強風注意報


ゆっくりと流れていく景色と昔の記憶とを照らし合わせながら海堂は歩いていた。
季節は春で、ちらほらと庭に植えられている桜の蕾が膨らみ、既に咲いている花もあった。 今年は三月末になっても寒い日が続き、今日に間に合わないんじゃないかとやきもきしていたのだが、要らぬ心配だったようだ。
(この分だと学校の桜も咲き始めてるんだろうな)
これから向かう場所には桜が多く植えられていて、満開の時期は圧倒されるくらいだったのを思い出した。

通い慣れた道をもう一度歩くことになるなど、先日まで思いもしなかった。 ましてや母校で働くことになるなど、当時誰が予想しただろうか。

約一年前、大学を卒業して免許を取った海堂は都内の私立高に就職した。
ただそれは産休に入った教諭の代わりであって、所謂臨時採用だったのだ。 思いの外早くにその教諭が職場復帰してしまって、新年早々にして職を失ってしまった。 焦って再就職先を探すが、このご時勢なので簡単に見つかるわけがない。
三月半ばを過ぎても一向に決まる気配のないことを心配していたのか、中学の頃からの悪友が電話を掛けてきた。

『喜べ、海堂。良い話があるんだ』
『何だよ?飲み会の話なら俺はパスだ』
『違うって!人の話は最後まで聞けよ!』
『‥‥‥‥‥‥‥』
『俺今青学高等部に勤めてるじゃんか?だから外部の奴らより一足早く情報が手に入ったんだけどよ。 どうもうちの学校の、二月に結婚退職した養護教諭の後見が見つからないって騒いでるらしいぜ』
『空きが出てるってことか!?』
『おう。お前、中・高・大ってうちの出身だし、いけるかもしんねぇぜ。人事部に問い合わせてみろよ!』
『ああ、分かった。早速電話する。今回ばかりは恩に着るぜ、桃城』
『良いってことよ』

そのまま人事部に問い合わせてみると、すぐに面接を受ける手配が取れた。
後から知ったのだが、どうやらその養護教諭の退職はかなり唐突だったらしく、時期も時期だったので高等部の方でも焦っていたらしい。 海堂は桃城の思った通り、中学からここに通っていたこともあって割とあっさりと決まったのだった。

そして、今日の入学式の前の始業式で晴れてこの青春学園高等部の養護教諭として着任することができるのだ。

人通りが多くなってきた道の右側を歩く。濃いグレーのブレザーに身を包んだ生徒たちが歓談しながら歩いている。
高校時代に戻った気がしてきて、柄にもなく気分が高揚している自分に苦笑が漏れた。
きっとこんな思いは今日この時限りだ。着任式で壇上に上がったらこんな思いは跡形もなく消えてなくなる。 あの頃とは違って、今度は指導者の立場に自分はいるのだということを厭でも自覚させられるから。

海堂の前後を歩いていた生徒たちが校門に吸い込まれていくのを、海堂は立ち止まって見送った。 見上げれば、見慣れた校舎が朝日を受けながら佇んでいる。 ここを卒業してたった五年しか経っていないのに、ひどく懐かしい感じがした。
毎日汗だくになりながらも一生懸命テニスボールを追いかけた日々の自分が、未だそこにいる気がした。 あの日に忘れてきた何かを取り戻せそうな、そんな予感が海堂の中に湧いた。
(これから、お世話になります)
深々と頭を下げた海堂は、この先の学園生活にどんなことが待ち受けているのか知りもしなかった。




さあ行くぞと顔を上げた瞬間、海堂は後ろから来た誰かにぶつかって来られて体勢を崩した。
しかしそれは日頃スポーツをやっているだけに持ちこたえることができ、勢いよく振り向いた。

「‥てめぇ‥‥っ」

けれど考えてみれば校門の真ん前に立っていた自分にも非がある。 ぐっと罵倒の言葉を飲み込んで謝罪の言葉を口にすると、相手はぽかんと口を開けてなんとも間抜けな面を晒していた。 その身長はざっと見て自分より10センチメートルほど高かった。
けして低くはない身長の海堂よりも遥かに背が高いその男は、ブレザーを着ていなければ教師と間違っていたかもしれない。 それほど雰囲気が大人びたものだったが、何故かその手には角が折れてぼろぼろになっているノートが握られていた。

「‥通行の邪魔して悪かったな。だがお前もちゃんと前を向いて歩け」

構わずそう告げて立ち去ろうとした。こんな所で油を売っている暇は無い。 始業式の中の着任式で述べる言葉の練習を一回でも多くやろうとわざわざ通勤時間の一時間前に来たのが無駄になってしまう。

「‥あ、待ってください」
「あ?」
「時間には早いですが、来客の方ですか?」
「え‥、いや」
「来客の方は体育館で受付となっているんですが、今は‥だいぶ早いのでもう少し時間が経ってから来られるのが妥当だと思うのですが」
「‥‥‥‥‥‥‥」

海堂は密かに舌打ちをした。どうやらこの生徒は自分が入学式に来た父兄かOBだと勘違いしているらしいのだ。
(新任の教師だとは思わねぇのかよ!)
別に腹が立ったわけではないが、少し落ち込んだ。
そんなことを思っているとは露知らず、長身の生徒はなおも話しかけてくる。

「この辺りは公園なども多いですよ。今の時期は桜も咲いてますし、時間つぶしにはもってこいだと思うのですが」
「‥悪いが、来客じゃねぇんだ。俺のことに構わなくて良い」
「え、来客じゃないんですか?‥もしかして余計なことしましたか?」

もしかしなくても余計なお節介だったが、善意でやっていたことなのだから邪険にはできない。

「別に‥。それより、朝練じゃねぇのか?」
「やばい‥」
「さっさと行け」
「‥校内、分かりますか?」
「‥分かる。だから行け」
「失礼しました」

遠ざかっていく後姿を途中まで目で追って、海堂は独特のフシュー、という濃密な息を吐いた。
抑揚の無い、無機質な声だった。海堂は今まで出会ったことの無いタイプに話しかけられて無意識に緊張していたようだ。 そして直感的に、ああいうタイプは悩みを表面化させないのだろうなと思っていた。
(ああいうのが青学にもいるとなると、平和には過ごせそうもないな。 ‥もっとも、最初からちっとは予想できてたことだが)
もう一度溜息を吐いて、今までの思考を振り切る。

「っし」

自分にできる最善を尽くせれば良いのだ。
校舎を見上げる瞳に迷いは無かった。




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