「冷えるな…全く」
両手をポケットに収め、口の端から白い息を漏らしながら、セリオスは帰り道を急いでいた。
図書室で独り、本を読みながら思索に耽っていたら、すっかり遅くなってしまった。
季節は冬のさなか、もう辺りは暗い。日が照らなくなると、途端に空気は冷たさを増す。
部屋に帰ったところで何があるでもないが、身体を冷気に晒すのは最小限にしたい。
それに、彼の心を奪う光景もない。中天に星はなく、どんよりとした雲が見えるのみ。
自然と、その歩みも速まる。
「ん…?」
だが、あと少しで寮に着こうかという時、セリオスは突如、その足を止めた。
木陰に、人影を見い出したからだ。
それが赤の他人であったなら、彼は速度を緩めることすらしなかっただろう。
しかし、それは確かに彼にとって、足を止めさせるだけの人だった。
腰まであろうかという綺麗なプラチナブロンド。透き通るような白い肌に映える碧眼。
身に纏っているのは見慣れたアカデミーの制服でも、その気品は全く損なわれていない。
「シャロン…か…」
そう、その全てに「雪」を思わせる人――。
美しい…けど、冷たい。
触れたい…けど、触れられない。
ずっと見ていたい…けど、すぐに消えてしまう。
それが、彼女に対する、セリオスの印象だった。
ここ最近、彼女との会話がぎこちないような気がすることが、その印象を更に強くしているのかもしれない。
だが、彼には、シャロンを放っておくことはできなかった。
こんな時に、制服しか着ていないなんて。寒いだろうに。
それに、気のせいか――表情が物憂げで、不安そうだ。
彼女は、こんなに小さくて、弱々しく見える人だっただろうか。
いつもの、優雅で、凛々しく、そして少し高飛車な態度は、どこにもないように見える。
いったい、何故――?
暫くシャロンの様子を眺めていたが、心配そうな顔立ちのまま、彼女は立ち去る気配を見せない。
…人待ち、だろうか。
ややあって、彼は静かに、彼女の立つ木陰へと歩を進めた。
「…寒くないのか?」
正面に回るのも不自然だと思い、シャロンの横からそっと声をかけた瞬間。
「きゃぁ!?」
シャロンは、口元を押さえ、完全に不意を突かれたというような表情で、セリオスの方に顔を向けた。
見開かれた瞳が、驚きの大きさを物語っている。
いつもの彼女からは想像もできないほど、無防備なしぐさだった。
だが、セリオスに、彼女を可愛らしいと思っている暇はなかった。
普段のシャロンからして、彼女の次のリアクションがどのようなものか、彼には読めていたからだ。
「…済まない、驚かせてしまったか。気付いているものと思っていた」
すぐにフォローの言葉を口にする。
とはいえこの言葉も、彼女のプライドを傷付けてしまったことの前には用を成さないかもしれない。
だが、シャロンは、彼が予想していたような怒った顔ではなく、むしろ安心したような表情を見せた。
「…失礼、私としたことが、つい、取り乱してしまいましたわ」
口調は、ノーブルないつも通りのシャロンだ。
セリオスは一先ず「彼女を驚かせてしまった」ということについては、安心した。
「今日は、遅くまで残られたのね」
今度はシャロンの方から、言葉が投げかけられる。
「ああ…図書室で本を読んでいた」
何気なく答えるセリオス。
だがその時、彼の頭の中には、彼女が何故ここにいるのかということに対してのひとつの推測が浮かんでいた。
その推測の裏付けを得られそうな質問の言葉を探すが、良いアイディアが出ない。
会話に不自然な間ができてしまったことが、何か言葉を出さなければ、という焦りを生む。
「それより…君は、何故ここに?」
口から出たのは、推測の裏付けどころか、ごく平凡なただの質問だった。…何を言っているのやら。
自分の表現力の乏しさは克服すべき課題だと思ってはいたが、まさかこんな所でも影響があろうとは…。
見た目には分からなくとも、セリオスは、自分が口にした言葉を悔いていた。
その最も大きな理由は、その言葉の後、シャロンの表情が少し曇った気がしたからなのだが。
「ただの散策ですわ…深い理由はなくてよ」
少し目をそらして、シャロンは問いに答えた。
それが、恐らく本当の答えではないことは、セリオスにも何となく感じ取れた。
そしてそれは、自分の推測があながち間違いではないかもしれないことを、彼に教えていた。
しかし、それはあくまで推測である。はっきりした確証があるわけではない。
「…そうか」
さしあたって簡単な合いの手を返しながら、セリオスはシャロンの様子を注視していた。
シャロンの身体が、少し震えているように見える。
この寒さである。少なくとも、制服で保温が効くような温度ではない。
生憎、セリオスも帰り道で、彼女に貸してあげられるような防寒着は持ち合わせていなかった。
だが、彼女の震えのわけは、それだけだろうか。
頭に浮かぶ推測は、それ以外の理由を指し示しているようでならなかった。
色々と考えていると、自分も少し緊張してきた。落ち着こうと、少し深い呼吸をする。
白い霞のような吐息が、二人の間に漂い、消えた。
それは、二人の間にある、えも言われぬ気まずさを表わしているようにも見える。
「…今日は、よく冷えるな」
その息を見て、セリオスは口にする。勿論、自分が寒いことはどうでもよかった。
二人が押し黙っている状況に耐えかねたのと、何よりシャロンのことを心配してのことである。
「あまり長く外にいると、風邪を引いてしまう…」
そこまで言って、彼は、次に口から出そうとした言葉を、全力で押し殺した。
うっかり、”早く暖かい部屋に帰った方がいい”などと言いかけた。
だが、自分の推測が当たっているなら、その言葉は――親切心からのものとはいえ――
彼女を突き放すものになりかねない。それは何としても避けなくてはならなかった。
しかし、シャロンは、少し動揺しているように見える。
悟られてしまったのか。それとも、焦らせているように感じてしまったのか。
冷静さの仮面の下、セリオスの心も大きく揺れていた。
「セリオス!」
突然、彼女が自分の名を呼んだ。
「…何か?」
セリオスは改めて、銀色の前髪の間から彼女の顔を見やる。
決意と不安の入り交じったような表情。
しかし、目線は、何かを訴えているかのようだった。
きっと彼女は、何か大切なことを言いたいに違いあるまい。
彼はシャロンの瞳を瞬きもせずに見詰め、彼女の真意を読み取ろうとする。
だが、暫しの静寂の間に、彼女の表情が、見る間に不安の色に塗りつぶされていくのが分かった。
そんな顔は君には似合わない。もっと、いつもの君のように、自信を持って。
そう、彼女を励ましてあげたかった。
でも、自分の口からは気の利いた言葉が出てこない。歯がゆい。
やがて、彼女は下を向き、
「…何でも、ありませんわ…気になさらないで」
と、寂しそうな表情に薄い自嘲気味の笑いを浮かべながら言った。
無論、何でもないわけはない。それは、彼女の虚ろな視線を見るまでもないことだった。
その刹那。
最初に見掛けた時の、不安げな表情。
声をかけた時の、いつもと違うリアクション。
見受けられた、体の震え。
今の、一連の言動。
そして、彼女の瞳が訴えかけていたこと――
それら全てが、セリオスの推測の中で一つに繋がった。
やはり、彼女がここにいたのは…!
「…ごめんなさい、私…これで、失礼しますわ…」
俯いたシャロンからその言葉が発せられたのと、セリオスが自分の推測の正しさを確信したのは、ほぼ同時だった。
すぐにセリオスは、立ち去ろうとする彼女の肩を掴む。ビクン、となるシャロンの身体。
手に伝わる冷たさに、彼は全てを悟った。
間違いない。
彼女は、自分に会うために、自分が帰って来るまでずっと待っていたのだ。
この寒空の下、どれほど待っただろう。
帰らない自分に、どれほど不安になっただろう。
そして、その気持ちに応えてあげられなかった自分に、どれほど寂しさを覚えただろう。
今まで済まない。温めてあげたい。身も心も。
その気持ちが、彼の身体を突き動かした。
肩に当てた手の反対側の腕は、何時の間にか、シャロンの身体を抱きすくめていた。
「!!」
時間で言えば、数秒程度の一瞬――
セリオスの身体の熱が、シャロンに伝わったかどうかという時。
思考停止から立ち直ったセリオスは、理性を取り戻し、すぐにその手を離した。
自分の思いもよらぬ行動に、流石のセリオスも動揺の色が隠せなかった。
勿論、それ以上にシャロンの方が心を乱されているであろう事は、顔を見なくても想像がつく。
「…す、済まない」
彼は、冷静さを取り戻し切らないまま、自分の行為を詫びた。
「君の気持ちも考えず、軽率だった…」
こんな謝罪の言葉が、自分の行動に対する言い訳にはならないことを、彼も重々承知していた。
あまりの申し訳なさに、真っ直ぐに彼女の顔を見ることができない。
だが、彼は、謝らずにはいられなかった。
「そうですわね」
シャロンの言葉が返って来る。
「…確かに、私の気持ちは伝わっていなかったようですわ」
「………」
セリオスにとって、言葉も出ないほどに痛すぎる言葉。
それでも、受け止めねばならない。
「…本当に、悪いと思っていますの?」
沈黙の後、シャロンが口を開く。
「勿論だ。済まないと思っている」
彼は即答した。それしか、答えられらなかった。
「でしたら…お詫びのしるしに、私の願いを一つ聞いてもらいますわ」
だが、そんな強気に聞こえる台詞とは裏腹に、彼女はうつむき加減で、おずおずとセリオスに近付いてきた。
「私の…私の願いは…その…先程の…」
いつも歯切れの良い筈の彼女の口は、消え入りそうな声で、しどろもどろに言葉を紡いだ。
プラチナブロンドの前髪に隠されたシャロンの表情は、暗さも手伝って読み取りにくい。
しかし、下を向いていても、透き通るような白い肌が紅色に染まっていることは分かる。
瞬間、セリオスは、彼女の「願い」を理解した。
そこから先の言葉を彼女に言わせるほど、野暮ではないつもりだ。
彼女の「願い」は、先程の彼女の「気持ち」を満たしてあげること――。
そして彼は、シャロンの意思に添い――そしてそれは、彼自身の願いでもあったのだが――
腕の中に再び、彼女を迎え入れた。
さして大柄でもないセリオスの手に、やすやすと収まってしまうシャロンのか細い身体。
抱き寄せられ、一瞬、はっとした表情を見せたシャロンだったが、やがて、その顔に理解の色が広がる。
制服越しに、彼女の早い心音が伝わってくるのが感じ取れた。
「気が済むまで、こうしているといい…」
その言葉にシャロンは頷き、自分の胸に顔をうずめてくる。
そんな彼女を、セリオスはしっかりと抱き留めておいた。
力以外の、精一杯の想いを込めて――。
やがて、彼女が顔を上げた。
「でも…驚きましたわ。思ったより強引ですのね、セリオスって…」
セリオスの腕の中、潤んだ瞳で彼を見上げながら口にするシャロン。
「…君のせいだ」
珍しく、悪戯っぽい答えを返すことができた。
「ふふ…」
彼女からいつになく無邪気な笑みが漏れる。
知らず、彼も、微笑んていた。
「あ…」
シャロンが上げた微かな感嘆の声に顔を上げると、白く輝くものが天から舞い下りてくるのが見えた。
「雪…か…」
セリオスは、空から降る雪に、腕の中の人を重ね合わせた。
美しく、繊細で、そして触れると溶けてしまいそうな人――。
だが、もう二度と彼女を離したくない。きっと、彼女も同じ気持ちだろう。
降り積もれ、今宵の雪よ。二人の想いを、柔らかく包んでくれ。
そう願いながら、彼は空を見上げた。
そんな二人を祝福するかのように、雪は、いつまでも静かに舞い続けていた。
END