歴史侍 弐の太刀 文:やまかず 平成16年9月

 さて、今回はただ今話題の「新選組」について書きたいと思います。

まずはざっとご紹介。将軍の上洛警護のために結成された「浪士組」に近藤勇が道場主をしていた「試衛館」という町道場の面々が参加、やがてそれが分裂し、京都に残った近藤・土方らの一派が「新選組」を名乗り始めてできた組織。幕府のために命を懸けて戦った彼らだが、実はそのほとんどが剣術自慢の農家出身者。1860年代、倒幕思想をかかげる長州藩らの過激派浪士から、京都の治安と幕府を守っていました。

さて、その新選組隊士の中に、津軽出身隊士も4名おりました。知っている範囲でご紹介したいと思います。

・ 毛内有ノ助(有之祐、有之進、監物)

文学師範(学問教授)。元弘前藩士。津軽藩士毛内有右衛門祐胤(300石)の次男として生まれ、名を良胤。文久3年に脱藩、江戸にでて学問教授を行ううちに、伊東甲子太郎と出会い、元治元年10月の近藤勇による隊士募集に応じて上洛。慶応元年夏の編成で文学師範となる。が、慶応3年3月に伊東らと新選組から 離隊し、御陵衛士となる。11月18日「油小路の変」で、同志6名とともに暗殺された伊東の遺骸をひきとりにいって、新選組に包囲され、粛清される。行年33歳。遺体は3日後に光縁寺に埋葬されたが、後に改葬され墓碑が建立された。なんでも器用にできて「毛内の百人芸」と言われたという。友人の沢保躬による「毛内良胤青雲録」がある。

 ・白井鷹ノ進

平隊士。元浪人。天保10年、留田流剣術、源家古伝馬術の使い手慶応元年5月の土方歳三の隊士募集に応じて上洛するも、同3年6月以前に離隊。

・ 菊地央

局長附人数。元津軽藩士。名を英、または央五郎といわれている。慶応3年6月以降に入隊。翌年の鳥羽伏見の戦い後、江戸に帰還。閏4月25日に、会津白河口の戦いで討死した。勇猛果敢に戦った武士であったらしい(中島登の戦友絵姿に描かれているらしい)。行年22歳。央五郎の名で葬られている。

・千田兵衛

局長附人数。元津軽藩士。会津戦争中の「母成峠の戦い」の中、「勝軍山の戦い」にて戦死。母成峠にある「東軍殉難者慰霊碑」に名前が刻まれている。

 激動の幕末期、津軽出身者が動乱の中心で活躍したと思うと、感慨深くなるのは私だけでしょうか?_? (おもさげながんす・・・・)

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