「今日の授業はここまでだ…」
生徒達にとって、長い一日の終わりを告げる言葉である。
拘束からの解放。自主勉強の始まり。一人になれる時間。明日までの暫しの別れ。
各人が抱く思いは様々であろう。
カイルも、普段ならそのような、リラックスした気持ちでいられる筈だった。
・
「カイル兄ちゃ〜ん」
彼に呼びかける半ズボンの少年、ラスク。だが、座ったままのカイルから返事はない。
もう一度呼んでみたが、やはり反応なし。
「?…カ、イ、ル、兄ちゃん!」
たまらず、背中をドン、と押す。
カイルは、慌てふためいた表情で、やっと自分が呼ばれていたことに気付いた。
「!?…あ、ああ、ラスク君ですか…すみません、ボーッとしてました。…何か?」
「何か、じゃないよ〜。今日は放課後に一緒に遊ぼうって約束したじゃん」
口を尖らせるラスク。
「あ………ごめんなさい、今日はちょっと…用事ができちゃって…」
「え〜!?楽しみにしてたのに〜」
「本当にごめんなさい。この埋め合わせは、後で必ずしますから。…それじゃ!」
カイルはそう言うと、急ぎ教室を出ていった。
「…変なカイル兄ちゃん」
つまらなさそうなラスクを残して。
その光景を見て、クラスメートの一人であるレオンがラスクに声をかける。
「何だ、カイルに約束すっぽかされたのか?」
「そうなんだよ。…ねぇ、今日のカイル兄ちゃん、何かおかしくなかった?」
「アイツがおかしいのはいつものことじゃねぇか。…ま、確かにカイルにしちゃ珍しいけどよ」
皆に好かれるカイルにとっても、いちばんの親友であり理解者でもあるレオンは、軽口を叩きつつ彼をフォローする。
だが、彼もまた、その心中は全く別のことに関心が向いていた。
「ヘッ…面白くなってきやがったな」
彼は一人ニヤリ、と笑うと、カイルの後を追うようにして教室から去っていった。
訳も分からぬまま再び取り残されたラスクは、レオンの独りごちを聞いて、呟いた。
「…レオン兄ちゃんだっておかしいじゃん」
・
レオンには、カイルの態度がどうしていつもと違うのか、心当たりがあった。
恐らく、原因は、一人の女子生徒。
アカデミーの制服とは趣を異にする服を身にまとい、全てを射抜くような目線を持つ女――マラリヤである。
そのマラリヤが、数日前、自分に声をかけてきたのだ。
「………レオン」
「ん?………あぁ、呼んだか?」
彼女が他人に声をかけること自体、極めて稀なことだ。
さらに、彼女の話し方は常に、独り言のように密やかである。
思わず、呼ばれたかどうか確認してしまうレオン。
「…」
答えはなかったが、彼女の注意は間違いなく自分に向いていた。
マラリヤに見られると、背骨に氷でも詰められたような気分になる。
正直、レオンには居心地の良い相手ではない。
「どうした?…デートのお誘いなら大歓迎だぜ」
イヤな雰囲気を吹き飛ばそうと、軽く飛ばしてみるレオン。
「あなたに興味はない…」
あっさり遮るマラリヤ。
出来の悪い自分など眼中にないであろうことは知っていたが、何か負けた気分で悔しい。
「分かってるよ。…どうせカイルのこったろう?」
「!………」
口には出さなかったが、明らかに考えを読まれたことを意外に思っている様子だ。
レオン的には、これで一対一である。
その後、マラリヤは、彼について矢継ぎ早に幾つかのことを問うてきた。
レオンは、自分に分かる範囲で答えながら、彼女の意図を推し量っていた。
(質問の内容からすりゃ、色恋沙汰じゃなさそうだな。…となると、もしや…)
「…そう」
質問を終えたマラリヤは、感謝を述べるでもなく、立ち去ろうとした。
「あんたじゃ、アイツには勝てないと思うぜ」
レオンは、そんな彼女の背中に告げた。
自分では、クラス内屈指の実力を持つと噂されるマラリヤには敵うまい。
そこから出た、負け惜しみかもしれなかった。
しかし、彼の言葉には、確信もまた込められていたのである。
マラリヤは、一瞬立ち止まり――振り向かず、去った。
そして今日。
昼休憩が終わって席に着いてから、カイルに落ち着きがなくなったのを、レオンは見ていた。
「さて…どうなるか…」
カイルの行き先を見失わないようにしながら、レオンは再び、一人ニヤリ、と笑った。
・
カイルは、自分が所属する風の島に戻っていた。
その表情は、いつになく重苦しい。
恐れていたことが現実になってしまったからだ。
…。
昼休憩を終え、自分の席に戻ると、一枚のメモが置かれていた。
マラリヤからだった。
その内容は、自分と魔法力で勝負するように、というものだったのである。
本来、生徒同士の私闘に魔法を使うことは、校則で堅く禁じられている。
それに彼は、その力で決して人を傷付けたくないと思っていたし、その意思を曲げる気はなかった。
だから今度も、彼女に「戦いたくない」という意思を伝えなくてはならなかった。
だが、相手はあのマラリヤである。素直にそれを聞き入れてくれるかと言われると――否定的な答えしか出ない。
逃げようにも、自分の部屋に帰るには風の島――マラリヤが戦いの場として指定した場所――を通らねばならない。
そうなれば、いやがうえでも巻き込まれる。
どうしたら良いのだろう。
ラスクに話しかけられた時も、そればかり考えていた。
考えがまとまらないまま、ぼんやりと歩くカイル。
そして気が付くと――彼は、風の島に戻って来てしまったのである。
…。
風の島は、豊かな緑に囲まれ、自然の息吹を感じることのできる場所である。
木々の立ち並ぶ森には小動物が戯れ、聳え立つ風車は涼風を受けて優雅に回っている。
楽園のような光景。…しかし、それも今のカイルの心を癒すものとはならなかった。
乱立する木立は、視認に死角を作り、直線的な移動を阻む障害物である。
枝の上という高所にポジションを取られると、地面にいる者は狙い撃ちにされる。
足元の草や枯枝は、踏めば音を立てるゆえに逃げる側には厄介な代物だ。
無意識のうちに戦略的な要素が頭に浮かんでしまう自分を、カイルは呪わしく思った。
戦いたくないのに。そのことを伝えなくてはならないのに。
自分は、マラリヤを説得するのを、内心では諦めているのか――?
その時、カイルは異変を感じ、立ち止まった。
小動物や鳥たちが動く気配を見せない。…何かが、森にいる。
やがて、風が止んだ――その刹那。
木々の間に、チカッ、と青白い光が見えた。
やがて、その光は矢のようになって――カイルに襲いかかった。
「あぶないッ!!」
グイ、と身を深く沈めるカイル。
チリッ…!
一瞬、回避が遅れた。
光弾は、カイルの動きを一瞬遅れてトレースした、彼の長い後ろ髪の先端数cmを、引き千切った。
飲み込まれた哀れな髪は、たちまち灰と化す。髪と灰の混じった、蒼い塵が舞う。
それを感じたカイルは、生じた事柄に畏怖した。始まってしまったのだ――!
彼は腰をからげ、走り始めた。
・
心臓の位置を狙った挨拶代わりの一矢は、僅かに外された。
魔法光弾≪マジック・ミサイル≫。
魔力を集中させ、弓矢のように撃ち出す、攻撃的魔法の中でも基本中の基本といわれるものである。
しかし、高度な技術として、この魔法光弾≪マジック・ミサイル≫に付加的な属性を付ける、というものがある。
属性には幾つかの種類があり、どんな能力を込めたかは、光弾に付く色で識別できる。
高初速で貫通力のあるものは、青い光を帯びる。
低速だが破壊力抜群の光弾は、赤い色が灯る。
標的を追尾する能力が付くと、緑色が――。
さっき用いたのは、一番目に挙げたものである。
「うふふ…動いた…」
”宣戦布告”に凍り付いたカイルの顔と、その後の彼の動きに、マラリヤは冷たい笑みを浮かべる。
そして彼女は、次の魔法を詠唱し始めた。
・
「お、始まったな」
その頃、レオンもそれに気付いていた。
彼が今いるのは、風の島の特徴でもある、風車の上。
眼下に島を一望でき、森を見下ろすことのできる、絶好のスポットである。
レオンは、二人の対決の結果を見届けるつもりで、そこに腰を下ろしていた。
高度な魔力を持つ二人の対戦から参考にできるものを学ぶ…と言えば聞こえは良いが、要は体の良い野次馬だ。
まさに、高みの見物である。
だが。
「しかし…カイルの奴、ふっきれてりゃいいんだが…」
親友として、彼を気遣う気持ちがあったことも、また事実である。
やがてレオンの目は、走り出したカイルの動きを追い始めた。
・
蒼い髪をなびかせ、森の中を駆けるカイル。走りながら辺りに注意を払うが、人影は見えない。
「戦いたくない」という意思を伝えようにも、これでは話にならない。
それに。
(…来るッ!)
咄嗟に、走る位置を僅かに右にずらすカイル。
その左側を、青い光が疾った。光は、先程までカイルが走っていたラインを薙ぎ、地面に突き刺さる。
…相手の意思ははっきりしている。狙われている以上、回避に専念しなければ危ない。
ビシュビシュビシュッ!
三発の閃光。弾道を読んだカイルは、進行方向を左に90度曲げた。
最初の二発はカイルが去った後の空域を流れたが、最後の一つはカイルの真横に位置した巨大な木の幹を直撃した!
だが、貫通力のある青色を帯びた光弾とはいえ、巨木を突き抜ける程の威力はなかった。
青い粒子が飛び散る。
「ハァ…マラリヤさん…」
その木陰に足を止めたカイルは、息を整えながら、意思を伝えるべき相手の位置を探し続けた。
だが、別の射角から飛来する紅の魔力弾を認めた彼は、思考を中止し、再び駆け出さなくてはならなかった。
・
「やるなぁ、アイツ…噂通りってところだな」
レオンは、マラリヤの力に、素直に感心していた。
マラリヤの姿が見えないのは、不可視膜≪インビジブル・コート≫の魔法を使っているからだ。
この魔法は、高度な知識と魔力を要する。それを用いながら、魔法光弾≪マジック・ミサイル≫を何発も撃ち続けられる。
それは彼女の実力の高さを証明するに足るものであることをレオンは知っていた。
しかも、適確に魔法光弾≪マジック・ミサイル≫の種類を使い分けている。
青色光弾≪エイザー≫で牽制し、赤色光弾≪クリムゾン≫で狙い撃つ。
緑色光弾≪ヴァージュア≫で動かし、その先に青色光弾≪エイザー≫を置く。
赤色光弾≪クリムゾン≫で足止めし、緑色光弾≪ヴァージュア≫で死角を突く。
決して、闇雲に撃っているわけではない。
「だが…カイルも流石だ」
そう。
如何にクレバーに撃ち出された魔法光弾≪マジック・ミサイル≫でも、カイルがそれを食らうことはなかったのだ。
レオンは、不謹慎と思いつつも、二人の攻防を手に汗握って見守っていた。
・
「何故…!?」
マラリヤは、苛立っていた。こんなに思い通りにならなかったのは、初めてだ。
決して、狙いが甘くなったわけではない。充分なイニシアティヴも取っている。
でも、魔法光弾≪マジック・ミサイル≫は、ただの一発も彼に届いていなかった。
直線的な青色光弾≪エイザー≫は、軸を外して簡単に回避してくる。
強力な赤色光弾≪クリムゾン≫も、大きく回り込まれ、かすりもしない。
追尾力のある緑色光弾≪ヴァージュア≫すら、障害物で軽く凌がれてしまう。
しかも彼は、ただ逃げるだけで、少しも魔法を使ってこないのだ。
温存策か、それとも手加減か…どちらにせよ、漠然と不愉快だった。
「それなら…」
姿を消したまま、彼女は次の一手を仕掛け始めた。
・
魔法弾が飛来する毎に、カイルの神経は研ぎ澄まされていく。
姿は見えなくとも、相手がどこにいて何をしてくるか、気配が手に取るように察知できる。
おかげで、カイルはマラリヤの猛攻を躱し続けることができていた。
魔法を使う気は、相変わらずなかった。
だが彼は、意思とは裏腹に戦いに順応していく自分の身体が、もどかしくて仕方がなかった。
おまけに、カイルが攻撃を避け続けても、攻め手が止む様子はない。
カイルが身を躱しても、魔法が放たれる度に地面はえぐられ、小枝は毟り取られる。
森が傷付くことに、カイルの良心は痛んだ。身体より先に、心が悲鳴を上げそうだ。
その心の軋みに、一瞬の隙が生じた。
・
「!!まずいッ!」
レオンは、カイルの動きに狂いが生じたことを見て取った。
緑色の曳光弾による、誘導攻撃。
それまで最小限の動きでやり過ごしていたカイルの体が、大きくぶれた。バランスを崩したのだ。
そこに、狙いすました魔法が撃ち出された。
禍々しい色の強力な魔弾が、空気を切り裂いてカイルを目指し正確に飛んでいく。
「これは…毒素噴射≪ヴェノム・スプラッシュ≫…!本命はこいつか!!」
大気中の毒素を凝縮して魔力の弾にまとわせ、螺旋状に射出する攻撃的魔法、毒素噴射≪ヴェノム・スプラッシュ≫。
避けたり弾いたりして直撃を免れても、毒素を含む粒子は飛び散り、完全に防ぐことはできないという恐るべき魔法。
その扱いの難しさから、アカデミーで教えられる魔法の中でも最も高度なものの一つとされている。
このことからも、マラリヤの実力のほどが伺えよう。
事実、この魔法はマラリヤの切り札ともいうべきものだった。
彼女の放ち得る中で最も強力な、妖しい紫に彩られた凶弾が、カイルの目前に迫っていた。
「カイルッ!!」
レオンは、親友の危機に、叫んでいた。
この距離では、最早躱すことはできない。
渦巻く魔力の光が、カイルの顔をも紫色に染めた時――!
ビシュゥゥゥゥッ…ジュゥゥゥゥ…
「………フゥッ」
レオンは深い溜息を付いた。
「…流石だよ」
・
吸着結界≪アブソーブ・フィールド≫…
薄い魔力の壁を何層も展開させ、放たれる魔法の衝撃力を拡散させ、吸収する防御的魔法。
魔力を偏向させて逸らせる魔法光壁≪マジック・バリア≫や、相手に跳ね返す反射防盾≪リフレクション・シールド≫と違い、
魔法の持つ力自体を減殺するため、周囲に被害を与えることがない優れた防御法だが、その分非常に高度な魔力を要する。
これもまた、アカデミーの中では最高峰に属する魔法の一つである。
毒素を含む粒子を撒き散らして自分や森にダメージが及ばないようにするには、これしかなかった。
しかし、カイルは魔法を使ってしまった。
即ち、禁を破った上、自分の力をマラリヤに晒してしまったのである。
それと同時に――カイルの心もまた、限界に達していた。
「止めて下さい!僕は…僕は貴方を傷付けたくない!!」
マラリヤの気配がした方に向かって、カイルは悲痛な叫びを上げた。
・
「必殺技」ともいうべき連係が破られた。
おまけに、あの吸着結界≪アブソーブ・フィールド≫を使われた――自分でさえ、まだマスターできてないのに。
そのことは、彼女のプライドを大きく傷付けていた。
それを今になって、何を――。
不可視膜≪インビジブル・コート≫の魔法が解けた。自分の姿が、カイルの前に露になる。
カイルは、無防備に近付いてきた。
勝つか負けるか…それだけの世界に昔から身を投じてきた。
勝利を求める彼女が、彼に向かって魔法を詠唱したのは、彼女にとってはごく当たり前のことだった。
・
分かって欲しかった。
しかし、返事代わりに飛んできたのは、青い魔力の弾だった。
ピッ。
それは、カイルの顔の左側をかすめた。耳元にかかっていた彼の蒼い髪の一部が、宙を舞う。
(――それが、答えですか…!!)
瞬間、彼の心の中のヒューズが、音を立てて飛んだ。
・
マラリヤは、カイルの変化に気付いていなかった。
畳み掛けるように、近距離から六発もの魔法光弾≪マジック・ミサイル≫を連射する。
完全な、奇襲のつもりだった。
だが。
ズババババババッ!
カイルは、その六発を、全て手刀で弾き飛ばしたのである。
そのうちの数発は、マラリヤの足元に撃ち返された。
ド、ド、ドウッ。
「…!!」
地面が少し削れて、マラリヤは衝撃に足を取られ、前のめりに膝を付いた。
掌に極小の反射防盾≪リフレクション・シールド≫を張り、光弾を正確に叩き落とす…
相当の修練が無ければできない芸当だ。
そしてそれは、今までのカイルにしては、やけに攻撃的なやり方だった。
マラリヤにとってそれは、別に意外なことではない。別に、無傷で勝つつもりはなかったからだ。
むしろ、彼がやっとその気になったかと思っただけだ。
地面に座り込んだような格好になった彼女は、カイルの方を見上げる。
その時、彼女は見た。
カイルが初めて、自分から魔法を詠唱し始めるのを…。
・
「!!………か、カイル…マジかよ…!?」
レオンは、カイルの変化に気付いた。
にわかには、そのことは信じられなかった。
それでも、カイルの詠唱し始めた魔法が何かを知った時――
彼にとっていちばんの親友であり理解者でもあるレオンは、全てを悟り、呟いた。
「あーあ…自業自得とはいえ、アイツも不幸な女だよな…あのカイルを、本気にさせちまうなんてよ…」
そしてレオンは、特等席であった筈の風車の上から、降り始めた。
先の見えた勝負を、これ以上観戦する必要はない。
カイルが『死神札(ジョーカー)』を切った以上、これから何が起こるのかは解っていたからだ。
「ま…カイルという男がどういう奴なのか…その身で知るといいぜ」
誰ともなくそう言い捨てると、地に降り立ったレオンは森に背を向け、帰途に就いた。
・
聞き慣れない詠唱だった。
彼は、自分が知らない魔法を使えるというのか。
すると、カイルの両手の間に、魔力の球が発生した。カイルが詠唱を進めるごとにそれは膨張する。
目映い光を放つ球体に、恐るべき勢いで魔力が流れ込んでいく。
そしてその魔力の強さは、マラリヤの予想したそれを、あっさりと超えた。
これが射ち出されればどうなるか――それに気付いたマラリヤは、退避行動を取ろうとした。
「…!?」
だが、身体は、ピクリとも動かなかった。
拘束魔帯≪バインド・ストリングス≫の魔法をかけられたわけではない筈だ。
しかし、明らかに身体の自由は奪われている。
そう、まるで体がすくんでしまっているような――。
彼女の頭の片隅から、今の状況に関して、一つの断片的な記憶が引き出された。
どこかで読んだ本の、一節だった。
『…恐怖心の増幅により身体を麻痺状態に…』
「!!」
その記憶の全体像が再び、マラリヤの脳内に展開された時――
彼女は、自分が完全に最悪の術中にはまっていることを、ようやく認識した。
『…使用者が、古典断章より取られた十三の呪文を詠唱することにより、この魔法は完成する。
第一の呪文は、被使用者の恐怖心の増幅により身体を麻痺状態にさせるものであり、
この呪法が成立したなら、被使用者が自らの手でこの魔法を回避する手段は完全に絶たれることになる。
続く呪法により、掌に発生させた魔力の増幅と凝縮が繰り返され、その破壊力は凄まじいものとなる。
しかし、この魔法には決定的なリスクが存在する大変危険なものであった。
十三もの呪文を続けざまに使用することは精神と肉体に極度の負担を要求するため、
並外れた知識と魔力と精神力を持つ者でなければ到底扱えるものではない。
しかも、使用者がその詠唱を止めた時、行き場を失った魔力は全て使用者に降り注ぐことになる。
一度唱えれば何者かを引き裂くまで止まぬこの凶暴な魔法は、当然のこととして
禁忌(タブー)とされる魔法の一つに数えられることとなった。
今では、この魔法は正式な名前さえ忘れ去られ、この魔法を恐れた人々が付けたとされる
”血の涙≪ブラッディー・ティアーズ≫”なる俗称だけが伝えられるのみである。』
〜『古代魔法史記』第四章「禁忌呪法」より〜
彼は、いつ、どこでこのような魔法を習得したのか。
だが、それは今や問題ではない。
巨大な光弾となった魔力は彼の頭上に掲げられ、自分を引き裂かんと牙を剥いていた。
自分は、とてつもない相手と戦っていたのだ――
マラリヤは、アカデミーに入って初めて、恐怖という感情を顔に出した。
・
十二の呪文を詠唱し終えたカイルは、正体を取り戻していた。
自ら進んで私闘に魔法を用いている自分。
禁忌(タブー)とされる魔法を使った自分。
傷付けたくない人を傷付けようとしている自分――
総てが、今のカイルにとっては堪えられないことだった。
そして、力なく座り込み、脅えた目線で自分を見上げるマラリヤを見た時、彼は自分を断じた。
(僕は…魔法を扱う者として、そして男として、失格ですね…)
自らの弱さに負けた自分を、罰しなくてはならない。
「彼女を傷付けない」という目的を、果たさねばならない。
彼は、迷うことなく、十三番目の呪文の詠唱を、止めた――!
「これで…いいのです…」
・
「…カイル…やったか…」
レオンは、背を向けた森の中から、光と音が発せられるのを感じ、一瞬、足を止めた。
それが何を意味しているのかを知っていたレオンは――振り返らず、再び歩き始めた。
・
何が起こったのか、解らなかった。
突然、カイルが極彩色の光の柱に包まれ、スローモーションのようにくずおれていったのである。
同時に、自分を縛る力が消えたのを感じ、呆然と立ち上がるマラリヤ。
「………」
最終的に立っていたのは、マラリヤだった。
しかし、今までの経緯を見て、マラリヤを「勝利者」と見なす者は誰一人としていないだろう。
事実、この「勝利」に最も納得していないのは、誰あろうマラリヤだった。
だが、それ以上に彼女の心を乱したものがあった。
彼女は、倒れ伏したカイルを一瞥した。
制服はところどころ裂け、トレードマークの眼鏡は無残に圧壊していた。
当然、彼の肉体も無傷では済んでいない。
しかし、その顔には――笑みが浮かんでいたのだ。
何故…?
哀れみか、それとも蔑みか…ネガティブな理由が彼女の頭に浮かんでは消える。
だが、その刹那。
その思考を全て吹き飛ばすように、彼女の脳裏にリフレインしたものがあった。
カイルの声だった。
『僕は貴方を傷付けたくない』
『貴方を傷付けたくない』
『貴方を』
「………!!!」
パリン。
マラリヤの中で、何かが弾けた。頭の中が、真っ白になる。
冷たかった彼女の両目に、熱いものが溜まった。
それはやがて、表面張力に負けて目から溢れ、頬を伝い、重力に従って地面へと落ちていった。
彼女は、自分の顔を拭うこともせず、震える手で、ぐったりと横たわるカイルの顔に触れた。
穏やかな笑みを作っている彼の口の端には、しかし、痛々しく血が滲んでいた。
その口元に、雫が落ちた時――
彼女は、一つの魔法を詠唱し始めた。
他の人には初めて用いる、その魔法を。
・
久遠とも、一瞬とも思える刻が過ぎた時――カイルは、目を覚ました。ゆっくりと、身を起こす。
森の中は静かだった。吹き抜ける風が葉を揺らすざわめきが聞こえるだけ。
「…」
目線はぼやけていた。
彼の視力を支える眼鏡が使い物にならなくなっていたからである。
破れた制服と共に、それは自分のしたことをカイルにほろ苦く教えるものであった。
だが、不思議なことに――怪我がないのだ。
すぐに、創傷治癒≪ヒーリング・エイド≫の魔法だと気付く。
しかし、誰が――?
だが、その思考は直ぐに、無表情な声によって中断された。
「派手にやったようだな」
声がした方を見ると、優雅なフリルの付いた装束を身に付けた人が立っていた。
この風の島の管理を行っているアカデミーの男性教師、フランシスである。
眼鏡のないカイルには、その表情までは分からなかった。
だが、先程の言葉からしても、それに怜悧な先生の頭脳からしても、全ての事はお見通しだろう。
何よりも、自分が今座り込んでいる場所には、自分が使った魔法によってクレーターができていた。
それが、自分が何をしでかしたのかを雄弁に物語っている。
隠し立ては無駄だし、事細かな説明も不要の筈だ。
「悪ふざけが過ぎました…言い訳のしようもありません」
私闘に魔法を使い、禁忌(タブー)を侵した。厳罰は当然であろう。
カイルは目を伏せ、覚悟を決めた。
・
そんなカイルの様子を眺めていたフランシス。
彼は少し考えを巡らせた後、表情を変えることなく、カイルに処分を告げた。
「では…暫くの間、風に当たっていろ」
「え…?」
真意が読めない、という顔をするカイルに、フランシスは続けた。
「風に乗って聞こえてくる、森の声に耳を傾けるのだ。
お前が森にしたこと、森の感じた痛み、そしてお前のするべき事…全ては、風が教えてくれる。
それに従って、森に償ってやれ」
それを真剣に聞き、考え、そして頷いたカイルを見て、フランシスは少し表情を緩め、身を翻し、その場を去った。
彼には、全て分かっていた。
真面目なカイルが、何の理由も無しに「悪ふざけ」をする筈がないことも含めて。
理解ある者に一度の叱責は、愚者を百回打つより深く入るものだ。これで充分だろう。
「さて…もう一人の当事者には、こうは行くまいな…」
そう、彼は大人なのだ。
・
カイルは、森を癒す作業に追われていた。
創傷治癒≪ヒーリング・エイド≫の魔法は、動植物に応用することができる。
傷付いた木々に魔法をかけ、掘り返された地面を埋める。
決して楽な作業ではない。もっとも、それはカイルに与えられた罰なのだから当然である。
「ごめんなさいね…酷い目に合わせてしまって」
巨木に語りかけるカイル。
もう、普段の穏やかなカイルそのものだった。
やがて、行うべきことを終えたカイルは、木にもたれ掛かり、風に当たっていた。
汗を拭いながら、今日のことを思い起こす。
彼女があれからどうなったのか、彼には分からなかった。
だが、”負けてあげた”ことで、きっとこれ以上自分に突っかかってはこないだろう。
「負けるが勝ち…ですかね」
そう思った時。
「カイル…」
どこからか、呟くような密やかな声が、聞こえてきたのだ。
ハッとした表情になるカイル。辺りを見回すが、声の主は見えない。
でも、その言葉が”宣戦布告”を意図したものではないことが、カイルには感じ取れた。
「マラリヤさん…」
彼はその人の名を呼び、
「ありがとう」
礼を言い、微笑んだ。
創傷治癒≪ヒーリング・エイド≫を使ってくれたのは、彼女に違いないから。
そして、少しの間を置いて、カイルの耳に、小さく返事が届いた。
「…次は、負けない」
END