Give My Heart to You

コツッ、コツッ、コツッ…。
丁寧にニスの塗られた木の上を、ブーツが上品に踏みしめる音がする。
ここは、アカデミーで学生が生活する、寮の中。
寮内を貫く大きな廊下に靴音を響かせるのは、アカデミーの教師・アメリアである。

授業が終わって、生徒達は自室に戻っている。
勉学に励んでいるのか、それともリラックスした時を過ごしているのか―
どちらにせよ、廊下でブーツと床が刻むリズムを聞いているのは、その足音の主以外には居ない。

コツッ。
やがてアメリアは、数ある寮のドアのうち、その一つの前で足を止めた。
眼鏡越しにネームプレートを見て、そこが目的の場所であることを確認した先生は、扉の方に向き直る。

コン、コン。
細い指を握って作った拳の裏で重厚なドアを軽く叩くと、上質の木の音が部屋の中に伝わっていくのが分かる。
暫しの静寂の後―

「はぁ〜い」
アメリアが求めていた、良く通る声がドア越しに返ってきた。
ガチャリ、と音を立ててドアが開き、お目当ての学生が姿を現す。

「あれ…アメリア先生?」
唐突な訪問に、予想通り意外そうな表情を隠さない男子生徒。
蒼い前髪の奥にレンズを挟んで、驚きを湛えながらも温厚さを失わない目つきがこちらを見つめている。

「はい、カイル君今晩和。ちゃ〜んとお勉強してる?」
そんな彼の逡巡をよそに、いつも通りの口調とペースでアメリアは話しかける。

「え…あの…」
カイルの、答えに困ったような表情。
先生が部屋を訪れた理由を探す思考と、先の質問に答えようとする思考が同時に働こうとしているからだろう。
だが、アメリアにはそれが可笑しくて、更に畳み掛けるように言葉を続ける。

「あ〜、その顔は、勉強サボってたな〜?」
悪戯っぽい笑みと共に、ジロリ、とカイルを睨んでみた。

「…ごめんなさい」
すっかり悪びれた顔つきで、下を向いてしまうカイル。
こういう冗談に、いちいち真剣に謝ってしまう生真面目さは、彼の長所であり、短所でもある。

言うまでもなく、アメリアはそれを責めるつもりは毛頭なかった。
そんなことで彼の部屋を訪れたのではないからだ。

「な〜んて、冗談よ冗談。今は放課後なんだから」
悪乗りが過ぎないうちに、幾ら自分が教師でも自由な時間を拘束する権利がないことを彼に思い起こさせる。
カイルは、自分がからかわれていたことに気付き、複雑な表情で苦笑する。

「ところで先生、突然何でまた…?」
少し戯れが過ぎたかな、と思う。
自分から切り出さなくてはならない今日の本題を、カイルに促されてしまったからだ。
でも、彼の顔はいささか安心できていない風に見える。
学生にとっては、教師に部屋へ乗り込まれるというのは滅多とない事態だからだろう。
だからアメリアは、悪いことで部屋に足を運んだのではないことを分からせるために、戯れを続けることにした。

「じゃじゃ〜ん。これ、何でしょう?」
あたかも手品師がするように、折り畳まれていた一枚の布切れを自分とカイルの眼前にパッ、と広げる。
遮られた視線を、ほんの少し布を下げることで再び通じさせ、アメリアは反応を窺った。
まるで、仕掛けたワナを物陰から見守る子供のような目線で。

布切れには、見覚えがあった。
ワンポイントの刺繍が付いた、落ち着いた中にもセンスの光る洒脱なハンカチ。

「これは…あぁ、僕、これを探してたんですよ!どこに落ちてましたかね?」
不安から開放された安堵と、失くし物が手元に戻ったという喜びが混じりあった表情で、彼は訊いた。

「ビンゴ。教室の棚に置いてあったからまさかとは思ったけど、やっぱりカイル君のだったのね、このハンカチ」
アメリアは満足の笑顔と共にその質問に答えつつ、このハンカチがカイルのものと知らなかったことを明かした。

「え、じゃあ、何でこのハンカチが僕のだと…?」
それに気付いた彼が、手品に不思議がる観客のようにアメリアに問うと、

「だって、このクラスでこんなハンカチを持ってそうなの、カイル君しかいないもの」
今度は探偵のように、人差し指を立てて自らの推理を簡潔に述べる。

このハンカチはどう見ても男物だ。
しかし、クラスの男子を思い浮かべる時、このハンカチがしっくりくるのは一人だけだった。
ラスクが持つにしては大人び過ぎている。
美意識にうるさいセリオスが地味にも見えるこのハンカチを選ぶとは思えない。
コーディネートにこだわるサンダースの好みにも合わなさそうだ。
レオンやタイガに至っては、ハンカチを所持しているかどうかも怪しい。

先生のその推理は、解説無しでカイルにも理解できるものだった。

「それも、そうですね…あぁ、でも良かった…見つかって…」
余程、このハンカチに思い入れがあるのか―アメリアにその経緯は分からない。
ただ、彼が心底このハンカチとの再会を嬉しく思っていることはよく分かった。
いつも以上に細めた目から、その気持ちが滲み出ている。

これで、目的は達した。あとは帰途に就くばかりだ。
だが、そのことに感付いたかのように、カイルの表情がごく僅かに変化した。
何かを考えているような。何かを探しているような。そして…何かを決意しているかのような。
それに気付けるのも、アメリアの教師としての経験によるものであろうか―。

そして。

「あの、先生…」
いつもの如く遠慮がちに、彼が話しかけてくる。

「…お礼が、したいんです」

「お、お礼って、別にいいのよ。ただ、落とし物を届けただけなんだから…」
先生は、それがいつもの彼の律儀さから出た言葉だろうと思って、両手を振りながら答える。
しかし。

「いえ、その…いつも先生にはお世話になってますし、それに、これはとても大事なものだったので…
おまけに、わざわざ来て頂いたのに何もなしで帰すのは気が引けますから、ちょっとお茶でも、と…
あ、いやあの、お忙しいのに引き留めるつもりはないんですけど、都合が悪くなければ、その…」
彼のその態度は、いつもと違っていた。
気は遣いつつも、その言葉の端々には是非アメリアに立ち寄ってもらいたいという願いが色濃く表れている。
ざっと予定を思い返してみるが、これといったものはない。
それに、ここまで言ってくれる生徒を無下にするわけにもいかないだろう。

「…分かったわ。今日は少し余裕もあるし、お言葉に甘えさせてもらおうかしら」
アメリアがその誘いを断る理由は、無かった。

「ありがとうございます。どうぞ、上がって下さい」
待っていたその言葉に、カイルはいつも以上に相好を崩し、アメリアを招じ入れた。

奥の部屋に通されたアメリア。
レイアウト自体は、どの個室も基本的に大きく変わるものではない。
とはいえ、生徒それぞれの個性が色濃く現れるのが部屋というものである。
その点、カイルのそれは、実に彼らしいと言えた。

あらゆるものがよく整理され、掃除も行き届いた佇まい。
かといって決して殺風景なわけではなく、程好いコーディネイトが施されている。
安心して居られるような、そんな空間―。

「先生は、飲み物は何がいいですか?」
カイルがトレイを持って、テーブルの前に腰掛けたアメリアに尋ねる。
何だか喫茶店にでも来たような気分になったので、その気分に乗ってみる。

「それじゃ…カイル君オススメの飲み物をいただきたいわ」
その答えに、彼は予想外という顔つきを一瞬見せたものの、すぐに思考を巡らせ、メニューを探し出した。

「そうですねぇ…頭をスッキリさせるハーブティーなんかどうでしょう?ちょっと淹れるのに時間はかかりますけど…」
予想通り。
喫茶店で迷ったら、マスターに任せておけばまず間違いはない。
カイルも、コーヒーや紅茶といったありきたりなものではなく、興味を引く飲み物を提供してくれそうだ。

「まぁ、楽しみだわ。でも、あんまりレディを待たせちゃダメよ」
先生は期待を膨らませつつ、それでもちょっとした我が儘を言ってみる。

「…努力します」
アメリアのその”注文”に、カイルは額をコリコリと掻いて苦笑しながら答え、部屋を出て行った。

…。

部屋に一人残ったアメリアは、もう一度室内の風景を一瞥する。
男の子のものとは思えない部屋だな、と改めて思う。
成績優秀な彼は普段、どんな心持ちで過ごしているのだろう―。

ガタッ。
先生はやおら椅子から立ち上がると、その手がかりを求め、机の方へ歩いていった。
宿題になっている教科の本やノートは、未だブックエンドに立て掛けてあった。
どうやら、取り掛かるのはこれかららしい。
道理で、勉強サボってたな、という問いかけに反論できなかったわけだ。

だが、先生の目は、代わりに机の上に置いてあった、数冊の年季が入ったノートに釘付けになっていた。
表紙に何のタイトルも書き込まれていないことに、アメリアの好奇心はかき立てられる。

パラリ。
一番上に置いてあった『Vol.2』の印が入ったノートを手に取り、開いてみると―

「まぁ…」
そこには、カイル秘蔵の料理のレシピが、ギッシリと書き込まれていた。

パラ…パラ…
茶色く変色してもろくなったページを破らないように注意しながら、隅々に目を走らせる。
メインディッシュ、サイドメニュー、オードブルにデザート…
一見単純そうなものから、自分にも作れそうにないような本格的なものまで、バリエーションも様々だ。
しかも、そのレシピには、試行錯誤の跡が見られた。
調味料の量が鉛筆で塗り潰され、その横に新たな書き込みがされているというページが多々ある。
作る際のコツや、忘れたくないことと思しき点―恐らく失敗したのだろう―などは、赤ペンで印が付されている。
授業の時に時々彼のノートを見ることがあるが、それと同じぐらいの力が注がれていることが読み取れた。
努力家の彼らしい。

まだ比較的汚れておらず、書き込み半ばの『Vol.4』を読み終わる寸前…アメリアは気が付いた。
『Vol.1』が、この場にないことを。

その時。

「お待たせしました〜…あ」
湯気をくゆらせるカップをトレイに載せて、カイルが戻ってきた。
ノートを開いたまま、彼と目線が合う。

刹那、アメリアは、自分の行動を恥じた。
調子に乗り過ぎた。
いくら生徒とはいえ、ここは他人の部屋である。
許可もなくノートを覗き見するなどという、プライバシーを侵す行為が許されよう筈もない。
教師ともあろう者が、何をやっているのか―。

「…ごめん」
すぐにノートを閉じ、彼を正面に、頭を下げて謝る。

「…見られちゃいましたか」
恥ずかしげな顔をしてはいるが、心中は穏やかでないかもしれない。
彼は、嫌なことがあってもあまり顔に出すタイプではないからだ。

「ごめんなさい、勝手なことしちゃって…」
だから、もう一度謝った。

「そんな、構いませんよ。それには見られて困るようなことは書いてない筈ですから…」
カイルは、テーブルにトレイを置くのももどかしく、気に病まないで、という身振りと共にいつもの笑顔を見せる。
温厚な彼だからこそ、こうやって許してくれるのだと思う。
それゆえにアメリアは、
(見られて困ることが書いてあるノートがあるの?)
などという安っぽい突っ込みを入れたくなる衝動を必死に抑えた。

「お待ちどうさまでした。どうぞ」
再び着いたテーブルの前に、皿に載った上品な器が置かれた。
来客用として仕舞っておかれたことがよく分かる、真新しいカップ&ソーサー。

ふわっ。
カップから立ち上る湯気のコットンが先生の顔を包み込む。
途端に、アメリアは糖蜜がたっぷり入ったリンゴの雲に突っ込んだような錯覚に襲われた。
甘い匂いに覆われていること以外には何も分からない。
でも、その快い芳香ならば、いつまでも身を委ねていたい…そんな感覚。

「あらら、眼鏡が曇っちゃいましたね」
白い霞の向こうで、姿見えぬカイルの声がする。
教師として、声の調子から彼の顔つきまで推察できてしまうアメリア。
しかるに、その控えめながら面白がる彼の口調は、陶酔した意識を現実へと戻すに足るものだった。
慌てて拭き布を取り出し、眼鏡の蔓を指でつまみ、顔から離す。

ぼんやりとはしていたが、漸く、世界が輪郭を取り戻した。
さっきまではっきり見えていたカイルの蒼と肌色が、滲んだ水彩画のように映る。
詳細な視界で見たいという欲求に駆られ、アメリアはレンズを布で挟むように拭い、急ぎそれを顔に掛ける。
眼鏡のフレームは再び顔の一部に戻り、普段通りの世界が眼前に広がり、そして―
カイルの笑顔も瞳の中に甦った。

自分の正面に座った彼の顔は、いつもより嬉しそうな顔をしていた。
予想外の事態に慌てふためいた自分を見つめて―。
ふくれっ面の一つでもしたい気分だったが、彼を最初にからかったのは自分である。
それに、ノートを盗み見したという負い目もある。
仕方ないか、と、アメリアは溜息交じりの苦笑を漏らした。

「じゃ、いただきます」
気を取り直し、カイルが出してくれた温かいハーブティーのカップを唇へと宛がう。
黄金色とでも形容すべき、お茶にしては薄い色彩が口内に広がり、熱と甘さを伝えていく。
やがて、コクン、とお茶が喉に送られた。
同時に、先程から鼻を衝いていた薫りが、より強くアメリアの中を駆け抜ける。

「ん…甘くて美味しい…」
まるで子供のように、素直な感想。

「良かった…」
そして―その言葉は何よりも、カイルの胸に心地よいものだった。

「カイル君、ハーブティーって言ったけど、これは…?」
リンゴのような匂いでありながら、アップルティーとも違う。
自分が今まで知らなかった優しい味に惹起された教師特有の知的好奇心から、アメリアは尋ねる。

「カモミール、というハーブです。名前は聞いたことがあるんじゃないですか?」
彼の言うとおり、その名に聞き覚えはあった。

「ええ、確か昔から珍重されてきた香草よね。でも、口にしたのは初めてだわ」
その反応に、カイルはこのハーブの詳細な説明をしてくれた。
気分を落ち着かせ、身体をリラックスさせてくれる効果があること。
元々目立つ味ではないので、他のハーブとブレンドしてもよく馴染むこと。
花は見た目が良いだけでなく、他の植物から害虫を駆除する効果があること。

先生は聞きながら、心の中でその香草に彼自身を重ね合わせた。
決して目立った存在ではないが、陰で他の人の力になる、穏やかな青年―。

語らいながら、お茶を飲むこと暫し。

「御代わりをお持ちしましょう」
先生のカップの傾け方が深くなったことを鋭く察したカイルは、自分のハーブティーを素早く飲み干し、促した。

気に入った味をもう少し楽しみたい自分の欲心と、彼にこれ以上負担を掛けることを嫌う教師の理性。
二つの気持ちがアメリアの中で押し合い、せめぎ合う。

「え…あぁ、いいのよ、そんなに気を遣わなくて…」
辛うじて理性が欲心を抑え付けたが、それ故に答えはハッキリした断り方になっていない。
しかし。

「いや、遠慮なさらないで下さい。それに、その…もうちょっと待っててほしいんです」
カイルの説得と、彼の時間を稼ごうとするような不自然な態度―正確には、その態度で引き起こされたアメリアの関心―
それが欲心の背を押し…

「…そう?悪いわねぇ」
形勢逆転。
彼はニコリ、と微笑んで二人のカップをソーサーごとトレイに載せ、台所へと歩を進めていった。

…。

自分は教師としてどうなんだろう。
先程の失敗を繰り返さぬよう、席に着いたままでいることにしていたアメリアは、ふと考える。
教鞭を執る者は、いつ如何なる時にも理知に制御されねばならないというのに。
だが、今しがた理性を打ち負かした欲心は、もう一つの感情によって増幅されていた。
その感情の正体とは―

「…先生?」
カイルの声に、先生のその思考回路は寸断された。
予想よりも遥かに早く、彼は部屋に戻ってきていたのである。

「あの…用事があるのに無理に引き止めてしまいましたかね…?」
どうやら、考え事をしていた時の自分の顔は、カイルにそう勘違いさせるほど辛気臭く見えたらしい。

「え!?あ、ごめんごめん、ちょっと考え事してただけ。先生、今日だけは暇人なのよ」
彼の顔が曇るのを見たアメリアは咄嗟に、この部屋へ最初に来た時のように、戯れて見せようとする。
だが、不意を衝かれたからか、口からは上手いユーモアが出てこない。
焦りから、独り空騒ぎのように笑ってしまう自分が、やたらと虚しく思える。

その時、アメリアの目と鼻に、同時に届いた存在…
それは、話題に困った先生には救世主のように見えた。
導かれるように、注意をそれに向ける。

先程の甘い香りとは異質の、それでいてそれ以上に自己主張する、香ばしい匂い。
2杯目のカモミールティーと共にトレイに載った器の中に、それはあった。

「うわぁ、美味しそう…もしかしてそれ、カイル君が焼いたの?」
器の中には、口に丁度入るぐらいの大きさにまとめられた菓子が並んでいたのだ。

「ええ、まぁ…」
軽く照れ笑いを浮かべながら、カップとソーサーを銘々の席の前に、そして器を中央に置くカイル。
移り気だな、と自分で思いつつも、アメリアの意識は完全にハーブティーからそのお菓子に移っていた。

「簡単なクッキーなんですけどね。いいお茶菓子になると思います。召し上がってください」
彼に勧められ、待ってましたとばかりに器の中のクッキーをつまむ。
指に伝わってくる温かみは、それが焼かれて間もないことを示していた。
直ぐに食べたいという衝動を抑えつつ、そのお菓子をもう少し観察してみる。

こんがりとキツネ色に焼き上げられた生地には、それより濃い茶色の斑点が散りばめられている。
匂いも、単純に小麦粉が焦げただけのようなものではない。
形こそ不揃いだが、それがまた手作りの味わいをより強く醸し出していた。

芳しさに晒されながらじっくり見たことで、味を確かめたいという気持ちがますます強くなる。
その気持ちに逆らえなくなった時―

パクリ。
小振りだったとはいえ、手にしたクッキーを一つまるまる、口に収めてしまった。
食い意地が張り過ぎだ。
反省しつつ、口の中のクッキーを頬張る。

サクッ、サクッ…。
焼かれた直後の生地ならではの薫り高さが歯に当たって砕け、口の中一杯に広がっていく。
敏感な味蕾に、複雑に絡み合った味覚が幾つも去来するのが分かる。
同時に頭脳は、玩味されたその菓子の中から、過去自分が感じたことのある味を探し当てていた。

あぁ、バターがたっぷり入ってるわ。
成る程、この茶色いのはチョコチップだったのね。
このほんのり漂う風味は…バニラかしら。

感じたクッキーの味わいを、彼に伝えたいと思う。
が。

「…」
やはり、一口で食べるには多過ぎたようだ。
何か言いたくても、口の中に物を詰め込んだまま喋るような真似は出来ない。
咀嚼を繰り返し、やっとのことでクッキーを飲み込む。

「…良い味だわ」
開口一番、それだけは言わなくてはならないといった感じで、漸く口にするアメリア。
実際、このクッキーの味はその一言に集約されることに疑問の余地は無かった。

カイルは、静かに笑っていた。
喉に詰まらせんばかりにクッキーを食べたことへの可笑しさからか。
それとも、クッキーを褒めてくれたことへの嬉しさからか。
はたまた、他の理由からか―。

少し落ち着き、乾いた口の中をハーブティーで潤す。
残った甘みを流し去る、カモミールティーの爽やかな芳香。
彼の言うとおり、お茶菓子としては抜群の相性だな、と思う。

改めて、クッキーの詳細な感想を述べようとした時…
カイルは、トレイの下から1冊の古ぼけたノートを取り出した。

そのノートは、縁はボロボロで、裏表紙には所々に修繕の跡があった。
用紙自体が劣化して茶色くなっているのに加え、何かがこぼれたようなシミが点々と付いている。
だが、それがとても大事なものだということは、表紙を見て直ぐに分かった。
そこには、手書きの『Vol.1』という文字が記されていたから。

しかし、それを覗いて見て良いものかどうか―
先程のことが頭に浮かび、逡巡するアメリア。
だが、それを促すように、カイルの手がノートの表紙をパラリ、とめくった。
そして、そのままそれが先生の前に提出される。

差し出されるままにノートに目を落としてみた。
その1ページ目、最初の行に書かれていたのは…『チョコチップクッキー』の文字。
その下に、材料の詳細が記されていた。
濃厚なバターをはじめとする分量、舌に感じたバニラエッセンス、そして気付かなかったラム酒の隠し味…。
それは、先程の味わいと相まって、先生の知的好奇心をも充分に満足させるものだった。

ところがアメリアは、先刻見ていた『Vol.2』〜『Vol.4』と、このノートの違いに気が付いた。
まず、この文字。
カイルのものに似てはいるが、どこかクセが違う。
それに、その内容。
他のレシピとは異なり、このクッキーのものには修正の跡がない。
その時。

「―実はこれ、僕の母が作ったレシピなんですよ。
僕が初めて料理を作りたいと言った時、母はクッキーのレシピを書いて、このノートをくれたんです」
アメリアの胸の内の疑問に答えるかのように、カイルはその秘密を明かした。

「小さい頃、母は僕にこれをよく作ってくれましてね…いつも僕はこれをおやつに持って行ってたんです。
そして、このクッキーを持って行く時に包んでくれていたのが―」
そこで言葉を切り、テーブルの端に手を伸ばすカイル。

何を手に取ったかは、見ずとも分かった。
だが、それに目を向けないわけにはいかなかった。

「―先生が拾って下さった、これだったんです」
そう。
ワンポイントの刺繍が付いた、落ち着いた中にもセンスの光る洒脱なハンカチ。

「そうだったのね…」
深い感慨と共に、カイルに…そして自分に言い聞かせるように呟くアメリア。
自分が拾ったハンカチは、彼と母親を繋ぐ大切な絆だったのだ。

「母はいつも言ってました…このクッキーは、大事な人に『ありがとうの心』を込めて作るんだ、って」
想像を巡らせば、安らぎをくれる我が子に対する母親の愛情と感謝の思いは容易に理解できる。
だからこそ『ありがとうの心』を込めて彼にクッキーを作っていたのだろう。
彼の、そんな母親に対する敬愛がとても深いことは、よく知っていた。
だが、彼女はもう――。

「それで…僕もいつもお世話になっている先生方に、感謝を込めてお渡ししたいと思ってたんです」
彼の独白を聞きながら、アメリアは自分に向けられる生徒の目線を思い返す。

寮生活の生徒達にとって先生とは、頼れる先達であると同時に、厳しくも温かい親のようでもあるものだ。
特にアメリアは、生徒を優しく見守ることを信念としてきた故に、母性を感じさせることが多々あるのだろう。
とはいえ、母親というものを経験したことがないアメリアにとって、その評価はいささか複雑なものがあった。

カイルの眼も、初めはそのように見えていた。
彼の境遇を知ったときは、尚更そう思えたものだ。
ところが、時経つうちに、彼の眼差しにそれ以外のものを感じるようになった。
それに感応するように、彼に向ける自分の視線も変化していった―。

―それは、その理由を考えた時に、真っ先に否定したこと。
否…彼の気持ちを知らぬままには、決して認めてはならなかったこと。
それこそが、先程欲心を後押しした感情の正体。

「でも―」
カイルは、アメリアの手元のノートに伏せていた目線を起こし、その顔を見つめる。
そして。

「先生が今日、ここに来てくれて、良かった―」
優しく、温かく、愛しく、笑った。

嗚呼。
吸い込まれそうに澄んだ瞳の中に、アメリアは自分と同じ感情を見出した。
母親に向ける思慕とも、教師に向ける尊敬とも違う、それを。
彼も、淡いその想いを持っていたのだ―。
胸の内の焦げそうな気持ちは、頬に血の気を集まらせ、白い肌を仄かに染めていく。
きっと、彼女の瞳から溢れ出していた心の内は、カイルにも伝わっていることだろう。

だが、今度ばかりは、理性が欲心を強く強く抑え付けた。
今直ぐにでも彼の手を取って、互いの気持ちをぶつけ合いたいという、心の衝動を。
教師と生徒―その枷が外されたわけではないのだから。
それを外してしまったなら、それは彼の将来を、夢を奪うことになってしまう。
教師の端くれとして、魔法を司る者として、そして―彼の心を知る者として、その罪深さは誰よりも深く理解している。
それはきっと、彼も解っていること。
ままならぬ故、余計に切ない。

それでも、彼の心を、どうにかして傍らに置いておきたい。
私だけを見つめてくれる人の心を―。

「カイル君、貴方の感謝の気持ち、私が責任を持って他の先生達にも伝えてあげるから…」
それは、方便に過ぎないのかもしれないけど。

「このクッキー、持って帰らせてもらっていいかしら?」
せめて、貴方の『ありがとうの心』を―。

「ありがとうございます。是非、お願いします」
彼は、念願叶ったりという表情を浮かべた。
だが、その笑みの中に、ほんの僅かな残念さが隠されていることが、アメリアには判った。
このクッキーは、誰の為に焼かれたのかを知っていたから。
それは自惚れではなく、確信として捉えることが出来る。

「えぇと、それじゃこれを…」
カイルは、先生が持って帰ると決まったクッキーを、器に敷いてあったクッキングペーパーに包み込んだ。
しかし、部屋まで持ち歩くのに、これだけでは余りに心許ない。
二人は無言のうちに、これを持ち易く、しかも安全に包み込めるための方法を求めて目を走らせる。

「「あ」」
探し始めたルートは別々でも、二人は同じ場所で視線を止めた。
見つけたタイミングも、ほぼ同時。
そして、下した結論も。

カイルにとっては、母親がしていたように、大事な人にしてあげることができる喜びとして―
アメリアにとっては、彼と母親が結ばれていたように、今日、彼と自分とを結んだ絆として―

二人は微笑み、頷き合う。
こうしてカイルのハンカチは、クッキーの包装として、再びアメリアの手に収まった。

「ご馳走になったわ…どうも有難う」
帰り際、ハーブティーへの、クッキーへの、そして心休まる一時への礼を口にする。

「いえ、こちらこそ。わざわざ有難うございました」
彼は彼で、ハンカチを届けてくれたことへの、そして部屋に上がってくれたことへの礼を口にしている。
二人の挨拶には、互いに名残惜しさが滲んでいた。

「これで、勉強に専念できるわねカイル君」
宿題がまだであることを思い出させるように、最初と同じ悪戯っぽい笑みを浮かべてみる。
しかし、彼のリアクションは、最初とは違った。
真面目に受け答えしようとする様は同じだったが、彼は胸を張り、真っ直ぐに顔を見て答える。

「はい。僕…頑張って賢者を…いえ、もっともっと上を目指します。そして―」
そこでカイルは言葉を切った。
顔には、自分がこれから言おうとする言葉への照れが見て取れる。
でも、そこから先を皆まで言わせる必要は無い。
そう。
私の心は、いつも、貴方の傍にあるのだから。

「ええ。その時を楽しみにしているわ」
そしてアメリアは、優しく、温かく、愛しく、笑った。
カイルが、何も言えなくなるぐらいに―。


余談ながら。
件のチョコチップクッキーは、他の先生達におすそ分けされた6枚分を除いて、全てアメリアの口に収まったそうだ。
そのクッキーを食べる時の彼女の顔は、何故かとても輝いていた―
とは、もう1枚貰おうとして断られたミランダ先生の談である。

END