歴史侍 六の太刀 作、工藤 麗 平成17年7月 

津軽を象徴する弘前城。その新築の際、表玄関に大光寺城の門(亀甲門)が選ばれたことに私は意味を感じる。

 藩祖為信が大光寺城を攻めたことはこの歴史侍初回に紹介したが、実は二代目信枚もまた大光寺城を攻めている。この件を「大光寺城の乱」とでも名付けようか。

 信枚が藩主となったのは父為信の遺志でもあったのだが、もう一人候補として「大熊」という人物がいた。信枚は為信の三男、大熊は為信の長男信建の長男。つまり為信の嫡孫なのだ。(注、長男信建、次男信堅共に為信より先に亡くなってしまう。)為信は関が原の合戦の際、信枚と共に徳川方に味方したが、万が一負けた時の事を考え信建には豊臣方の味方をさせていた。その為、大熊は必然的に豊臣方とみなされることになる。やがて徳川の時代となり、信枚が二代目となったのは自然の流れというべきか。最終的には幕府の裁定なのだが、これを不服とした大熊派の家臣らが大光寺城にたてこもり、反乱を起こすも利非ず、激闘の末大光寺城は再び落城となる。

 大熊は幼少の頃、顔に大火傷を負っている。その傷跡は相当のものだったろう。もしその容姿が幕府の裁定に少しでも影響があったなら、彼は悲劇の人といえる。父信建が彼の火傷の回復を祈願したという不動堂が今も大光寺にある。その静けさは信建大熊親子の無念を感じさせる。

 このように、津軽家にとって大光寺城は戦乱の象徴のような城だった。そして信枚は、この因縁の城の門を自分の子孫や家臣がくぐる度に、戦乱の世を思い起こし、太平に甘んずることなく国を治め、平和の尊さを学ぶための訓戒の城門として再建したのだ。 ・・・と思う。 (了)

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