歴史侍 参の太刀 作、工藤 麗 平成16年11月
江戸徳川幕府末期、いわゆる「幕末」。最近の新選組人気により俄然注目を浴びている激動のこの時代、尊皇攘夷の魁とも言うべき男がここ津軽の地を訪れている。
彼の名は吉田松陰。嘉永5年(1852)3月1日、弘前の藩校稽古館教授・伊東広之進宅を訪問し(現:養生幼稚園、松陰室は弘前市指定の史跡)、その後北方の海岸防備視察の為、竜飛岬まで足を延ばしている。彼のこの時の旅は、脱藩という重大な罪を犯してまでのものであった。さらに彼はその後、ペリー来航の黒船騒動の真っ只中、西洋文明を学ぶ為、なんとその黒船に乗り込みアメリカへの密航を企てるのだ。当時、海外への密航は死罪になるほどの大罪であった。
結局、事は露顕し、彼は安政の大獄により志半ばにして刑死してしまうのだが、彼の死をも恐れぬ行動力の源は一体何なのか?それは儒教の一派・陽明学であろう。「知行合一」の言葉のもと、知識と行動の一致、実践の重要性を説く陽明学は、知識の探求や秩序を重んじる儒教の一派・朱子学とは正反対の教えといえよう。時に主観に囚われ、過激な革命思想ともなりうる陽明学ではあるが、「知識と行動の一致」・「実践の重要性」などは現代でも十分に通用するものではないか。
憂国の士、吉田松陰。本州西端の地・長州に生まれ育った彼が、本州北端の地・津軽の岬に立ち、何を思ったかは想像するしかない。しかし、29歳の若さで己の志に殉じていった彼に、何か一つでも学びたいものである。
