Solitude

I...I don't forget your smile
In only lonely night
今でも思い出す
But you...You just forgot my heart
Faraway night
かけがえのない日々を
Alone...
 

「授業はこれまでだ。赤点だった者は残っておくように」
フランシスの声と同時に、今日の学習カリキュラムは終わりを告げる――大半の生徒にとっては。
だが、レオンは席を立つことができなかった。

補習という結果にはもう慣れっこだったが、今日は補習になりたくない理由があった。
昨晩、優等生と名高いカイルに勉強を教えてもらったからだ。
だが、それでも成果が出せないとなると、重症である。
それに、彼にも申し訳が立たない。

「すみません…もっと僕が分かりやすく教えられていれば…」
事実、カイルはクラスで指折りの好成績だった自分の点には目もくれず、ひたすらに落胆していた。
レオンの赤点という結果の責任を、全て自分が背負い込んでいるかのようだった。

勿論、彼にその責めを負わせるつもりは無かったし、負わせてはいけないと思った。
だからレオンは、カイルの肩を叩きながら、努めて明るく言う。

「いや、悪いのは全然勉強してなかった俺の方だからさ。それに、ほら…
昨日カイルに教えてもらったところだけ点が取れたんだぜ。カイルのおかげだよ」
その言葉が何の慰めにもなっていないことは、双方とも分かっていた。
だが、レオンはそうでも言わないと、心苦しく思っているカイルを励ませそうになかった。

…傍目にはどちらが補習を受けるのか分からないような有様である。

「また、教えてくれよ。じゃあな」
そう言って軽く手を上げ、態度でカイルの背中を押すレオン。
カイルは、申し訳なさそうに会釈をして、教室を出て行った。

「あれ〜、レオンまた補習〜?」
デリカシーの無い大きな声が背後から聞こえてきた。
それが誰かを確かめるまでも無かったし、そのつもりもさらさら無かった。
片肘をついて顔を支えつつ目線を合わせないようにし、俺は不機嫌なんだというポーズを取る。
まあ、それで去ってくれる相手ではないことは分かっていた。
しかし、声の主であるルキアはご丁寧にもその目線の真正面に顔を持って来て言葉を続ける。

「も〜ぅ、これで何回目?情けないわねぇ」
その大半にご一緒してるお前に言われたくはない、と悪態をつきたくなる。
でも、曲がりなりにも相手は合格点、こっちは赤点という今回の結果は覆しようが無い。
しかるに、自分が取れる行動は、黙殺だけだった。
喉元まで出かけた悪し様な雑言に、口をぎゅっと引き結ぶことで蓋をする。
だが。

「お付き合いしてあげたいんだけどね〜、今回私合格しちゃったから…」
神経に障る言葉だった。
その言葉がトリガーとなって、辛うじて沈黙を保っていたレオンはその精神的限界を露呈する。

「こっちから願い下げだ。さっさと帰れよ」
苛立ちの混じった言葉が口から漏れた。
だがルキアは、それを本気と受け取っていないかのように、ツンと拗ねたふりをする。

「ふーんだ。せいぜい頑張ってみたら〜?じゃ〜ね」
手をヒラヒラさせつつ憎まれ口を一つ聞いて、それでもルキアは足取り軽く教室を立ち去った。

「…チッ」
そのルキアの背中を目で追ったレオンは、人知れず舌打ちする。
ルキアに対しての腹立たしさからではなかった。
無論、それが無いと言えば嘘になる。
だがそれは、自分の感情が上手く制御できなくなっていることを感じ取った、己への舌打ちだった。

§

久しぶりに補習という拘束を逃れられたことから、ルキアは浮かれ調子だった。
それはもう、スキップして帰りたいぐらいに。
そんな中、カバンの取っ手を両手に持ち、夕空を仰ぎながら、彼女はふと、先程の出来事を思い返した。

あ〜、何とか合格点取れて良かった。
レオン、悔しそうだったなぁ…フフ。
自分でも子供じみてるって思うけど、ついついちょっかい出しちゃうのよねぇ。
…でも、ちょっと、調子に乗り過ぎちゃったかも。
レオン、本気で怒ってたのかな…?
…。
ううん、私は悪くないもん。
最近のレオンったら、本当に私のことを忘れているみたいなんだから…。
つれないレオンがいけないのよ。うん。

かぶりを振り、心に引っ掛かった彼の最後の顔と、自分を責める気持ちに自己弁護をする。
その弁護に説得力が無いのは分かっているけど。

寮へ帰るルキアの足並みは未だ軽い。
だが、その歩みを、脳裏に浮かんだ一つのイメージが引き止めた。

「いっけな〜い…忘れ物しちゃった…」
後頭部を掻いて、ルキアは軽く自分のミスを呪う。
一応、取りに帰らなくてもさしあたって支障はない、取るに足らぬ忘れ物だ。
しかし。
レオンはどんな顔をしながら、たった一人で補習に臨んでいるのだろう――
ルキアの中の下らない好奇心がムクムクと頭をもたげてくる。

(持って帰るついでに、またちょっとレオンをからかってやろうかな)
ニタリ、と一人笑いを浮かべて踵を返したルキアの足取りは、まだ軽快なままだった…。

§

放課後の教室――自分一人の為にしつらえられた補習の舞台。
上を向いて頭の後ろで両手を組み、大した角度のない椅子の背もたれに寄り掛かりながら、レオンは考えた。

…何で、こんなことになったんだろう。

今までも、スランプは何度となくあったが、その度毎に持ち前の気合と根性で切り抜けてきた。
けれども、今度のそれは何かが違う。
気張れば気張るほど、蟻地獄のように深みにはまっていくような感覚。
力を抜いて、気分を変えれば良いのかもしれない。
だが、常に全力で事に当たってきた彼にそれを強いるのは酷というものであろう。
それに、補習が続いている今の状況では尚更だ。崖っぷちにぶら下がっていながらリラックスする奴はいない。
だからこそ、恥も外聞も捨ててカイルにコーチを頼んだ。
彼もその頼みに快く、そして懸命に応じてくれた。
それでも、ベールが掛かったような頭には、勉強は思うように入ってくれなかった。
今日の結果が全てを物語っている。

そして…振り払うに振り払えない、もう一つのもの――
アイツの、顔。

…。

それが根本的な原因であることに気付く由もなく、懊悩に喘ぐレオン。
天井を仰ぐ面構えも、自然と険しいものとなる。
やがて、軽い溜息とともに組んだ手をほどき、目線を真正面に戻した彼の顔は、今度は驚きで染められた。

「…珍しい。随分と悩み深いようだな」
誰もいないと思っていた教室に、いつの間にかフランシスが、嫌らしい笑みを浮かべて立っていたのだ。
不意を突かれて、思わず身をすくめてしまったレオン。

「ッ!?…何だ、ずっと見てやがったのかよ…趣味悪ィな」
自分に間の抜けたリアクションを取らせた先生を軽く睨んで毒づく。

「フッ…教師たるもの、生徒の観察は怠らない…これが私の持論だからな」
フランシスは長い髪をかき上げ、悪戯っぽく片眉をクイ、と上げて笑って見せた。

「…俺はあんたの持論を聞くために残ったんじゃないぜ」
だが、彼の言葉を遮るようにレオンはトン、と机の上に置いてあった教科書やノートを持って揃えた。
俺は臨戦態勢だ、と言わんばかりである。

気負い過ぎている。
フランシスは、軽い冗談にも乗らない今のレオンの姿に、漠然とした不安を感じていた。
しかし、真剣そのもののレオンの眼に宿る炎の如き気合を見せられては、手を抜いてかかるわけにはいかない。
フランシスの教師としてのプライドに火が点いた。

「ならば、早速始めよう。…覚悟はいいな」

§

浮かれた歩調で、人気の無くなった校舎の廊下を逆流するルキア。
堂々と闖入してやるか、それともこっそり覗き見か…。
その内に悪戯心を潜ませて教室の前まで戻った彼女は、妙な違和感を感じた。

いつもと同じ筈の教室は、結界でも張られているようなぴんと張り詰めた空気を漂わせていた。
ドアも「入るな」と言わんばかりに、いつもより重々しく閉じられている。

…。

ルキアの中に、僅かな躊躇いが生じる。だが、それも一瞬のことだ。
取り敢えず、中の様子を見ないと始まらない。
それに、私は忘れ物を取りに来たんだ。何も後ろめたいことなどあるものか――。
自分にそう言い聞かせながら、音を立てないようにして引き戸にほんの少し隙間を作る。

「…!」
それは、レオンとフランシスの一対一の補習という、予想していたシーンの筈だった。
しかし、ドアの間隙から見える世界は、あまりにも違っていて。

教壇ではなく机の傍らに立ち、教導するフランシス。
ロングヘアのブラインドに横顔は隠れても、注がれる視線の鋭さは隠れない。
そして、ストイックを絵で描いたような表情で机に向かうレオン。
普段見せないその容貌は、まさに眼前の敵を打ち倒さんと闘う男のそれだった。
ドア越しに感じられた何人をも寄せ付けないような雰囲気は、中の二人から発せられていたのだ。
そこには、不真面目さが割り込める余地は、微塵も残されていなかった。

その光景に、ルキアはまず驚愕し、戦慄し、そして…安堵した。
こんな状況に、正面から乱入するなどという先に考えた愚挙に出ていた日には、どうなっていたことか。
二人が放つカミソリのような目線を浴びるだけでは済まないだろう。
まかり間違えば、フランシスから超特大の雷を食らいかねないことは容易に想像がつく。

集中しているせいか、開いたドアとその背後のルキアに二人が気付く様子はなさそうだ。
音を立てなければ見付からない筈、と結論した彼女は、そのまま中の様子を窺うべく聞き耳を立てた。

先生の教示が、目と耳から伝わってくる。
聞こえる単語には、不勉強な自分には解りかねる内容のものが数多く含まれていた。
だが、レオンが、その教科の本質的な部分を真摯に学び取ろうとしていることだけは分かる。
当てずっぽうで解いて、すれすれの合格点を貰った自分を恥じさせるかのように。
フランシスも、彼の努力に応えんと心血を注いでいた。
普段より力のこもった身振りや語調から、彼が教えの術を尽くしているのが見て取れる。
このまま行けば、遠からずレオンと自分の立場は逆転してしまうに違いあるまい。
いや、もう逆転しているかもしれない――。

そんな鬼気迫る二人の様子を見せ付けられたルキアは、心の中では後退りしていた。
まるで、正装している人々の中に普段着で入り込んでしまった時に感じるような居たたまれなさ。
レオンをからかう計画はおろか、忘れ物を取りに来たという本来の目的すら、頭の中から消し飛んでしまっていた。
ただ…彼がこれほどまでに真剣になる理由を知りたい――
逃げ出したい気分の彼女を辛うじてその場に繋ぎ止めているのは、その一点のみであった。

§

「ふむ…」
一通りの内容を終え、フランシスは、複雑な表情を浮かべていた。
教え手として、今日の説明は、及第点を付けて良いレベルという自負はある。
とはいえ、肝心のレオンの理解度の方は、決して満足のいくものではなかった。
チャチな小細工はかえって逆効果になるとはいえ、正攻法では、自分にはこれが限界なのか。
これでは、どうあっても浮いた顔は出来ない。
かといって、努力がなかなか実を結ばず苦悩する彼を前にして、不満を露にすることは許されない。
感情を押し殺しつつ平静を装う結果、普段の彼からすればやや引き攣った顔になったのである。
もっとも、そのことに気付けるのは、アメリアやミランダなどごく一部の人間だけなのだが。

レオンの表情も晴れなかった。
普段は、冷血で嫌味で悪趣味で…四文字言葉を並べてでも貶したくなるフランシス。
けれども今日の彼は、教え方こそいつも通りスマートそのものでありながら、普段以上に真剣、かつ熱心だった。
うっかりすれば、この気障教師を最高の先生だと勘違いしてしまいそうなぐらいに。
だが、そう心の中で跳ねっ返ってみても、実際に今日のフランシスの補習には非の打ち所がない。
わざわざ自分一人の為に時間を取って訓諭を施してもらっている負い目もある。
それに何といっても、そうやって真面目に教えてほしいという意思表示をしたのは自分なのだから。
となれば、この○印より×印が多く付いた答案用紙は誰の責任か――問うべくもない。

まあ、最初は答えた問題が半分以下、正解したのは2割にも満たなかったことを考えれば、進歩ではある。
が、それで喜ぶ程度では済ませたくない…それは二人に共通する思いであった。

その時。
フランシスは机に目を落としたままのレオンに、いつもと違う表情を読んだ。
そして、それが今の彼にとって非常に危険なものであろうことも。

心に絡まり、頭に被さるシルクのようなベール。
そして、そのイメージに常に重なる――アイツ。
それ故にそのベールを切り裂き、引き剥がし、振り捨てることが出来ないでいる自分。
これが、俺の甘さなのか。
この程度の壁すら乗り越えることが出来ないのなら、俺は――

「…なあ」
すがるような目線で、フランシスに呼びかけるレオン。

「俺…本当に…賢者になれるのかな…」
終わりがどこにあるか分からない迷いの深淵を独り彷徨うことから来る、暗然たる面持ち。
胸をよぎる焦燥と苦悶が、口の端に沈痛な呟きを乗せる。
そして――
彼が全力を以って堰き止めていたネガティブな心が、とうとう、一線を越えた。

「こんなんじゃ、一生かかっても――」

無理なんじゃないか。

諦めを滲ませたその言葉を漏らしてしまった次の瞬間――
フランシスの平手がレオンの横っ面に飛んだ。

「!!」

傍観者であったルキアには、レオンが殴られた理由が解らなかった。
だが、当事者であるレオンは、何するんだよ、と怒鳴りつけたくなる衝動を抑えた。

「…何故殴られたか、分かるな」
先生のその問いに、レオンは痛みを堪えつつ、無言で首を縦に振った。
分かっている。分かっているから、抑えたのだ――。

「情に流されて目的を見失うな。何の為に、誰の為に学ぶかは、お前が一番よく理解している筈だ。
誰に乞われたのでもない、自分自身で選んだ道だろう。お前も男なら、最後まで逃げるな」
射抜くようにレオンの眼を見ながら、フランシスは説く。
その視線はあくまで冷たく、唇から紡がれる言葉は烈風のように痛い。
しかし、その氷の刃を思わせる態度の裏に、熾った炭火のような熱が秘められていることは、ルキアにも認識できた。

「…分かってる」
何の為に、誰の為に学ぶか――
フランシスの一喝で記憶の片隅から引き出された、決して単純ではないその意味を噛み締めながら答えるレオン。

「良い返事だ」
真剣なその声と眼に甦った炎を認め、フランシスは僅かに表情を緩めて頷く。

「ここまでにしよう。今日お前は充分学んだ。明日からの頑張りに期待する」
補習の時間は、終わった。

ほんの少し開いたドアから一部始終を覗いていたルキアは、見つかるのを恐れて廊下の陰に身を潜めた。
やがて、教室から出てきたフランシス。
だが、取っ手にかかった彼の手は、やけに力なく…大して重くもない扉を最後まで閉じることができなかった。
そして、ドアから数歩のところで足を止めた彼は、神妙な顔つきでレオンがまだ中にいる教室の壁に向かい、呟く。

「済まんな、レオン…私にもう少し小器用な教え方が出来ていれば、お前もここまで苦労することはなかったかも知れん…」
彼もまた、自分を責めていたのだ。

学問を教えるだけが自分の責任ではない筈だというのに。
ともすれば、レオンという素質ある若者は、プレッシャーに押し潰されてしまうかもしれない。
それを防ぎ、彼を立たせてやるのが自分の役目であるというのに。
唇を噛み、悔恨に耐えるフランシス。

「しかし今は…支えを見出せることを祈るばかり、か…」
他人任せのみっともない姿であることは理解している。
だが、それは自分に、そして――レオンを支えられる人に言い聞かせるかのようなモノローグであった。
深い溜息が吐き出される音が響いた後、彼は再び歩き始め、廊下の彼方にその姿を消した。

分かっている。
昨日、付きっ切りで勉強に付き合ってくれたカイルの真剣さも。
そして、今までマンツーマンで指導してくれたフランシスの真剣さも。
分かっている。
だからこそ、彼らの真剣さに応えてやれない自分に、無性に腹が立った。

理解できないもどかしさ、自分を制することができない情けなさ、諦めかけた自分への苛立ち。
そして――大事なことを忘れかけた自分の不甲斐無さ。
様々な負の感情が彼の中で渦巻く。
やがて。

「…っきしょおおおぉぉぉーーーッ!!」
ガンッ!

そのやり場のない激情は、怒りの鉄拳となって、咆哮と共に教室の壁へと叩き付けられた。

壁を殴りつけたまま、暫くの間動こうとしなかったレオン。
俯いた彼の目に映る教室の床は、奇妙に歪んで見えた。
溢れ出した無念さの雫が一滴、床に小さな染みを作る。

痛かった。
まるで、自分が殴られたようで。

そして、彼の背中に過去を見たルキアの胸は、余計に痛んだ。

前の、あの日。
その時も、確か補習の時だった。
触れてはいけないものに触れてしまった、過ちの時。
ただ一人教室を出て行く彼の後ろ姿は、傷負う心を映し出していた。

深く蒼い孤独を背負った、同じ背中。
それは、過ちを繰り返してしまったことを示す、紛れもない証拠だった。
そうだ、レオンが賢者を目指すのは――
そして、その時私は――!

ややあって、彼は拳を壁から離した。
袖で軽く顔を拭った彼は、思い出したようにじんじんする右手を見つめる。
指の第二関節から下が少し腫れて、手の甲に擦り傷が付いていた。

「…痛ってぇ」
壁と喧嘩した自分の愚を薄ら笑いながら、彼は吹っ切れたように勉強用具を鞄に仕舞う。
そして、普段持たない左手に鞄を持ち、肩に提げてから、教室を出た。
そんな彼をずっと見ていたルキアは、逃げることもできず、レオンの前に姿を晒した。

二人は、互いを正面にして、立ち止まった。

「ルキア…か…?」
思いも寄らない遭遇に、意外さを隠そうとしないレオン。

「あ…」
一部始終を見ていて、まだ動揺が隠せないでいるルキア。

「…」
いくら鈍感なレオンでも、ルキアの顔つきや素振りは、今までの自分を見ていたと悟るには充分過ぎた。
それがまた、気まずさを増幅する。
それは、その表情や挙動をどうすることもできないルキアにとっても同じことだ。

このまま永遠に続くかとも思えた沈黙と静止を、先に破ったのは、レオンだった。

ごそっ。
彼は服擦れの音と共に、右手をポケットに入れた。
傷付いた手の甲が布に当たり、穏やかとはいえない表情が微妙ながら更に歪む。
やがてポケットから出てきた右手は、拳の形を作り、甲の傷を隠すように裏返されていた。

「…?」
ルキアは、暫く突き出されたままだったその拳とレオンの顔を見比べる。
が、混乱した思考は、自分が何をすれば良いのか、という答えすら見つけられないでいた。
やがて、望むリアクションが期待できないことを察したのか、レオンはドサリ、と左手のカバンを地面に置いた。
そして、拳を構えたまま表情を変えずルキアに近付く。
その間合いが、手を伸ばせば触れられるまでに縮まり――

レオンの左手が、少々強引にルキアの右手首を取った。
決して強く掴まれたわけではないが、手を取られたという認識が、咄嗟に彼女の身体を強張らせる。
相変わらず分からない彼の意図への不安は、ルキアの表情にも影を落とす。

その時だった。

「…忘れもんだぜ」
レオンはそう言うと、右の拳で包んでいたものをルキアの手の中に握らせた。

掌中に彼女が覚えた感触は、金属の手触りと、仄かにそれに移った熱。
それが何なのかは、見なくても分かった――自分の、本来の目的。
だが、それは既に重要なことではない。
いきおい、ルキアの目は自然に、彼の顔へと導かれる。

そして、ルキアは、見た。
レオンが微かに――だが確かに、口元を綻ばせるのを。

やっと、思い出した。
どんなに強がろうと、シルクのように繊細で、綻びやすく、儚い。
だけど、それ故に俺は安らぐ空気に包まれる。
俺には、それが必要だったんだ。
でも、さっきのこともある。
度胸もボキャブラリーも無い俺には、面と向かっては、上手く言葉に出せそうもない。
だから、せめて身体で、思いで伝えよう。
…ごめんな。
彼の表情には、そんな気持ちが込められていた。

やがて、廊下に横たわったカバンを再び右手に持ち直し、ルキアの左脇を通り過ぎるレオン。
間もなく彼の孤影は、夕闇に紛れて消えていった。

「…」
見つめたまま、動けなかった。

震える手を、そっと開く。
ジャラ、と音を立てて、手の脇から鎖が零れ落ちる。
手の平の上に、いつも使っている銀色の小さな懐中時計が、時を刻んでいた。

彼は、机の上に忘れていたそれを、届けようとしてくれていたのだ。
そのことに、漸く気付いた。
しかし、先程まで僅かに帯びていた彼の温もりは、既に寂しく空中に吸い込まれていた。
後に残っていたのは、鋭く光る現実、そしてその重さと冷たさ。
1秒毎に響く秒針の音は、ルキアの胸を刺す音にも似て。

「ごめん…」
酷いことを言ってしまった自分。
見るべきでないものを勝手に覗き見てしまった自分。
そして、一人孤独に帰る彼を、追いかけることも出来なかった自分。
ルキアの心にせり上がる感情は、その瞳に溜まっていく。
程なくして、不意に景色が歪み――その双眸から、大粒の雨が降った。
止め処もなく滴る雫は、頬を、手を、時計を、廊下を、悲しみに濡らしていく。
誰もいない廊下に、少女の漏らす嗚咽が哀切に響き渡った。

いつまで、そうしていただろう。
涙痕を拭うことも忘れ、流涕未だ止まぬ相貌で、ルキアはレオンのことを想った。

彼が去り際に見せた、あの微笑み。
ぎこちなく、不器用な笑い方。
心の傷痕を隠そうとしていたことは、すぐに分かった。
その隠し方が、またヘタクソで――それでもその笑みは、どこまでも優しくて。

そして、その眼差しから伝わった想い。

今日のことは、もういいからさ。俺、気にしてないから。
…だから、元気出せよ。元気じゃなきゃ、お前らしくないぜ?

その想いは、レオン自身の形をとり、泣きじゃくるルキアの無防備な身体を守るように、そっと抱き締めてくれた。

「…そうだよね」
涙は止まらない。
けど、目の端を真っ赤にしながらも、彼女は、笑うことができた。

彼女は今日、一番大事な忘れ物を持って帰ることができたのだから。
彼の支えになりたい。
いつの日か心に誓った、その気持ちを。
 

I...I don't forget your smile
In only lonely night
心が見つめてる
But you...You just forgot my heart
Faraway night
忘れられない人を
Alone...

END