OH-MA-GA-TOKI

もし、魔物が目の前に現れたら、人はどんな顔をするだろうか。
驚愕、恐怖、戦慄、覚悟――少なくとも、平穏な表情が出来る人はそういないだろう。

だが、その魔物が『お菓子をちょうだい』とおねだりする、可愛らしいものだったとしたら…?

そう、今日はそういう日。
普段からモンスターかと見紛う先生が跋扈するような学校にも、そんな習慣はあった。
生徒達が楽しみ、交流を深めるイベントとして。
皆が楽しい顔になれる、そういう日。

カイルも、その日を楽しみにしていた一人だった。
普段から笑顔の彼が、こんな時に限って浮かない顔をしているとは考えにくい。

「ハァ…」
だが、彼はまさにそんな表情をしていた。
皆が集っている筈の校舎ではなく、自室に身を置き、暗澹たる吐息を漏らしながら。

カイルが居るのは、ベッドの中。
枕に重たい頭を預け、起き上がることはおろか、瞼を開けるのも億劫なほどにままならぬ身体を横たえている。
普段後ろに纏めた長く蒼い髪は解かれ、トレードマークの眼鏡も外されていた。

「…よりによって、なんでこんな時に倒れちゃいますかねぇ…」
そう。
カイルの前に現れた魔物は、病魔であった。

前日までの準備――山のような裏方の仕事を抱え、彼は奔走していた。
パーティーグッズの買出し、大道具の用意、会場のセッティング…etc.
全てはイベントを楽しみたい、そして皆に楽しんで欲しい、という気持ちからだった。
だが、不覚なことに、イベントとその準備に夢中になって自分の身体の異常に気付けなかったようだ。
…いや、気付いたとしても意に介する暇すら無かったと言うべきか。
セッティングを全て終え、漸くその余裕が出来た時には、もう遅かった。
焼け付くような脳髄の感覚に、早く帰って休まねば…と思ったのが、最後の記憶だった。

そこからは聞いた話だからよく分からないが、どうやら教室の隅で意識を失っていたらしい。
たまたま見回りに来たガルーダに発見され、そのまま寮の自室まで運ばれたのだという。

目を覚ました時、随分時間は遅かったが、ガルーダ先生はまだ枕元に居た。
武骨な彼らしく、カイルは制服のまま、髪も眼鏡もそのままにベッドに寝かされていた。
額に乗せられた濡れタオルが、せめてものケアの証である。
アカデミーの中で最も怪物的イメージの強い先生に助けられるとは皮肉な話だが、それを笑える余裕はなかった。

「全く…一人で何もかも背負い込み過ぎだ」
相手は病人だけに、いつもの剣幕は抑えて無理をし過ぎたことを軽く咎めるガルーダ。
それでも、カイルには返す言葉が見つからない。

「とにかく、動けなくなっては何もならん。今はゆっくり休め。分かったな」
ガルーダ先生は毅然として、布団に包まれたカイルに絶対安静を言い渡す。
それが、彼なりの優しさであろう。

「お手間をかけました…」
もっとも、今のカイルには、ベッドの中から力無く礼と詫びの混じった挨拶をするのが精一杯なのだが。
それを聞いて頷き、ガルーダはカイルの部屋を後にする。
バタン、とドアが閉じる音が聞こえたのと、カイルが再び意識を手放したのは、ほぼ同時だった。
身動きも寝息もない、死んだような眠り――その寝顔は、到底安らかとは言えそうにない。

それから彼が目覚めるのには、ほぼ半日を要した。
意思に反して取った休息ではあったが、そのお陰で昨日よりは身体が動く。
無論、それはパーティーを楽しめるほど元気であることを意味してはいない。
あくまで、必要最低限の動きができるというだけである。
その証拠に、身体は熱っぽいというのに、手足の先は冷たく、悪寒が止まらない。
諦念の元、カイルは寝床から軋むような身体を引き剥がし、病人という身分相応の着替えを持って来た。

致し方なかったとはいえ、ずっと着用したままで寝ていたから、制服はシワだらけになっていた。
こんなヨレヨレの服をみっともなく着るわけにはいかない、アイロンをかけないと…という思考が働く。

――待て待て、それは僕が健常な時の仕事。今の僕には療養が必要なんですから――

ともすればそのまま作業に入ってしまいかねないロジックを抑え付けるカイル。
一応、そのロジックに制服をハンガーに掛ける作業だけは許可するのが、彼のなけなしのプライドであろうか。

だが、服を着替え、コップ一杯の水を飲みに台所へ行くという簡単な作業だけで、身体は更なる休息を欲する信号を出す。
それに逆らえばどうなるか…昨日痛いほど思い知っていたカイルは、従順にベッドへ身を収めるしかなかった。

気が付けば、さっき昼前だった筈の時計が夕刻を指していた。
またも、暫くまどろみの中に居たらしい。
アカデミーに来て此の方、こんなに眠ったことは一度もなかった。
カイルが、自分がひどく怠け者になってしまったような感覚を覚えたのも無理はあるまい。
熱が有る時独特の気だるさは、カイルの全身を強力に掌握していたのだ。
折しも、外は既に薄暗くなりつつあり、所謂『逢魔が刻』と呼ばれる時間帯だった。
そんな時間に、病魔に続いて睡魔に襲われている…とは、ジョークとしては中々だが、状況的には洒落になっていない。

そんな中、陽炎がかかったようなカイルの脳裏に、級友達の姿が浮かぶ。
パーティーは上手く行っただろうか。
自分が出席できないことよりも、皆が楽しめているかどうかが気掛かりだった。
だが、それを確かめたくても、恨めしいことに自分は布団の中で身動きが取れない。
自分の仕事を途中で投げ出してしまったように思え、自責の念に駆られるカイル。
それ故に、彼の表情は憂鬱そのものだったのである。

その時。

コン、コン、コン。
何かを叩くような音が聞こえてきた。

「…?」
以前に何度も聞いたことがあるそれは、玄関のドアの方から響いていた。
ろくに外部からの刺激がなかった思考がそれをノックと認識するのに、普段の倍以上の時間を要した。
誰かが、来ているのだ。

「あ…はぁ〜い」
大声を張り上げたつもりだった。
が、使ってない声帯から出た音声は、玄関はおろか、部屋の隅に聞こえるかどうかも怪しい、弱々しいものだった。
自分としてはそんな力の抜けた声を出す気はなかったのに、身体は勝手なものだ。

返事が届かないとなると、早くドアを開けて自分の存在を知らせなくてはならない。
急がなくては、ドアの向こうの誰かさんは、不在と思って帰ってしまうだろう。

しかし、カイルの身体は、関節が錆び付いたようなぎこちない動きしか出来なかった。
気持ちが焦っても肉体が付いて来ないというのは、実に歯痒い。
やっとのことでベッドから降り、枕元にあった眼鏡を掛けて、自分が行くべき方向を見定める。
おぼつかない足取りで廊下を歩きながら、後ろ髪を軽く縛り、頭から上だけは普段通りに繕う。

「はぁ〜い…」
漸く玄関先まで辿り着き、ドアを押し開けると…

そこには、魔物がいた。
しかも6匹も――!!

「Trick or Treet!!」

「ぅうわあぁぁぁ!!??!?」

別に魔物がいたことに驚いたわけではなかったし、その正体も直ぐに分かった。
だが、不意に訪れたその光景と、投げかけられた『お菓子をちょうだい』という大きな声…
それが、病み上がりでふら付くカイルの体躯へまともにぶち当たったものだから堪らない。
踏ん張ることも出来ず、ドシン、とまるで腰が抜けたように無様な尻餅をつくカイル。
その勢いで意識まで頭蓋骨の外に吹き飛んでくれれば、体裁の悪い自分を認識せずに済んだかも知れない。
でも、幸か不幸か、そうはならなかった。

あまりにオーバーなリアクションに見えたからか。
本気で魔物が現れたと思って慄いたように取られたからか。
その場に、爆笑の渦が巻き起こる。
しかし、その時のカイルの真っ白な頭では、自分が笑われていることすら分かっていたかどうか。

「あ……あの……これ……ど……」
まとまりを得ない思考回路の中から、どうにかして言葉を紡ぎだそうとする。
が、彼の言語中枢はどこかで接触不良を起こしているようで、口には単語さえまともに出てこない。

この非常事態に、落ち着かねばならないというロジックが働いたらしい。
漸く、自分がかなり情けない格好になっていることに気が付いたカイルは、慌てて体勢を立て直そうとした。
――したのだが、立っているより寝ている時間の方が長かった肢体は、立ち方を忘れたかのように力が入らない。
彼が失った体力がいかに大きかったか、そして彼がいかに動転していたかが窺えよう。
それでも、右腕を壁に引っ掛けて図体を支え、すがるようにしながら、辛うじて身を起こすことができた。
平静を求めて深い息をしつつ、さっきのショックで顔から間抜けにずれた眼鏡を直す。
そして、カイルは呆気に取られた表情で”魔物”に目をやった。

「あはは…大丈夫、カイル?」
未だ可笑しさ冷めやらずといった顔つきでカイルの調子を尋ねる、ルキアのような顔をした夢魔――
否、それはルキア本人。

「あ〜おかしぃ…本気でビックリし過ぎだってば」
ケラケラと笑うユリそっくりに思える吸血鬼も…そっくりなのではなく、当人。

そう。
そこに居たのは、魔物の扮装をした、クラスメートの女子6人だった。

「これは…どういう…」
正体は分かっていても、彼女達がそこに居る理由は解せない。
目の前の光景が未だ信じられず、彼は呆然とした顔で絶句する。

「良かった〜、なかなか出てこないから、カイルお兄ちゃん動けないのかと思った」
猫のそれを模した耳と尻尾を付けたアロエの言葉は、いつも以上にはしゃいで見える。

「ふふ…」
普段あまり笑った様子を見たことがないマラリヤも、その瓜実顔を綻ばせていた。

「まだ本調子ではないみたいですけど…顔が見られて安心しました」
メイドのような装束に身を包んだクララまで、気遣いを示す発言が上気している気がする。

これは、夢でしょうか――?
…いや、鈍っているとはいえ五感はあります。
では、誰かに魔法をかけられましたか――?
…そんなものをかける必然性がないですよね。
もしかすると、僕の病は脳と精神を蝕み始めているのでしょうか――?
…何を血迷ったこと言ってるんでしょうか僕は。

となれば、結論は一つしかない――間違いなく、これは現実なのだ。

「心配かけてすみません…」
取り敢えず、皆が気に掛けてくれることへの謝意をポツリ、と口にするカイル。

「でも、どうしたんですか皆さん…こんなところに…」
皆がこんな病人の部屋に大挙してやってくるとは、どうしたことか。
彼が求めていたのは、状況説明であった。

「どうしたもこうしたもありませんわ」
その時、思いのほか魔女の格好が似合うシャロンが、改まった表情で答える。

「みんな、カイルに感謝したいと思っていますのよ」

「…僕に…ですか?」
カイルにとって、それは俄かには信じ難い話であった。
倒れて皆に心配をかけたような男に、何の感謝があるというのか――。
しかし。

「だって、カイルが全部準備万端にしてくれていたから、パーティーを楽しめたんだもの。
男子のみんなも先生も、とても楽しそうにしてたんだから」
ルキアが、その理由を説明してくれた。
それも、パーティーの余韻が残っているかのような口調で、それはそれは嬉しそうに。

「それなのに、倒れるまで頑張ったカイル君がパーティーに来られないのは残念ですから…
それで、皆で話し合って、お見舞いも兼ねて仮装のままでお部屋に行こう、ってことになったんです」
その説明をフォローするクララの言葉で、カイルも次第に要領を得てくる。
他の面々を見回しても、揃って破顔一笑した顔つきが、その説明は嘘ではないと言っている。

皆のこの満面の笑みは、きっとこの日の浮かれた雰囲気が為せる業だろう、と思っていた。
だが、それが自分の拙い努力の賜物なのだ、と悟ったカイルの満足感は如何ほどであろうか。
そこに、皆が心配してくれていることの有難さ、パーティーの雰囲気を味わわせてあげようという粋な計らいへの感激――
次々に押し寄せる嬉しさが、そのことで憂いでいたカイルの中で綯い交ぜになる。

そして――
おかしなことに、カイルは、泣きそうになっていた。
病という魔物は、自分の精神的平衡までも奪っていたのか。

「ありがとう…ございます…」
照れ隠しで鼻の頭を掻くふりをして、緩みかけた涙腺を押さえる。
ぐしっ、という啜り声。
少しぐらいなら、鼻風邪ということにして見逃してもらえよう。
だが、堪え切れそうにない。

「――――ちょっと、待っててください……ッ」
そう言い残して、彼は皆に背を向け、逃げるように台所へと走り込んだ。

「あ…」
突然のことに、玄関先で立ち尽くした女性陣を残して。

台所の隅で眼鏡を外し、暫し感涙に咽ぶカイル。
やがて、目頭を拭い、落ち着きを取り戻した彼は、頭の中のロジックに従い、何かを求めて戸棚を探し始めた。
それが普段のカイルらしさをも取り戻しつつある証だということは、まだ当の本人も気付いていないのだが…。

「お待たせしました」
ややあって、皆の待つ玄関先に笑顔で戻ってきたカイル。
その両手は意味深に背後へと隠されている。
加えて、眼鏡の奥には、お菓子をねだる魔物もかくやという悪戯っぽい色が隠されていた。

「あ、カイルお兄ちゃん…何持ってんの?」
少しの間ではあっても彼を待ち侘びていたアロエは、彼の動作に抱いた素直な疑問を口にする。

「…?」
その、まるで何かを面白がるような眼差しに気付き、マラリヤも怪訝そうな表情だ。

リアクションがロジックの予測通りだったことに満足しつつ、カイルはニッ、と笑って――

「”Trick or Treet”と言われたからには、これを差し出さないと、ね」
両手に持った6つの袋を、皆の前にお披露目した。
その中には――

「うわぁ…」
その袋に注目した皆が驚くようなお菓子が入っていた。
チョコレート生地でジャック・オー・ランタンの模様が入った、アイスボックスクッキー。
微妙に潰れたような形ではあるが、それがまたカボチャのお化けのユーモラスさとマッチしている。

だが、今日一日中床に伏せっていた筈の彼が、何故こんなものを用意できるのか――?
彼女達がそれを疑問に思っているであろうことを察したカイル。

「実は、今日のパーティーに持って行こうと思って、数日前、試しに何回か作ってみたんです。
まあ、結局本番では作れませんでしたけど…試作品を食べる暇がなくて取っておいたのが幸いしましたね。
残り物で申し訳ないんですが、良かったら食べて下さい」
その”魔法”のトリックを解説しながら、彼は皆にその菓子が入った袋を手渡した。

「ぃやった〜!お菓子お菓子〜!!私カイルの手作りお菓子、食べてみたかったんだ〜!」
お菓子が貰えたのが余程嬉しかったのだろう、飛び跳ねんばかりに喜ぶユリ。

「…ユリちゃん、ひょっとしてこれを期待してた?」
その素振りに、ジト目のルキアが素朴なツッコミを入れた。

「え!?あ、そ、そそ、そんなことないよ!!」
ユリはあたふたと否定するが、全く説得力がない。

「呆れた…珍しく良いことを言うと思ったら、食べ物目当てだったなんて…」
シャロンが、額に手をやって情けなさそうに顔を顰める。

「いいじゃないですか。カイル君もこうして喜んでくれてるんですし…」
そこにすかさず、クララが助け舟を出す。

「そうだよ、それにせっかくカイルお兄ちゃんの手作りなんだから、みんな食べよ?」
アロエの勧めもあり、貰ったお菓子に皆が手を伸ばそうとした時…

「美味しい…かぼちゃ味」
いち早く、マラリヤが味の”分析”を始めていた。

「早ッ!!」
全員、異口同音のリアクション。

微笑みの下、その様子を飽きもせずにじっと見つめているカイル。
暫しの間、玄関口に笑いが絶えることはなかった。

「これでよし、と」
その晩、彼は昼前にできなかった作業をしていた。
制服のアイロンがけ――。

『病は気から』とはよく言ったもので、気に病む事態から開放された彼は、枷が解けたように元気を取り戻したのである。
体温は平熱まで下がり、どうしようもない眠気も消えている。
これなら、体力にさえ気を付ければ、明日から学舎に戻れるだろう。

黄昏時、ビックリ箱のようにやって来た魔物は、お菓子と引き換えに元気をくれた。
そして、魔物が去ると共に、病魔と睡魔も去っていった。
イベントが終わり、アカデミーに日常が戻ると同時に、自分にも平安が戻ってきた。

偶然にしては出来すぎのそれはきっと、逢魔が刻の魔法なのでしょうね――。
カイルはそう呟いて、一人目を閉じた。

END