鏡は、たとえそれが御伽噺の中であろうと、真実を映し出す。
そして、今教室にある姿見が映し出しているのは――
疲れた顔で嘆息する1人の美少女。
そして彼女を囲んで笑う3人の少女と、その様子を頷きつつ見つめる教師。
…勿論、今の光景には真実ではないものが混ざっている。
つまりは、鏡でさえも騙される光景、ということであろうか。
張りのない吐息と共に、カイルは改めて諦念にも似た覚悟を決めた。
自分はただ、床屋の客のようにされるがままになっておくべきなのだろう。
彼女達に体裁を整えられていれば、黙っていてもそれなりに女の子っぽい格好にはなる筈だ。
その間、ひたすら羞恥とか不満とかその他を抑えたり我慢したりしておけばいいだけのこと。
…まあ当然、それが難しいのだけど。
何しろ、眼前では自分の命運をどう左右するかに関する話し合いがされているのだ。
しかも、その様子はさしずめ獲物争奪戦といった趣である。
彼女らは閻魔大王かアヌビス神か――
どこか宗教裁判じみた圧迫感の中、彼は人知れず頭を抱えた。
最大の争点になったのは、ヘアスタイルのことだった。
カイルとしては普段通り後ろで軽く括るのが落ち着いていいのだが、さっきフランシスからそれを否定されてしまった。
女装してるとはいえ自分の髪なんだから髪型ぐらい自分で決めさせてほしいのだけど、そうできる確率は皆無に等しい。
だって、女の子は元来、お人形遊びが好きなものだから。
「髪質がきめ細かいからストレートがいいですよ。カチューシャを付ければ女の子らしさも抜群です」
「えー?それじゃ動きにくそうじゃん。ユリみたいなポニーテールとかどう?元の髪形にも近いしさ」
クララもルキアも、理想と思い描く髪型を口にしては理由を力説し、自分がその髪型を形作っている様子を夢想する。
が、その時。
「だーめ。カイルお兄ちゃんの髪型はアロエが決めるんだから」
珍しく、アロエがこの話題に関する独占権を主張してきた。
まあ、カイルがこの場にいるのは彼女の功績であるし、それに対する見返りを求めたとしても悪いわけではなかろう。
とはいえ、これに関しては他の2名にも思うところがあるのは明白なだけに、素直にそれを尊重してくれるとは思えない。
案の定、2人からはそれを不服とするような雰囲気とでもいうものが醸し出されつつあった。
しかし、彼女達のそれが言葉として口に上る前に、アロエは大胆な策に出た。
「ねっ、カイルお兄ちゃん?」
髪をいじられる当の本人に、したり顔で問いかけたのだ。
正直、カイルには回答するのは躊躇われた。。
今のアロエのベビーフェイスには、先程見せた夢魔(サッキュバス)的なカラーがありありと浮かんでいる。
これでは、どんな突拍子もないヘアスタイルにされるか分かったものではない――直感的にそう思う。
だがしかし、相手は泣き落としをも駆使する策士である。
ここで下手にノーという答えを出した日にはどうなるか、判らない彼ではない。
他の2人の心情も加味して考慮するに、結構進退窮まる状況である。
葛藤を抑えるように黙考し、カイルは微かな溜息と共に彼女へ顔を向け――
「好きにして下さい…」
それが、彼の答えだった。
何度も言うようだが、カイルにとってアロエの笑顔は何より大事であり、彼女のためなら何だってやるつもりなのだ。
先にした宣言通りにするのは、彼の義務であり、また自ら望んだ意志でもある。
それに、自分がそうであるように、彼女も自分を大切に想ってくれている筈。
鏡で写したように、二人の気持ちは同じであるに違いない――。
そんな彼女への信頼が、自分の生殺与奪権を委ねる言葉を再び口にさせた。
…まあ、さっきからその意志や信頼が揺らぎかけてるのだけども。
ボソボソと絞り出すような弱々しい声色が、その表れであろうか。
「あー、アロエずっる〜い!じゃあ私は化粧する係取ったー」
一方のルキアも、想い人に決定させるなどというアンフェアに思える手段に訴えたアロエを黙って見てはいない。
対抗手段として、ヘアメイクの次に彼を堪能できる立場に先約を入れる。
「あ、私もそっちの方がいいです〜」
クララもそれに協調する路線を取ったので、
「OK!じゃ、髪の事はアロエに任せて、クララと私はメイクアップ担当ってことで決まりね!」
自分の我が侭を通しただけに、流石のアロエもこのルキアが提示したプランは飲まざるを得ない。
カイルには滅法強い彼女だが、2人が化粧道具に手を伸ばすのを止めることはできなかった。
「ちょ、ちょっと待ってください!化粧とか…しなくちゃいけないんですか!?」
そして本人不在のうちに大きくなっていく話に、カイルは声が裏返るほど慌てて歯止めを掛けようとするのだが…
「おいおい、何を今更…年頃の女の子がすっぴんのままで晴れ舞台に出るわけがないだろう?」
フランシスが半ば呆れ顔で嘯く。
最早手遅れである。
いや、これはカイルの心構えが甘かっただけか?
まあ、納得は行かないが、抵抗したところで詮無き事…諦めるという選択肢以外は残っていない。
邪魔にならないよう外した眼鏡をアロエに預け、彼はせめてもの抵抗に決して目を開けまいと心に決めてメイクに臨んだ。
さっきから朱に染まりっ放しの頬は、化粧の必要性をあまり感じないのだが、それは男ゆえの素人考えらしい。
とはいえ、どうもカイルには女装した男性が化粧をしている様子に良い気持ちがしないようだ。
まあ、普通の感性ではあろうが、知り合いに壁みたいな厚化粧のオカマでもいるのだろうか?
そんな、彼の美顔というキャンバスを彩る作業を開始するルキアとクララ。
化粧水、乳液、ファンデーション。
薄っすらと、しかし満遍なく顔に塗りたくられるそれらは、嫌が上でも鼻に女性的な匂いを伝えてくる。
そこに、化粧品を付ける際に2人が至近距離へ接近することで感じられる女性独特の香りも加わる。
外側はともかく、内面は厳然として男のままであるカイルにとって、これは意外にしんどい。
「いいか、元がいいのだからな。付けるのは必要最小限でいい」
というフランシスの台詞は、褒め言葉らしいが決して有難いものではない。
アロエはアロエで、内心ハラハラしながらその光景を見守っていた。
化粧の乗りを見ているのだろうが、2人が彼の顔を舐め回す如く眺める様は、まるで美味しい果実を品定めしているようで。
一歩引いた位置からだと、まるで想い人が襲われているかのように見えて気が気ではない。
一方フランシスは、全体のバランスを見るという名目でカイルの正面を腕を組んで行ったり来たりしている。
彼のフェイスラインが整っていくにつれて相好が崩れていくのは、何というか…場の誰よりも不気味だったが。
パタパタという肌を叩く音。
ピチャピチャという液体の音。
美術監督の指示…というか要望。
メイキャッパー2人の簡単な意見交換。
それだけが響く教室の中、カイルは思いの平安を得るため、静かに、しかし必死で闘わねばならなかった。
数分後。
「ふぅ…お待たせしました。完成ですよー」
口紅にキャップをしつつ朗らかに告げるクララの声は、納得行くものを作れたという充実感を伴うそれである。
言うまでもなく、ルキアも同様の心持ちだった。
肝心のメイクの出来栄えに関しては、カイル自身が目を瞑ったままで自分の顔を見ていないので、皆までは言うまい。
傍観者全員の感想が『ここまで見違えるか』というものであることから察して頂きたい。
さて、カイルの造作が整ったところで、主役交代の時間がやってきた。
…いや、あくまで主役(メインディッシュ)はカイルなのだけど。
「さ、今度はアロエの番ね。お手並み拝見させてもらうわよー」
言うなり、カイルの座っている位置の正面に仁王立ちするルキア。
遅れてクララもその横に身を置き、揃って鑑賞モードに突入である。
ちなみにフランシスは、本日何度目かの鼻血を止めてる間に2人に場所を取られてしまったので、斜め横から見守っている。
先程、己の手でヘアスタイルを完全なものとするとぶち上げただけに、注目は免れないのは分かっていた。
加えて、今から手を入れるのは自分の想い人であり、世の女性すら羨む容貌を持たされた男子。
櫛を持つアロエが緊張するのも無理はあるまい。
とはいえ彼女の中では、カイルに施すべきヘアメイクはとっくの昔に決まっていた。
それは、彼女が密かに求めていたもの――。
そして、当たり前ながら彼女以上に緊張している、被験者本人。
先程から自分の瞼に封印をして、実際の光景を見てはいない。
だが、化粧に塗れてもなお鋭敏に保たれた彼の肌が捉えた教室の空気は、限りなく、不穏。
それでも、今はただ想い人を信じる以外にない。
その場の空気から看取できる、他でもない彼女がその不穏さの一因では…という疑念を頭の隅に退かしたまま。
しゅるり。
アロエが、後ろ髪を括っていた紐を解く感覚。
同時に背後へサラリ、と広がったであろう蒼いオーロラに、ハッと息を呑む音が聞こえた。
それは、ボーイッシュなショートカットのせいで長い髪に憧憬を持っているルキアのものなのか。
それとも、三つ編みのお陰で髪にウェービーな癖が付いてしまっているクララのそれだったのか。
あるいは、両方か。
見慣れた自分にはそうではなくとも、髪を下ろした姿はかなりのヴィジュアルショックを伴っていたらしい。
気取られないように薄目を開けると、正面で鑑賞中の2人はすっかり赤面しつつ呆然とアンパン口を開けていた。
手が止まっていることからすると、アロエもそんな感じなのだろうか。
疚しい事が有るわけではないが、瞬きもせずこちらを見据える彼女達のその目つきに、心の中のどこかが軋んだ。
変な気分になってしまわないうちに、再び固く目を瞑る。
暫し後に再び手を動かしだしたアロエは、後ろに伸びた髪の真ん中に櫛を通して、右方向へと流し始めた。
流した髪を逆の手で持ち、蒼い房を収束させていく。
やがて、束になった髪の毛の根元がパチン、という弾力ある音と共に、ゴム紐で括られた。
慣れた手つきで頭の反対側にも櫛が入り、残る後ろ髪が梳かされつつ左側に引っ張られて、ゴムで纏められる。
「ぅ…ぁ…」
「………ッ」
「ぉぉぉ…」
どんなにされているのか、少々想像を超えてしまった。
前面から、揃って何やら感嘆と思われる息遣いが聞こえてきたりして、それがまたえもいわれぬ羞恥を煽り立てるのだが。
しゅるっ、しゅるっ。
布が擦れる音が、纏められた髪の付近で何度か聞こえる――頭に何か結わえられているようだ。
ますます、自分の様相が分からなくなってきた。
髪がどのような形を成したかだけでも理解しようと、漠然と、アロエの櫛の入れ方を反復してみる。
そして――稲妻が閃いた。
「!!こ、これって…ま…まさか…」
衝撃と閃光を伴って脳内に形成されたヴィジョンが思い違いであってほしい。
その願いを込めて、ヘアスタイリストに現状を確認したのだが、
「えへへぇ〜」
その、どこか意地悪な響きを含んだ彼女の笑いは、思い描いた想像図が間違ってはいないと告げていた。
総毛立つような感覚の彼をよそに、最終仕上げがフランシス御大自らの手で行われる。
胸のリボンのずれを直したり、髪のボリュームを微調整したり、細やかに手を加えていくプロの手並み。
アカデミー随一の美意識を持つ先生の面目躍如である。
「さぁ…これでどうだ」
どうだ、と言われても困るわけで。
軽い気持ちで見られる状態でないことは、火を見るより明らかだというのに。
だが、聞こえる拍手と歓声は、彼女らがどんな気持ちかを雄弁に物語っていた。
ガラガラガラガラ…。
何か車輪が転がされるような音が、未だ開かれていない視線の先に用意される――恐らくは、鏡。
「はいっ」
同時に、心なしか軽いアロエの明るい声と共に、手中へ軽い重みと冷たさが置かれた。
外していた、愛用の眼鏡だ。
これは、アレか。
舞台は整った、自らの勇姿しかと刮目せよ…ということか。
…新手の拷問?
このままでは埒が明かない。
だが、普段の柔和な面持ちに隠れていても、カイルは度胸を決めるべき所は心得ている。
心胆の強靭さにおいては決して他に後れを取らぬが故に、幾多の窮境を切り抜けてきたのだ。
そして彼はこの度も、腹を括った――場の雰囲気に似つかわしくない悲壮感と共に。
ゆっくりと、目蓋のシャッターを上げていく。
同時に、脳の指令により眼球が、眼鏡による補正を踏まえつつ、視線の先にあるソレにフォーカスを合わせる努力を始めた。
やがて、徐々に視界から霧のようにぼやけた部分が消え去っていく。
それは、一瞬。
けれども、久遠。
合わせ鏡の深淵を覗き見るような、その短くも永い刻が過ぎ去った後――
ピントの合ったカイルの眼の前に、現実が残った。
レンズを通して己が瞳へと投影された姿見に映るのは、蒼いツインテールに橙のリボンという、一人の美少女。
何かに驚いたような表情を飾るのは、薄くても唇に映えるルージュ、上品に引かれたアイライン、それにメガネ。
少々アンバランスなコントラストがまた愛らしい。
カイルとて一人の男である――見た目ではなく内面の意味で。
強い自制心を持ち、アロエという想い人を大切にしているとはいえ、頭で瞬間的に女性の美醜を気にすることだってある。
彼は目の前の人を、純粋に可愛いと思った。
そして、カイルにとって、それは途轍もなく嫌なことだった。
…だって、鏡に映りこんだ美少女とやらの正体は、誰あろう自分なのだ。
自分で自分――しかも、女装した自分――に惚れるなんて、ナルシストにも程がある。
更に、ヘアスタイルがよりによってリボン付きのツインテール…想い人とお揃いとはまた、悪趣味以外の何物でもない。
重ねて言うが、カイルは健全な精神を持った一人の男である。
襲い来るこっ恥ずかしさは、出来得る限り強固に固めた筈の覚悟という名の精神的防壁をも、紙のように消し飛ばした。
何というか、頭が内側から爆ぜそうな感覚。
穴があったら入りたい…いや、寧ろ墓の穴でも掘って埋まりたい。
そんな彼を見ながら、女性陣3人組とフランシスは満足げな笑顔に満たされていた。
コンテスト出場要員が確保できた上、クラス指折りの秀才が変身する姿を堪能できた。
その変身後の姿がまた眉目秀麗、明眸皓歯のラブリーギャルときている。
ついでに言えば、コンテスト当日にも彼を弄ることが出来るのだ。
こうして、状況は冒頭に戻るわけである。
「可愛いし似合ってるよ、カイルお姉ちゃん」
にんまりと笑いながら、カイルの腕に縋り付いて彼をお姉ちゃん呼ばわりするアロエ。
自分とほぼ同じ髪型になり、見た目の性差も薄れたからか、何だか姉妹のように思えて、彼女はこの上なくご機嫌だった。
「本当、中身が男の子なんて微塵も感じさせませんね」
クララも、まじまじと顔を覗き込んで言う。
赤面しつつも彼女らしく真面目な言い方だということは、この言葉に嘘偽りはないということであろう。
「足りないっていったら胸ぐらいよねぇ。ま、シャロンだって胸ないし…」
瞬間、発言者以外全員が怒りのオーラを纏った御令嬢の殺気を背筋に感じ、おののきつつ辺りを見回した。
無論気のせいではあったのだが、ルキアの失言癖は未だ直りそうもない。
「嬉しくないですよぉ…」
一方のカイルは、うなだれ気味に力なくこぼす。
既に、照れる元気も反論する気概も失せていた。
そのか細い声は、女子の制服に身を包んだ姿も相俟って、余計になよなよとした印象を抱かせる。
慣れない髪形はかなり気になるようで、頻りにアロエがくっついていない側の手で括られた髪の根元をつついている。
そのもじもじした落ち着かない素振りがまた、女性陣の萌えポイントのツボを的確に突いていた。
彼女達(+もう1人)がその頭を抱え込んで撫で回したいという衝動に駆られていることなど、カイルには知る由もない。
当人が嫌がるに決まってるから、と揃って頭の中の妄想で補完するに止めているだけなのだが。
「さぁ…出場する以上、目指すは優勝だ。覚悟はいいな」
そして、今更のようにキリッとした表情で、フランシスが彼女らの団結を促す。
「「「オーーーーーッ!!」」」
「……お〜…」
それに呼応して円陣を組み、掛け声と共に手を挙げる3人と1人。
勿論、手の挙がり方が掛け声の大きさに比例していたのは、決して偶然ではない。
鏡の国のような終わらぬ悪夢。
怪気炎を上げる女子をよそに、カイルは再び盛大な溜息を吐いた。
そして、大会は終わった。
彼女達のチームワークは、他のどのチームをも上回るものとして審査員の目に映った。
あの出来事は、チームの結束をオリハルコンよりも強固なものとしていたのだ。
更に、派手な動きをせず目立たないようにしようと心掛けたカイルの演技である。
『完璧』『一切の無駄がない』『一挙手一投足が理想的』
と、全ての審査員が最大級の賛辞を惜しまなかった。
ていうか、逆に注目されてるし。
終わってみれば、チームは他に圧倒的な差を付けて優勝を飾っていた。
マジックアカデミーの栄誉は、彼女達(3人)と彼(1人)によって再びもたらされたのだ。
尤も、彼(1人)にとって、その結果はどう考えても名誉とは言い難かったのは言うまでもない。
ちなみに、体調不良から立ち直ったシャロンは、結果を聞かされてハンカチを噛みながら悔しがったという。
「キィーッ!!そんな美味しいシーンを見逃すなんて!!このシャロン、一生の不覚ですわ!!」
…悔しいってそっちですかお嬢様。
この際、自分の代わりにカイルが出場して大活躍したことなどどうでもいいらしい。
そして、ルキアはそんなカイルの恥じらう姿をこっそり隠し撮りしていた。
で、そのスナップを、先日無礼を働いてしまったお詫びに、と「リ」&「ミ」の両先生に極秘裏に献上したそうな。
結果、彼女は罪を不問とされたばかりか、先生から色々とお褒めの言葉に与ったとか。
賄賂としては絶大な効果である。
…他の先生もこのザマとはつくづく病んでるな、この学校。
「な、何でこんなことに…」
END