眠れないのです。
気持ちを落ち着かせるホットミルクを飲んでみても。
柔らかいベッドと暖かい布団に包まっても。
寝床の中で何匹も羊を数えてみても。
でも。
原因は、分かっているんです。
あ、申し遅れました。私はリエルと申します。
アカデミーの商業科に所属しています。
光栄にも、学生の身で学校の購買部という重責を任されています。
「おっはよー。…あれ?リエルちゃん疲れてる?」
今朝、朝食を食べそびれたとパンを買いに来たルキアさんに、そんなことを言われました。
私としては、顔に出していたつもりはなかったのですが…。
ぷに。
ひゃん!?
…失礼、不意だったので、間抜けな声が出てしまいました。
私の顔を覗き込んでいた彼女が急に、カウンター越しに私の頬っぺたを突っついたのです。
ルキアさんは気さくなので、こういうスキンシップを平気でしてきます。
流石に、胸を触られた時は泣きそうになりましたが…。
「うーん、やっぱお肌荒れてるよ。リエルちゃん寝不足?」
…そして、彼女は鋭いのです。
だから、ちょっと疲れちゃってて…と、普遍的な受け答えをしておきます。
彼女は真っ直ぐな子だから、変な勘繰りはしてきません。
「あんまり根詰めると身体に毒だよー。頑張り過ぎないように頑張ってね」
何だか矛盾したような励ましと共に、彼女は走って去っていきました。
背中に、有難う御座いました、と声を掛けます。
商品を買ってくれたことへの感謝に、私を心配してくれたことへの感謝を上乗せして。
でも。
原因は、分かっているんです。
確かに、購買部は忙しい場所です。
特にお昼の休憩時間、購買部は戦場になります。
昼食、勉強道具、アクセサリに最近は冒険依頼のチケットまで、あらゆるものが飛ぶように売れていきます。
毎日なので慣れましたが、目が回るような忙しさです。
こういう時こそ、単純なミスをしないように気を付けなくてはなりません。
幸い、今日は普段より人が少なめでした。
それが、油断だったのでしょう。
「お〜い、リエリエ」
私をこんな風に呼ぶのは、アカデミー広しといえどもお一人だけでしょう。
革のボディスーツに西の地方の訛り…タイガさんです。
先程、よくお似合いの水晶のペンダントをお買い上げ頂いたのですが…。
「これ、お釣り間違ぅてへんか?」
そう言って、彼はお渡しした小銭を掌に載せて見せました。
ペンダントは、100マジカ。
彼は500マジカを出して下さったので、100マジカの硬貨を4枚お渡しした筈でした。
ところが、何を間違ったのか、彼の手には200マジカの硬貨が同じ枚数置かれています。
つまりは、私の完全なケアレスミスです。
自分が少しおっちょこちょいだとは自覚していましたが、こんな凡ミスをしでかしてしまうなんて。
即座に謝り、硬貨を取り替えようとします。
「あら」
チャリンチャリン。
動転していたせいか、硬貨を2枚床に落としてしまいました。
これも、購買部の者としてあらざるべき失態です。
謝罪の言葉を繰り返す私。
何て、みっともない…。
「ハハ、慌てんでええがな。200マジカ2枚やから、丁度正しいお釣りの400マジカやろ。
ええってええって。人間誰しも、ミスはあるもんや」
けど、タイガさんはそんな私を見て、破顔一笑しながらフォローして下さいました。
「でも気ぃ付けぇや。他のヤツやったら、ネコババされとるかもしれへんで?
500マジカが800マジカになって返って来る購買部じゃ、やっとられんやろ?」
そうなのです。
購買部で扱う金銭は、貴重なアカデミーの資産。
それを託されている以上、一銭たりとも無駄には出来ません。
今回はタイガさんのご厚意で事無きを得ましたが、それは結果論で、実質的には損失を出したも同然です。
情けない…。
「…リエリエ。お前、寝てへんのとちゃうか?」
彼にも、朝のルキアさんと同じようなことを指摘されました。
曖昧に濁そうとしますが、彼は逃してくれません。
「よう見たら目の下に隈が出来とるわ。美人が台無しやで?何か悩みでもあるんかいな?
…そう、恋の病とか、なんてな」
目尻を下げながら、そんなことを言ってきます。
雰囲気に飲まれる前に現実に戻ると、レジ前にタイガさんを先頭に結構な列が出来ていました。
慌てて、後ろが詰まってるから、と促します。
流石に彼も、他人を待たせて私を口説いてるようには見られたくなかったようで、軽く手を挙げて退散します。
こうして私は、どうにか彼の慧眼から逃れることが出来ました。
その後、出来た長い列と格闘してる間は、さっきのようなミスを繰り返さないよう気をつけました。
だから、疲れはしましたけど、ボーッとすることはありませんでした。
でも。
原因は、分かっているんです。
日も暮れかかる頃になりました。
購買部も、もう閉店です。
ですが、ここの仕事はまだ終わりません。
売上高の帳簿合わせ、明日の為の商品の整理、売り場を綺麗に保つ清掃…などなど。
寧ろこれからが本番と言って良いぐらいです。
でも。
やはり、寝不足というのは堪えていたのでしょうか?
売り上げの金額が、帳簿と合わなくなっていました。
焦ってもう一度お金を数え直してみますが、記録された金額に足りていません。
今日は妙に疲れた一日でしたが、最後の最後にまた疲れることが起こってしまうなんて。
お金を貰い忘れたのか、あるいは――信じたくはないけど――心無い人が…。
どちらにせよ、困りました…。
「お疲れ様です」
不意に、優しい声が耳に触れました。
ハッとして目をノートから上げると、長く蒼い髪の奥にある、レンズ越しの優しい視線にぶつかりました。
いつの間にか、目の前に男の人が立っていたんです。
カイルさん。
購買部の常連さんの一人です。
お料理が得意とかで、たまに食材談義に花を咲かすこともあります。
でも、他の生徒さん達が滅多に通らない時間にこんな所にいるのには、少し動転してしまいました。
「あぁ、ごめんなさい。邪魔するつもりはなかったんですよ。…ただ、何か、お困りのように見えたので」
慌てて詫びながらも、私を気遣ってくれる彼。
これで三人目…私って、やっぱり顔に出やすいんですかね…。
勿論、内心ではとても助かる申し出でした。
そうすれば私の方は、帳簿の仕事に集中できるからです。
けど…心遣いは嬉しくても、私の最低限の仕事まで彼に任せるわけには…。
「良ければ、お手伝いさせて貰えませんか?僕に出来ることなら、何でもやりますから」
とはいえ、ここまで言われては、それを無碍にするわけにもいきません。
結局、半ば押し切られるような形で、彼には掃除をしてもらう事になりました。
謝意を述べると、彼は軽く笑って、
「いえいえ、部屋に帰っても大してやることはありませんからね」
などと言いながら、ご愛用という室内箒で床を掃いて下さいます。
何でも、宿題は図書室でやり終えて、それから帰途に就かれたとか。
だから、こんな時間まで校内に居られたのでしょう。
努力されてるんですね…。
「そんな、リエルさんにはとても及びませんよ。リエルさんは毎日、アカデミーの為に尽力されてるじゃないですか。
世の中の役に立ちたいと思ってる僕にとって、リエルさんは見習うべき立派な手本なんです」
………。
私は咄嗟に目を伏せました。
お世辞とは思えない彼の口調に、頬が感情で染まるのを感じます。
でも、自分はそう言われるのに相応しくない、とも思いました。
計算の合わない目前のノートが、それを雄弁に物語って――
チャリン。
「おや?」
箒に当たったその金属音は間違いなく…お金の音です。
彼が拾い上げたそれは、200マジカの硬貨。
瞬間、すっかり失念していた昼間の自分の失敗が脳裏に甦りました。
タイガさんに間違えて渡して、返して貰った時に硬貨を落としてしまったのでした。
その時は行列が出来ていて、拾う暇がないと判断して、接客をしているうちに硬貨のことを忘れてしまってました。
落とした硬貨は、2枚――その内の1枚が見つかったのです。
そして、帳簿で合わない金額は…400マジカ。
あと1枚、落ちている筈…!
私は、帳簿の食い違いとその落としたマジカのことなど、一切を洗いざらい彼に白状しました。
「なるほど、そういうことでしたか…それじゃあ、きっともう1枚はどこかにある筈ですね。探しましょう」
でも彼は、私の怠慢を咎めるどころか、すぐに無くなった200マジカを見つけるべく行動し始めました。
服が汚れることなど気にも留めず、地面を這い回るように棚の下を探っていきます。
そして――
チャリン。
「「あった!」」
ふぅ。
夜、ベッドの中で、私は溜息を吐きます。
今日は特に、色々な意味で疲れた一日でした。
蓄積した疲労は、私を夢の世界に連れて行くには充分な量だと思います。
でも、今日も私は眠れそうにありません。
あの後、彼と別れる時、辺りはもう真っ暗になっていました。
こんな時間にまで彼を付き合わせてしまって、本当に申し訳なかったんです。
でも彼は事も無げに微笑みます。
「気にしないで下さい、僕が好きでやったことですし。…それに」
そして、私の顔をまともに見て、こんなことを言ったんです。
「もしあの時リエルさんを放って帰ってたら、僕は気になって夜も眠れなかったでしょうからね」
嗚呼。
これこそが、原因なのです。
その言葉を、そっくり返してあげたい。
だって――
貴方が私を放ってくれないから、私は貴方が気になって夜も眠れないんですもの――。
END