パリにて


 真正面にエッフェル塔が見えるトロカデロ広場。アフリカなどから仕事を求めて渡って
きたであろう多くの若者を見かけた。職もなく広場に集まり細長い風船を回しながら無表
情に近づいてくる。子供たちが皿をもって物乞いする。ISに入らなければいいが…。

 タックスヘブンを使っ税逃れ、通信費月額100万を手にしている一部の政治家。
 いっぽう、貧しさゆえに学校へ行けない人。
子供と一緒に遊んだり会話をしながら、考える
力や感性を育てていく保育士。
「人生に必要な知恵は全て幼稚園の砂場で学んだ」哲学者ロバート・フルガムの言葉だ。
それに介護士や契約社員の待遇。差別は貧富差だけでない。

     ニューヨークにて

念願のメトロポリタン美術館と世界でも有名なジャズ・クラブ・ビレッジ・バンガードに行ってきました。

今回のキャンセル待ちの激安ツアーにはジャズ・クラブは入ってなかったため、前日、ホテルのネットからライブハウス、ビレッジ・バンガード
を予約(ブルーノートは取れませんでした)。
翌日の夕刻、ハドソン川西側の田園ホテルからマンハッタンまでバスで40分、さらにセントラルパーク近くでタクシーに乗り換え、40分、1時間半かけ、ようやく到着。
まだスタッフも来ておらず、不安でいると、ようやく1人の客がやってきました。私より年配の客はビレッジ・バンガードには週2回やってくるそうで、
なんでも子供のころから60年近く通っているそうで、その熱心さにびっくりしました。
待つこと2時間あまり。そのころにはクラブの前の道路には100人以上の行列ができ、ようやく開演。
狭くて急な階段を下り、ステージと客席の境目のはっきりしない一番まえの席を確保することができました。
ギターのピーター・バーンスタイン中心のクァルテットで、演奏に打ち込んだ姿には、つい心も吸い込まれました。
 クラブ内で写真など撮れませんので、以下のURLをご参照ください。
https://www.youtube.com/watch?v=LD–uhH7msKM&list=PLHpL_zBPFQKBOk90siCeLZ2–PGrVvKQAF

 ホテルの時間制限があるため、1ステージで後ろ髪引かれる思いで店を出、ふたたびタクシーへ。
これが一方通行のため数キロ南下し、マンハッタン島の最南部まで来てから、Uターンし北上、マンハッタン中心部でバスを待つ間に
1,200円(日本では300円といったところ)のサンドイッチを食べていると、店員がすごいスピードで店内を片付け始めました。
他のお客もまだ10数人いるのに…、日本ではあり得ない光景でした。しかしよく考えると、サービス残業に関して、
かなりシビアなんですね。決められた時間は時間なんです。
 深夜12時過ぎにホテルに到着。ネット予約の確実性もなく、(本メールアドレスなので予約確認が取れません)疲れました。
 
 追伸) 昨年なんかと世界を騒がせたトランプさん。政治家でなく、不動産王といわれ、マンハッタン内に40のビルを持っているそうです。
東京と違って地下には厚い岩盤があり、高層ビルも地震等には強いマンハッタンは、中国人のバク買いもあり、かってのスラム街の面影もなく、
地価は高騰する一方だそうです。不動産王・トランプ氏がなんだか、土地成金に思えてきました。       (2019/1)



コペンハーゲンにて
  
日頃のトレーニングが役にたったお話し♪ ♪

 夕食を兼ね、コペンハーゲン中心街に位置するチボリ公園に行ったときのこと。
 ホテルから電車に乗り中央駅に到着。100段ほどある上りエスカレータのほぼ上りきっ
たころ、突然、女性の悲鳴声。
 ボクの目の前の100kg以上ある大柄な男性がそのまま後ろ向きに倒れてきました。
 とっさに身をかわし、右足を膝からL字に曲げ、男性の背中を受け止め、右手で首を
支えました。とっさの行動がなかったら、恐らく男性は後頭部を打つか、クリスマスで
混雑する中、さらに将棋倒しになっていたでしょう。
 日頃のトレーニングが役にたったお話しでした。
 (エスカレターが登りだったことも力学的に幸運でした)
    2019/12

  モスクワ紀行 2016
   (1)  

 福岡から4人、成田で合流したツアー客、計20人を乗せたモスクワ直行便は一路北上、シベリア上空へ。氷雪に覆われた無数の湖は、やがて幾重にも絡んだ糸状の川景色に変わり、それが延々と続きます。白蛇が氷の上を無数に泳いでいるようにも見えます。
 成田から10時間、国際空港に到着。モスクワ市内外に4つの空港があるそうですが、モスクワという空港名はありません。

 バスでモスクワ市内を抜け、ホテルまでの片側5車線の幹線道路を走るのですが、車の洪水でほとんど前に進みません。近年、自動車の普及により、市内での慢性的な渋滞は社会問題になっているそうで、これがモスクワとの最初の出会いでした。

 眠気をこらえ両側に立ち並ぶ高層集合住宅を眺めているうちに16時近くなり、重く垂れ込めた鉛色の空も、街の明かりを残して消えようとしています。             

 

                   モスクワ紀行(2)

 新旧ビルが立ち並ぶ街。無料供与されていた国営住宅はロシア移行時、民間に払い下げられました。集合住宅が多いのはソ連時代の共同意識、それに燃料の節約意識もあるそうで、市内は火力発電所から供給される温水により、セントラルヒーティングになっています。集合で月額およそ3千円、郊外の戸建てだと1万円超だそうです。

 いっぽう、新築住宅価格は高騰を続けており、富裕層向けの市場となっています。モスクワ環状道路内のマンション価格は3LDKで1~2億円と、世界でもトップクラス。第二次大戦の引きガネとなった株価暴落、計画経済ゆえに世界大恐慌の影響を受けなかった唯一の国も、リーマンショックではもろにその影響を受けたそうです。

 さて、交通渋滞同様、車のボディの黒い汚れには閉口しました。現地案内人に尋ねると、道路上に撒かれた融雪剤とのこと。「洗車は?」「洗車しても翌日はまた同じですから」たまに汚れてない車を見かけましたが、それはリッチな証拠。洗車代が1回2、3千円ということで納得しました。この融雪剤、生態系への悪影響を危惧する声もあるといいます。

 空港から30分程度の距離を2時間かけ、ホテルに到着。自宅を出てから15時間の長い旅でした。 


            モスクワ紀行(3) ーモスクワの冬は暑かったー


 ホテルの部屋は思ったより広く、設備も申し分ない。格安旅行にしては有難いもてなしで、窓の向こうに広がるモスクワの灯りをしばらく眺めていました。ところが、時が経つにつれ、部屋に入るまえの暖かさが暑さに変わり、寝る際にはほぼ下着のみという有様。原因は旅行用に買ったヒートテック下着にありました。後で知ったのですが、ロシア人は1枚の防寒着で室内外の温度差を調整しているそうですね。7、8年まえ、日本ブームにわくロシアにユニクロが進出、店舗数を増やしていますが、目玉のヒートテックはまったく売れていないとのこと。

 翌朝7時、朝食まで時間があったので、ホテル出入り口近くに設けられた喫煙場所へ行きタバコを吸う。氷点下20度の中、学校へ急ぐ6,7歳の女の子が母親に手を引かれ目のまえを通り過ぎていきました。 



            モスクワ紀行(4)

 福岡を出て20時間余り、ようやく観光初日。9時、バスでホテルを出発。外はまだ暗い。行き先はモスクワ北方90キロに位置するロシア正教会・トロイツェ・セルギエフ。舌をかむような修道院名。その中のウスペンスキー聖堂、ヨーロッパで見られる教会とは建築様式も異なり、外観は原色が目立ちます。白色の外壁、屋根はロシア正教のシンボルともいえるネギ坊主。中央にイエスを象徴する金色のドーム、四方を『新約聖書ー福音書』の記者、ルカ・マタイ・マルコ・ヨハネを表すドームが取り囲んでいます。本聖堂は、クレムリン内にある同名の聖堂を見本とし、16世紀イヴァン4世の命により建造されたそうです。ロシア正教会において最も重要な修道院のひとつで、現在でも人々の象徴として愛されているそうです。

 ロシア正教の源流はギリシャ正教。当初は素朴な「ネギ坊主」だったようですが、「モスクワは第3のローマ」という考えのもと、ギリシャ正教から独立、教会の権力を高めていきました。

 しかし、ソビエト時代に政府による厳しい弾圧を受けた教会、聖堂の近くにある鐘楼は破壊されてしまいます。その後、歴史はソビエト崩壊と動き、世の中は混乱。人々の多くはロシア正教に救いを求めます。

 高さ88m、重さ75トンの世界最大といわれる鐘楼はこんにち復元され、驚いたことに、国民の70%がロシア正教徒だといわれています。ただ、彼らは、「教会の活動は信仰・宗教上の問題に限定されるべきだ」とし、教会による政治への積極的関与を否定しています。       


           モスクワ紀行(5)

 童話の世界から抜け出たような聖堂。帽子を取って堂内に入る。豪華な祭壇、壁から天井までフレスコ画で覆われ、外観とはまた異った様相を呈しています。フレスコ画に描かれたキリストやその弟子、天使たち、賛美歌が流れる中、多くの信者が家族単位で拝礼しています。

 中で目を引いたのが十字架。普段目にする十字の上下に2本。上部はキリストの罪状書き、下部は、足台を表しているそうです。キリストは刑の執行にあたり、人々の罪を背負ったと聞きます。

 キリスト教のみならず、宗教のほとんどが人の命、平和を尊びます。なんの罪もない子供たちを殺戮し、敵も味方も人として扱わない戦争。なのに宗教がからんだ戦いや憎しみは歴史から消え去ることがありません。

 祭壇のキリストを仰ぎながら、ふと、ヨルダン川西岸に建設を続ける分離壁を思い出していました。愛を説くキリスト教。それを信じてやまないイスラエルが、なぜあの広大な壁を造るのか。過去から今日まで、連綿と続く他国の利害が絡んだ複雑な事情も分かりますが、壁が目前の空間を遮り、自由のないパレスチナの子供たちが可哀想でなりません。いっぽう、対立するイスラエルの子供たちも民族、宗教間の差別を目の当りにして育つ。彼らも被害者でしょう。民族や歴史の重さを本や画像でしか見たことのない、現実を知らない者の浅はかな想いでしょうか。

 聖堂を出、広場で無邪気に遊ぶ子供たちの、屈託のない瞳を見ながら、次の目的地に向かう。

              


           モスクワ紀行(6)

 午後、ふたたびモスクワに戻り、市の南西に位置する雀が丘へ。ソビエト時代に『レーニン丘』と呼ばれた丘陵は眼下にモスクワ川が流れ、正面に80年のモスクワオリンピックでメイン会場だった競技場、モスクワ市街が一望でき、改めて広大なロシアの空間を感じることができます。ロシア文学にも多く取り上げられ、トルストイの『戦争と平和』にも登場します。

 さて、展望台と道を挟んで背後にはロシア最大・28階建てのモスクワ大学。スターリン様式で、その高さ、広がりといい、見事なものです。学生や院生、研究生、職員数が5万人余り、温水プールや博物館、郵便局まであり、広大な敷地はひとつの町を呈しています。ちなみに日本の高校から直接ロシアの大学に入学するケースはないそうで、身元引き受けなど、条件の難がその理由にあげられます。送り出す保護者にロシア語、最低、英語力は必要になります。大学生や社会人が大学や会社からの留学生として行くケースはあるようです。学費も年60万円程度と日本とさほど変わりなく、ロシア人の年収から考えるとむしろ高嶺の花といえるでしょう。学力等が高い学生は例外とききます。ただ驚いたことがひとつ。ソ連時代にある宗教団体の名誉会長が名誉教授と名誉博士号を授賞したこと、驚いた次第です。        


          モスクワ紀行(7)

 雀が丘からモスクワ川へ通じる歩道を下ると、白い城壁に囲まれた女子修道院群が目前に広がる。白を基調に赤レンガの建築群はバロック様式で、乙女に似たやさしさで、周りの景色に溶け込んでいます。手前に広がる湖は、チャイコフスキーがこの周囲を散策しながら、「白鳥の湖」の構想を練ったという逸話が残っています。

 午後4時、再びバスに乗り込み、市内中心地へ。ボリショイ劇場の前を通り過ぎるころにはすっかり日も落ち、クリスマスを祝うイルミネーションが古い石造りの建物にオレンジ色の鈍い光を落としています。ロシアらしい落ち着いた輝きはヨーロッパのそれとは、また異なった趣があります。

 車で混雑する中、ようやくレストランに到着。夕食後、土産売り場へ。店内の椅子に座り、ぼんやりしていると、正面の壁に掛けられた一枚の小さな油絵が目に飛び込む。田舎の小さな教会、甕を頭に水汲みに向かう婦人、小さな油絵ですが、一瞬で惚れ込み値段の交渉へ。現金ならルーブル精算ですが、多少高額なのでカード支払いにし、現地案内人に入ってもらい、円で交渉しました。ところが後日カード請求書をみると2割ほど高い。旅行会社に連絡。店はルーブルをユーロに、ユーロを円に換算して清算していたようで、戻ってきました。

 かって海外で購入した商品は消耗品を除いて3点。バルセロナの路上で直接画家から買ったマーケット路の秋の夕暮れ画。イタリアで買ったマリオネット、それに今回買った風景画。いまでも当地を思いおこさせ、和ませてくれます。


       モスクワ紀行(8) ~歴史に学ぶ~

 観光二日目は政治の中心クレムリン。南にモスクワ川、20の城門と塔を備え、三角形の城壁の中には旧帝国時代の宮殿や壮大な聖堂が林立しています。大統領府・官邸もその一角にあり、大統領府の建物に隣接して、城門外に赤の広場が広がっています。赤の広場に立ったとき、モスクワの中心にいることを、体全体で感じることができます。毎年5月にはナチ戦勝記念行事が盛大に催されます。その過ちを犯さない願いを込め、ナチ党について少し触れたいと思います。

 当時、ドイツは第1次大戦とベルサイユ条約による膨大な賠償金をかかえ、想像外のインフレに陥ります。それに、追い討ちをかけるように世界恐慌と、労働者や農民、中小企業は困窮し、失業者も5百、6百万人と膨れ上がっていきます。ヒトラーはこうした資本主義経済で生じた矛盾を利用し、彼一流の弁舌と宣伝により国民、特に中産階級の人々に訴え、権力を自分のものにしていくのです。

 かつてミュンヘン一揆で失敗していたヒトラーは、合法的手段で政権を目指そうとします。そのためには立法権を手中に収めること。32年の選挙で第2党の社会民主党、第3党の共産党を破り、第一党に返り咲いたヒトラーは、即、国会を解散。政府に立法権を委ねる全権委任状の制定。最も先進的といわれたワイマール憲法を停止、ファシズム的勢力を固めていくのです。


          モスクワ紀行(9)

 観光三日目、レーニンが眠る赤の広場を後にし、午後からは北西に位置する旧首都・サンクトペテルブルク(かつてのペトログラード)へ。フィンランド湾に面し、ネヴァ河口に人工的に建設され、ロシア革命の引き金になった都市でもあります。

 第一次大戦の対ドイツ戦は想像外の死者を出しながら、残された人々も極寒の中、貧困と飢えに陥り、不満が爆発。デモに兵士も合流。民衆蜂起は全国に波及し、皇帝ニコライ二世を退位に追い込みます。  300年続いたロマノフ朝が崩壊。その後、富裕層からなる立憲民主党を中心にした臨時政府が成立。(二月革命) いっぽう、大戦の継続に反対する労働者・農民からなるソヴィエト(会議)が登場。二重権力の状態が生じます。

 しかし、庶民の期待とは裏腹に、戦争とそれに伴う生活苦は続きます。こうした中、亡命先から帰国したボリシェヴィキのリーダー・レーニンは四月テーゼを発表「すべての権力をソヴィエトへ」と訴えます。もう少ししたら戦争も終わり勝利の女神が……と、戦いを続行しようとする臨時政府にとってはレーニンの考えがおもしろくありません。臨時政府とレーニン率いるボリシェヴィキの対立がいっそう深刻になっていきます。

 臨時政府からドイツのスパイの疑いをかけられたレーニンは再び逃亡。社会革命党のケレンスキーが政権を握ることになります。が、ケレンスキーも戦争継続を主張。民衆の期待は再びボリシェヴィキへ。

 臨時政府を倒し、10月革命を成功させたレーニンは「平和と土地についての布告」を発表。平和と民族自決を掲げ、さらに、小作人を大地主や富裕層から解放しようと旗を掲げるのです。

 しかし反革命派との対立。さらに英・仏・米・日(シベリア出兵)の反革命派援護を目的とした派兵。それを迎え撃つためのやむなき「戦時共産主義」体制など、ソ連邦成立までの遠い遠い道程が始まるのです。

 さて、サンクトペテルブルクまでの特急。車窓に延々と流れる白樺林。周りの乗客の多くは眠りについています。「何もない風景ですな」だれかが呟く。氷点下30度の氷雪に覆われた世界。白樺林の向こうに時折現れるマッチ箱に似た家々。点在する裸電球の下で生活する人々を想像しながら、いつしか戦後の貧しかった少年時代を思い出していました。流れる風景は単調なだけに様々に表情を変えながら、白い風景もやがて夜の底に沈んでしまいました。サンクトペテルブルクまでひたすら走る列車とともに、本紀行文も閉じることにします。     おわり 

 レーニンがもう少し長生きしていたら本当の社会主義国家が成立していたことと考えられます。残念ですが、レーニンの考えは戦後のポツダム宣言や日本国憲法に反映されています。

戦後、小作人を地主から解放した農地改革がそうですし、サラリーマンの労働条件など、現在の私たちにも関わる諸問題にもレーニンの考えが生かされていっても決して過言ではないでしょう。