ。


多数の協力者を持つ、不二周助 』


俺は一旦手紙から目を離した。
自然と溜息が出る。何が書かれているか知らないが、俺にとってマイナスにしかならないことなのだろう。
このまま二枚目を読まずにゴミ箱へ捨ててしまおうか。 一瞬そう考えたが、やめた。それでは不二に負けたみたいだ。
(何があっても、俺は俺のままだ‥‥)
たとえ、どんな内容が書かれてあったとしても。
意を決して一枚目を捲った。



読み終えたときの衝撃は言葉では言い表せないものだった。
苛立ちと驚愕で全身が震える。
俺は、俺のはずだった。 誰によっても変えることはできない存在、そう信じていた。
けれども実際はどうだ。
たったひとりの教師の存在に右往左往する毎日。 しかもそれを比較的近しい奴らに覚られている。
匿名で書いてあったが、字でバレバレだ。 最近の俺の変化についてを、 菊丸、大石、河村、不二、それに手塚まで書いていた。
直接口で言ったんじゃ俺は聞き入れないだろうからこんな回りくどい、手紙という方法を選んだんだろう。 確かにその通りだが、あいつらは分かっていない。
俺が自分の変化を自覚したところで、それを受け入れる余裕なんて無いことを。
(‥‥違う!俺は変わらない!)
その証のように、握られていたままの手紙をグシャグシャに丸めた。
階段の下、窓際にはゴミ箱が設置されている。 立ち上がった俺はそれ目掛けて精一杯放り投げた。
スローモーションで落ちていったそれはゴミ箱の口に当たり、鈍い音を立てた。 弾かれたそれはコロコロと転がり、やがて止まった。

否定するのを許さないと言っているようで、目の前が少し歪んだ。




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