連載5回目

黄昏時の芝浦にて

 無性に海が見たくなった。それも体が極たまにファーストフードを求めるような感じで。
 首都圏に住んでいる身としては海はそう簡単に見れるものではない。砂浜とそこに打ち寄せる波の音を聴きたければ湘南や房総の方へ行かなければならないし、息を呑んでしまうような美しい海を求めるのならちょっとした遠征をしなければならない。さぁどうしようと色々考えていたら、鶴見線の存在を思い出した。
 鶴見線。
 そうだよ、鶴見線があるじゃないかと一人合点しながら私は鞄に文庫本とカメラを詰めた。首都圏からは日帰り圏内だし、夕暮れ時になればそれなりに美しいだろうと思いながら京浜東北線に飛び乗って鶴見まで向かった。

 鶴見に着いた頃には時計は3時40分近くを指していた。晩秋の3時40分と云ったら日はかなりの勢いで傾むきはじめて、気温もぐっと下がり始める頃だ。場合によっては2枚の上着でも寒く感じてしまうくらいに。
 鶴見線で海が見れる場所と云ったら海芝浦しかない。正確に云えば新芝浦も見えなくはないが、あそこは海というより運河というイメージが強い。鶴見で海芝浦行きの電車を待っていたが一向に来ない。それもそのはず。電光表示板には連続して扇町と表示されているからだ。まぁ鶴見で待ってるのもなんだしと思いながら私は扇町行きに乗り、海芝浦支線との分岐駅である浅野で降りた。
 浅野に降り立ったのはいいものの、次の海芝浦行きまで一時間以上ある。仕方なくだだっ広い駅構内を歩き回っていたら結構な数の人が建物から出て行くのを見た。なんだなんだと思って建物に近づくと、どうやら展示会を催していたようで。鶴見線でアートとかいう企画らしい。合ってなくはないかななんて思いながら私はなぜか国道駅の存在を思い出してしまった。
 結構な人が出て行くのを見たついでに、結構な数の猫も見た。結構といっても6匹だが、少なくとも私からしてみれば多い。しかも興味深いことにその半数が黒猫だった。迷信家が居たらひっくりかえってしまうんじゃないかなんて考えていたら、海芝浦行きの電車が物凄い音でポイントを通過しながら入線してきた。時間というものは自分が思う以上に早く流れるものである。

 電車は3分ほどで海芝浦に着いた。
 海芝浦は私の期待を裏切ってくれなかった。海の香りは地理的条件故に湘南とは異なり芳しくはないが、かと云って不快ではない。都会独特の匂いもまざって、それはそれで悪いものではなかった。音も砂浜に打ち寄せるような優しい感じではなかったが、久しぶりに海を見た所為か、そんなことは全く気にならなかった。そしてなんと云っても素晴らしかったのは景色。なんの変哲もない工業地帯と云ってしまえばそれまでだが、駅からはベイブリッジなどが見え、文句のつけようが全くなかった。そして空も若干赤みがかっていたため、実に詩的で美しかった。
 景色を一通り見てからsuicaで出場し、海芝公園に入ってから再び入場し、駅に居た人達を軽く見回した。電車から出て缶コーヒー片手に談笑する運転士に車掌、外の風景を無我夢中にカメラに収めるファンらしき人々、そして仕事帰りの人々などで駅周辺は賑わっていた。実に平穏で和やかな情景である。そして何よりも驚いたのはカップルの多さである。否、全く居ないとは思っていなかったが、自分が想像していた数より多かったため思わず絶句してしまった。近年の鉄道ブームで場所を知って集まったのだろうか。私には解しかねる。
 「お待たせ致しました。まもなく発車致します」
 私は電車の中に戻って、ドアが閉まるのを見届けて、窓に映る景色を見ながら山崎まさよしを聴いた。そして知らないうちに眠りについてしまった。そして海の音だけが山崎まさよしと共に脳内を反芻していた。



Umishibaura Sta. / DMC FZ20


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