「あぁっ…!」
授業を終え、寮に戻ろうとしたシャロンは、校舎の玄関先で、驚きと恨めしさが半々に混じった声を上げた。
お嬢様のお帰りを阻む無礼な輩が、眼前に立ちはだかっていたからだ。
それは、天から降り注ぐ、”土砂降り”という名の「壁」――。
今朝は、雲一つない晴天だった。
昼間にも、雨が降る気配は全くなかった。
それが、授業が終わる5分ほど前に、急に暗雲が垂れ込めていったのである。
でも、まさか雨は降らないだろう――シャロンのその予想は、あっさりと覆された。
もっとも、大方の人の予想も自分と同じだったらしい。
「うっわ、マジかよ大雨じゃん!?…チッ、しょうがねえ、走るか!」
「えー、雨なんてありえなーい!こりゃ走るっきゃないか…それっ!」
レオンやユリといった元気な面々が、カバンを頭に乗せて傘代わりにしつつ、シャロンの横を猛然と駆け抜けていく。
「ハァ…こんな中を走って帰るなんて、信じられませんわ」
彼らの背中を目で追いながら、溜息交じりにシャロンは一人呟く。
事実、いかに彼らが早く走ったとはいえ、雨は容赦なく彼らの身体を打っていく。
あの調子では、部屋に帰る頃にはずぶ濡れだろう。
とはいえ、このまま雨が上がらなければ、自分も彼らの真似事をしなくてはならない。
ところが、シャロンはヒールのある靴を履いていた。
おまけに、彼女には――認めたくないとはいえ――彼らほどの運動神経はない。
となれば、彼ら以上にひどい目に遭うのは目に見えていた。
止むことを願うばかりだが、そんな彼女の気持ちも知らず、降りしきる雨がとどまる様子はなかった。
そんな中、一握りながら、この雨の中を濡れずに帰ることができる人もいた。
「あ、雨…良かった、持って来ておいて」
万が一に備え、カバンの中に小さな折り畳み傘を用意していたクララは、その一例である。
早く部屋に戻りたいシャロンにとって、それはのどから手が出るほど欲しいアイテムだった。
しかし、それに自分が身を宿す権利がないことは分かっている。
入れてもらうよう頼むこともできるかもしれないが、彼女のプライドはそれを許さなかった。
それに、折り畳みの小さな傘では、二人が入るようなスペースは無いだろう。
シャロンは、オモチャを買ってもらえなかった子供のような目つきで、クララと傘を見送った。
随分時間が経った。これ以上待っても、状況は変わりそうもない。
お嬢様が意を決して、雨の中に飛び出そうとした時――
コッ、コッ、コッ。
規則正しい靴の音。反射的に、音がした方を向くシャロン。
そこには、蒼い髪の青年が、帰途に就こうとしているのが見えた。
眼鏡の奥にある物静かな雰囲気の眼は、突然の大雨にも動じず、微笑みを作っている。
だが、彼が落ち着き払っている理由を、シャロンは知っていた。
その右手に握られた、落ち着いた色の――長傘だった。
…。
丁度、朝方の授業が終わった後の休憩時間のことだ。
私用で一人教室に残っていたシャロンは、次の授業がある美術室へ、急ぎ向かおうとした。
真っ直ぐ前を向いて歩いていた、その時――靴が、何か丸いものの上に乗った。
全く足元が見えていなかったシャロンは、はずみで大音響と共に、すっ転んだ。
流石はお嬢様、転び方の派手さ加減も一味違う。
彼女にとって救いだったのは、怪我が無かったこと、そしてクラスが無人だったことぐらいだろうか。
転倒の原因となったのは、机の端に遠慮がちに置かれた、長傘の先端だった。
よく見ていたなら避けられていたに違いない。
しかし、状況はどうあれ、自分に恥をかかせた憎っくきアイテムであることに変わりはない。
その傘が置いてある机に誰が座っていたか――
それを思い出したシャロンは、怒りの化身となって、美術室へと突撃していった。
そして美術室。
彼女は入るなり、傘の持ち主の横に陣取ると、
「ちょっとあなた、あんな所に傘なんか置いて、どういうつもりですの!?」
と、詰問し始めたのである。
「え…あ、何か邪魔になりましたかね?」
持ち主であるカイルは、突然怒り交じりの質問を浴びせられ、戸惑いながらも状況を把握するための質問を返した。
普段なら、悪くないリアクションの筈であった。
しかし。
(!…わ、私の口から転んだことを言わせようというのこの人は!?)
この状況では、火に油であった。ますますご機嫌斜めになるシャロン。
その表情、そしてシャロンの制服の前が少しホコリっぽくなっていることを見たカイルは、生じたであろう状況を洞察し、
「あ…す、すみません…」
すぐに、謝罪の言葉を口にした。
もっとも、それは少しばかり遅きに失したようで、彼はお嬢様からの罵詈雑言の集中砲火を浴びることになったのだが。
「…だいたい、こんな天気の良い日に長傘なんか持ってくるなんて、気が知れませんわ!」
まくしたてるシャロン。
「申し訳ありません…でも、夕立があるかもしれない、と聞いたものですから…」
カイルは、周りを気にしながら小声で謝り続けるが、彼女の”口撃”は止まない。
「夕立なんかあるわけないでしょう!?役にも立たない邪魔なものを、よくもまああんな所に…」
「こらそこ二人〜!授業中にしゃべらな〜い!」
突然、教壇にいたマロン先生から叱責が飛んだ。もう授業は始まっていたらしい。
踏んだり蹴ったりである。
…。
その後もシャロンは、雨が降ることなど微塵も考えなかった。
ところが、ここに至り、カイルの言ったとおりの天気になった。
自分が「役にも立たない邪魔なもの」と呼んだそれが、有用極まるアイテムになったわけである。
自分の予想は外れ、彼の予想は当たったのだ。
きっと、彼は勝ち誇っているに違いない――そう思うと、彼の顔を見ることができなかった。
その時だった。
コトリ。
シャロンが立ち尽くしていたそのすぐ側に、彼女が欲しがっていたものが置かれたのである。
小さな、折り畳み式の、傘だった。
ハッとして、それが置かれた方向に顔を向けるシャロン。
持ち主のカイルは、それを取り出した自分のカバンを閉じ、
「…良かったら、使って下さい」
遠慮がちに、一言だけ口に出した。
その態度は、彼女の予想と大きく異なっていた。
彼女が想像していた『僕の勝ちですね』と言わんばかりの得意げな表情は、欠片もない。
それどころか、先程まで見せていた平然たる微笑すら、彼の顔からは失せていた。
何故――?
それを考えていたら、何だか長い間彼の顔をまじまじと見つめてしまったような気がした。
「………」
きまり悪さと彼女の中の自尊心は、咄嗟に、その視線をカイルからぷい、と背けさせてしまう。
暫しの沈黙の後、彼は、
「…今日は、すみませんでした」
それだけ言い残して、右手にあった長傘をさし、一段と強くなった雨の中へ悄然と歩いていった。
折り畳み傘と共に、置き去りにされたシャロン。
だが、去り行く彼の背中を見ながら、彼女は、この傘を使っても良いものなのかどうか思案を続けていた。
濡れ鼠になるのは彼女の沽券に関わることだし、何より目の前に傘があるのに濡れて帰る馬鹿はいないだろう。
しかし、その傘が誰あろう自分が散々文句を言ったカイルに渡された傘となると、素直に使うのは躊躇われる。
自分のプライドが正常な思考をことごとく邪魔することに、シャロンは辟易していた。
その時。
少し遠くなったカイルの傘を捉えたシャロンの眼は、あることに気付いた。
長傘の先端部分が、曲がっていたのである。
自分が踏んだ時にそうなったのだ、と直感するシャロン。
彼女の目線から見たその様子は、まるで傘がガックリとうなだれているようだった。
そしてそれが、普段の笑顔を失った、その持ち主と重なって見えた時――
しまった、と思った。
傘につまずいた時、傷付いたのは、自分のプライドだけではなかったのだ。
そして、踏みつけられ、折れてしまったのは、彼の傘だけではなかったのだ――。
彼に対して示した、尖った態度と不親切な言葉を省みた時、彼女は思案に結論を出した。
自分に、この傘を使う資格はない、と。
彼の姿は既に遠く、雨のカーテンで霞んでいた。
見失うわけには行かない――。
シャロンは、畳んだままの傘を持つと、校舎の玄関先を飛び出し、彼を追った。
顔と服に打ちつける冷たい水滴も気に留めずに。
そして、彼の背中が再びはっきりと見えるようになった時。
ヒールが地面を蹴る音は、雨音に掻き消されてまともに聞こえる筈はなかった。
だが、カイルと長傘は、それが聞こえたかのように、前進を止め、振り返った。
彼との距離は見る間に縮まり、そして――二人は、強い雨の中、向かい合わせに立ち止まった。
カイルを真正面に見据えたシャロンは、自分でも情けないほどガチガチに緊張していた。
まるで、決闘でも挑んでる気分だ。
傘を使わずに何をしてるんだ、と思われているかもしれない。
今更何をしに来たのか、と突き放されてしまうかもしれない。
しかし、そんなことは問題ではない。
彼にこの傘を返し、自分は雨に濡れて帰るべきなのだ…。
彼女は、恐る恐る、折り畳み傘を彼に差し出す。
そして、
「…あの」
謝罪の言葉を述べようと、口を開いた。
それを言わせまいとする、自分の中の下らないプライドと闘いながら。
だが、それよりも早く、彼から差し出されたものがあった。
傘を受け取ろうとする、左手ではなかった。
「濡れてしまいますよ」
シャロンを気遣う言葉と、
彼女の頭上から雨を遮る長傘を持った右手と、
少し寂しげではあるものの、確かにいつもの彼の、微笑みだった。
いつも、そうだった。
自分がどんなに冷たくつっけんどんでも、彼の温かさと穏やかさは、変わらなかった。
そして今も――彼自身が雨を浴びることになるのに、笑って、自分に傘をさしてくれている。
シャロンは、胸が熱くなった。
「ありがとう」
折り畳み傘を貸してくれたこと。
今、自分に長傘をさしてくれていること。
それに、こんな自分にまだ優しくしてくれること――。
幾重にも折り重なった感謝の気持ちは、簡単な言葉にしかならなかった。
でも、カイルは一層優しい微笑みを浮かべ、その言葉をしっかりと、折り畳み傘と一緒に受け取ってくれた。
自然と、シャロンにも、安らかな表情が広がっていた。
とはいえ、これでシャロンは傘を手放したわけである。
先程より少し雨脚は弱まったとはいえ、未だ傘無しで帰れるような天気ではない。
「良かったら…一緒に帰りませんか?」
それは、濡れて帰ろうと思っていたシャロンにとっては、あまりに唐突なお誘いだった。
彼は、自分に傘を返すということが、どういう意味なのかを悟っていたのである。
そして、カイルにしては積極的なその誘いは、彼がシャロンの言動を許している証拠でもあったのだ。
それに気付いたシャロンは、少し動転しながらも、
「よ、よろしくてよ」
肯定の答えを返すことができた。
こうして彼女は、カイルの傘の下、彼の横に並んで帰ることになった。
カッ、カッ、カッ。
コッ、コッ、コッ。
雨が地を打つ音に交じって、二つの靴音が揃った一定のリズムを刻む。
「…と、私はそう言ってやりましたの」
「ははは…それは傑作ですねぇ」
二人は、他愛もないお喋りに興じながら、肩を並べて歩いていた。
もう、二人の間にギクシャクとした雰囲気はない。
だが、シャロンは会話を楽しみつつも、カイルの心遣いを感じ取っていた。
カイルの右手が持つ傘の位置は、ややシャロン寄りだった。
おかげで彼女の身体は、雨からすっぽりと守られている。
けれどもそれは、カイルの左肩が雨ざらしになることを意味していた。
彼は、そういう人なのだ。
まるで、自分の体を張って雨を防いでくれる、この傘のような。
そう思いながら、少しの間傘を見上げていたシャロン。
傘に当たる雨粒の数も、一頃と比べてすっかり少なくなっていた。
と、突然。
カイルは急に左手に傘を持ち替えると、すっとシャロンの前に出て右手を出し、その行く手を塞いだのだ。
ぼふっ。
咄嗟のことに反応できず、カイルの右肩に頭から突っ込むシャロン。
「あぁ、す、すみません…大丈夫ですか?」
恐縮して謝るカイル。
(だ、大丈夫じゃありませんわ…突然何を…!?)
みっともなく顔面からカイルに衝突した情けなさ。
そして、何の前触れもなく止まったカイルへの不満。
にわかに、ご機嫌が崩れそうになるシャロン。
しかし。
今日、傘を踏んで転んだのも、周りを注意して見なかったのが原因だった。
それに、あのカイルが意地悪でこんなことをする筈はあるまい。
そう思い直したシャロンは、カイルの行動の理由を知ろうとする。
…答えは、目の前にあっさり見つかった。
傘を見ていて気付かなかったが、彼女が次に足を踏み出そうとしていた所には、大きくて深い水溜まりがあった。
カイルは、それにはまってしまわないよう、身を挺して守ってくれたのだ。
「…大丈夫ですわ」
シャロンは平然とそう言って、水溜まりを左に避ける。
それに合わせるように、カイルと傘も再び歩き始めた。
…内心、すごくドキドキしていた。
彼は現に、自分を守ってくれたから。
それに、ぶつかった時、彼の背中にすがり付くような体勢になった。
僅かな間ではあったが、彼の体温と密着感を、その身体に感じることができたから――。
不意に、辺りが明るくなってきた。
「やれやれ…止みましたね」
カイルの言葉を聞いて目を上げると、雲が切れ、日が射し始めていた。
やはりこの雨は、一時的なものだったらしい。所謂「村雨」というやつだ。
だが、シャロンは――勝手だと思いつつも――今度は止んだ雨を恨めしく思った。
二人のランデブータイムが終わろうとしていることが分かったからだ。
その時。
「ふぅ…雨が上がると、傘は役にも立たない邪魔なもの、か…全くですねぇ…」
雨除けとしての役目を終えた長傘を見上げながら、独り言のように口にするカイル。
まるで朝方の自分の言い草を認めるかのような言葉に、シャロンはハッとした。
彼女は急いで、長傘を畳もうとするカイルの腕を取り、それを止めさせた。
さっきの自分のように、カイルが己を傘に喩えていることが分かったからだ。
役立たずじゃない。邪魔でもない。
彼の手を掴んだまま、シャロンは彼を見つめる。
「シャロンさん…?」
「…雨が止んでも、日傘という使い道がありましてよ」
それは、日傘を使う機会の多いお嬢様ならではの考え方だったかもしれない。
少なくとも、カイルの思い及ぶところではなかった。
加えてそれには、もう少し相合い傘を続けたいという、シャロンのおねだりも含まれていた。
彼は、暫く呆気に取られたようにシャロンを見ていたが、やがて、
「…それも、そうですね」
そう言って微笑むと、傘を畳むのを止め、雨が止んだ中、今までと同じように歩き始めた。
ただ、違うのは――
傘を持つカイルの腕に、もう一本の腕が組まれていたことだった。
そして、二人の顔がちょっぴり赤く染まっていたことも。
(お熱いねぇ、お二人さん…)
その光景を見て、物陰から呟く影が一つ。
マロン先生だった。
美術室での言い合いを見ていた先生は、自分の寮の二人が仲違いしてしまわないか、心配していたのだ。
ところが、今見掛けてみればこの有様である。
心配が杞憂に終わった安堵感と、逆にこんな様子を見せつけられた気持ちで、何とも胸中複雑ではある。
少し冷やかしてやろうかとも思ったが、
(雨降って地固まる、か…ま、仲良くやんなさいよ)
教鞭を執る者としての意地を覗かせるセリフと共に、先生はその場を離れた。
シャロンは、自分の部屋に戻っていた。
身体は、まだ彼の温もりを覚えている。
(我ながら…随分大胆なことをしてしまったものですわね…)
改めて赤面しながら、彼女は今日のことを思い返していた。
雨が降らなければ、こんなことは起きなかった。
シャロンは、雨雲の行方を見ようと、窓から外を眺める。
「あ…」
黒雲に代わって窓の外にあったのは、雨後に空を彩る美しい光景だった。
燦々と輝く夕陽と、それに照らされてできた「虹」という名の傘――。
直感的に思い浮かべたのは、彼のことだった。
その傘と、笑顔と、優しさと。
「ありがとう」
彼女は窓越しに、再び感謝の言葉を口にした。
彼に。そして、彼に近付かせてくれた、お天気の気まぐれに。
END