昭和7年7月12日(1932年)私は函館で呱々の声を上げた。両親からとても可愛がられたのは確かである。だが体が弱かった。熱を出して寝込む事も度々有ったらしい。昭和9年春、函館は何度目かの大火に見舞われ、私の一家も火炎に追われ、猛火の中を火の粉を浴びながら逃げ惑い、眉毛が焦げるほど猛火が側まで迫って来た中を、やっと砂山まで辿り着いたが、今度は濡れた身体を寒さが襲い、母の羽織っていた角巻(周囲に房の着いた四角い毛布状のもの)までもがバリバリに凍り付いていたそうだ。その角巻の中で、私は泣きもせず大人しくして居たとの事だ。ちょっと説明をして置こう。私達一家が逃げ込んだ「砂山」は、石川啄木の「砂山の砂に腹這い初恋の痛みを遠く想い出ずる日」と歌った「砂山」である。
一家全員一命だけは取り留めたものの、さて住む家とて無くなってしまったやむなく小樽の母の実家に一時身を寄せる事になった。当時数え3才だった私は、火事の記憶は全く無いが、小樽の記憶だけは僅かに残っている。仮住まいの家の窓から、小川の向こう側の斜面をスキーで滑っている小学生か中学生の姿を見たのであるが、家の者はそんな3才にもならない子供が覚えている筈が無いと笑われてしまった。だがその後小樽には行っていないので、絶対間違いでは無いと思っている。
数え6才(昭和12年)、東本願寺の経営する、大火後建ったばかりの幼稚園に入園した。覚えているのは女性の先生の顔と、その先生の弁当のお菜にカール・レイモンの作ったハム・ソ―セージが入っていた事、寺の本堂の欄間に天女の彫刻があり、その天女は実際に存在するのだと夢想した事だ。そこで思い出した。家の横手に住んでいた、一年下のクラスにいた「K」という、今では老妻になってしまったが、その幼女をどう言う理由か判らないが、2・3度誘って幼稚園へ通った事だ。だが老妻については、今は触れない。
ちょっと説明をして置こう。K・レイモンというのはドイツ人で、米国かどこかへ向かう途中、函館が気に入って住み付き、当時殆どの人は食べ無かったが、ハム・ソーセージを函館の町で製造を始め、その販売所は私の家の近くに有ったのだ。彼の家族は販売所の裏手に住んでいたが、私より3・4歳年下の娘がいて、その一家と白系露人しか外人を知らない私には、とてもエキゾティックな愛らしさを感じていたものだ。今でもK・レイモンの名の付いた製品は函館名産として製造・販売されている。その娘はやはりドイツ人と結婚し、向こうに居ると報じられていたが、1度函館で見かけた事がある。
余談になったが、昭和14年(1939年)数え8才となり幼稚園を終了、S小学校に入学したのだが、その頃の事は何も覚えていない。それというのも小学1年の1学期を終え、夏休みに入って直ぐ発熱が続き、当時元町に有った市立函館病院へ、肺浸潤患者として入院する事になったからだ。40度もの高熱が続き、一時はもう駄目かと諦めかけたらしいが、奇跡的というか一命を取り留める事が出来た。それから退院するまで、ちょうど2年間も要してしまった。入院中には様々な思い出もあるが、何れ触れる事も有るだろう。退院後約半年あまり、家で静養をしていたのだが、特に覚えている事は殆ど無い。
昭和17年数え11才、同級生は皆4年生に進学し、私は1年遅れの3年に復学する事になった。別に理由が有っての事ではなかったらしい。ただ1学期しか学校に通わずに4年に戻るのは、学校側としても、さすがに気が引けたのだろう。父母にしてみれば、学力が追い付いて行けるかどうかよりも、体の方が心配だったらしい。私も1年遅れた事にはあまり抵抗が無かった。1学期しか学校に行っていないのだから、遅れて当然と受け止めていたのだろう。だが成績は自分で云うのもおこがましいが、クラスで1・2番だったのだ。大した勉強をした覚えもないが、1年上なのだから出来て当然と思っていたようだ。
昭和16年12月8日の開戦は未だ休学中だった。家で開戦と戦勝のニュースをラジオで聞いていた。新聞を見ても(その頃から新聞を読んでいた。勿論判らない所も有ったが)日本は連戦連勝、当たるところ敵なしといった記事で埋め尽くされていた。だが函館は未だ戦事色に染まっていなかった。さすがにモンペ姿や在郷軍人の軍服姿が目に付いたが、のんびりした物だったと思う。
束の間の、のんびりした時期も終わりを告げ、アッツ島玉砕が報じられてから以降は、全てが一変した。小学校でも男子生徒は教練と称した時間が取り入れられた。防空頭巾をかぶり、足にゲートルを巻き、軍隊の訓練もどきのような、体操や歩行訓練をやらされた。体罰はごく当たり前だった。姿勢が悪いといってはビンタ、集合に遅れてもビンタ、私のクラスのKiという担任教師は、病的性格だった見え、ガスホースを何時も振り回し、ビンタではなくホースで頭を引っ叩いたものだった。
確か5年の冬だったと思うが、何が気に入らなかったのか突然怒り出し、何時も狙われていたKoという不良っぽい生徒を呼び付け、たまたま手にしていた木刀で、剣道の「お面」よろしく頭を真正面から殴り付けたから堪らない。頭が割れて血が飛び散った。さすがに応急手当をして家へ帰らせたが、半月ほど学校に戻って来なかった。しかも「こうした不逞行為を働いたので制裁を加えた、保護者からも厳重に注意を与えられたい」と文書で彼の両親へ申し入れたというから、例え時代が違うとは云え、たいした教師もいたものだ。
5年から「看護」と呼ばれていた、憲兵・級長・雑役係を一緒にしたような役をやらされていたが(級長は確か4年生の時に廃止になっていて、看護はクラスから2名選抜され、木刀を携行して見回りをしていた)、その私も連帯責任という事で随分殴られたものだった。私達の学校は昭和9年の大火後全コンクリート製となり、1階の一部を屋内運動場として使っていた。その一辺の片側に1メートルほど高く教壇をしつらえ、校長の訓示などに使用され、正面には両陛下の御真影を奉安している祭壇が設けられていた。
当時「男女7才にして席を同じぅうせず」で、御真影のある側は女子用、反対側は男子用と決まっていて、「看護」を除いて妄りに相手側の領域へ立ち入る事を禁止されていた。その「御真影奉安所」の壇上で、女子生徒が遊んでいたので、止めさせようと注意に行った。女子生徒を壇上から追い出して、そのまま帰ればよいものを、看護同士4名で、剣道の試合の真似事をやってしまった。それを教師の誰かが教頭に報告したらしい。
教室に戻ったところ確かNと言った教頭から呼び出され、「忝くも・・現人神であらせられる・・気を付けェ!・・天皇陛下の御前で・・御無礼な行為を・・」という怒号と共に物凄い往復ビンタ、あまりの激しさと痛みで、床に膝を着くやら、横に倒れると「気合が入ってないィ・・!、いやしくも男子たる者、これぐらいの制裁で倒れるとは何事かァ!・・」とまたビンタ。開放されたのは1時間半経ってからだ。看護4名顔は腫れ上がり、眼も半ば塞がり、口の中が切れて血が止まらない。洗面所に行って水で冷やし、何とか出血を止め教室に戻ると、Ki先生から、さすがに殴られはしなかったが、また直立不動の姿勢で30分の説教、子供心にも教師への反抗心が湧き上がるのと同時に、幾ら天皇の写真とはいえ、ただの写真の前で騒いだ事が、天皇の尊厳を傷付けた事になるのか、天皇の尊厳とは写真を“崇め奉る”事なのか、その前で騒いだとしても何故あれだけ殴られなければならないのか、どうしても納得出来ず、今になっても悔しい思いに駆られる事がある。
殴られ説教された後、私は全く「やる気」を無くしていた。勉強よりも何故か海軍式体操が取り入れられ、毎日のように手旗信号の練習や、器械体操などで時間を取られるようになった。僅かな救いは大火の経験で、火除け地を作る為、家屋の取り壊しに狩出される時間が有った事だ。大人が家の柱にロープを巻き付ける、号令に合わせて私たちが掛け声と共にそのロープを引っ張る。家がメリメリと音を立てて崩れ落ちる。後は鳶口で柱や羽目板等に仕分けする、単純作業だったが、何も考える必要が無いかったから面白かった。
後になって考えると、何かの権威を借りて弱者を痛めつける、まさに「虎の威を借る狐」そのものではないか!この場合「虎」は天皇家であり、その天皇家の権威を支えているのが軍部・警察権力であり、その権威のもとで「狐」だったのは私たちを殴った教師であり、その教師たちは最も卑劣な行為を行っていたと知ったのは、敗戦直後の事であった。
そのような時代でも、尊敬出来る教師も居なかった訳ではない。小学5年の頃だったと思うが、N先生がそうだった。Ko先生が足の骨を折り、2ヶ月ほど休んだが、その間代理の担任となったのだが、昼食後本を読んでくれた。題は「杜子春」、著者の名を聞く事も教える事も無かったが、私は何故か芥川竜之介の作品だと知っていた。多分当時の子供は年齢よりも地域が主で、上は当時の中学・高等国民学校1・2年を頭に、下は幼稚園生まで一緒に遊んでいたのであるが、年上の誰かの家で見掛けるか、聞いていたのだろう。兎に角すごく面白かった。と云って殴らなかった訳ではない。「看護」になっていた私も連帯責任という事で、ビンタを食わされた事も5・6度有った。然し子供心にも理不尽ではないと判っていたから、なつきこそすれ恨んだ事は無かった。
様々な疑問・煩悶、その中で僅かな人間的暖かさ、混迷の中でそれなりに悩んでいたのだが、いよいよ函館も危ないという事で、昭和20年5月だったと思うが、一寸した付き合いのある、函館から東へ10キロほど行ったI村の寺に疎開する事になった。
村は既に寂れた半漁半農の村だったが、函館の市街部が海に没していた鎌倉時代には、当時としては最も栄えていた土地だという。15世紀中のアイヌとの争い、コシャマインの乱も、この村の刀鍛冶とアイヌ人との争いがもとで始まったと云われている。また日蓮の10大弟子の一人「日持上人」の遺蹟も残っている。室町時代には、当時最も珍重されたI昆布が、朝廷や幕府に献上された記録も残っており、寂れた村であっても寺が4つもあった。私達は3ヶ寺並んで建っている内の、真中の寺に疎開する事になったのだ。
農家の荷馬車に主だった家財道具を積み、人間は徒歩でI村に向かった。それまでそんなに歩いた事の無かった私には、とても遠くまで歩いたような気がしたものだ。参考までに、当時の陸軍の行軍は1日4〜5里(16〜20キロ)が標準だったらしい。その寺には住職夫妻とYという小学2年(?)の3男坊だけが居り、彼には随分嫌がらせをされたものだった。学校でも酷かった。まず疎開先は”浜言葉”といって、”函館弁”とは大分異なっていた。まずそれを「気取っている」と云われ、衣服も私は一応洋服を着ていたのに対し、大半は和服だったので、それをイジメの材料とされたのだ。それでも最後は仲の良くなった友人も何人か出来たのだが・・。
私は次第に学校へ通うのが嫌になりだした。弁当(殆どジャガイモを磨り潰し、油で焼いたもの)を持って寺を出ても学校には向かわず、森の中に入って桑やコクワの木に登って実を取って食べ、腹が空くと弁当を食べて、適当に時間を潰して寺に戻るのが日課となっていった。母もその様に過ごしているのを知っていても、何一つ叱りはしなかった。そもそも学校が、昆布漁ともなると朝サイレンが鳴り、それを合図に漁船(磯舟と言った)が一斉に漕ぎ出し、昆布を採る、それを浜で待っている家族一同が砂浜に並べて干す、夜には湿気が付かぬよう筵掛けをするか取り込みを行う、なかなか大変な労働だった。男の大人は殆どが軍に招集され、中学生ともなると工場へ勤労奉仕、子供の労働力も必要とされていたのだ。当然学校は休みとなる。合図のサイレンが鳴ると子供は学校が休めると喚声を上げて喜んだものだった。だがやる事の無い私は、畑(今で云う家庭菜園か)の雑草取りか、防空壕作りの手伝いぐらいしかする事が無かった。そんな状態だったから、野山をぶらぶら歩くのも当たり前だったろう。
そんな中で6月26.27日と、B―27爆撃機が飛来、抵抗らしい応戦もしないから高度もあまり取らず、偵察飛行だったらしいと後で判った。7月14日本格的空襲が始まった。全てが艦載機で、函館港にいる連絡船その他の船舶に集中して攻撃が行われた。函館の港に浮かぶ船舶に爆弾を落とし、ぐるりと回って又爆撃、ちょうどその回り道に私達の疎開した家が有った。人影を見れば何の容赦も無く機銃掃射を行い、私の母も七輪の火を消そうと路上に出たところを掃射され、足元に土煙が上がったが、幸いに負傷はしなかった。後で数発の40ミリ機関砲の弾が、土中に突き刺さっているのを発見した。1軒下の寺では、家族と移動中の軍人が避難していたが、路上の石か何かで跳ね飛んだ弾が腹部に当り、正面の射入口は小さな傷だったが、反対側のお尻のあたりは拳が入るほどの大きな傷だったそうだ。勿論即死だった。
その夜からどの家族も家で寝るのは危険だと、函館〜戸井線の、レールが未だ取り付けられていない線路の下の暗渠に寝泊りする事になった。急拵えの、雛壇もどきの棚の上で3日ほど、夜だけ寝泊りしたのだが、夜中棚から落ちる者もあり、その度に悲鳴で目を覚まされたものだ。その日の函館と青森の空爆は連絡船を狙ったもので、連絡船沈没9、中破1、擱座・座礁3という被害で、完全に壊滅してしまい、本州との物資の交流が途絶えたのであった。20・30トンの機帆船を初め、磯舟までもが狙われ、海中に没したものも多かった。戸井では駆逐艦が停泊していたが、果敢な抵抗も僅か1機を打ち落としただけで、直撃弾が命中、一瞬の内に姿が消滅したという話も伝わってきた。悲しい話だった。
沖縄は既に占領され、残るのは何時本土に上陸されるかと噂が出始めていた。私には、もうどうでも良いような気になっていた。ただ一つ、日本が絶対戦争に負けると信じだしていた。「神国日本は最後に必ず勝つ」という風潮の中に在っても、私には絶対勝てない、必ず負けると思っていたのだ。余りにも実情と掛違った報道が流されているのを知ったからだ。
父も函館空襲後常時I村にいるようになった。父と二人で寺の横の斜面を利用し、防空壕を作り始めた。もう8割くらい出来ていたろうか、重大放送があるから、その時間にラジオの放送を聞くようにと何度も放送された。その時間となり、物置を改造した8畳ほどの住いに戻り、正座をして放送を待った。何時もの軍艦マーチが無く、天皇陛下の玉音放送が始まった。何を言っているのか殆ど意味不明であったが、甲高いような、人間とは思えぬ抑揚で「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び・・・」要は日本国民のため戦争を止めると云っているようだった。だがこれで」戦争は終わったのだと思いながら、すごく悔しいような、腹立たしいような気分を感じたものだった。玉音放送が終わり、父が「どれ、一仕事するか」と立ち上がったが、母や私に戦争は「終わったんだ」と止められ、「ああ、そうか」と言っただけで又座り込んでいた。
私の心の中は以前から空ろになっていた筈なのに、何か心の中にポカッと穴が開いたような、口では云い表す事の出来ない「空しさ」「悲しさ」で一杯になり、私は耐えられずに外へ飛び出した。作り掛けの防空壕の側で、仰向けに寝転がり、抜けるような青空を眺めているうちに、自然と涙が溢れていた。戦争に負けた悲しさではない。何もかもただ空しく、8月の陽光だけがやけに目に沁みて、真夏の青空の下で訳も無くただ涙が滲んで来るのだった。
終戦の2・3日後父母は函館に戻った。私が戻る事が出来たのはそれから10日ぐらい後だったろう。学校が始まっている筈なのに、問い合わせてもはっきりした答えが返って来なかった。殆ど毎日のように砂浜へ出掛けて時間を過ごすか、その辺をうろつきまわっていただけだ。街では「大門」の停留場のすぐそばに、爆弾が落ちた跡があって大きな穴が開き、建物の鉄筋がねじくれた姿を曝していた。何箇所か爆弾の被害を受け、と云っても船を狙ったのが誤爆となってしまったらしいが、函館ドックを除いて爆弾の被害は思ったよりも少なかった。むしろ機銃掃射で撃たれた人の数のほうが多かったのではなかろうか。連絡線は凄い被害を受けていた。青森側も連絡線が狙われ、大型船での交通は一時途絶えてしまったのだ。
学校の授業再会の噂は、未だ耳に入って来なかった。当時小学生ながら憧れの的だったT・Kという才媛の美少女がいた。未だ戦争中私と同じく「看護」だったが、昼には一階の理科教室(?・当時給食室など無くて、排水設備の有る所は其処だけだった筈だ)に味噌汁を手提げの深鍋で貰いに行ったのだが、階段で偶然T・K嬢にばったり出会い、不意を打たれて私は呆然としていただけだが、私と同じ看護役のS・K君は緊張のあまり味噌汁の入った深鍋をひっくり返してしまった。それほど憬れの的だったT・K嬢も岩見沢に行ったらしいと後で聞いたが、それ以降会えず仕舞いになっている。
余談になってしまったが、毎日する事も無くブラブラしていたが、確か9月の始めだったと思うが、大森浜の高射砲陣地の有った砂山(啄木で有名な砂山ではない、新川の川べりに有った方だ)に、米兵の乗った上陸用舟艇が接岸、足鰭をつけた裸の兵隊が海に飛び込み上陸、安全を確認していたらしい。やがてハッチが開けられ、米兵が15人ほど上陸して来て何かを調べているようだった。泳いで来た兵隊は焚き火をして暖を取っていたが、私たちに近付き、チョコレートか何か入っているらしい箱を差し出した。私たちは食べ物だと直感で判ったが、手を振って要らないと意思表示をしながら逃げ出し、遠巻きに眺めていた。米兵は「仕方が無い」というように肩をすくめながら、手にした包みを投げて寄越した。私たちは食べ物を投げ与えられた事に、ひどく腹を立てながら逃げ出したのであった。後で貰って置けばと後悔したのだったが・・。
10月初め学校に戻ったのだと思う。戻っても良いような、出なければ出ないで良いような状態だった。教科書は算数・理科・図画・工作以外は駄目だった。あらこちらを墨で塗り潰して使っていたのだと思う。体操は是と云ったものが無かったので、ラジオ体操、棒倒し、騎馬戦などでお茶を濁していたのではなかろうか。T・K嬢の居ない事がひどく寂しかった。好きとか嫌いとかではなく、何となく憬れのマドンナ的存在だったのだろう。担任のK先生には勿論白い目を向けていた。何かを云われても「フン」とは鼻先でソッポを向くか、無視する事が多かった。教頭は殆ど教員室から出て来ない。たまに出て来ても女子生徒の方ばかりに行っている。Fという真剣の模範演技を見せてくれた先生も、殴る事で有名だったが、すっかり大人しく猫を被っていた。
そうこうしている内に私はジフテリアに罹ってしまった。40度を越す高熱が続き、一時はもう駄目じかと諦めたらしいが、幸い運良く血清が見付かり、一命を取り留める事が出来た。高熱の所為かその後熱も出さず、とても丈夫になったと云われたものだ。ただ困った事は声帯に穴が開き、話していて声が上手く出ない、時には引っくり返るというか、裏声になってしまうというか、歌を唄う事など全く出来なくなってしまった。それまでは結構歌が上手だと云われ、学芸会で独唱した事も有ったのだが・・。
1月ともなるといよいよ上級学校の進学試験を受ける事を考えねばならなかった。私は迷わず中学を目指した。その頃男子中学は明治中期から続く庁立中学と、昭和になって立てられた市立中学の2校、やはり伝統のある商業・工業・農学校の全部で5校、女子はやはり伝統の有る庁立高女、私立の遺愛・大谷・白百合の4校だけだった。中学の試験は理由が定かでないが、男子校は庁立・市立合同受験だった。試験はごく簡単な面接試験のみで、塩の結晶を出し、「これは何か」「どうして判るか」という理科の問題と、「春の海」の後に続く俳句を言えというものだった。
私は結晶状態から「塩」だと答えた。ではどうして塩だと思うかと尋ねられ、色と形状でと答えたら、その他はと云うから、舐めたら判ると言ったら一同大笑い、もし毒だったら死ぬぞと問い詰めるから、試験で毒など出す筈が無いと言ったら又笑われた。仲の良かった受験仲間のS・K君、体は小さかったが相撲が強かったT・I君に聞いたら、皆結晶状態と答えだけでそれ以上聞かれなかったという。アイウエオ順だから終わり近い私は時間が余って余計な事を聞かれたらしい。またT・I君は俳句の「春の海」で、その下を「ひねもす のたり 若葉かな」と答えてしまい、もう駄目だと諦め顔だった。だが結果発表は私とS・K、T・I、もう一人が函中、2・3名が市中に入ったのだから、成績の良い方だったろう。もっとも成績順ではなく、成績順の奇数・偶数で別けたというのが本当らしいが・・。
進学が決まってしまうともうする事が無い。まして只でも憎らしいKi先生始め教頭など、顔を見ると只では置かないぞと、肩をそびやかして凄む真似をする者もいる。私などは先生の鼻先で「看護」の腕章を外して、パタパタ服の埃を払って見せたものだった。
卒業式の当日は一応無事済ませたが、担任のKi先生に殴られた「カリ」を返そうと、教員室に押しかけたら教頭始め主だった教師は逃げ出していて不在である。鬱憤晴らしに3階の屋上で大きな雪達磨を幾つも拵え、喚声と共に教員室の方向へ落としてやった。物凄い音がして、教員室の窓が開き、女の先生や小使が半ば恐ろしそうに顔を覗かせたが、無言で見ているだけだった。
小学7年間、私はその中の3年近くを病気で休学か、加療で入院休学、よくまあ1年遅れとはいえ、何事も無く卒業出来たものと思う。小学校入学、休学、日米開戦、復学、体罰、疎開、空襲、終戦(当時は敗戦という言葉を使わなかった)、備蓄乾パンを盗み、進駐軍兵士からのチョコの闇買い、ガムやチョコを呉れようとする米兵も居たが子供心にもプライドが許さず、No thank youと貰う事を拒否し、米の買出し、中学進学決定と、自分でも吃驚するほど様々な事があったものだ。病弱だった私もジフテリアを患った後、逆に丈夫になって、シフテリアのおかげで病気の菌が消滅したと、よく云われたものだった。ただ喉に穴が開いたので、中学受験の時も声が裏返って、試験官に何故?と言われた事も有った。
そんな小学生だったが本はよく読んだ。長い間入院していた頃、胃や腸の働きを漫画風のした絵本から始まり、「小年クラブ」と云っても飛び飛びだったが夢中になって読んだものだった。終戦後間もなく古本屋で円本の「芥川竜之介集」を買って貰い、夢中になって読んだものだった。中学入学が決まってから、ご褒美代わりに「夏目漱石」の短編集(偶々古本屋で見つけたのだ)を買って貰った。「幻影の盾」「倫敦塔」は理解しかねる所も沢山有ったが、何か惹かれるものが有って辞書と「首っ引き」で読んだものだった。
占領軍の教育局だったと思うが、そこの図書室に潜り込んで漫画を眺たり、「ライフ」の写真を見たりもしていた。毎日通学している学校の隣に市立図書館が在り、そこでも隋分とお世話になったものだ。今でも覚えているのは「姿三四郎」、心を躍らせて読んだものだった。
それまで抑圧されていた「在日朝鮮人」と、日本の「ヤクザ」との抗争もあり、占領軍まで出動して機関銃を打ったとか、物騒な話も伝わって来た。いわゆる「戦後の混乱期」と呼ばれるものだ。食糧事情は益々悪くなり、薄いお粥に、沢山の菜っ葉や食べられる雑草を入れたものを啜り、男爵薯を蒸して磨り潰し、澱粉を加えて油で焼いて食べるのは、ご馳走のほうだった。ただ魚は函館という土地柄も有って比較的豊富だった。本州に送る輸送手段がままならないので、函館でだぶ付いていたのだ。
電気もよく止まるようになった。ただでも薄暗い電球の下で本など読んでいると、突然スゥーッと薄暗くなり、あれよあれよと思っている内に真っ暗になってしまう。そうなれば蝋燭を点けるか、大事な用が無い限り寝てしまうか、どちらかだったが、鮫の肝臓を煮て作った魚油を灯す事も有った。これは悪臭がひどく、黒煙は出るから、めったに灯す事は無かった。
今、70才を過ぎて戦中・戦後の中学入学までを振り返って見ると、様々な出来事が走馬灯のように目に浮かんで来る。懐かしい顔、会いたい人の顔、思い出すのも嫌な顔、その一人一人の顔が思い出される。既に亡くなったり、未だ健在だったり、様々な噂は聞くが、その数もめっきり少なくなって来た。あのT・K嬢は未だ健在だろうか、探しもしないが、一度逢って見たいと思うのだが・・・。
それだけ我が人生も、終わりが近くなったと云うべきか。
其の壱