『春風には、魔法の力があるんですよ〜』
図書館での授業中、先生がそんなことを言ったことがある。
先生は大真面目に話していたが、当然クラスの中からは失笑が漏れていた。
かくいう僕も、そんな子供の御伽噺のような話を信じる気にはなれなかったのだが。
…。
そんなことを思い出しながら、僕は足取りも軽く外を歩いていた。
とても機嫌が良かった。
昼までの授業を終えたのだが、妙に調子が良かったのだ。
魔法にしても、勉学にしても、運動にしても、全てが上手く行った。
一応いつものように、当然の結末だ、とうそぶいてはみる。
けど、そんな言葉とは裏腹に、僕自身はそれが普段以上の力のように思えた。
まるで、何かに後押しされているような――。
「春風……魔法…?」
脳裏に、そんな言葉がかすめた。
…まさか。
僕の頭は好調さでちょっと浮かれてるんだろうか。
それとも、午前中の授業で飛ばしすぎたんだろうか。
…。
昼からも授業はある。しっかりと身体を休めなければ。
そう思った僕は、”いつもの場所”に足を向けた。
校舎から暫く歩いた、丘の向こう。
そこに、とても広々とした草原がある。
軽い傾斜になっているそのフィールドは、周りに何もなく、訪れる人もまずいない。
誰にも煩わされることなくゆっくりすることができる、絶好の休憩場所だ。
「…フゥッ」
青々とした斜面に身を横たえて深い息をすると、微かに草の香りが鼻を衝く。
視界に入るのは、どこまでも透き通る青さを湛えた空と、軽やかにたゆたう雲だけ。
腕を後ろに組んで頭に添え、左足を折り曲げて逆の脚に載せ、リラックスした姿勢をとる。
物音一つしない、僕にとってとても安らかな時間。
休憩が終わる少し前まで、このまま何もせずに過ごすのが、僕の常だった。
だが。
柔らかい風の中に、不意に人の気配を感じ、僕は反射的に上半身を起こした。
両肘を支えに身を持ち上げたまま、顔だけ動かしてその正体を探ろうとした矢先――
気配の元と、目が合った。
「あ…」
軽い驚きの声を上げながら僕を見つめて立っていたのは、クラスメートの一人だった。
飛び級で僕達のクラスに通っている、長い髪をリボンで二つにまとめた女の子――アロエである。
二人の間に、風が吹きぬけた。
僕の肩ほどもない背丈から、半ば寝そべっている僕を見下ろすその視線には、やや戸惑いの色があった。
まあ、意外な人との遭遇に当惑しているのは僕も同じではあるのだが。
何故、アロエはこんな所に来たのか。
偶然か、それとも――?
答えの手がかりを知るべく、僕はアロエを正面に座り直して様子を伺った。
が、それがまずかったらしい。
「あ、あの…邪魔だった?」
彼女から、緊張した声が発せられた。どうやら、安眠妨害になったと思ったようだ。
「いや…構わない」
すぐに、その誤解を解くべき言葉を口にする。
幸い、アロエはすぐにそれを理解してくれたようだった。
だが、僕にとって自分のそのリアクションは、意外なものだった。
実際、独り静かに休んでいる状況を邪魔されたのは確かなのだ。
いつもの僕なら、内心腹立たしく思いながらだんまりを決め込んでいただろう。
あるいは、どこか別の場所へさっさと移動していたかもしれない。
「春風……魔法…?」
馬鹿な。
どこからそんな空絵事が出てくるんだ。
…。
そんなことを考えていると、アロエは胡坐をかく僕のすぐ右横にぺたん、と座り込んだ。
「寝てるって思わなかったから…ビックリしちゃった」
そう言って、アロエは僕の横顔を見上げる。
「…何かしていると思ったのか?」
視線だけを右下に動かして、僕は彼女に問う。
「うん…本を読んでるのかなって」
こくり、と頷いて答えるアロエ。
「フ…本が読みたい時は図書室へ行くさ」
僕は眼を伏せ、その言葉を一笑に付した。
「そ、そうだよね…」
彼女はたどたどしく、僕の発言に同意する。
「けど、ここで本を読むっていうのも、悪くないかもな…」
何故かは分からない。
分からないけど、僕の頭の片隅に掠めた素直な言葉が、口に出た。
その一言で、強張っていたアロエの表情が、少し緩んだ。
偶然にしては出来過ぎとも思えるぐらい上手いフォローになったものだ。
「春風……魔法…?」
…どうかしてる。
自分が取ったリアクションもそうだが、それをこんなフレーズで理由付けしようとするなんて。
本当に、今日の僕はどうかしてる。
…。
変な間ができてしまった。妙に気まずい。
慌てて、僕は話を別の方に向けようとした。
「あのね、セリオス」
が、先に沈黙を破ったのは、アロエだった。
「アロエ、丁度セリオスを捜していたところだったの」
彼女はさっき、僕が本を読んでいると思った、と言った。
その言葉は、彼女の目的が僕だったことを暗に示していたようだ。
しかし、僕に何の用だろう?
興味はあったが、強引に聞き出すのは趣味じゃない。
僕はそのまま、アロエの出方を見守っていた。
だが、アロエには明らかに躊躇いが見て取れた。
次の言葉が、彼女の喉の奥で凍り付いているかのようにも思える。
そんなに言いにくいことなのだろうか。
だが、僕は彼女からその言葉を引き出す術を知らなかった。
僕にできるのは、ただ黙して彼女の反応を待つことだけ。
二人が黙りこくった重苦しい状況の中を、風が駆け抜けていく。
やがて、意を決したように顔を上げ、絞るように言葉を紡ぎ出した彼女が口にしたのは――
「…あの、今度…セリオスに、勉強教えてもらいたいな、って思って」
ほんのささやかな、願いだった。
「僕に?」
意外に思った。
自分で言うのも何だが、僕は人にものを教えるようなタイプじゃないからだ。
だが、アロエは真摯な表情で僕を見つめ、言葉を続けた。
「だって、あんなに何でも知ってるんだもん。すごいなって思うし、何ていうか…憧れちゃうな」
どうやら、午前中の授業のことらしい。
それは、僕がたまに聞く軽々しいお世辞のようには聞こえなかった。
口先だけではなく、ちゃんと気持ちが込められているのが感じ取れたからだ。
だから、何というか…面痒いけど、決して悪い気はしなかった。
しかし、何故だろう。
アロエは決して、クラスでも成績が悪い方ではない筈だが…。
だが、後に続く彼女の言葉は、その訳を察知するに足るものだった。
「アロエ、勉強好きだけど…最近、すごく不安なんだ…自信が持てないっていうのかな…」
いつもポジティブなアロエにしては、珍しく消極的な独白だった。
俯き気味の顔に見え隠れする表情は、その言葉が嘘でないことを物語っている。
無理もあるまい。
自分より年上の面々に囲まれて、それでも厳しい授業に付いて行かなくてはならないのだから。
無邪気にはしゃいでいるように見える彼女の内心を悟った僕は、その不安を取り除いてあげたいという気持ちにかられた。
「アロエだって飛び級してるじゃないか」
そして、僕は自分の率直な見解を口にしていた。
「いくら僕でも、レベルの高いクラスに居てやっていけるかと言われれば…自信はない。
でも君はそれに挑んでいる…君こそ凄いと思う」
彼女が僕にくれた賛辞のお返しにと、僕は彼女を称え、励ます言葉を並べた。
人付き合いが苦手な僕にとって、他の人に褒め言葉をかけるなんて、普段なら考えられなかった。
ばつが悪くて、僕は彼女の顔をちらりと見ることもできない有様だ。
でも――それは僕の紛れもない本音だった。
「…ありがとう」
僕のその言葉に、彼女は一瞬だけ驚いたような顔を見せたが、すぐに笑顔に戻り、感謝を述べた。
「大変だけど、飛び級したのは嫌じゃないよ」
少しの無言の後、アロエはそう言うと、伏し目がちに僕の方を向く。
「だって…そうじゃなかったら、セリオスと知り合うことがなかったかもしれないから」
「…!」
その言葉を聞いて、僕は思わすアロエの顔を見やった。
前に比べて長くなった髪が風になびいて、彼女の白い頬や華奢な肩をサラサラと撫でていた。
その風に乗って、甘い香りが微かに、だけど確かに僕の鼻をくすぐる。
同時に、僕は自分の顔が熱を帯びたのを感じた。
本当に、僕はどうしてしまったのだろう。
全く格好を付けられなくなっている自分に、僕は困惑した。
「春風……魔法…?」
…。
もやもやした気持ちを振り払うように、僕はそのまま仰向けに寝転がった。
「…空が青い」
誤魔化すように、呟いてみる。
でも。
「…本当だ」
返ってきた反応に、僕の顔は自然と彼女の方を向いてしまう。
そして、僕の眼に入ったのは、僕と同じポーズで、僕が見たのと同じ青空を見上げる、アロエの姿。
…油断した。
そんなアロエに表情を緩めて見入っている僕の顔を、彼女がじっと見ていることに気付いたのが、少し遅れた。
寝転んだことで同じ高さになった視線が、二人の間で繋がった。
…駄目だ、照れくさい。
彼女の瞳を直視できず、僕は再び目を空に戻してしまった。
僕は、彼女の目線を正面から受け止めることもできないのか。
まだ、自分の気持ちに素直になれないのか。
彼女の眼差しをはねつけたような態度になった自分に、軽い自己嫌悪を覚える。
だが。
「えへへ…目が合っちゃった」
それでも彼女は、つぶらな瞳を細め、嬉しそうに笑ってくれていた。
「いい風…だね」
ややあって、アロエが言う。
僕が見つけ、独りでゆっくりすることにしていた場所。
青い空を望み、緑の草が香り、透き通る風が流れる場所。
僕はここの居心地の良さを知っている。
だけど。
「ああ…いい風だ…」
僕は、改めてその言葉に同意していた。
今日の風は、いつにも増して爽やかで、気持ちが良い。
その理由を、僕は分かっていた。
…。
それから、二人の間には静寂の時間が流れた。
決して、気まずさに押し黙っているのではなかった。
むしろそれは、言葉無しでも心地よい時を過ごせるから――。
少なくとも僕はそうだった。
そして、彼女もそうであることに僕が気付いたのは、暫く経ってからだった。
「す〜…」
耳に入ったのは、寝息。
そう。
アロエは、眠っていたのだ。
その顔には、安心しきった表情だけが浮かんでいる。
僕は、横になったまま、正面に見えるその寝顔をしげしげと見つめた。
彼女の目が覚めていたら、とてもそんなことはできないだろうけど。
でも、こんな僕の側で、安らいだ気持ちになってくれる人がいる――それは、とても幸せなことだと思う。
僕は眼を閉じた。暖かな感情が胸を埋めるのを感じる。
風が吹いた――。
…。
「………ス……リオス…セリオス」
身体が軽く揺さぶられる感覚で、僕の意識はようやく現実へと戻ってきた。
「ん…」
頭に手を当て、目に染み込むような光に顔をしかめつつ、ムクリと起き上がる。
傍らには、既にアロエの姿はなかった。
代わりに僕の肩を揺すっていたのは、蒼い髪の男子生徒・カイルである。
「…いつの間に寝ていたんだ、僕は…」
そう口にしつつも、今一つ目が覚めやらない。ともすれば、再びまどろんでしまいそうだった。
しかし。
「気持ち良さそうなところをすみません…でも、そろそろ起きないと、授業に間に合いませんよ」
その彼の遠慮がちな言葉に、未だ夢うつつといった感じだった僕もようやく我に返り、状況を認識した。
普段なら、席に着いて次の授業の準備をしている筈の時間だ。
寝ていて授業に遅刻した…などとあっては格好もつかない。
「…!ああ…わざわざ済まない」
ようやく睡魔の拘束を振り切った僕は、軽く礼を言うと、緑のベッドから身体を引き剥がし、
背中に付いた葉っぱをポンポンとはたいてから、校舎の方へと走り始めた。
だが、僕には気になることが幾つかあった。
「…カイル」
「何です?」
「僕があそこにいると、何で分かったんだ?」
走りながら横を向き、同じく駆けているカイルにその疑問を投げかけてみる。
「え?ああ…普段、休憩が終わる頃に、セリオスはいつもこちらの方から歩いて来ますからね。
きっと、今日もこっちだろうと思いまして」
カイルは、走りながら少し考えて、そう答えを返し、微笑んた。
彼らしいといえば彼らしい、洞察力のある返答だ。
しかし、僕にはまだ釈然としない部分があった。
カイルの視線が、自分から離れないのだ。
笑顔も、心なしかいつもより嬉しそうに見える。
そんなに眠っていた時の僕の顔は、間が抜けていたのだろうか。
それとも、まさか――?
「…見た、のか?」
咄嗟に、頭に浮かんだ可能性を口にした。
勿論「何を見たか」なんてきまり悪くて言えたものではないけど。
「何がですか?」
だが、彼は飄々とした笑顔で聞き返すだけだ。
とぼけているに違いない。
でも…悔しいが、今のカイルから問いの答えを引き出すのは、僕にはまず無理だろう。
それに、彼は見たことをおおっぴらに言い触らすようなデリカシーのない男ではあるまい。
「…何でもない」
僕は自然な素振りで、さっきの言葉をうやむやにしようとした。
ところが、その様子を見てカイルは満足げな表情を見せ、僕の横に近付き、ぼそっと耳打ちしたのだ。
「良かったですね」
…何が良かったのか、聞くまでもなかった。
やはり、見られていたのだ。
僕は表情を隠すように下を向き、カイルを置き去りにするかの如く、全速力で駆け出した。
別に、そうしなければ授業に間に合わないわけではないのだが…。
赤面しているのが傍目にも分かる僕の横顔を、一層優しい風が、撫でた。
『春風には、魔法の力がある』
今なら少しだけ、信じられるような気がした。
その魔力にしてやられた、今なら――。
END