Clockwork

「ねぇ〜カイルぅ〜、お願いがあるんだけどぉ…」

彼が、ドアを開けて浴びた第一声がこれであった。

放課後、自分が教官に呼び出しを食らったとの報をレオンから受け、はて自分は何かしでかしたかと考えるも
思い当たる節はなく、とはいえ先生を放置するなどという無礼を働くわけにも行かず、少々思案顔で教官室まで足を運び、
ドアをノックして入室した途端に飛んできたのが、教官室という部屋には不似合いな先程の甘え声である。

「ど…どうしましたいきなり?」
取り敢えずは自分が粗相をしたわけではなさそうだ、という点で一先ずの安堵を覚えるが、
同時に妙な不安が首をもたげ、ドアを閉めつつカイルは思わず訊ねていた。
カイルの目の前にいるのは、小柄で華奢な身体にフリルの付いた服を着ている、帽子にツインテールの
少女――否、これがこのアカデミーの一筋縄で行かぬ所である――この部屋の主・マロン先生。
あどけない顔立ちとは裏腹に魔法使いとしての腕前は超一流の彼女に、大抵の生徒は騙される。
その代償は勿論、不合格時の強烈なお仕置きという形で支払わされることになるわけだが。
そんな中、カイルは先生の隠された本質を当初から見抜いていた数少ない人間の一人である。

さて、立場が上の者が下の者に「お願い」などという言葉を口にする時というのは、大概にして厄介事を頼む時である。
そして、今回の次第もその例に漏れないものであった。

マロン先生の説明によれば、アカデミーの中で強力な瘴気が発生している場所が見つかったとのことだった。
場所は時計塔――校舎の上方に位置し、生徒達に時刻を知らせるアカデミーのシンボルマーク的存在――その内部。
ここはマロンの管轄で、時刻の調整などは教官室から制御・操作できる仕組みになっているらしい。
ところが最近、時計の時刻が狂うトラブルが多発するようになり、調べてみた結果、時計台と内部の機関室に
何らかの理由で瘴気が発生して、時計の制御を妨害している疑いが強くなったのだという。
本来なら先生自ら瘴気を消し去るために出向きたい所だが、多忙なスケジュールに阻まれてその時間が取れないそうだ。
更に、先日の教員会議でその時計塔へのルートをトーナメントに使用してはどうかという案が出された、とのこと。
そうなると当然、瘴気の件は露見してしまう。
自らの被る管理不行届きの罰則は自業自得としても、生徒達を危険に晒すわけにはいかない。
進退窮まった結果、一番信頼できそうな生徒であるカイルに極秘裏に瘴気の除去を「お願い」したい、というわけである。

「…ふぅ」
一通りの説明を聞いて、カイルは自分が想像していた以上に事が厄介であることに小さく溜息を吐いた。
瘴気の源を消し去り、環境を浄化する…いわば露払い。
だが、そうは言ってもその瘴気に対抗する賢者を育成する学校のヒヨコでしかない自分に、それを首尾よく行うことができるのか?
加えて、入学してこの方見たことがない「あの」マロン先生の低姿勢は、嫌が上にもカイルに警戒感を抱かせる。
瞳をウルウルさせながら上目遣いでこちらを見るという、如何にも憐憫を誘うその表情も間違いなく、演技。
何かが、ある。

とはいえ、カイルという男は極度のお人好しでもあった。
どんなに擬態していようと、突き詰めればマロン先生も一人の女性…その先生が困っているのを見捨てるわけには行かない。
しかも、一介の生徒でしかない自分を頼りにしてくれるというのだから、ここは男として甲斐性を見せねばなるまい。

「分かりました。僕で役に立つならば喜んで」
結局、先生の望み通りのリアクションに帰結してしまうのであった。
つまりは、そういう男なのである。

「ホント!?助かるよ〜!…じゃあ、ハイ、これ」
一転してご機嫌な表情になった先生は、部屋の隅から何やら道具類の入ったらしき袋を引っ張り出して、カイルに渡した。

「?…これが、瘴気を消すための道具ですか?」
カイルのその問いに、先生は大きく首肯する。
手渡された袋は厚手ではあるが、そう大きくはない。
時計塔内部の機関室に手を入れるとなると何らかの大掛かりな道具でも使うのかと思っていた彼は
少々拍子抜けしたが、そういうものなのだろうと納得して袋を肩に掛けた。

「頼んだよ〜」
にこやかな笑顔に見送られて教官室を退出するカイル。
そして、扉が閉じた途端…彼女の表情は真剣なものに変わる。
その瞳には、幾多のモニターの輝点が映し出されていた――。

黄昏時のアカデミーは、昼間とはまた違った趣がある。
エントランスホールに飾られた古の賢者達を象った色とりどりのステンドグラスを通る光も、全てが金色を纏う。
まるで辺りが灼熱の炎に焦がされるような夕焼けの中、カイルは気配を殺してホールの陰に身を潜めていた。
既にホールに人気はないが、マロン先生が情報の秘匿を望んでいる以上、一応隠密で行動した方が良いだろう、との
カイルの判断からである。

頃や良し。
彼は朱に染まったホール中央付近の壁際、遥か上方に丁度機関室へと登る梯子がある位置に付けた。
そのまま、足元に魔力を集中する。

「ハッ!」
そして、爪先に魔力を乗せて跳躍した彼の手は見事、十数メートル上の梯子の段を掴んでいた。
只者で出来る芸当ではない――彼の魔力と身体能力の高さ、そして先生からの依頼を受ける理由が分かろうというものだ。

「よいしょ…!?」
床にある扉を押し開けて機関室へと乗り込んだ途端、カイルは厭な空気に顔を顰めた。
あまり人が立ち入らない場所だから、多少の埃や黴臭さはあろう。
だが、そういったものとは全く異なる、身体全体を蝕むようなザラついた感覚――瘴気。
彼は手早く魔力のフィールドで身体を包み込み、瘴気との接触を遮断する。
だが、瘴気は想像以上に強力で、全身の魔力を使って跳ね返すのがやっとという状態である。
手強いな、と思っていたその時…カイルは、前方に瘴気が渦を巻くように集まっていくのを感じた。
やがて、ぼんやりとしていた瘴気の塊は、まるで人のような形を構成していく。

「成る程…これは、誰彼と連れて来られるものではありませんね」
現界した、人型でありながらヒトではないソレを見て、カイルは独り呟いた。
人間の骨格を忠実に模し、且つ人間の肉体を全く纏っていない怪物…スケルトン。
こんなものを目にした日には、クラスの女子などは大半が卒倒してしまうに違いあるまい。

(流石にこれぐらいじゃビビらないか…)

しかし、瘴気で構成された怪物を攻撃する手段があるのだろうか。
魔力の殆どは身体を瘴気から守るのに使っている以上、攻撃に割ける程の余裕はない。
その時、カイルは先生から瘴気を消すためにと道具を渡されたのを思い出し、肩に掛けていた袋を開けてみた。
そして。

「な…何ですかこれは!?」
中身に仰天した。
入っていたのは、短剣が数本と手斧、聖水が入った瓶に十字架、そして…鞭。
いずれも、瘴気を消し去るための道具かと問われれば、疑問符を付けざるを得ない。

だが。
有る筈のない眼球の部分に不気味な光を湛えた骸骨の化物が目前に迫っていた。
咄嗟に、手にしていた鞭を振るう。
ビシィッ、という鋭い音と共に鞭はしなりながらスケルトンの肋骨から腰骨の辺りを直撃し、その五体をバラバラにした。
脆くも砕けた骨は焼け落ち、瘴気の塊は見る間に霧散していく。

「…こういうこと、ですか」
息を吐き、手にした鞭を眺めながら、カイルは口にする。
魔法使いというよりは、聖職者といった趣である。
しかし、似たような瘴気の塊がそこここで生じているのを目にした彼は、直感的に走り出していた。
急がねばならない。

(やっぱ対応が早いねぇ…基が違うからかなぁ…)

幽暗なる機関室を駆けるカイル。
立ち塞がる瘴気に満ちた髑髏を片っ端から打ち砕きながら。
階段の踊り場にいたスケルトンは自らの骨を投擲してきたが、鞭を振り回してそれを弾く。
駆け抜けざまに鞭の先端を一閃、魔物は真っ二つになって消え去った。

階段を登りきった瞬間、襲い来る殺気を感じて踊り場に屈み込む。
頭の上を掠めて飛んできたのは、新たな怪物の形を取った瘴気の塊だった。
毒蛇の頭髪と石化の魔眼を持つというメデューサの生首がウヨウヨと漂っているのだ。
瘴気が具現化したデッドコピーだけに石化能力はないようだが、胸の悪くなる光景に違いはない。
しかもここから先、何を間違ったのか足場が一部欠落している部分がある――無論、落ちたら無事では済むまい。

「く…随分な無茶を頼まれたものですね」
体勢を立て直しながらこぼすカイルだが、泣き言を言っても始まらないことは百も承知。
小煩い蛇神の化身の軌道を読み…

「そこ!」
袋の中にあった短剣を投げ付ける。
切っ先は見事眉間を串刺しにし、怪物は姿同様に醜い悲鳴を上げて消滅した。
カラン、と乾いた音を立てて落ちた短剣には、血の痕跡も残っていない…即ち、この化物共は瘴気で生み出された幻影。
それを拾いながら、カイルは奇妙な感覚に襲われていた。
初めて扱う道具の筈なのに、小慣れている気がする。
どういう事だろうか。

(ほほぅ、そこであれを使うか…見切りも完璧だねぇ。お、今度は…)

次々と蛇行しながら襲い来るメデューサヘッドは、軌道を見切れば怖くない。
あるものは鞭で、またあるものはダガーで一つ残らず消し去っていく。
魔物が消滅する度、そこには瘴気の華が咲く。
それは、この世で最も下劣な華――生命の炎が消える時に咲いて散る血の薔薇にも劣る――。

薄れない瘴気。
それが、今後も何があるか分からないという意味だということを知っている彼は、慎重に歩を進めていく。
その時だった。

「…!?」
地響きと揺れを感じる。
振り向いたカイルが見たものは…端から崩れていく、現在乗っている足場だった。
拙い――!!
命の危険を感じると同時に、彼の身体は全速力で駆け出していた。
だが、崩落のスピードは明らかに彼の歩幅より大きい…このままでは追い付かれるのは目に見えている。
目に入ったのは、時計を回す動力源の一つと思しき、巨大な鎖。

「ハッ!!」
彼はそれに向かって、右手の鞭を伸ばした。
鞭は彼の意思を伝えるかの如く、鎖の輪に巻き付く。
そのまま、蔦を使って移動するターザンのように、鞭を使って振り子のように反動を付ける。
間一髪、カイルの身はその鎖の輪の部分に収まり、崩壊する足場と運命を共にすることは避けられた。

しかし、だ。
これで文字通り、退路を絶たれてしまった。
こんな命をも奪いかねないギミックが山積みであろうこの場所に、カイルは独り取り残されてしまったのだ。
加えて、今の足場の崩れた音である。
崩落は自分の所為ではないにしろ、アカデミーの校舎が揺れるほどの衝撃と音があった筈だ。
先生との守秘義務は果たせないかもしれない。
尤も、守秘義務云々以前に、誰か助けて欲しいという気分ではあったが。

(うーん、分かっててもドキドキするんだよねぇこの仕掛け…)

そんなカイルには、休む間すら与えられない。
動力を伝えるベルト代わりのチェーンは、徐々にではあるが、動力の向きを変える歯車に近付きつつあった。
このまま鎖の合間に収まっていたのでは、歯車に押し潰されてミンチの出来上がりだ。

無論、それを黙って見ている彼ではない。
体勢は整っている…頃合いを見計らい、ターンテーブルのように回る大きな歯車に飛び移った。
が。

「クッ!」
またも、瘴気のスケルトンが行く手を阻む。
飛び退って一撃をくれてやるが、瘴気の濃度が高くなったからか、右肩から先を吹き飛ばされても動き回っている。
流石に頭蓋を叩き割れば消滅してくれたが、不安定な足場での戦闘は得策ではない。

上を眺めるカイル。
右上方は、朽ちてはいるが足場があり、階段もある。
一方の左は、忙しく動き回るギアとスピンドルしか見えない。

(さて、どっちに行くかなぁ?)

「ハァ…なんで僕はこんな曲芸紛いのことを…」
巨大な歯車の歯の上でバランスを取りながら、カイルは今更のように嘆いた。
そう、彼が選んだのは左のルート…つくづく、茨の道を行く男である。
歯車から金網に足を掛け、今度は上方の回転軸に乗って、また歯車へ。
だが、このルートは恐らく正解だった、と身体は理解していた。
証拠とばかりに、乗った歯車の上から、右のルートになる筈だった足場へ、持っていた手斧を投げつける。
斧は放物線を描き、それに連なって――何かが砕ける音と、断末魔が3つ。

(確実なルートを選ぶねぇ…さぁ、次はいよいよ…)

危険なサーカスは、上方に安定した鉄骨と思しき場所が見つかったことで、一先ずの終わりを見た。
突き出た回転軸を足掛かりに、一気にそこまで駆け上がる。

「これは…?」
足場に登ったカイルは、奇妙極まるモノを目にした。
この時計台の機関室には従来存在する筈もない大きな鎧兜が、人型を保って鎮座しているのだ。
巨人の屍骸のようにも思えた甲冑…空っぽの筈であるフェイスガードの奥がボウッ、という紅の魔光を帯びた時…
彼は殺気を感じて身を伏せた。
唸りを上げて回転する刃が頭上の空気を切り裂いていく。
それはまるでブーメランのように投げた鎧の腕部装甲の元へ戻り、無機質にその手に収まった。
何時の日だったか、図書館の図鑑で見た情報が彼の脳内の書庫から引き出される。
斧と盾で武装した甲冑のモンスター…アックスアーマー。

だが、同時にカイルの頭には、一つの疑念が生じていた。
今までの魔物達は瘴気によって創り出された、いわば下等な怪物であった。
だが、この大鎧は他の怪物とは原理が異なる。
つまり、最初から瘴気で『創られたもの』ではなく、中が空洞の装甲に瘴気が『乗り移って操られたもの』である。
それが何を意味しているのか…分からない彼ではない。

しかし、それを考えるのは後回しだ。
何しろ、彼は現在、場所の上では完全に対峙する敵にアドバンテージを握られているのだ。
自分がこの鉄骨にいる限り投擲される斧の射程距離からは逃れられない上、
飛び道具の撃ち合いも盾を持った向こうに対して手札が頼りないこちらには分が悪い。
鞭の射程まで近付ければ良いが、相手のハンドアックスは基本的に接近戦用の武器だ。
至近まで間合いを詰められると逆に取り回しの難しい鞭は不利になる。
そして、どんな攻撃であろうと一撃でも貰えば、ほぼ間違いなく歯車とスピンドルの奈落へ突き落とされよう。

(さぁ、どう攻略するかな?)

アーマーが斧を持った右手を大きく後方に振りかぶり、アンダースローの要領で投げ付けてきた。
鈍重な動きとは裏腹に、刃は烈風の如く轟音と共にカイルの足元を襲う。
足を刈り取られるより早く跳躍していた彼は、その勢いを使って短剣を上空から数本連射する。
だが、短剣は重厚な盾に弾かれ、バラバラと階下に落下していく。
着地と同時に再び跳び、足元を還る斧を躱しながら、彼は牽制の効果は薄いと判断した。
一か八か。

「そこッ!!」
甲冑が再び斧の投擲動作に入ったその瞬間、彼は素早く間合いを詰め、斧を投げようとするその手を鞭で狙い打った。
弾け飛ぶ手斧。
そのまま返す鞭を大きく右に薙ぎ払い、アーマーに一撃を呉れてやる。
だが、倒れない。
鎧の化物は、左腕の盾を構え、眼前のカイルにタックルを仕掛けてきた。

(!!)

紙一重。
突進する鋼鉄の塊を真逆の視界から捉えながら、脳裏に掠めたのはその言葉だった。
そのまま、上空からガラ空きの背中に鞭を振り下ろす。
体当たりを跳び越しつつの一閃は、鎧の継ぎ目の部分を確実に捉え、中の瘴気の塊を分断した。
人型を保っていた甲冑は、宿主を失ってガラガラと崩れ、機械室の下へと燃え落ちていく。

「………」
最早鉄屑でしかない手甲。
先程まで強敵であったその残骸を見詰めながら、カイルはえもいわれぬ複雑な感情を身に纏っていた。

使命を為している…という達成感。
でも一歩間違えれば自分が…という恐怖。
負の感情に動かされた成れの果て…という哀れみ。
そして、記憶の彼方から何か呼び起こされるような…既視感。

「…行きましょう」
それらを振り払うように、カイルは呟き、鋼の亡骸に背を向ける。
この先に瘴気の元凶があることを――何故だか分からないが――身体は解っていた。

(あぁ、冷や冷やした…でも見事な判断だったねぇ)

鉄骨の足場からは、大きな螺旋階段があった。
急いで駆け上がりたいところだが、こういう場所こそ気を付けて進まねばならない。
今までを顧みるに、どんな罠や敵が待っているかも分からないのだ。
階段が途中から崩壊していくという展開だけは無しにして欲しい…と思いつつ、
既に手の一部のようになっている鞭を握り締め、殺気を探りながら一段一段を踏みしめて登る。
とはいえ、瘴気の濃度はいよいよ増し、身に張った魔力のバリアは自分の魔力量からしてそう長くは保たない筈。
自然と、足も速まる…まるで階段の上へと引き寄せられるように。

「…いよいよ、ですか」
深い息を吐きながら、カイルは引き締まった表情で呟く。
階段には魔物も罠もなかった…しかし、この強烈な瘴気と殺気はどうだ。
その元凶があると思われるのは、目の前のドアの向こう。
袋の中をチェック…短剣1本、聖水、十字架。
少々心許ないが、無いよりはましだろう。

(さぁ、ラスボスですよー…果たしてどんな顔してご対面するかねぇ)

バン、とドアを開け放つ。
途端に肌に感じる、清しい空気…屋外へと出たことは、それだけで分かった。
目に飛び込んできたのは、まさに地平線の彼方へ沈まんとする太陽、薄暗さの中明かりが点き始めた家々、
それに夜の帳と共に眠りに就こうとする大自然。
それらが眼下に一望できる場所…そう、ここは時計塔の頂上部分。

そして。
清涼な空気を澱ませる、全ての元凶がそこにいた。
…いたのだが。

「…な!?」
それは、カイルにとってまさに悪夢の具現であった。
濛々と立ち込める瘴気を身から放つモノの姿は、自分の顔に瓜二つだったのだ。
ここに至り、カイルの疑念は最早確信に変わっていた。
間違いなく、この遭遇こそが、目的。
だとしたら――

≪…≫

カイルそっくりの機械人形は、感情の篭らない目でこちらを見据えると、右手を頭上に構える。
濃い瘴気が瞬間的に集まり、人差し指と親指の間に鋭利な何かが創り出される。
そのまま右手は振り下ろされ…瘴気で出来たダガーが恐ろしいスピードで彼目掛けて襲い掛かってきた。
迫る刃を紙一重で躱す。
後ろで鈍く壁材の一部が削れた音がした。

(うわ、ギリギリ…大丈夫かな…)

彼は、逃げ出したかった。
人は誰でも、心の奥底に開かずの扉を持っている。
畏怖し、嫌悪し、封印した過去…幾星霜を経ようとも受け入れ難いモノが入ったパンドラの箱を。
その中身が、そっくりそのまま、眼前にあるのだ。
違う、アレは既に自分ではない、アレは既に存在しない、するはずが無い…そう叫びたかった。
だが、逃げようにも、この時計台は既に瘴気の結界で封じられ、出ることは不可能になっていた。
脱出の方法はただ一つ…眼前のアレを打ち倒すことのみ。

身から瘴気を撒き散らしながら、人ならぬ迅さで時計台を跳び回る機械人形。
身軽に天井へと身を移すと、そこからダガーを連射してくる。
床の破砕音を3つ聞きながら左に避け、彼は濃くなる瘴気に顔を顰める。
身を守るための魔力は残り僅か…短期決戦に持ち込まないと、拙い。
だが、上方への攻撃手段に乏しいこちらにとって、地形的イニシアチブを取られているのは致命的だ。
空気を裂く音に反応し、半歩間合いを下げる。
眼前で、瘴気の刃が地面を穿つ。
次は…と思った瞬間――瘴気と殺気の塊を頭上に感じた。
鞭では無理な間合いに入られたことを悔やみつつ、咄嗟に気配に左足を振り上げる。
踵に重みを感じると同時に、胸板へ強烈な衝撃――瘴気の込められた飛び蹴り。
吹き飛ばされて転げ回った挙げ句、皮肉にも瘴気の壁にぶつかって止まる自分の身体。
もし瘴気の結界がなければ、時計塔から投げ出されていただろう。

(あわわ…カイルやばいよぅ)

自分のそんな無様とは裏腹に、機械人形は蹴りで変形した脇腹など気に留めず、次なる攻撃シークェンスに入ろうとしている。
その無表情さに、カイルは何故か腹が立った。
それは模されたことへの怒りか、模された自分はこうではないという抗議か、はたまた別の感情か。

最初と同じように、人形が瘴気のダガーを現界させた瞬間。
カイルはすぐ、道具袋から十字架を取り出し、投げた。
聖なる力が込められたクロスは、瘴気のダガーを一瞬にして消滅させる。
そして、投擲と同時に間合いを詰めていたカイルは、無謀な賭けに出た。
自分に残っている魔力を、右手の鞭に込めたのだ。
瘴気に身を蝕まれることも気にせず、その鞭を自分の顔そっくりな機械人形に伸ばすカイル。
その意思を反映するように、鞭は機械人形に絡み付き、自由を奪う。

「今ッ!」
カイルは袋から最後の道具・聖水を取り出すと、地面に叩き付けた。
身動きが取れない機械人形は、聖なる水の噴き上げる浄化の炎に包まれる。
そして、ブーメランのように返って来た十字架は、機械人形の心臓部を貫通し…

バチッ!!

大きな火花と同時に、機械人形はその動きを止めた。
その沈黙は、部屋を包む瘴気の消滅をも意味していた――結界は消え失せ、魔力のバリア無しでも行動できる。

(おおっ!さっすがカイル!ほぼ完璧にクリアーなのだ!)

「………」
だが、まだだ。
彼は残った短剣を手に、用心深く鞭に絡まって倒れ伏した機械人形に近づく。
破壊されても動き続ける機械のような相手は、完全に沈黙させるまで決して油断は出来ない。
どこで覚えたかは知らないが、身体の中の経験則が彼にそう語りかけてくる。
機械人形の制御系を切断して完全に沈黙させんと、手に持った短剣の刃を滑らせようとした瞬間…
その必要がないことが感覚的に分かった。

スパークが漂う機械人形は、無表情なまま、

≪アア…ワルイユメヲミテイタヨウダ≫

こんなセリフを棒読みで繰り返していたのである。

「全く、それはこっちのセリフですよ…」
すっかり暗くなった時計塔の上、吹き抜ける風と脱力感の中、カイルは大きく溜息を吐いた。

「…で、これは一体どういうことなんですか?」

彼が、ドアを開けて投げ付けた第一声がこれであった。

同時に、己を模し、己が壊した機械人形の残骸をドサリ、と投げ出す。
あの後、体力と魔力の回復を待ってから、闇に紛れて時計塔を後にしたカイル。
物証としてこの機械人形を背負い、向かった先は言わずと知れた最初の教官室。

「ん〜?これね、名前は『メガネはる』っていうの。人工知能と軽量フレームで生徒さんの代わりを…」

「そんなことを聞いてるんじゃないのは分かってるでしょう」
先生が機械人形のスペックを答えようとするのを制し、カイルは静かに言った。
その静穏な声の裏に、沸々と煮え滾る何かがあることは、場の空気が読める者なら誰でも理解できよう。
温厚で知られるカイルだが、己を利用しようとする偽善者は、相手が誰であろうと許すことはない。
自分の命、そして自分の過去さえも邪険に扱われたと感じる今、彼がその感情を持ったとしても不思議はないだろう。

「あのねぇ」
だが、当のマロンはまぁ落ち着けよ少年、みたいな目線で彼の白眼視をいなす。
そして、

「君、全然気付いてなかったみたいだけど、あの時計塔の中には瘴気なんて全然発生してないよ」
ケロリとした表情でとんでもないことを言ってのけた。

「へぇ!?で、でも確かに瘴気は感じましたし、瘴気で出来たモンスターも…」
瘴気が発生したという前提を根底からひっくり返される爆弾発言を投入されたカイルは狼狽して言葉を連ねるが…。

「あれは、魔力で作った擬似的な瘴気の幻覚。本物の瘴気はあんなもんじゃないってば」
あっさり。

「よーく考えてごらん?瘴気を抑える賢者を育成するアカデミーで瘴気が発生したら、それこそ灯台下暗しじゃない。
そんな学校の名誉にも関わろうかって事に、一介の生徒の出番があると思う?」

「う…そ、それは…」
如何にも真っ当な理論に、カイルはぐうの音も出ない。

「大体、君は人が良さ過ぎるんだよ。だからこうやって、君の奮闘を別室で見て楽しむような真似をされるの」
モニターには、何処で録画されたのか、死に物狂いで幻覚相手に格闘する、蒼髪の青年の姿。

「そ、そんなぁ…」
散々な言われっぷりだが、全て本当のことだからどうしようもない。
それに、自分は擬似的な瘴気を本物の瘴気と見分けられないほどの未熟者であることを露呈してしまったのだ。
幻を相手に必死になってた自分が情けなくなり、カイルは頭を抱えてへたり込んだ。

「でもカイル、瘴気に対する対処法はキチンと出来てたよ。戦ってる姿もカッコ良かったし、合格点をあげるのだ」
落ち込むカイルに、背中をポンポンと叩きながら申し訳程度の慰めの言葉をかけるマロン。
そして。

「…ゴメンね」
耳元で、マロンとは思えぬ声色で囁かれた謝罪の言葉に、彼は思わず先生の瞳を見ていた。

「嘘吐いて、カイルを試したりしちゃったけど、これは君が今後もアカデミーで平穏に暮らせるようにするためだったの。
けど、それがもし君を傷付けちゃったなら…ゴメン」

マロンのその独白に、カイルはどう返答したものか分かりかねた。
試された?魔力を?身体能力を?対応力を?それとも、他の何か?
僕が、平穏に暮らせるため?平穏に暮らせない何かが僕の過去に?
それを知る為に、昔の己を模したあの機械人形と僕を対峙させた?

分からない…けど、これだけは分かる。
自分の中には、自分の知らない何かが内包されている。
今日の出来事は、それを知っている先生なりの、自分への思いやりなのだ。
だから、たとえ嵌められたとしても、先生を責めようという気にはどうしてもなれない。

「いえ…僕も、自分の未熟を痛感させられました。また明日から修練に励みます」
結局、先生の望み通りのリアクションに帰結してしまうのであった。
つまりは、そういう男なのである。

「うむ、よろしい。じゃ、この子の修理代は不問にしといてあげる」

「そこまでは面倒見切れませんよ…」
一転、いつもの先生に戻るマロンに、やれやれ、とかぶりを振るカイル。
こうして、彼の慌ただしい一日は、終わりを告げた。

≪該当学生に関する報告書≫
≪…魔力抑制時の身体能力は魔力由来以外の能力値の高さを裏付けるものである……該当学生の来歴に何らかの情報があると推測されるが今回はその裏付けを取るには至らず……懸案事項である過剰魔力による身体的・精神的暴走も確認できず……引き続き監視・測定を行うのが最善と判断する…以上≫
 

『…これでよし、と。…全く、本人に悪気なんか一切無いのに監視だ何だってうるさいんだから、もぅ。
…でも、過去のオーパーツを身に背負ってるんだから仕方ないよね。…私が、絶対守ってあげる…君の平安を。
ねぇ、私の大事なカイル』

END