連載6回目

みんな0系引退がどうとか云うけれども

 JR西日本の0系新幹線が引退してからというもの、私の周りでは全員が全員ではないにせよ、何人かの人が「あの新幹線引退したらしいね、残念だね」と話しかけてくる。それもさも私の親しい友人が病に倒れたことを聞いて同情の言葉をかけるかのように。私も一応「うん、そうだねぇ」とその場で無難な返事を返すが、なんだか釈然としない。と言うのも、そう語りかけてくる人達は私が鉄道好きであることを知って云ってきているからだ。その行為自体には問題ないし気にも留めてもいないが、その発した口調から察すると、鉄道好きは全員0系が好きだと一般化してしまっている気がしてならない。

 正直0系が引退しようがしまいが、私からしてみればどうだっていい話である。むしろ数ヶ月前に引退した東急8000系の方が残念な気がしてならない。これは別に0系が嫌いだからという理由ではない。0系は日本の新幹線の歴史の礎を築き、世界に日本の技術力を知らしめたという意味ではかなりエポックメーキングであることはほぼ全ての人が認めているし、私もまた同じ様に認めている。しかしそれは車両自体が好きか嫌いかとは別問題である。0系引退のニュースをインターネットを通じて知った時、一つの時代が幕を閉じたんだなとしか思わなかったし、別段残念だとは思わなかった。永久不滅なものなんて少なくともこの世には存在しないし、物事には必ず終わりというものが訪れることを知らなければならない。

 こういう引退問題というのは、結局は自分がどれくらいその引退する対象物に対して親しみを抱いているかで反応の度合いが決まるのだと思う。もし私がもう少し年を取っていて、東海道新幹線の線路が綺麗に見えるところに住んでいたら、もう少し違った視点で0系の引退を捉えていたかもしれない。そして引退のニュースを読んで多少感傷的になっていたかもしれないと思う。さっき8000系の引退の方が残念だと書いたが、これもまた親しみを抱いているから残念だと感じたのである。

 要するに何が云いたいかと云うと、いくらあるものの存在意義が非常に大きいからと云って、全員が全員それを好んでいるとは限らないということである。人の好みというものは多種多様・千差万別である。鉄道を例に出して云えば、旧型国電が好きな人もいるし、今回例に出した新幹線が好きな人もいるし、また時刻表のダイヤを見て検証したりするのが好きな人など、ここで全てを挙げることが出来ないくらい様々なものを好む人が居る。鉄道が好きな人は全員これが好きなんだろうと一般化してしまうのはその趣味や人に対する理解を阻めてしまって非常に危険であるような気がしてならない。


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