歴史侍 九の太刀 作、工藤 麗 平成18年2月

 冬、日々繰り返される雪かきの疲れが、雪のように積もっていく。除雪車が残していく雪はなぜこうも重いのか。

 この季節になると思い出すのが、明治35年1月の「八甲田山雪中行軍遭難事件」だ。当時ロシアとの戦争が迫っていた日本は、酷寒の地での訓練が必要だった。青森陸軍第五連隊と弘前第三十一連隊が雪中行軍の演習を行い、青森第五連隊が199名の死者を出したこの事件は現在でも山岳遭難史上最悪のものだ。青森第五連隊が3日間の行軍予定でほぼ全滅だったのに対し、弘前第三十一連隊はここ平賀を経由し11日間の行軍を行い、全員無事に帰還している。第五連隊を率いたのは神成文吉大尉、第三十一連隊は福島泰蔵大尉。あまりに対照的な結果を出したこの二人は組織を率いるリーダー学の題材としてよく取り上げられる。自らが率いるはずだった組織の指揮権を上官の山口ユ少佐に奪われ、自身も死に至る神成大尉の悲劇と、用意周到、臨機応変な行動で組織を導いた福島大尉の成功から現代の指導者達は多くを学ぶ。

 青森市幸畑の陸軍墓地。ここに遭難者の墓がある。今も受け継がれる地元の人々のお参りに、彼らの眠りが静かなものであることを信じる。隣接する資料館には行軍の凄まじさをうかがわせる資料がたくさんあるが、なかでも運よく生還したにもかかわらず重度の凍傷により手足を切断せざるをえなかった人たちの写真は痛ましい。

 八甲田山雪中行軍。新田次郎氏が書いたとおりそれはまさしく死の彷徨だった。彼らの苦難を思い、目の前の雪の重みに今日も耐える。

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