アチェ被災証言
語られるアチェ津波被災の真実
証言3仮設暮らし、何の見通しも持てず」
(Zakariaさん:39歳男性、9月4日(日)、仮設キャンプ地「ポスコ85・ランパイヤ・ロンアー(Posko 85 Lampaya Lokngha)」にてインタビュー)

 現在、キャンプ地で暮らす津波被害者のザカリア氏は、津波が起こる前日、近所の人や友人と魚釣りに出かけたが、いつもより海水が異常に暖かく、魚1匹を見つけるのも困難な状況に異変を感じたという。それが津波の前ぶれであったことは、疑う余地はないと彼は言う。

 次の日、セメント工場で働いていた彼は、地下から爆発するような突き上げを感じた。しばらくして、友人から「流されている!」という携帯電話がかかってきたが、最初、彼は、何を言ってるのか全く意味が理解できなかった。しかし次の瞬間、それが現実となった。目前に60メートルはあろうかという津波が青い水ではなく、真っ黒な泥水となって襲いかぶさってきたのである。仕事場であるセメント工場の人間はもちろん、近隣の駐屯地の兵隊も銃を捨てて山へ逃げ出した。しかし、わずか10分余りで、牛などの家畜も木も家も何もかもが、津波に飲み込まれていった。セメント工場の波止場に停留されていた全長30メートル以上もあるコンテナ船が、タグボートと一緒にいとも簡単に180度回転して、陸奥に打ち上げられたのである。しかもセメント工場の裏山には、現在でも30〜50メートルの高さに、くっきりと津波のツメ跡が残されている。

 ナガ・ロンバン(Naga Rombang)山の頂上に逃れ、一夜を過ごした彼は、状況が落ち着いたのを見て、海岸からおよそ1.5キロ離れた自宅へ向かい、家族を探した。彼の妻と子供は、幸いにもバイクに飛び乗って津波から逃れていたが、友人は2人を除いてすべて亡くなるか行方不明となったし、現在、仮設キャンプに同居している従兄弟のヘルマンさん(Herman:44歳男性)は、妻を亡くした。
 ザガリアさん一家は、いまのキャンプ地にたどり着くまでに、何度か移住を繰り返してきた。津波直後は、自宅跡から約40キロも離れた州都ジェントー市(Jantho)へ移住したが、仮住まいであったその地は50日間で離れ、高原地域に移って2ヶ月間過ごした。その後は現在のキャンプ地「ポスコ85・ランパイヤ・ロンアー」(最初の1ヶ月は「ポスコ84」と呼ばれた)に移り、4ヶ月間も滞在している。このキャンプ地は、フランスNGOによって開設されたもので、今では小さいながらも一種のコミュニティを形成している。
 彼のキャンプ地での主な仕事は、次のようなものである。津波後は、まず家や道路の浄化作業があった。被災直後は、米や魚、麺、コーヒーなどの食糧供給が、国際NGOによってなされた。しかしこれらは、何らの所得機会にもならなかった。次に、近隣地域の浄化や仮住まいの建設、田畑仕事をした。これらの仕事をすれば、最近、国際NGOから日当がもらえるようになった。しかしその金額は、1日当たりわずか35,000ルピア(約400円)に過ぎない。これは、人間が生きていける最低限の生活すら満たすことのできない金額である。津波が起こる前は半農半漁をして、食料調達のために主に漁に出かけていた。しかし現在では、海岸に行く道路もなくなり、また小船をつけていた入り江は、入口付近が、砂浜で隆起してしまって、船着場として全く機能しなくなった。
 このような悲惨な状況の中でも、心をなで下ろす良いニュースもある。それは、仮設暮らしで最も懸念されていた病気の蔓延、特に恐れられていたマラリアやデング熱などの伝染病は、生活環境の浄化や薬剤散布によって、ポスコ85では、現在まで1件も発病していない。ポスコ84のテント生活では、毎晩蚊に悩まされていたが、現在はかなり減少しているという。その他の良いニュースは、津波によっておよそ35%が破壊された小学校が、改築、再開したことである。津波直後は、多くの教師が死亡したことで人材も不足していたが、現在では政府や国内外のNGOから教師派遣が進み、学校教育に協力してくれている。また、各地区にあった仮設のテント診療所も、現在では、続々とヘルスセンター(病院)に統廃合され、そこでは必要最低限の設備が設置されている。
 ここで、仮設住宅ポスコ85での日常生活の一端を紹介してみよう。1棟8世帯(8部屋)が住む仮設住宅棟の5棟からなるポスコ85には、約300名の住民が密集して生活している。各世帯の住空間は、1室縦5メートル×横8メートルの約40平方メートルである1.5メートルの台所(といっても、仕切りも何もない)には、2つの電気炊飯器と食料と水が積みおいてあった。ポスコ85全体の敷地には、2箇所で井戸(10メートル)が掘られており、生活用水に使用されている。トイレはトタンで仕切られた簡便トイレで、汚水は垂れ流し状態である。洗濯所は、井戸から汲んできた水で、たらいを用いて手洗いをしている。屋上には、ロープを張って干し場になっている。同炊事場は、コンロ、鍋、ナイフ、フォークなどは整然と整理されていたし、井戸の近くにある食器洗い共同場も大変きれいに使用されている。これは、衛生管理を怠ると伝染病が蔓延する恐れがあるので、住民全員が気をつけているとのことであった。

 今後の緊急の課題として挙げられるべきことは、安全な飲料水の確保である。現在、ポスコ85では、飲料水を給水車からの供給に依存し、タンクに保管している。また、トイレや洗濯、あるいは炊事といった生活用水については、フランスのNGOが約10メートル掘って作った2ヵ所の井戸を利用しているが、ポスコ85に住む300名余りの住民すべてが利用するには明らかに水不足ですぐに枯渇してしまう。
 
 最後に、これからの仮設生活に必要なことについて尋ねてみると、次のような返答があった。第1は、ベニヤ板一枚のプライバシーのない密集した集団生活の中では、息抜きのための娯楽が特に必要であるという点である。いまの深刻な生存ギリギリの状況下からすると、意外に思われるかもしれないが、殺伐とした日々の生活状況である時ほど、「娯楽がないと人は生きていけない」という。第2は、安定した収入確保である。長期間働ける仕事が必要であるという点である。彼は、生まれ育った故郷であり、親密な人間ネットワークのあるこの地で暮らしていけるために、漁業の再開を考えている。しかし、政府は彼らを海岸線から離れた山上地区の仮設住宅に強制移住させる方針だという。将来を政府に託すのか、自ら切り開いていくのか、彼の苦悩はこれからも長く続きそうである。

 インタビューを終え、戸外に興味深そうに覗き込んでいた子供たちと遊ぶことにした。わずか1メートルにも満たない廊下をかけめぐる子供たちに、100円ショップで買い集めた日本の「ケン玉」、「シャボン玉」、「スーパーボール」、「竹とんぼ」などをプレゼントした時の子供たちの笑顔は、すべての重苦しかった気持ちを吹き飛ばしてくれた。そして、アチェの子供たちが演じる伝統的なダンスと歌は、生涯忘れることはないだろう。

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