麗らか、という言葉がこの上なく似合う、温かい陽射し。
視線の先を地平線の先まで上下半分ずつ占領するのは、ブルーとグリーンのグラデーション。
どこまでも続くように思える大地に敷き詰められた、青草のカーペット。
果てしなく高く、そして果てしなく澄みきっている、青空のキャンバス。
この光景を目にしながら、心が躍らないという方が嘘だろう。
何もかも忘れられる――時間さえ動くことを忘れてしまったようにも感じられる――そんな場所だと思える。
アカデミーの中にこんな景観があることを感謝しつつ、私は当ての無い散歩を楽しんでいた。
今は、昼の休憩時間。
午前中の授業ですっかり摩り減ってしまった気分を、紛らわしに来たのだ。
今の自分の成績は、一応のところ上から数えて直ぐの位置にいる。
でも、その代償にそれはそれは張り詰めた気分で授業に臨まなくてはならない。
最近、だんだん、疲れてきたのだ。
自然の中に居ると、精神が癒されると聞く。
その効用を求め、私は今、此処に居た。
幻の国を彷彿とさせる、青と緑の無限回廊に。
耳に心地よい、大地から聞こえるサァッ、という音。
蒼穹からの爽やかな空気が、足元の翠を楽しげに揺らした音だ。
そしてそれは私の頬に触り、前髪を撫で、慈しむように私の身体をすり抜けていく。
その微風にふと想う人が、一人。
さり気ない人。
快く、優しい人。
でも、届かない人。
その人のことをぼーっと考えながら草原を歩いていて――
足が、止まった。
これは何の悪戯なのか。
夢幻かと訝り、ごしごしと目を擦る。
けど、擦った目を開けば消えているのではないかという危惧は、杞憂でしかなかった。
そこには、まさに考えたその人が、仰向けに寝転がっていたのだ。
トレードマークの、眼鏡。
男性にしては豊かな、蒼く長い髪。
アイロンをかけて丁寧に着こなした、制服。
そして、決して失われることの無い、穏やかな面持ち。
そう、彼こそ、私の上を行くクラス一の優等生――カイル。
私は未だこれが現実と信じられず、寝入った彼の姿を食い入るように見つめた。
若葉のベッドに投げ出された、スラリと長い足。
枕代わりなのだろう…後ろ手で、括った髪を覆うように組まれた掌。
制服に隠された、無駄のない引き締まった四肢は、石像の如く微動だにしない。
極僅かに上下する胸の動きで、彼が彫像ではなく生身の人間であることが分かる程度。
その身体を司り、飽くことなく知識を蓄え、常に他の人の耳に快い言葉を紡ぎ出す、彼の頭。
だが、それが信じられないぐらい、彼の今の表情は無防備で、見ている者に何ともいえない脱力感をもたらす。
それでも、私は脱力などできないでいた。
はずむ胸を抑えつつ、こっそりと彼に忍び寄る。
自分の影で日光を遮らないよう細心の注意を払いながら、彼の直ぐ傍に足を止めた。
そのままゆっくり膝を落とし、彼の右横に腰を下ろす。
しゃがみ込む時、立て付けの悪い扉の蝶番のように、身体が軋んでギギィ、と音を立てるのではないかと感じた――
それ程までに、私は緊張していたのだ。
だが、それに耐えた御褒美として、彼の表情をまさに至近距離で拝める特等席に私は身を置くことができた。
暫くの間、彼を独り占めできるというこの上ない愉悦に、私の身は打ち震える。
いつもは決して近寄れない距離。
眼鏡越しに全てを見透かすような、それでいて不快さを微塵も感じさせない、遥かに澄んだ眼――
あの途方もなく碧く深い瞳に映されると、私は、その瞳の中で溺れてしまうからだ。
冷静な思考はおろか、自分の思い通りに身体を動かすことすらままならない。
でも今、その魔性の眼差しは、睡魔によって封印されている。
だから…ドキドキするのは変わらないけど、彼の顔をまじまじと見ることができている。
だが、泰然と構えているように見える彼も、疲れと無縁というわけではないようだ。
今の泥のような眠りと、目の下にうっすらと見える隈が、その証拠。
彼の努力は皆が認めるところだし、課題を忘れる様子など見たこともない。
きっと、教室と同じく、自分の部屋でも根を詰めて勉強しているのだろう。
けれど私は、彼に付きまとう幻のような儚さを内包した印象を拭えないでいた。
そういえば、カイルは多くの苦労や暗い過去を背負っている、と聞いたことがある。
いつもあの表情を崩すことがない彼の普段の素振りからは、それを察することはできない。
とはいえ彼のこと、他人を心配させるようなことは口が裂けても言わない筈だ。
…もしかして、だからこそ彼はこの場にいるのだろうか。
自然の恵みに身を置き、清らかな青を湛えた空を眺め、眩い太陽の熱を浴びて、力を得ようとしているのだろうか。
…それにしても。
眼鏡をかけたまま眠るとは、彼らしくもない。
こめかみを圧迫する物が無い方が、寝心地が良いだろうに。
良いものを見せてもらったことへのせめてものお礼…ではないが、彼に少しでも安らかになってもらいたくて。
私は上体を少し傾け、そっと金属のフレームに触れた。
極めて慎重に、眼鏡の蔓を、引っ掛けていた耳元から持ち上げる。
だがここで力を入れ過ぎてしまったら、逆に彼の安眠を妨げることになりかねない。
うっかり手を滑らせてしまうなどもってのほかだ。
財宝を盗み出す怪盗というのは、こんな感覚を味わっているのだろうか。
でも、余計なことを考えれば、腕が震えだすのではないかと思えて。
私は無心で、それでも肌や横髪を出来る限り刺激しないように気を遣いつつ、ゆっくりそれを抜き取っていく。
フゥ。
彼の眠りを覚ますことなく、眼鏡は彼の顔から取り去れた。成功だ。
まるで大手術を終えた外科医のような気分だった。
直ぐにその眼鏡を畳み――
畳みながら、はたと気付く。
さっきは眼鏡を外すのに集中していたから注意が向かなかった。
だが、意識してしまった瞬間、加速度的に心拍数が上昇するのを感じた。
こんなにも、近い。
レンズを通さない彼の素顔が、文字通り目の前にあるのだ。
外した眼鏡を彼のお腹の辺りに置いた私の視線は、為す術も無くそれに捕らえられる。
端整そのものの目鼻立ち。
誰もが羨むであろう滑らかな頬の曲線。
細められたのではなく、完全に瞑られた双眸。
それでもいつものように緩んでいる口元。
そして、柔らかそうな桜色の唇。
瞼の裏に浮かぶ、美化されているであろう彼の笑顔――
それすらも凌駕してしまうほど、間近に見るその細面は優美で。
普段見慣れた、眼鏡をかけた彼の顔とはまた違う面差しが、私の脳裏に強烈に焼き付く。
美しいものを手にしてみたいのは、女性ならば誰もが理解できる心情だろう。
まるでどこかの国の宝物のように綺麗な横顔に、私の右手が伸び――
はっ。
無意識のうちに何てことをしでかしかけたのだ、私は。
直ぐに腕を引っ込め、邪な考えを払い除けるように、ブンブンと首を振った。
落ち着こうと、深呼吸をしようとする。
だが、肺に思い切り息を溜めた矢先――芳しい薫りが鼻を突いた。
蒼く長い髪からのものだと気付いた途端、その淡い芳香は冷静さと正常な思考を奪う甘美なる毒と化す。
完全に逆効果だった。
意思に反してどんどん高鳴る鼓動は、あっという間に私の頬へ血の気をカァッ、と集めていく。
こんなに上気してる私を見たら、彼はどう思うだろう。
『ルキアさん…顔が赤いですよ?大丈夫ですか?…もしかして、熱があるんじゃ…』
そうだ。
遠慮がちに、それでも心配顔で、私を気遣ってくれるに決まっている。
そうなのだ。
カイルをカイルたらしめているのは、その容貌ではないのだ。
誰にでも――こんな私にも――思いやりを以って接してくれる、その心根。
優柔、という言葉がしっくりくるだろうか。
あまりに人が良過ぎて、大事を頼まれても断り切れずに独り溜息をついているような所も含めて。
だがそれは、調和と平穏を願い、仲間が傷付くことを何より厭う故。
他の人の為に献身するという確固たる行動基準を堅持し、その結果も甘んじて受け入れている。
…そう考えると、優柔という言葉は相応しくないのかもしれない。
凛々しくも優しげな美顔。
落ち着き払った明晰な思考。
強靭で高潔な志を秘めた仁心。
心を寄せるその人は、全てが完璧なのだ。
だがそれ故に、彼は遠くに揺らめく蜃気楼。
追いかけても追いかけても、追いつけない風。
手を伸ばしても、触ることすらできず消える幻。
そう思っていた。
でも今、眼前で天を仰ぐ彼は、子犬のように気持ち良さそうな寝顔を浮かべていて。
とてもクラスの頂点を極める秀才には見えないその紅顔は、私の胸に様々な感情を想起させる。
――それは、女として守ってあげたくなる母性。
――それは、優秀な成績にも拘らず余裕綽々な彼への嫉妬。
――それは、彼の生殺与奪を握ったことから来る優越感。
――それは、彼をもっと感じたいのに感じられない焦燥。
――それは、この人を誰にも渡したくないという独占欲。
――それは、こんな疚しいことを考えてたら彼に軽蔑されるのではという恐怖。
綯い交ぜになったそれらの感情は、私の中で暴れ回り、早鐘のように脈打つ心臓を更にペースアップさせる。
それが、漠然とした一つのうねりとなり――
知らず、私は身を乗り出し、彼の顔を文字通り覗き込んでいだ。
顔の下に位置する胸部の上下に合わせ、彼の鼻孔からの、スウ、という呼気の音が耳を擽る。
それを邪魔する、カサカサ、という音…地面の青草が擦れる音。
この場に来た時は、楽しげに聞こえた。
だがその音は今や、彼のどんな変化も捉え損ねたくない私にとって雑音以外の何物でもない。
それは、私の中で蠢く、ドクドクという心音とて同様だ。
出来るなら脈拍さえも止めてしまいたい…そんな普段なら有り得ざる思考まで脳裏を過ぎる。
今の自分に『毒』が回っていることなど気付く由もなく。
足りない――
それがトリガーとなったのか、私の中に一つの願望が頭をもたげた。
…!
いけない。それは許されない。
確かに、彼を幻でなく、生身の人間として感じたいけど、それだけは。
抗わなくてはならない。こんなにも彼の顔が近いのだから、尚更。
こんなにも…顔が…
近……
………。
プニ。
柔らかい指触り。
途端に、人差し指に伝わる温かみ。
出来得る限り力を抜いた、最小限の接触なのに。
指先から優しく流れ込んでくる、カイルという人の、体温。
そして、折畳んでいた他の四本の指が、包むように広がり――
サワッ…。
掌全体に、彼を感じる。
しなやかな肌の吸い付くような感触。
触れた自分の手が蕩けて、どこから先が彼の頬かも分からないようで。
抗うのではなかったのか。
自分の頭の中の僅かに残る冷静な部分が、私を咎める。
それでも私の指は、名残惜しそうに彼の顔から離れていった。
私は陶然と目を閉じて、右手の中に残った感触の余韻を暫し反芻する。
頭のてっぺんが痺れるような、言い難い感覚。
至福を感じていた、その時。
「ん…」
彼の口元から漏れた声に、私は正体を取り戻した。
今まで何をしようが全く反応の無かったカイルの頭が、不意に動いたのだ。
慌てて、彼の面相に目をやったその刹那――
眉根に一瞬、不快さを感じたように思わせるシルエットが入る。
そして彼は、寝返りを打った。
寝相はほぼ変わらなかったが、顔だけは私から背けるように、向こう側へ大きく傾く。
横に垂れた長い髪がサラリと流れ、安堵の溜息とも思しき一際大きな息の音が聞こえた。
それっきり、彼は再び動かなくなった。
…。
無意識下の行動であることは分かっている。
彼が露骨に厭な顔をして他人に背を向けるような人ではないことも良く知っている。
だがそれでも、私は途轍もない罪悪感に襲われた。
この場に二人以外の人がいない以上、自分の行為は、他の人には決して知られていない。
当のカイルさえも気付いていないし、気付く筈もない。
だからこそ、彼の意識にも残らない、破廉恥で一方的な接触をしてしまった自分が、罪深く、恥ずかしく思えて。
きっと彼が見ていたら、私は彼を永久に喪ってしまうことだろう。
私は彼に背を向けられて当然なのかもしれない――
悄然と、自分自身を責め苛む。
…ハァ。
もう、戻ろう。
癒されに来た筈が、余計に沈み込んで教室に戻る羽目になりそうなことに、自嘲めいた苦笑が浮かぶ。
でも、いい。
あの人を間近に見られた。それだけでも、収穫だ。
どこか弁解じみた言い草で自分を納得させ、彼の横から静かに立ち上がる。
おやすみなさい。そして、ごめんなさい。
未練が起こらないように、髪と腕に隠れた彼の首筋に向けてそれだけ口にして、踵を返す。
私はそのまま、脇目も振らず校舎に向かって歩き始めた。
「…ふ……ぅう…」
背後で、彼の吐息が聞こえた。
足が、止まる。
何なんだろう、私のこの意志の弱さは。
古代に神の裁きにより火の雨で滅んだ街から逃げる際、街を振り返って塩の柱と化した女性がいた――
そう、授業で習ったことがある。
私はその女性の生まれ変わりではあるまいか。
振り向きながら、そう思ってしまう。
でも。
後ろを顧みた私は、そのまま、固まってしまった。
無意識下の行動であることは分かっている。
彼が、自分だけを見つめているわけではないことも良く知っている。
でも、彼の寝顔が、引き止めるようにこちらを向いていたから。
口元をムニャムニャと動かして、何というか、その…ひどく可愛い。
見れば、身体に乗せておいた眼鏡が落ちかかっている。
もし、寝方を間違って眼鏡が破損した…なんてことになったら、それを外した身として申し訳が立たない。
その思考で躰の硬直が解け、私は彼の側に再び歩み寄り、屈み込んだ。
レンズを傷付けないようにそれを拾い上げ、再び彼の身体の上に安置する。
サァァァッ…
穏やかな空気がまた草生す地面を薙ぎ、それと共に大地の翠も再び歌い始めた。
その薫る風はもう一度、私を抱き締めるように流れていく。
そして、私の耳元で囁く声――
『落ち込まないで下さい。ルキアさんを嫌ったりなんか、しませんから』
それはきっと、蒼い風が生んだ幻聴。
見ての通り、現実の彼は、今もまどろみの中。
それでも、それは間違いなく――
…ハァ。
彼は、いつまで私を翻弄すれば気が済むのだろう。
まるで、優しくも悪戯な春風のようで。
それなら、さしずめ私は紙風船といったところか。
息を吹き込まれなければ凹んだままなのに、膨らんでみれば、柔らかく吹く風に軽々と舞い上げられ、玩ばれる。
でも、それは決して嫌なものではなく…
いや、私の顔が自然とにやけるのだから、嫌な筈もなく。
「んん…」
またしても、言葉になっていない、それでいて魅惑的な声が口から漏れた。
眠りが浅くなっているのだろうか。
彼の顔を見やった、その瞬間。
スローモーションのように、睫毛のヴェールが、開いた。
うっすら開かれた、寝起き直後の二重瞼。
焦点の合っていないと思しき瞳孔。
だがその中にある、息を飲むような妖しくも美しい色合いに、私は魅入られた。
そう。
あの魔性の眼の封印が、解かれたのだ。
「……ルキア…さん…?」
彼の薄ぼんやりとした、それでも確かな肉声が、私の鼓膜を貫き――
………!
瞬間、奪われた。
私の、理性。
そして、奪った。
彼の、唇。
「!」
目の焦点が合わないほどに近い、彼の顔。
今まで見た中で最も大きく見開かれた、彼の眼。
まるで彫像のように硬直してしまっている、彼の身体。
嗚呼。
このまま、時が止まってしまえばよかったのに。
衝動に突き動かされたのは、ほんの一瞬。
だから、合わせた唇は、触れるか触れないか程度――まるで、明け方の夢のよう。
けれど、離れた瞬間のゼリーのような感触は、彼が彫像でも幻影でもないことを、私の脳髄の中に深々と刻み込んでいた。
間近に見える、未だ混乱と自失の中にある彼の、隙だらけの顔。
眼鏡が外されているから、私の顔ははっきり見えてはいないだろう。
それでも、彼に向かって莞爾と笑った私は、即座に立ち上がり、彼にうなじを向けて教室へと駆け出した。
彼が、彼としてはっきりと目覚める前に。
魔性の眼に再び射抜かれてしまう前に。
そして、今にも火を噴きそうな私の顔を見られてしまう前に。
カイル。
今のはきっと、夢。
麗らかな陽射しが作り出した、蒼い風の幻。
だから今は、忘れてくれていい。
いつの日か、私の想いを真正面から、貴方に言えるようになるまでは。
その時は、もう一度ここに来よう。
そして、伝えよう。
優しい風に抱かれながら、この青と緑の無限回廊で。
――貴方が、好きだと。
END