農業実習 inアメリカ パート1

始まりは友人とのニュージーランド釣行だった。
1998年2月、大学2年の冬だった。
友人に誘われ、ニュージーランド南島を約14日間釣りまわった。
初めての海外。初めてのニュージーランドその衝撃、
カルチャーショックは頭のてっぺんから足の小指
の爪先まで強烈な電気ショックが走った。
日本は数メートルの雪に埋もれた冬真っ只中なのに、
半そで短パンの強い日差しのニュージーランド。
鼻高の、目がくぼんだ白人たち。ペラペラと飛び交う英語。
花々で飾られたゆとりある庭。個性的な家々。
見たこともない美しい山。澄んだ川、でかいマス。本当に面白いフライフィッシング。
日本で生まれ日本で育った私には、見るものすべてが新しく、
「世界ちゅーのは広い。いろんなところがあるんだなぁ」と、
日本で十分満足していた自分だったのに、新しい大地、地球の魅力に取り憑かれた。
まだ見ぬ大地に夢が大きく膨らんだ。
そんな感動のニュージーランド釣行の中で、自分を熱くしたモノがあった。
それが、フィッシングガイドという仕事だった。
ニュージーランドでは同じマス釣りでも日本と少々違い、
フィッシングガイドという仕事が成り立つ自然がある。
川で魚を見つけ、客に魚を釣らせる。そしてともに喜ぶ。
そんな魅力的な響きに私は取り憑かれ、将来の目標がスパッと見えた。
このときかから、私の行動に理由が出てきた。

翌年1999年、彼女とのニュージーランド釣行24日間。
川を知り、魚を見つける目を鍛え、たくさんのマスを釣った。彼女も釣った。
技術が上がり、たくさん釣れるようになる自分を感じた。
英語にも慣れてゆく自分。
このままやれば、ガイドになれる。
そんな自分のちっぽけな頭だけで考えて、
面白いところだけを、自分の自由気ままに鍛えていった。
ニュージーランドから雪で埋もれた北海道に戻る。
今年は、大学4年。学生最後の年。就職難の中進路を決めなければいけなかった。
大学の進路相談室に呼ばれ、一対一でこれからの進路、自分の希望などを聞かれる。
迷わず、「ニュージーランドでフィッシングガイドになります。」と答える。
どう対応していいか困っている学生課の人。それでもさすが進路の専門家。
私にアメリカ農業実習を勧めてくれた。
「アメリカで一年間農業をやりながら、アメリカの文化、農業を学ぼう、生活を知ろう」
という内容のものだった。
さらに自分が働くので生活費は農場もち、お小遣いももらえる。
無料でアメリカ生活を堪能できる。
英語も身につくし、うまくいけばアメリカのマスと遊べるかもしれない。
そんな甘っちょろい夢を膨らませて、大学を1年休学して初めてアメリカに飛び発った。
1999年3月、当時22歳だった。
でっかいアメリカ、ファームステイに決まったのは、なんとハワイ。
それもハワイ島のコナだった。
コナといえば釣りキチ三平の、ブルーマーリンの舞台の場所だ。
頭の中に、クルーザーに乗って、青い海をトローリングし、
巨大なカジキを釣りあげる自分を想像した。
けれどハワイはハワイ。私はアメリカに行きたい。
アメリカのマスが住む大地に行きたい。
ということでわがまま言ってウイスコンシン州の酪農家に行くことが決まった。

ここからが大きな事件の始まりだった。
一日3回の乳搾り。夜中の2時から乳を出す牛、
家族経営の農場はトラクターの整備まで自分でやり、
次から次にやることばかりで、自分の時間はすべて牛に奪われた。
それでも空いた時間を、釣りにいけないストレスを発散するために、
英語の勉強をしたり、トウモロコシ畑の片すみでキャスティングの練習をした。
そんな生活を2ヶ月もやれば、いっぱいいっぱいで、
「俺の未来に酪農は無い」という言う答えが出た。
「今はフィッシングガイドになる夢を追いかけなければ」と、乳絞りを続けながら行動に出た。
その行動というのは、「アメリカのフィッシングガイドに弟子入りする計画」だった。
インターネットでモンタナ州、アイダホ州、ワイオミング州などなど、
トラウトの聖地のフィッシングガイドを見つけては手紙を書いた。

その手紙の内容は、
  私をあなたの弟子にしてください。
  あなたの仕事を手伝わせてください。
  釣りを教えてください。
  もちろんお金は要りません。
  ベッドと食事を提供してくれれば、私は何でもやります

といった内容の手紙を、約20人のフィッシングガイド宛に出した。
かなり押し付けがましく、突然な無理のお願いだとは自分でもわかっていた。
だけど今の自分を改善するには、これが一番の方法だと思っていた。
答えが待ち遠しかった。モンタナに行けるかもしれない。毎日毎日楽しみに返事を待った。
もちろん農場のボスには、何も言っていない。
採用が決まったところでボスに話そうと考えていた。
けれど帰ってくる返事は、どれもNOだった。
「あなたに仕事を与えることはできないけど、その魂はわかった。遊びに来い」。
そんな内容の返事に、私のモンタナ行きたい気持ちはさらに強くなった。

ガイドからの返事のひとつを、私の世話をしてくれるディック爺さんに見せて、
「2週間の休みがほしい」と交渉してみた。
「もし休みがもらえなくても、その農場を抜け出してでも荷物をまとめてモンタナを目指すんだ!」
そんな大それたことを本気で考え、農場脱走計画もディック爺さんに話した。
話してみるもので、すんなりと2週間の休みを私に与えてくれた。

これでモンタナに行ける。
一ヵ月後の出発に、長距離バスの行き先やキャンプ場の場所。
釣り場。現地ガイドとのコンタクト。順調に計画を進めていった。
もちろん農場の仕事もがんばった。

7月上旬。出発まであと半月となったとき、
突然ディックから「お前に2週間の休みは与えられない」と言われた。
その理由はそもそも農業実習ではそんな長期休暇は許されず、
外泊も禁止されていたのである。それを承知で個人的にディック爺さんに頼んだんだけど、
コーディネーターの耳に入りストップが掛かってしまった。
脱走してでもモンタナに行こうと考えたが、
許可無くその農場をでるとビザの問題が生じ警察沙汰になるという。
さすがにそれには私も怖気づき、再び沈黙の日々に戻ってしまった。

ミルクマシーンは一日中大量の餌を食い、大量のうんこと牛乳を生産する。
そんな巨大なマシーンに夜中の2時からつき合わされ、睡眠は2回に分けられ、
牛から開放される時間は3時間のみ。車の運転を禁じられ、食料も本も買いに行けない。
トウモロコシ畑に囲まれた田舎でやれることはひたすら牛とたわむれる。
そんな同じリズムの生活は、
とてもいい感じに私の中にストレスという原動力を貯めていったのだった。

だけどそれは、ディック爺さんが10日間のアラスカ旅行に出発した後、
浮かんではいけない考えが、頭の中にひらめいてしまった。


     
          back to Top      back to fishing