歴史侍 十の太刀 作、工藤 麗 平成18年4月

 岐阜県関が原にある石田三成陣地跡。関が原を一望できるこの場所は現在観光スポットとなっており、音声案内を聞きながら関が原の戦いで西軍を指揮した石田三成に想いを馳せることができる。

 石田三成と津軽は密接な関係がある。娘が二代藩主信牧の側室となり三代藩主信義の母となっている。また、次男は杉山に姓を変えその子孫は代々津軽家の家老職を勤めているのだ。優秀な人材の血筋を取り入れようとする藩の意向がうかがえる。

 三成は「義」の人だ。豊臣政権を守るべく徳川家康に敢然と立ち向かい、そして散っていく。そんな彼の人気が忠義もの好きなこの国であまり高くないのは不思議なことだ。義が美徳であることはいつの時代も変わらない。もちろん勝者側にも義はあるのだが敗者側の義は死が絡むためなかなか容易ではない。誰でも死にたい人などいないし、家族など守るべきものがある場合はなおさら死ぬわけにはいかない。「利」や「情」で勝者側に付こうとする者を責めることはたやすいが、それは人間の生きようとする本能を否定しているのとほぼ同じことだ。滅びゆくものに義をつくすことは理屈としては理想的かもしれないが、現実的には人間はそれほど強くできていない。そして残念ながら理想が現実に勝った歴史を私はまだ知らない。しかし、それ故に敗者側の義は人々の心を打ち、ときに美しく見えるのだ。「義に過ぎれば固くなる(義理もいきすぎれば身を滅ぼす元になる)」という中庸の大切さを説く伊達政宗のこの言葉も、三成の前では意味を成さない。

 石田三成陣地跡。見晴らしの良いこの場所で積極的に戦おうとしない味方の諸将を目の当たりにした三成はくやしさに歯噛みしただろうか、それとも泰然と受け入れることができただろうか。敗戦後、処刑の間際まで凛とした態度を崩さなかった三成のこと、無論、後者だ。

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