アチェ被災証言
語られるアチェ津波被災の真実
証言5「新任区役所長が語るムラクサ復興案」
(Natsir:50歳男性、Bachtiar:36歳男性、2005年9月5日(月):ムラクサ地区役所にてインタビュー)

 津波が起きた時、ムラクサ地区から少し離れたところで仕事をしていた区役所事務次長のナッツィル氏によると、津波被災直後の状況は、まったくのパニック状態だったそうである。

 地震直後、人々は何が起こったのか全くわからず、ただ呆然と話していたところへ、突然、市内の東西南北あらゆる方向から水が押し寄せ浸入してきた。海岸からの直接の津波だけではなく、川も運河も、そして毛細血管のように海岸都市に張り巡らされている細い水路を通って大量の水が襲い、市内全域がわずか15分で水没した。そして、気がつくとあたりには無数の死体が浮いていたという。
 彼がいた海岸から離れた区役所も一階部分は冠水したので、人々の多くはこの辺りで最も高いテレビ塔にかけのぼって生き残った。彼も津波後、2、3日間は海岸から離れることだけを考え、山の手を逃げまどっていた。

 本格的な支援活動は、陸路が途絶していたため震災後3日目になって、海から軍隊が到着してやっと始まった。最初に行われたのは遺体の埋葬である。大量の水を含んだ遺体は、どれも判別が困難で生前の面影がなかったので、人々はわれ先に家族や親戚を確保しようと遺体を奪い合ったという。次に行われたのは道路交通網の整備である。最初の3日間は、交通手段はもちろん、すべての通信網が完全に遮断されていた。道路がわずかながら部分開通し始めたのは、一週間後のことである。

 その後は、区役所の役人が総出で、市内はもちろん道路や病院、安置所などありとあらゆる場所で遺体発見と確認に奔走した。死亡者の身元や数は、損傷が激しく判別不可能であったため、遺体は簡便な農業用ビニール袋に包まれて次々とトラックに詰め込まれ、土葬された。死亡者の数については、NGOなどが具体的な数字を挙げているが、公式には正確な数字はいまだにわからないという。



 役所の客観的なデータによれば、04年現在31,000人であったムラクサ地区の総人口は、津波後の05年1月には、8,097人の生存が確認されている。つまり、同地区の総人口の実に75%近くが地震と津波によって失われたことになる。生き残った被災者への支援活動は、政府や自治体、国連、そして様々な組織(特に地域社会組織:PKS;Partai Keadilan Social)の協力によって、現在も少しづつではあるが、精力的に行われている。
 続いて、所長のバッティアラ氏は、津波が起こって2ヶ月後、ムラクサ地区役所長として新たに赴任し、震災復興の責任者となった。彼は当時の人々の様子について、「突然襲われた津波のトラウマに縛られ、何も手につかず、ただ生きるのに精一杯であるように見えた」と説明した。彼が赴任してからの区役所での具体的な活動は、政府とNGOとの共同作業によって、政府が立てた復興計画を各地域の実情に適合させ、地域再建に取り組むというものである。とくに防波堤、道路、ダム、沿岸部の植林などが計画的に行われるようになった。

 また復興計画の最優先課題は、遺体埋葬のほかに、生存者への住居提供、生活環境の保全、そして仮住まいの人々を元の居住地に戻すことへの支援である。BRR(Badan Rehabilitation Reconstruction)は、それらの支援活動を管理運営する中心組織として位置づけられている。その具体的な政策内容は、(1)道路や住居、病院など、あらゆるインフラ整備を通じた地域再生、(2)雇用機会の創出や経済開発を通じた経済再生*1、(3)津波に関する教育である。このような多目的をもった総合復興計画を推進していくことが、彼らに課せられた重要な任務だとバッティアラ所長はしめくくった。




*1 
より具体的には、津波以前からあった経済の専門家を育成するプログラムを今後も継続するというもの。
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