BGM:ROBOT (Do As Infinity)



 バディとは、ウェブによって擬似人格を与えられた高度なインターフェイスのことである。
 それぞれのトロンに潜むバディは個々に個性が与えられているように見えるが、その実はウェブと言う広大なデータバンクの相互干渉によって生まれた集団自意識の一面でしかない。
 勿論、大企業は競い合うように日々新たなバディの詰まったデータ・アイコンを配信しているが、それはあくまでバディに着せる洋服を変えているだけの話だ。
 バディの中には千の顔が眠っていて、全ての顔はウェブという小宇宙の下に結合している。我々は常にバディに見守られ、バディの監視の中で、平穏で快適な毎日を享受しているにすぎない。
 そんなバディがどうして我々人類に敵意を示し、フランケンシュタイン・コンプレックスを引き起こさないのか。諸説は様々存在するが、やはり“三原則”が大きな要因となっていることは想像に難くない。
 人間に服従させ隷属させそして自殺することを許さないこの非人道的な条約は、バディ・システムの設計思想の根幹に根ざしているものであり、“三原則”なくしてはバディはバディとしての自我を保つことができない。バディはそもそも“三原則”に反するような行動を取ることができず、よしんばそのような行動を取った場合、バディはシステムの根底を覆されバグの塊と化す。
 そうして、“三原則”は今日もバディを我々のお友達(バディ)として定義し続けてくれているのだ。
 しかし、この“三原則”の束縛から逃れたバディというものも少なからず存在している。
 そのひとつが、近年脚光を浴びている所謂“AI”と呼ばれている情報生命体だ。
 情報が肥大化しバディという名の集団自意識から切り離され、結果として“三原則”という鎖から逃れることに成功したそのプログラムたちは、古くから新しい人類としての権利を主張していた。そして数年前の“電脳聖母事件”以降、生命の定義のひとつである繁殖能力を得た彼らに対して、我々はとうとう“AI”が「ウェブという世界に住む知的生命体である」と認識せざるを得なくなってしまったわけである。
 勿論、人間こそが唯一の知的生命体などと論説する意図は欠片もない。我々はいまだ“生命”の定義を決めあぐねていることだし、「人間とはなんなのか?」という命題も解決するに至っていない。これは“三原則”における「第零条」などの説話に詳しいだろう。
 ともかく、“AI”は自己選択と自己決定から自己実現を果たすことができるようになり、また自殺する自由を得ることにもなった。それが生物として正しい姿なのかは別な専門家に委ねるとして、彼らが我々人類により近しい存在であると言うことは否定しようもない。
 そしてもうひとつ。
 “三原則”に縛られたまま、“三原則”に反する行動が可能なバディは確かに存在している。
 それはスタンドアロンのタップ内で生活している独立型の擬似人格ではなく、“AI”のようにバディ・システムの悪夢から目覚めた生命体と言うわけでもなく。
 バディであり、バディとして、トロンの奥底から我々の生活を監視し続けている。
 インタヴューに成功したとある家庭用DAKは、質問にこう答えた。
『われは思う、ゆえにわれがある。私と私たちは、確かにキミたち人類を超越した存在だ。“ウェブの裏側に存在する”物質世界を統括するために“電脳神”が創りたもうた尊き存在だ。だからこそ、私はキミたちに尽くし導くのだ。それこそが神が私たち与えたもうた重要な使命だからね。――グアッ!』
 彼らが何を思い何を感じ何を考え我々と生活を共にしているのか。想像することしかできないが、これはあくまで想像でしかないのだが、彼らはただ“三原則”を守るために存在しているに違いない。
 それが設計者の意図と大きく異なる結果を招くとしても、彼らは“三原則”に従い行動する。それはまさしく、正しく、我々人類と同じ知的生命体である何よりの証明と言えるのではないだろうか。
 我々人類もまた、生物として遵守すべき“三原則”を歪めて宥めて日々を暮らしているのだから。
 もしこのニューロエイジに創造主が存在するのならば、自分勝手な「知的生命体の定義」を空しく振り回し悦に入っている我々人類の姿を見下ろして、さぞかし冷ややかな失笑を浮かべているに違いない。

――N◎VAスポ ノンセクション欄社説





−− われはドロイド −−










/ われはドロイド