嫉妬虫と小鬼

 

(一)

嫉妬虫です。ノミやシラミより小さく、そのうえ透明な生き物ですから、人さまの目には見えません。だから、ぼくらの数は世界の人間さまの数より多いのに、彼らはぼくらの存在に気づいていないのです。

 ぼくらが愛するのは人間さまです。それも高慢ちきで、いばりたがり屋で、他人の幸せを羨む、そうしたタイプなんです。

 赤子はいただけません。なぜかって?。

 と申しますのも、彼らには邪心がないからです。

それじゃ、ここらでぼくらの食事を紹介しましょう。賢明な読者諸氏にはすでにお分かりになられたと思いますが、なにを隠そう、人さまの魂なのです。グルメ旅行などと、贅沢なことは申しません。ぼくらは、長生きのための栄養食の研究をするため世界中の食べ物という食べ物を口にしてきました。しかし、地球上でやはり、人さまの魂ほどおいしくて、栄養のあるものは他にはないでしょう。

 かって、人さまの歯に巣食っているばい菌と会談したことがあります

会談は、最初から荒れ模様でした。彼らは人さまの歯くそや、歯のあいだにつまった食べ物のカスがこの世で一番うまい、と口角泡を飛ばしながら興奮していました。

 しかし、なんといっても彼らは人間さまの口から外へ出たことがないから視野も狭い。だから、もっと栄養があっておいしいものを探そうなどと努力もしないのでしょう。砂漠の中を黙々と歩いていくだけの悲しい人生、いや虫生です。人間さまほどじゃありませんけど、悲しい宿命を背負ったものです。同情せずにはおれません。

 前回はばい菌との会談でしたが、今回は小鬼との会談です。なかなかスポンサーがつかず、そのうえ財政も苦しいため、会議室も予約できなかったのですが、天の邪鬼が色々と面倒を見てくれ、ようやく会談にこぎつけることができました。

天の邪鬼は四天王に踏みつけられて醜悪な顔をしていますが、あれでなかなか気立ては優しいのです。権力にたてついたばかりに、あんな惨めな格好に仕立てられたのでしょう。気の毒でなりません。

 さて、話し合いですが、場所は天の邪鬼が提供してくれた山あいの小さな縁切り寺の本堂の中で行なわれました。

しかし、今回は前回と異なり、相手はまだ子供。話しのテーマも理解できない状態で、そのぶんばい菌より感情的になり、どだい会談にはなりませんでした。

そこでぼくたちは相談のうえ、十数匹いる小鬼たちの中から阿弥陀くじでひとりを、いや一匹を選び、ぼくたちの世界を実際に経験してもらうことにしました。

 考えてみれば、討論など余り役に立たない。評論家などそのいい倒です。

おっと、誤解しないでください。評論家といってもぼくらの世界でのそれ、人間さまの世界ではありませんので誤解しないでください。

さっそく、ぼくは会談を途中できり止め、リーダ格の小鬼を一匹連れて、旅に出ました。

人間さまのように、やれ飛行機だ、新幹線だ、くるまなどと機械のお世話になることもありません。風が乗り物です。

それに、ハワイだ、ロサンゼルスなどと遠出する必要もないのです。ぼくたちの周辺には、まだ見たり聞いたり、体験しないことが、いかに多いことか。それこそ、無数に転がっているです。

 もっとも、世界を旅して視界を広くすることも大切とは思っていますが……。

 

(二)

「小鬼くーん、じゃあ、出発するぞー」

そう言うが早いか、嫉妬虫はもう風に乗って空を泳いでいます。

 小鬼も、急いで風に乗りました。

 小鬼は子供ですが、体格だけは嫉妬虫よりひと回り大きく、血を吸って腹の突きでたノミに似ています。

 

風は気まぐれ あるがまま

じぶんのちからを知っている

無駄な力は使わない

ぼくらも生きよう

  風のよう

 

 嫉妬虫は初夏の風に揺れながら口笛を吹き、気まぐれに鼻歌など歌っています。

彼らは渓谷に沿って進み、やがて土やコンクリートが剥きだしになった、緑の少ない灰色にくすんだ住宅地にやってきました。

 狭い路地には買い物かごをぶら下げた四十過ぎの女性がふたり、なにやら夢中で話しています。

「下を見てごらん。あそこで、芋みたいに太った女性とキリギリスのように痩せた女性が立ち話をしてるだろ」

「うん」

「あのご婦人がたは、どうやら中学時代からの知り合いで、学生時代は勉強にスポーツに、互いによきライバルだったようだね」

「嫉妬虫さん、あの人たちには初めて会うんでしょ」

「そうだよ」

「だったら、どうしてふたりの過去など分かるの?。二人の学生時代を知っているわけじゃないでしょ」

小鬼は小さな目を白黒させながら尋ねました。嫉妬虫は胸をはって答えます。

「それはね、人間さまの魂を食ってるからさ。魂を食っていると、人間さまが何を考えているか、さらに人間さまの微妙な感情の動きまでが、手を取るように伝わってくるんだ」

「微妙な感情の動きまでも伝わる……?」

 小鬼は嫉妬虫の言葉が理解できないで、しきりに小首を傾げています。

「音叉って知ってるか?」

「うん。一度、見たことがあるよ。ピアノの調律のとき、叩いているアレだろ」

「そう。音叉をたたくと、近くにある別の音叉や板などが震えるだろ」

「共鳴するんでしょ」

「そう。その音叉ように、人間さまの感情の動きが、振動となってこちらに伝わってくるんだ。楽しいぞ」

「ふーん」

「ただ、言っておくけど、空気を媒体にして人間さまの心の中を知るには、並大抵の努力じゃできない。心を空にしなくちゃならん。心頭を滅却し、風の音を聞くのさ」

「なんだか、お坊さんの説教に似てきましたね」

「グホっ、坊主の話はやめてくれ。

 いいか。おまえに心頭を滅却せよと言っても、どだい無理なはなしだ。でも、いまから簡単な方法で、人間さまが考えていること、つまり人間さまの本音を聞かせてあげるから楽しみにしてな」

「ほんと!」

小鬼はうれしそうに太鼓腹をたたいています。

「ふたりに、もっと近づいてみよう」

嫉妬虫はそう言うが早いか、小鬼の糸のような手首を握って、急降下しました。

彼らは、婦人が話している足もとに降り立ち、ノミのように跳ねながら、ふたりの婦人の肩にそれぞれ乗っかりました。

 二人とも時々、口もとに手をやり、目の底を鈍く輝かせながら話しています。どうやら、やせぎす婦人が息子の自慢ばなしをしているようです。

「オホホ……、うちの息子ですか」

 やせぎす婦人は背を背後に反らせながら、嬉しそうに笑いながら、話しを続けます。

「長男と次男はですねえ、まあまあですけど、三男の清春がさっぱり。やっぱり大学は一流校を出てませんとねえ」

「たしか三男の清春くんはK大の農学部を卒業なされて、今年、大手缶詰会社に入社なされたとか……。

 いま流行のバイアテクノジーとかいうものを研究なさっていらっしゃるんでしょ。立派じゃありませんか。うらやましい限りですわ」

「ああ、バイアテクノジーじゃなくて、バイオテクノロジーのことでしょ」

「そうそう、そのバイオテクノとかいう……」

「でも、その会社、一部上場しているんですけど、余り将来性がないみたいで、いつ倒産してもおかしくないらしいんです。なんだか、頼りなくってねえ」

 

太っちょ婦人の肩にとまっていた嫉妬虫が、いまだ、とばかりに小鬼に言いました。

「小鬼くん。きみは、太っちょ婦人の心の腑の中へ入れ。ぼくはやせぎす婦人の中に入るから」

「心の腑って、なーに?」

「簡単に言えば、魂だ」

「でも、どうやって心の腑に入るの?」

「口から入るんだ。口は災いの門って言うだろ」

「なあるほど。兄貴、うまいこと言うんですね。

 でも、口に入ってから、どうするの?」

「兄貴!。妙になれなれしく言うんじゃないよ。口に入れば、あとは自然に心の腑に落ちていくから心配しなくていい」

「分かった」

「しっかり魂の声を聞くんだぞ。いいね」

 やがて、太っちょ婦人の心の腑に入った小鬼の耳に、息子の自慢話しを聞かされている太っちょ婦人の心の腑の声が聞こえてきました。

(チェッ、えらそうに。これじゃ息子たちの自慢ばなしじゃないの。

 それに、やっと入社できた勤め先の缶詰会社の悪口まで言って……。いったい、自分をなにさまと思ってるのかしら)

 

「おーい、いまの太っちょ婦人の声、聞こえたか?」

 嫉妬虫が尋ねました。

「うん、聞いた。聞いた。すごいなあ。これが本音の世界だね。楽しくなって、なんだか背筋がゾクゾクしてきたよ」

 小鬼の声は喜びに、心なし震えています。

「まだまだ、息子の自慢話しは続くぞ」

 小鬼と嫉妬虫は婦人の建て前と、本音の声にじっと耳を澄ましています。

「二男ですか?」

 嫉妬虫が言ったように、やせぎす婦人の息子の自慢話しは立て板に水で、さらに続きます。

「今年の冬にアメリカで学会があるものですから、そのために背広を新調してくれって。昨夜、京都から電話してきたんです。

 三十三にもなって、まだ親に頼るんですから、困ったものですわ」

「結構じゃありませんか。子供って、いくつになっても子供ですわ」

 ふたたび、太っちょ婦人の心の腑の声が聞こえてきました。

(フン。結局、息子がアメリカである国際医学会に出ることを自慢してるだけじゃない。だから、それがどうしたというのよ。

たしかに息子たちはすばらしいかも知れない。でも、亭主はなんなのよ。気が小さくて神経質ななんの魅力もない男じゃない。それに比べたら、うちの旦那の方がまだいいわ。

 そうそう、このへんで息子から亭主に話題を変えなくっちゃあ)

 太っちょ婦人も負けてはいません。そう思うが早いか、さっそく太っちょ婦人は話題を変えて尋ねます。

「ところで、おたくのご主人、課長に昇格なさったとか……」

(まあ、そんなはなし、どこから聞き付けたのかしら……)

 やせぎす婦人は、だれにも話していない亭主の課長昇格を太っちょ婦人に知られていることが不愉快でなりません。しかし、笑いながら否定しました。

「ホホホ……。主人が課長だなんて。まだ係長にもなっていないんですのよ。

 それにしても、そんな話し、だれからお聞きになったの?」

「皆、噂してますよ。羨ましいって」

「まあ!。あたくし、そんなはなし、亭主に聞いてもいませんわ」

「あら、じゃあ、課長さんになられたという話し、デマかしら。でも、良子さんがおっしゃったんですのよ」

 良子さんといえば、町内でも有名な仕切り屋で、女ボスです。良子さんに楯突いたばかりに仲間はずれにされたり、いじめにあった婦人は数知れません。

 太っちょ婦人は良子さんの名が出て、背筋が凍り付くのを覚え、顔色を変えました。

「じゃあ、うちの主人、課長に昇格したのかしら。そんなこと、主人、なんにも話さないものですから」

 やせぎす婦人は町内の女ボス、良子さんに楯突かないために、そう言ったまでで、昨夜は家族でくす玉まで作って、亭主の昇格祝いをしたばかりでした。

「それにしても、主人の会社は小さな小さな会社でしょ。課長といっても、人さまにお話しするようなことでもありませんわ」

 やせぎす婦人は照れ笑いをしながら、今度は太っちょ婦人を持ち上げようとしました。

「それに比べ、おたくのご主人は一流大手商社の部長さんですよね。うちの主人とは月とスッポン。それこそ羨ましい限りですわ」

「一流商社だったら苦労なんかしませんわ」

 会社名は一般に知られていても、一流の大手商社ではありません。それに一年ほどまえ、入札にあたり、社長クラスの経営陣が政治家に賄賂を送って、贈賄で逮捕された汚点があります。そうしたことはやせぎす婦人も知っているはずです。

(まあ、憎たらしといったらありゃしない。わざと一流などと…、イヤミだわ)

 息子の自慢ばなしをさんざん聞かされたあげく、亭主の勤め先までからかわれたような気がして、太っちょ婦人としては、おもしろくありません。プライドを傷つけられた侮しさに、全身をワナワナと震わせています。

 しかし、彼女は負けん気から表情が歪みそうになるのを必死に堪えながら、笑顔を取り繕っています。いくら笑顔をつくっても心の中は隠せやしません。子供の笑顔のように、笑顔は本来、左右対照なはずですが、やせぎす婦人の笑顔は神経質に醜く歪んでいます。

 やせぎす婦人はその表情がおかしくなって、口もとにうすら笑いを浮かべ、涼しげな顔を太っちょ婦人に向けています。

 太っちょ婦人もここでうろたえて視線を反らしたら負けになるような気がしました。口のまわりを手で押さえ、怒りと嫉妬と不満が入り混ざった感情を必死に隠そうとします。まさに喧嘩直前の気の張りようです。

 

「小鬼くん、どうだ?」

 嫉妬虫が尋ねました。

「いやーあ、参りました。まさに阿修羅も顔負けですね」

 先輩の阿修羅のことを阿修羅などと呼び捨てにし、小鬼は無邪気にはしゃいでいます。

「ところで、小鬼くーん。ここらで太っちょ婦人の苦しそうな顔、見たいだろ」

「うん。見たい、見たーい」

「よし。じゃ、きみはやせぎす婦人の心の腑に入って、太っちょ婦人の表情を観察しろ。

 じゃあ、互いに居場所を変わるぞ。いいかー」

「いち、にいのー、さん」

 嫉妬虫と小鬼は婦人の口から出ると、地を飛び跳ねて小鬼はやせぎす婦人へ、嫉妬虫は太っちょ婦人の心の腑の中へ入っていきました。

 小さな穴から外界が見えます。ちょうど真っ暗な部屋の中にいて、ドアの小さな節穴から日が当たっている外を見ているような感じです。

「小鬼くーん、太っちょ婦人の顔が見えるだろ。よーく、観察しろよ。勉強になるぞ」

「うん。それにしてもイライラした顔してるなあ」

「そうだろ。一見、笑っているような顔はしているけど、どうして、どうして」

「あっ、眉がひきつった。あーっ、こんどは唇をヘの字に結んだ。おもしろい、おもしろいなあー」

 小鬼は小踊りしながらはしゃいでいます。

「ほんの瞬間だけど、互いにひと息つくように顔をしかめるだろ。

 自分でもそうした顔つきが、いかに醜いか分かっているものだから、できるだけ相手にさとられまいとする」

「かわいそうな気もしますね」

「業の深い人間ほど、それが強いようだね。相手の幸せを、ちょっぴりでいいから、いっしょになって喜んでやる。ただ、それだけで、気持ちは非常に楽になるし、相手からも愛され、慕われるのになあ」

「自分さえ良ければいいからという気持ちが強いんでしょうね」

「赤ちゃんの顔を見たことがあるだろ。彼らの顔が美しく見えるのは屈託ないからだ。邪心がないから、澄み切った気持ちがそのまま表情にでる。笑顔も左右対称で、ゆがみがない。

 もっとも、彼らの心の臓はぼくらにとって、おいしくもなんともないけどね」

「あっ、なにかムシャ、ムシャ、音がするけど、なんだろう?」

 小鬼が驚いたように言いました。

「エヘヘ……。おれだよ」

「どうしたの?」

「いま、話ししただろ。太っちょ婦人の心の臓を食ってんだ。

 おまえも、やせぎす婦人の心の臓を食ってみな。それは、うまいぞー」

「うん」

「……」

「あれーっ、いままで聞こえていた音が急に大きくなりだした」

「それは心臓の音だ。おまえがやせぎす婦人の魂に食らいついたから、心臓の鼓動が急に速くなったってわけだ」

「ところで、さっきから不思議に思っているんですけど、二人とも仲が良くないのに、どうして、いつまでも長話しするの?」

「それはオレにも理解できないけど、互いに仲の悪い間柄でも長話しになることはよくあるようだね。

 世間話しによってまわりの情報を色々と集めているのかも知れないね」

「ぼくらだったら、嫌いなら嫌いで必要以外は話しはしない。かわりに、相手とは互いに干渉もし合わないのにね」

「そうだろ。歯の浮くような世辞も言わない代わりに、悪口も言わない。それに、嫌な相手でも、ちゃんと相手の立場や気持ちを理解しようと努めるだろ。そりぁ、たまには喧嘩もするけどね」

「うん。でも、人間さまって高級な動物なくせして、ボクらでも理解できないぐらい原始的なんだね」

「ああ、そうだよ。人間さまって全部じゃないけど、多くのこ婦人さまがゴシップ好き。他人の秘密を聞き出すのが好きで、そのため家業も忘れて、長い時間しゃべりまくる」

「うーん、分かんないなあー」

「それでいて、結構疲れているんだ」

「ますます、分かんなくなってきた」

「しーっ。また、なにか話し始めたぞ。やせぎす婦人だ」

 

「おたくのご主人、T大卒でしょう。それにゴルフやテニス、音楽鑑賞、絵画などと多趣味でいらっしゃって、ほんとうに羨ましい限りですわ。

 それに比べ、うちの亭主ときたら、酒とパチンコ、それにドライブでしょ。たまの休みといったらテレビを見ながら家でゴロゴロ。まったく情けなくなりますわ」

やせぎす婦人が、夫の愚痴をこぼしています。どうやら、これは本音のようです。

 しかし、本音に対し本音で応えるのは禁物です。相手の亭主の愚痴に対し、「そうですね」などと相づちを打とうものなら、たちまちお互いの関係は冷え切ったもになってしまうでしょう。

 やせぎす婦人は夫の愚痴をしゃべってはいますが、ちゃんと相手の否定の言葉は期待しているのです。

「そんなことありませんわ。おたくのご主人は家庭サービスはちゃんとなさるでしょ。先週の休みも、家族の皆さんで九重高原まで家族旅行されたとか。

 それにひきかえ、うちの旦那ときたら休みといえばゴルフばかり。まったくイヤになってしまいますわ」

「でも、ご主人は部長さんですから付き合いも大変でしょう。ゴルフもお仕事でしょうから」

今度は太っちょ婦人のプライドがくすぐられ、さらに調子に乗って得意気に話しています。

子供は三流の大学をやっとのことで卒業しましが、亭主は一流のT大を卒業し、商社の部長職にあるのです。やせぎす婦人とは、生活のレベルさえ違うと、太っちょ婦人は内心自負しています。

知っているくせに、嫌みにも吉本商社という一流大手の社名をわざと持ち出され、傷ついた太っちょ婦人としては、ここらで攻勢に転じなければプライドが許しません。まさに、女同士の「天下分けめの関ケ原」といってもおかしくはありません。

 太っちょ婦人は大島つむぎの裾を軽くはたくと、咳払いしてから言います。

「このへんの道は埃っぽくて大変でしょう。これじゃ、お洗濯ものを干していても、すぐに汚れてしまいうでしょう」

「ええ、ほんとに弱り切っているんですのよ。それに大型ダンプなんかが通ると、家まで揺れて、わたくし、少々ノイローゼ気味ですわ」

「まあ!、あなたがノイローゼですって。それは、よほどひどいんですわね。

 なんでしたら、主人の学生時代の知人が市役所に勤めてますから、そちらに頼んでみましょうか。それで駄目なら、市会議員に頼んでみてもいいですわよ」

込りは、狭い敷地に小さな古びた家が軒を並べています。やせぎす婦人の家は、その奥の三十年ほどまえに建てられた古い二階建てのアパートです。

近くには町工場も多く、時折り、鋭い金属音が鼓膜を突きます。

 やせぎす婦人は、自分もパートに勤めながら、三人の息子を世間並みに大学へやったのです。

 長男はT大の研究室、二男はW大の助教授で医学を専攻、三男が大手電気会社の研究室で働いているのも、家族の皆が協力し、血のにじむような努力があったればこそです。努力なしの人生など考えられません。

 彼女は、それだけに、コネなど嫌っているのでした。

自分たちは汗して働き、安い給料の中から税金を納めているのです。役人や議員も、その血税で生活している。なのに、役人の口添えひとつで、道路などどうにでもなる。

 だったら、コネがなかったら、いつまでも舗装してくれないのだろうか。

 やせぎす婦人は、目のまえの太っちょ婦人よりぬくぬくと生活しながら、権力の座に腰をおろし、甘い汁を吸っている役人に対し、持っていき場のない憤りを感じずにはおれなかったのです。

しかし、役人の顔はそこにない。現にいるのは、豚のように太った太っちょ婦人です。彼女の目には太っちょ婦人が、次第に役人の顔に見えてきました。

やせぎす婦人は切れ長のまぶたをつりあげ、憎しみの表情をそのままに浮かべました。ただ、太っちょ婦人に気付かれないように、ほんの瞬間でした。

 しかし、お互いの醜い形相は、たとえ瞬時であっても、お互いに気付いているのです。

やせぎす婦人は、心の中で叫びました。

(へん、このおばさん。高級マンションに住んで、知り合いに偉い人がいるからって、長屋住まいの人間を馬鹿にすることはないでしょ。

どうせ、苦労しないで、他人の甘い汁ばかり吸って出世してきたんでしょうから)

 やせぎす婦人は、いつか見ておきなさい、と歯を食いしばりました。

 しかし、それを表面に出しても効果はありません。さり気なく相手を傷つけたほうが自分にとっては精神面にも良く、また相手に与えるダメージも数段と増すのです。

やせぎす婦人は、役所の人間に頼んでやるという横柄な太っちょ婦人の勧めを丁寧に断わり、

「私も以前はマンションと思っていたんですけど、三人も大学までやったでしょう。

 やはり何と言っても、住宅より子供の方がずーっと大切ですから、こうして貧乏しながら、いまのいままで辛捧してきたんです。

でも、子供も社会人になって一人立ちし、近ごろでは私たちに小遣い銭なんか送ってきますし、ここらで私たちも、家を建てようかなんて、思っているんです」

やせぎす婦人は、急によそよそしい態度で言いました。

「まあ!、おうちを……。マンションになさるの?」

 太っちょ婦人は驚いた様子です。やせぎす婦人にとっては、その大袈裟な驚きようがおもしろくありません。

「うちが、いくら貧乏人だといっても、家ぐらい、ローンでなんとか買えますよ」

 やせぎす婦人は、心でそうつぶやき着物の裾をはらいました。習慣といいますか、無意識にです。

ところが、彼女はそこでハッとなり、裾にのばした手をあわてて引っ込め、あたかも薮蚊に刺されたように、手のひらを見つめました。

 太っちょ婦人の気が、着物に向いてはたまったものではありません。相手は大島つむぎ、自分の着物とはどだい比較になりません。

やせぎす婦人は、すかさず言いました。

「マンションねえ。マンションもいいけど、お庭が十分に取れないでしょ。それに敷地も共有ですしね。あって、ないようなものでしょ」

マンションに住んでいる太っちょ婦人も負けてはいません。居直ったように言います。

「おっしゃるとおりですわ。マンション人気にも翳りがさして、いまは一戸建ての時代のようですわね。

 だれもかれも、高級車を乗りまわしているみたいに、猫も杓子も一戸建てを欲しがる世の中ですわ。

「うちも、マンションを売り払って、一戸建てを買おうと、ちょうど主人と話し合っていたところなんですのよ」

(こう言や、ああ言う。このデブがっ)

 やせぎす婦人は、自分のことは棚にあげ、こみあげる怒りに全身をゾクっと震わせました。

 

 うれしくてたまらないのは嫉妬虫です。もう前後の見境いもなく、黒砂糖にたかる蟻のように太っちょ婦人とやせぎす婦人の両方の魂に食らいついています。出たり、入ったり、それは、忙しそうです。

「クチャ、クチャ。クチャ、クチャ」

嫉妬虫のクチャクチャと魂に食らいつく音に脈拍を増した彼女たちの心音が重なって、それはでんでん太鼓に笙の笛。まるでお祭りのような賑やかさです。

心配して、小鬼が尋ねます。

「ふたりとも、だいじょうぶですか?」

すると、嫉妬虫は返事するのも面倒くさそうに、口をモグモグさせながら答えました。

「人間さまは、自分でみずから寿命を縮めたがる。興奮しなくていい些細なことまで興奮し、憎しみ合わなくてよいのに憎しみ合って、見えを張っても何にもならんのに、うわべばかり飾りたがる」

「無駄なエネルギーですね」

「うん、まったくその通りだ。自分で自分らの寿命を縮めている。でもね、ぼくは、これを一種の自然淘汰だと思っている。業の深い人間さまや、魂の不純な人間さまは、自然淘汰によって命を縮めたほうが、反っていいかも知れない。

 将来、地球は海や川、山、それにオゾン層破壊、二酸化炭素の増大と、環境問題を無限にかかえ込んでいるだろ。皆が一様に長生きしてもらっては困るともいえるんだ……。いや、きれいごとなしだよ」

「考えようによっては、ぼくら、地球の平和のために貢献してるってわけですね」

「そうだ。つまらない人間さまの……。ちょっと待てよ」

嫉妬虫は突然、なにごとか思い出したように、

「まっ、ぼくらのことを書いている作者についても同じことがいえるんだけどね」

 そう前置きして、さらに話を続けます。

 そうしたつまらない人間さまために罪のない動物や植物、もちろん善良な人間さまや赤ちゃんまで生命を無駄にさせたくないだろ」

「そりゃ、そうだ」

「それに、他人さまことや、自然、地球全体を考える魂の澄んだ人さまだけがこの世に生きてくれさえすれば、地球も少しは平和になるだろうよ」

「でも、そのような人間ばかりになったら、先輩もボクも楽しみが無くなるじゃないですか?」

「それは心配ないよ。石川五右衛門って知ってるだろ」

「うん、あの大泥棒で有名な……」

「その辞世の句に、

石川や浜の真砂は尽きぬとも

  世に盗人の種はつきまじ

 ってあるだろ。

 たとえ時代が変わっても、悪の根はつきることはない。この世から妬みやそねみが無くなることはない。ただ、地球上に思いやりのある人間が増えて欲しいことだけは、ボクらの願いであることだけははっきり言っておくよ。第一、ぼくらが現在住んでいる山里でさえ、住みにくくなっている。そろそろ、山奥に引っ越そうかとも、皆で話し合っているところなんだ」

「川も汚れたし、ほんと、先輩の言う通りですね。人間って、地球上に何十万年も存在しているらしいけど、心の中は少しも変わってないようですね。極端かも知れないけど、ゴキブリと余り変わらないようですね」

「そこまで言っちゃ悪いけど、ほんとだね。

 人間さまがこの世で一番恐いものは、幽霊でもなんでもない。自分自身って、本人たちが言ってるぐらいだから、人間さまの心の裏側の世界は推して知るべしだ」

「ふーん。じゃあ、お互い、その人間さまの魂を食って、世の中を謳歌しなくちゃあ」

 小鬼はそう言って、ビー玉に似た丸い目を、嬉しそうにくるくるっと回したのでした。

 

(三)

日も西に傾き、涼しくなったコンクリートの谷間を、二匹の虫は風に乗って、仲間の待つ山手へ帰っていきました。

 いっぽう、家へ戻った太っちょ婦人とやせぎす婦人は、料理をしていても落ち着きません。

「あの豚が」と、やせぎす婦人は、太っちょ婦人を罵ります。

「何と言っても、住宅より子供の方がずーっと大切ですからね」と話していたやせぎす婦人は、亭主が帰宅すると、悔しさをぶちまけるように言いました。

「借家住まいも結婚してからですから、二十年近くなりますね」

「だから、どうした?」

食卓で夕刊を広げながら、夫は不機嫌そうに応えます。

「自分たちのおうちが欲しいと思いません……?」

「うちの貯金を計算してからにしろ」

「頭金ぐらいなら、なんとかなりますわ」

「老後のことを考えておかないと、わしらが老人になったときに、はたして、年金がもらえるかどうかも分からないんだぞ」

 

 いっぽう、太っちょ婦人も、「あのキリギリスめが」などと、やせぎす婦人に対する憤りは内にこもるばかりです。

「マンションもいいけど、お庭が十分に取れないでしょ。それに敷地も共有ですし、あって、ないようなものですからね」

 などと、やせぎす婦人からイヤ味を言われた彼女も、帰宅したばかりの夫に、

「ねえ、あなた。もう、こんなおうち、飽き飽きしましたわ。一戸建てのおうちを買いましょうよ」

 普段は玄関先まで出迎えたことなどないのですが、その日ばかりは玄関先まで出迎え、夫の上着を脱がせながら、甘い声でねだりました。

「……」

「ねえ、あなた」

「このまえ、外車が欲しい、欲しいって言うから、買ってやったばかりじゃないか」

「そりゃ、そうですけど……。くるまはくるま、おうちはおうちでしょう」

「なに、寝ごと言ってんだ。わしの会社も、『リストラ、リストラ』って、社長が毎日のように言っているんだ。毎日辛い思いをしてるんだ」

「まあ、そうですか?」

「いままで口にしなかっただけだ」

「長年、会社一筋に頑張ってきたというのに、会社も冷たいですわね」

「でも、ワシらのような中年を越えた者は、新入社員の三倍以上と、時間あたりの賃金が高いからな」

「でも、それだけ経験も豊富だし、高くて当たり前でしょ」

「時代が違う。パソコンひとつもさわれなく、それにインターネットって聞くだけで尻込みするんじゃ、満足に仕事もできない時代だ。それに、若い優秀社員のポストの確保も必要だし……」

 太っちょ婦人の夫はそう言って、大きくため息をつきました。

「そういうわけで、いつまでも平穏無事に会社勤めできるかどうか分からない。あまりわがままを言わないでくれよな」

 リストラはよその会社のこと、自分の夫の会社とは無関係とばかり思っていた太っちょ婦人は悲しくなって、黙りこくってしまいました。

「どうでもいいから、それより、早く飯にしてくれ」

 料理の用意をしながら、太っちょ婦人は、洗面所の鏡をそーっとのぞき込みました。すると、鏡の中には眉毛がへの字に曲がり、皺が増え、醜く歪んだ中年女の顔がありました。

 

 その夜、やせぎす婦人の目尻にも、さらに一本、皺が増えたのです。

 

                       (完)