歴史侍 十一の太刀 作、工藤 麗 平成18年6月

明治維新の英傑大久保利通。版籍奉還、廃藩置県、地租改正や徴兵令、彼が行ったこれらの改革は日本の近代化にとって不可欠なものだった。欧米列強に侮られぬようにと富国強兵、殖産興業政策を推し進め、自由民権運動を時期尚早と押さえつける。「独裁者」「冷徹」「非情」と圧政を恨む民衆。さらには長年の盟友、西郷隆盛との決別。西南戦争では故郷鹿児島へと討伐の軍を向ける。それは維新の為、共に戦ってきたはずの仲間の武士たちを過去の遺物として葬り去るということだった。武士の力無しでは成しえなかった明治維新だがその実近代国家には無用だった特権階級の武士たち。自分たちで切り開いた新しい時代が自分たちを必要としないという矛盾を彼らは受け入れることができなかった。

 この間の大久保の孤独感は相当のものだったはずだ。世に溢れる怨嗟の声。故郷を敵にまわしてまでも目指したもの、それは自立した日本国だった。その為には手段は選ばない。藩士時代は藩の実権を握る島津久光に近づくため久光が好んでいた碁を習った。また岩倉具視は後に「当時大久保と組んでやったことには、いまだに口に出せないことがある」と語る。腹黒さも兼ね備える大久保だが、すべては日本のため「無私」の境地でおこなったことだ。非難の的となった西洋風の豪邸も外国の来賓をもてなすためには入用だった。孤独に耐え、非難に耐えるその意思の強さは人を寄せ付けぬほどの威厳となって表れる。彼が登庁しているか否かは庁舎の雰囲気でわかったらしいが、部下の話は良く聞き、家庭では優しい父親だったという。

 明治11年5月14日午前8時10分、馬車で登庁の最中、紀尾井坂(現東京都千代田区)にて不平士族6名により暗殺される。享年48。事前に予告はあったがその身辺に護衛を付けることはしなかった。「無私」ならば生きてこの国のために尽くしきるという意味でも護衛を付けてほしかったが、それは無粋というものか。武士の世を終わらせた大久保だが、刺客とわかる彼らに呼び止められ自ら馬車を降りる彼もまた、武士なのだから。

戻る