ぐるぐる渦潮


「いーぬいっ!やっほう元気?」

昼休みが半分過ぎた時、俺のクラスに菊丸と不二がやってきた。
とっくにコンビニおにぎりを食べ終えて朝練の時のデータをまとめていた俺は軽く溜息を吐いた。
二年六組のこの二人が揃ってやって来て、良いことが起こった試しがない。 前回なんか、告白の呼び出しの手紙を預かってきてそれについて散々からかって帰っていった。 ここ一週間くらい教室にやって来なかったから平穏に過ごしていたのに。
ニコニコと俺の前と隣の席を陣取る二人に諦めてノートを閉じた。

「‥で、何の用だ?」
「乾冷たーい。友達を訪ねるのに理由が必要なわけ?」
「お前らの場合、俺をからかって遊びたい時しか来ないだろ」
「心外だね。せっかく遊びに来てあげてるのに」
「それに今日はただ遊びに来たんじゃないんだもんねー」

菊丸はイタズラっぽく笑って言った。
遊びに来たわけじゃないなら何の用があるのか。 疑問に思ってもう一度訊こうとした時、菊丸の口の中からカラリと音が漏れた。

「飴?」
「うん、そうだよ」

何とはなしに訊いたら不二が答えた。見ればその不二も口をもごもごさせていた。 菊丸はともかく不二が飴を舐めているのは珍しい。

「乾も欲しいの?でもあげないもんね。せっかく薫ちゃんに貰ったんだから」
「別に欲しいとは言ってないだろ。‥あれ?同学年に薫なんて子いたか?」

首を傾げて同学年の女子の名前を思い浮かべるが、いなかったように思える。
記憶力は良い方だから他の学年だろうと、思考を止めた。

「同学年じゃないよ」

不二が笑みを深くして言った。

「ちなみに生徒じゃないにゃ」

菊丸はどこかうずうずした感じだ。たぶん答えを言いたくてたまらないのだろう。
嫌な予感がした。
(薫って、もしかして‥‥)
生徒じゃなければ教職員しかいない。
俺の頭の中に一人の姿が瞬時に浮かんだ。 きつい眼差しが印象的な彼は確かその名前だったはずだ。

「‥‥養護教諭の海堂先生、か?」
「「ピンポーン」」

正解、と不二が頭を撫でるのを払いながら、俺は納得できないでいた。
その様子があまりにもあからさまで二人がこっそりと笑ったことを俺は気づかないでいた。

「お前ら用もないのに保健室行ったんだよな。何で追い出されないんだ?」
「乾。それって自分はサボりに行ったけど追い出されましたって言ってるようなものだよ」
「‥サボりに行ったわけじゃ、」
「寝不足は自分の責任でしょ」
「‥‥‥‥‥‥‥‥」

容赦ない不二の言葉に黙り込むしかなかった。自分でも分かってはいるんだ。 だけど自分ではどうしようもないんだから仕方ないじゃないか。

「手塚が薫ちゃんが元ここのテニス部だって言うから気になっちゃって本人に訊きに行ったんだ。 最初の内はあんまり喋ってくれなかったけど、最近はけっこう喋ってくれるんだ!今日なんか飴貰っちゃったし。 全然良い先生で、第一印象なんか吹っ飛んじゃった!」

俺と不二の作り出した微妙な空気を吹き飛ばすかのように菊丸は明るく言った。 途中から余程楽しかったのかトーンが上がっていた。俺は何とも言えない思いがこみ上げる。

「‥俺は好きになれないけどね、あの先生」

ぼそりと漏れた言葉を拾って二人は目を丸くする。
そんなに驚くようなことだろうか。 クラスの奴らだって皆そう言うし、第一俺は入学式の前に手塚の所で昼を食べた時に一度同じようなことを言っていた。

本当に苦手なんだ。
あの真っ直ぐな眼差しとか、憤然と人の心配をするとことか、仕事に真摯なとことか、総てが。
せめて一度でも笑ってくれたら何かが違うのに。
(‥‥どう違うんだ?)
わけの分からない思考に囚われる。
頭を振ってそれを追い出すと、目の前に心配そうに覗き込む瞳が四つあった。

「‥‥どうした?」
「乾、あのね」

先程までのテンションとはあきらかに違う二人に俺は戸惑った。 さっきの一言がそんなに深刻そうに聞こえたのだろうか。
表面には出さず焦る俺に不二が言った。

「この一週間で僕たちは彼の人となりを皆より知ったと思う。 だから言えることなんだけど、彼は決して生徒を傷つけようとしているわけじゃないんだ。 本当に、誰一人として軽んじてなんかいない。‥それだけは分かってあげてくれないかな」

何だってそんなことを言うんだろう。 手塚といい不二といい、らしくない。
だけど言っていることは分かるから余計胸が軋む。
そんなこと、言われなくても分かってる。

本人と直接会ったことが二度ほどあった。

一度目は入学式の朝、校門前で。
俺がぼんやりデータノートを眺めなら歩いていたら彼とぶつかった。
一瞬怒鳴られかけたけど、ぐっと堪えて彼は謝って、それから少し注意された。
悪いのは前方不注意の俺なのに、 自分の非を認めてそれから注意してきたことに驚いて、暫し固まってしまった。
その後去る背中を引き留めたのは何故か、自分でも分からない。

二度目はその二日後、保健室でだった。
俺が気分転換に保健室に行ったら彼がいた。
当たり前だけど実は忘れていて、慌てて体がだるいと嘘を言った。 そしたら保健室記録簿と体温計を渡されたので俺は無いと分かっている熱を測りながら記録簿に名前を書いた。 結果は三十六度二分。全く平熱だった。
溜息を吐いて仕方なく教室に戻ろうと腰を浮かしかけたら、不意に額に熱を感じた。 彼が手を当てていた。そして、「熱はないが、大丈夫か」と屈み込んで訊いてきた。
一度目に会った時よりも柔らかな雰囲気で訊ねてくる彼に、俺は自分の行動が初めて恥ずかしく感じた。
何故なのかは理由は分からないし、どこかで分かりたくないといった部分もあった。
それは今も同じで。だけどその時触れていた彼の手の平の暖かさがずっと残って消えない。

衝動的で、だけど不器用ながらに他人を思いやれて、何より純粋な精神が彼にはあった。
確かに保健室に行きづらくなったけど、 具合が悪くなった奴や怪我をした奴がやむを得ず行くと必ず不思議な顔をして帰ってくる。 「思ってたほど全然嫌な先生じゃなかった」と。
その度俺は心が重くなる。皆がそう思うようになることが堪らなく嫌だった。

「用事って、もしかしてそれか?」

投げやりに訊くとまあね、と返ってきた。
それなら余計なお節介だ。 俺は今のままの彼の印象で構わない。

「あの時、乾は苦手だって言ったけど」

薄っすらと開いた瞳に俺は目が逸らせなくなってしまった。
こいつはいつも見透かすような目をしている、油断ならない相手だ。 俺の今の心情はぐちゃぐちゃだから、もしそうなっても簡単には真理に辿り着けないだろうけれど、怖かった。
心の奥の奥、ずっと深くに埋もれている思いを見つけられることが。
俺は今すぐにでも頭を抱えて机に突っ伏したかった。 だけど、それは心情を吐露することになるのでできない。

「本当のところはどうなのさ。先生のことが苦手なの?それとも、」
「海堂先生が苦手なんだよ。ほら、もうそろそろ戻った方が良いぞ。六組は次体育だろ?」

不二の言葉を遮って畳み掛ける。不審に思われただろうが、今更だ。

「何だよ乾ってば〜!人がせっかく心配してあげてるのに!」
「まあまあ、英二。今日はこの辺にしてあげようよ」

頬を膨らませる菊丸に対し不二は冷静だった。 俺が苛立ってきたことに気づいたのだろう。

「気持ちだけ受け取っておくよ」

納得いかないといった雰囲気だけど、二人は席を立った。不二が菊丸の背中を押して行く。
そんな二人に向かって俺はひらひらと手を振った。

「乾!」

ドアの所で振り返った菊丸が何かを投げてよこしたので、手を伸ばしてキャッチした。
手の中には飴が一つ。
不二がお土産、と笑った。そしてもう一つ言葉を投げかける。

「知ってた?君、一度も彼を嫌いって言ってないんだよ」

俺は今度こそ頭を抱えて机に突っ伏した。
お願いだから去り際に爆弾を投下していくな。




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