拍手御礼SS 「手のひらサイズの時間」


 乾といるとき、親しい同学年のテニス部員たちはよく手帳を目にした。
 部活でない、日常の中で、乾の傍らにはいつも使い込んで表面が柔らかくなった革の手帳がある。
 開けば、細かく書き込まれたページが翌月まで渡っている。
 乾の武器とも言えるテニスのデータノートはけして見せたがらないのに、その手帳の中身は寧ろ見てくださいと言わんばかりにオープンだった。

 ただし。
 その独特の文字が解読できればの話だが。

「うへ〜…相変わらず何書いてあんのかさっぱり分かんないっ!」
「乾の字って暗号みたいだよね」
 今月のページをぱらぱらとめくりながら菊丸がうんざりと言ったのに、隣で一緒にのぞき込んでいた河村が苦笑いした。
 当の持ち主は、別段気分を害した様子もなく、向かい側から手帳を取り上げた。
「あ!まだ見てるんだってば、乾!」
「眺めてても分かるようにはならないだろ。菊丸の場合」
「なにおー!見てたら、もしかしたらパッと閃くかもしれないだろ。その芽を摘むな!」
「まあまあ、英二。俺も全然読めなかったし。内容が気になるなら乾本人に訊けばいいよ」
「それじゃ面白くないじゃんか〜」
 むくれる菊丸を見て、着替えを済ませた不二が笑った。
「何笑ってんだよ、不二」
 その気配に振り返ると、不二は菊丸と河村の間から乾の手帳に手を伸ばしす。
 乾の手から不二の手に渡る様を菊丸と河村は見つめていた。紙の擦れる音が聞こえて、あるページで止まった。
「英二、文字が読めなくても大体の予想はできるよ」
「へ?」
「分かりやすいよね乾も。ほら、見て」
 三人に手帳の中身を見せて、日付を指す。5月11日のところに花まる印。
 菊丸と河村は首を傾げた。
「その日がどうかしたの、不二」
「この日は海堂の誕生日なんだ」
「海堂の?」
「乾のデータは誕生日まで網羅されてるんだね」
 察しの悪い二人に不二は溜息を漏らしつつ、前月のページに戻した。
「あ!大石の誕生日に花まるがない!」
 流石というべきか。大石の誕生日に一早く気づき、乾に避難の声を上げたのは相方の菊丸だった。
 手帳を不二から勢いよく奪って、乾の眼前に突きつける。
「危ないだろ。眼鏡が傷ついたらどうしてくれる」
「そんなの自業自得じゃんっ!何コレ?大石の誕生日は眼中にないってこと?!」
「そうじゃないさ。思い出してみろ。俺は先月、ちゃんと大石を祝った」
 確かに、誕生日だからと寄り道したファミリーレストランに乾はいたし、ささやかながらもプレゼントをあげていた。
 しかし、それで納得する相手でもない。
「じゃあなんで書いとかないんだよ?」
 口を尖らせてなおも抗議する菊丸に、乾は苦笑いした。
 知ってほしいけれど。自分で明かすのは躊躇われる。
「英二が大石大好きなのは分かったから」
 ぽん、と軽く両肩を叩かれて菊丸は不二の方に目を向ける。いつの間にか隣に来ていた。
「なんだよ、それ……」
「発想の転換。海堂のがチェックしてあって、僕らのはない…」
「…海堂、だけ?」
「そう。そして、見て、部活が休みの日には時間が書いてあるのがかろうじて読み取れる。本当、独特の字だよね。先週の土曜は9:00。僕はその日の午前、公園で練習してる乾と海堂を目撃してる」
 菊丸と河村は目を丸くした。よくそんなことと繋げられる、と。二人は漠然と眺めていただけだったので小さなヒントに気がつかなかった。
「もしかして、海堂との予定が書いてある?」
 河村の呟きを合図に、三人の視線が乾にいった。
 乾は手帳を取り戻し、丁寧に閉じる。
「…当たりだ。まったく、不二には恐れ入るよ」
「だって分かりやすいよ、君。海堂からの電話。海堂と話していた後。忘れない内に書き込んでたんだろう?」
 すべて、海堂が見ていないときに。
「……残しておきたいんだ。こうして書いておけば、捨てたり失したりしない限り、なくなることはないから」
 過ごしてきた時間が。目に見えるカタチで欲しい。
 臆病な恋の行く末がどうなっても、残るカタチで。
「…乾」
「じれったいなぁ、もう!ひと思いに言っちゃえばいいじゃん。好きだーって。海堂だって悪いようには思ってないって!変な汁飲ませるデータマニア、くらいには思ってるかもだけど」
「英二、フォローになってないよ?」
「してないもん。ただ煮え切らなくて、ムカつくだけ」
「ち、ちょっと英二…っ」
「まあ…同感だけどね」
「不二までっ!」
 言いたい放題な友人に、乾は胸の中に溜まっているガスが抜けるような感覚を覚えた。
「その内、きっと、必ず、伝えるよ。あいつに…」
「骨くらいは拾ってあげてもいいよ」
「それって、だめになること前提っていうように聞こえちゃうって」
「タカさんって、時々、ナチュラルに棘を刺すよね…」
「えっ…」
 乾は人知れず安堵した。
 認めてくれる人がいるだけで、気持ちが楽になる。
 この想いが間違ってはいないのだと、自信が沸いてくる。

 乾が想っている人は、真面目で、素直でやさしい人だ。
 もし、今胸の内を伝えても想いを否定することはないだろう。
 だけど、それだけでは満足できない。とっくにそんな、想っているだけで満たされる次元は越えてしまっている。
 しかし、勝率の低い勝負に出られるほど、乾には勇気も度胸もなく、結果、手帳に過ごした時間一つひとつを書き記すことに行き着いた。

 友人たちがまだ何か言い募っている中、当事者である乾は分厚い眼鏡の下、瞳を伏せた。
 喧噪が遠のいていく。
 手の中に彼との時間を感じる。


 もし、この手帳から時間が溢れ出したときは。
 そのときは、この気持ちを告げようと。
 乾は甘苦く笑った。



◇おわり◇



2007.07.01 収納



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