Moonlight/Sunlight

夜だ。
あれほど輝いていた陽光は既にその役目を終え、世界は闇の帳に覆い尽くされている。
己が青春を謳歌する元気一杯の学生達が駆け回るこのアカデミーも、今は痛いほどの静寂に包まれていた。
時計の針は、最も大きい数字で重なり、最も小さい時刻へと変わろうとしている。
余程熱心か、余程ピンチな学生でない限り、しっかりと目覚めていることはないであろう時間。

自分に割り当てられた寮の一室。
普段勉学に勤しむ机の前で、私は独り、まんじりともできずにいた。
勉強に追われているわけではない。
気分が高揚しているわけでもない。
むしろ、その逆――落ち込んで、勉強をしようという気分にもなれない有様だった。

このアカデミーは、賢者になる生徒が集まる学校。
私の目標も、当然そこにある。
でも、その先は、どうなるんだろう?

道が見えないということは、怖いことだ。
次の一歩を踏み出した瞬間、奈落へと堕ちてしまうかもしれない――終わりなき、無間地獄へと。
その怖さが、私から明るい気分を奪い去っていた。
勇気のない自分が…情けない。

カーテンをそっと開き、窓から雲無き夜空を見上げる。
星の瞬きすらも見えない闇は、まさに私の心の中そのもの。
気の重さに、自然と顔は下を向いてしまう。
けどその時、私は落とした視線で、カーテンの間隙と窓枠によって絨毯に模様を描き出す光を捉えた。
降り注ぐ銀光の向きに両眼を辿らせ――それと、目が合った。

遥か彼方から青白く濃紺の世界を照らす、満月。
無機物であるそれと目が合う、というのはおかしいかもしれない。
でも、私にはそう思えた。

そして、
月は、そっと私に、微笑んだ――。
 

程なく、私はこっそりと寮を抜け出した。
定められたルールを破るのを良いことと思わない筈の私なのに、今は門限や規則のことなど頭から消え失せていた。
あの夜空に浮かぶ球体を、もっと間近で見たい。
そんな気持ちに駆られ、私は走る…足が動くまま。
それはまるで、怪しい月に操られるように――。

足が向いたのは、荒漠たる砂地。
その一角に堆く聳える、古の建造物がある。
切り出された古い巨石を数多に積み重ねて建てられた、ピラミッド。
陵墓とも祭壇とも言われ、神秘的な力が宿ったというそれは、今では一介の遺跡として扱われるのみ。
私はそこで、空を眺めながら風に当たるのが好きだった。
だから、その石段の上で…もっと近いところで、月を見たいと思ったのだ。

しかも。
驚いたことに、そこには、先客が居た。

冴え冴えと照る月明かりを受け、石の上に腰掛ける、蒼。
黒い制服も闇に溶けず、揺らめく長い後ろ髪と白い肌は尚の事私の眼に眩しく映る。
その様は、現世に降臨した何かの化身の如く。

「こんばんは。クララさんも、お散歩ですか?」

そう。
その世界には最も似つかわしく、
そこに居るには最も似つかわしくない人。

あの優等生の彼が、こんな夜中に寮を抜け出して?
しかも、まるで私を待ち構えていたかのように?
そんな筈は――。

でも、そんな疑問が過ぎっても、私はその場から足を離す気にはなれなかった。
まるで、何者かに心の全てを奪われたかのように。
そして、そのまま私は、彼の隣に腰を下ろした。

それから暫く、私はぼんやりと、空を眺めていた。
私の横で、彼も後ろ手に身体を支えながら、同じようにしている。
辺りには何の物音も無く、まるで時間すらも動くのをやめたかのような印象を受ける。
時折微かに髪を撫でる凪が、刻の未だ静止していないことを伝えてくるのみ。
幽暗なる世界にあるのは、無明の闇と、見上げた先に灯る月明と、
そして、側で静かに座す彼だけ。

私と彼との間に言葉はない。
だが、この空気を何と表せば良いのだろう。
ただの平静さとは何かが違う――静謐ではあるが、どこか胸を騒がせる、気配。

それは、彼の醸し出す雰囲気なのかもしれない。
余計なお節介を焼く気はないが、悩みに対しては助力を惜しまない。
その意気は、月から落とした横目で捉えた彼の笑顔からありありと感じ取れる。
私の心は、僅かに、静かに、だが確かに、色めき立っていた。

いつの間に視線に気付いたのだろうか。
気が付けば彼は『何か?』と表情に書いてこちらを窺っていた。
何か言わなければ、という空気に押された私は、少々まごつく。
だが、思い切って、自分の心の迷いとなっている事について、彼に訊いてみることにした。

自分の為より他人の為…常に利他を旨とする彼。
ならば、その意思をどのような形で発揮したいのか、心中は決まっているだろう。
そこから、私の道標を見つけられるかもしれない――そう思ったから。

「何になりたいか、ですか…そうですねぇ…」

不意の質問に暫し逡巡した後、彼の口から出た答えは――
 

「――月に、なりたいですかね」
 

…からかわれたのかと思って、思わず彼の顔を見てしまった。

「…真面目に、答えたつもりなんですけどね」

自分はきっと、訝しげな表情をしていたのだろう。
僅かに、だが確かに変質した、彼の笑み。
それはぼんやりと曖昧なものから、透き通るような冴えたものへ。
あたかも、朧月から霞がかった薄雲が消え去るかのように。

それは、月になりたい、という科白が、彼の偽らざる本心であることを私に分からせるには充分だった。
しかし、彼にしては気障にも思えるその言葉は、何を意味しているのだろう。

そんな私の心中を見通す灯火を持っているかのように、彼は言葉を紡ぎ始めた。

「月って、綺麗ですよね…本当に、眺めてたら心が安らぎますし」

月光を正面からレンズに映す彼に誘われるように、私も再び瞳を天空へと向けた。
確かに私も、月の美麗さは類稀な部類のものだと思う。
蒼穹には白銀色に、夜闇には黄金色に輝き続けるクリスタル。
荒んだ心を、櫛で髪を梳くように整えてくれる、その滑らかにして優しい光彩。

美しさに心を奪われないうちに目を戻せば、彼の色白で穏やかな美顔が網膜に飛び込む。
――既視感。

「…でも、月の役目ってそれだけじゃないんですよね」

月の、役目。
以前学問の授業で学んだことがおぼろげに思い出され、私は脳内の書庫を調べようと思考を巡らす。

「月のお陰で、正確な時間や月日が分かる。
月のお陰で、海に潮の満ち引きが生まれる。
月のお陰で、方角を理解して、道標にできる。
月のお陰で、地軸は角度を保ち、四季が生じる。
――僕達は知らない間に、月から計り知れない恩恵を受けているんですよね」

そんな私の記憶の棚から資料を引き出してくれるように、月について語る彼。
そこまで聞いて、幻のように浮かぶ既視感の正体がはっきりした。
彼自身が述べてくれた月の特徴は、彼が示している性格や意思に酷似している。
つまり彼は、今現在既に「月」になっているのではないか――。

でも、その意見に、彼は少し俯き、頭を振った。

「いえ…僕はまだ、月にはなれないんです」

一体、何が足りないというのだろう。
すると彼は、視線を真上の月から地平線に移し、言葉を紡ぎ始めた。

「月は、約50%がガラス質で出来ているそうなんです。
だから、月は自らが光らなくても、光体としての役割を果たすことができるんですよ。
いわば、月はガラスでできた太陽の鏡なんです」

月はガラス製の鏡――言い得て妙だ。
それで、あの間接照明のような柔らかく、それでいてナイフのような鋭さをも持った光を生むのか。
ならば、頭上の白い円からの光はますます彼の面影と重なる。
なのに…何故?

「でも逆に言えば、太陽がなければ、月は単なる歪な球体でしかないんですよ」

そして、気付いた。
彼の眼は、地平線の彼方に沈んだ陽光を追っていると。
だから、その眼差しがそのまま自分の顔へと移ってくることを、私は不思議に思った。
 

「今、僕の太陽は光を失っているんです。だから、僕は月光のようにはなれない。
だって…僕にとっての太陽は、貴女なんですから」
 

…耳を疑う。
私が、太陽…?
そんな印象を受けるのは、どう考えても他の女の子だ。
そう…例えば、朗らかな笑顔が似合うルキアさんとか。
私のように、近頃笑ってもいないようなのが、そんな――

そこまで考えて、ハッとした。

彼は、笑顔も作れず沈み込んでいた私を、心配しながら見ていたのだ。
そして、その言葉は、彼の願いを反映したものでもあったのだ。

「だから…笑ってくれませんか」

微笑みと共に投げかけられたその言葉に、私はたまらなくなって、彼の胸に飛び込んでいた。
ただ力いっぱい、私の愛しい月を抱き締める。
そんな私の背中を、彼の細く、それでも力強い腕が包み込んでくれた。

賢者という目標しか見えず、闇に包まれていた私の歩むべき道筋が、月光に照らされて幽かに見えてきた。
そうだ。
遠い将来のことは、誰にも分からない…ならば、それで充分。
今は、アカデミーでの修練に打ち込もう。
そして…精一杯の笑顔で――彼の太陽でいさせてもらえれば、それでいい。
その先に、いつかきっと私が進む航路は定まっていく筈だから。

潤む瞳。
拭おうと眼鏡を外すと、目元に彼の親指が宛がわれた。
それはワイパーのように、目縁から雫を優しく払い去ってくれる。
私は、くしゃくしゃの笑顔のまま彼の顔を見上げた――未だ、眼鏡はかけない。
上目で見つめるカイルという月があまりに眩しくて、私は目を瞑る。
いや…私は心の片隅に、一抹の期待を抱きながらそうしていた。
いつもの私なら、恥ずかしくて絶対に持てない、期待。

そして彼の反応も、普段ならあり得ざるものだった。
未だ溢れ出そうになる涙をそのままに、彼の掌は頬を撫で、そのまま私の顎へ。
それは私がしていた期待、そのまま。
私が眼鏡を外したままなのは、私のそれと彼のそれがぶつからないため――その事にすら気付いているかのような。

彼の肩にしがみ付き、鼻先に彼の気配を感じながら、今更のように思い出す。

ああ。
月の光には、
人を狂わせる力も、あるんだっけ――。
 

その夜、起こった奇妙な現象は、私たちと、空の目撃者の他には誰も知らない。
闇夜に浮かぶ月しか見ていない、皆既日食――。

グッドエンド

END