歴史侍 五の太刀 作、工藤 麗 平成17年5月

 春、雪に埋もれていた史跡たちが姿を現し歴史の世界へ誘う。桜の季節、やはり弘前城へ行きたい。

 弘前城は1611年(慶長十六年)津軽藩二代藩主、津軽信枚公の時代に当時の地名により高岡城として完成。天守閣は今の三層のものではなく本丸の南西側に五層の大天守閣が建てられていた。場所も長勝寺禅林街のある西茂森(当時金沢山)を計画していたが、あまりに要害だった為幕府から許可が下りず現在の場所となった。弘前という名前は1627年(寛永四年)落雷による天守閣焼失の翌年に魔除けの意味を込めて名付けられたものだ。城の表玄関である追手門も、現在の南外門ではなく北門の亀甲門だった。これは江戸への主要街道が碇ヶ関をぬけていくものではなく、鯵ヶ沢から大間越をぬけてゆくものだった為だ。亀甲門といえば大光寺城から移築された事で平賀の人には馴染み深い。弘前城最大の門である為、おのずから大光寺城の規模も想像されるのだが、亀甲門のような櫓門は安土桃山時代以降の建築様式であり、今の形のまま大光寺城にあったかどうかは疑問が残ると、柏木町の栗林勇人氏は指摘する。

 弘前城の城門のうち、唯一矢傷の残る亀甲門を見て思う。なぜ信枚公は一国を象徴する城を新築する際、その追手門に大光寺城の門を再建したのか?私はそこに信枚公の明確な意思を感じざるを得ないのだ。  (続)

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