平成19年1月1日〜15日
新年明けましておめでとうございます。真言宗豊山派光明寺です。
さて今年はどのような年になるのでしょう。最近は兄弟姉妹も少なくなり、兄弟げんかで社会の縮図を学ぶ機会も段々と減ってきてしまいました。自分の意見を通すことばかりに気を取られて、手加減をするということが出来ない人が増えてきました。イジメは、昔は相手に興味があり、何かきっかけを作ろうと自然にちょっかいを出したりすることもありました。イヤだなと思いながらも、係わっているうちに、何かこの人面白いと思うようになったり、以外と良いやつじゃないの、なんてこともありました。取っ組み合いの大げんかをしたお陰で、無二の親友になったりなどもありました。今は言い争いになると、とことん相手を追いつめても尚、自分の正しさを押し通そうとし、最後には切れて、どうにもならない自体になるようです。
心はコントロールできなくなると、言い争うようになり、言葉で抑えられなくなると、行動に出るように出来ています。これを仏教では身・口・意の三業と云います。つまり、身体で相手を傷つけることと、言葉で相手を傷つけることと、心の中で相手を傷つけることの三つです。心で相手を大切に思っていてさえ、思わぬ行動に出てしまうのですから、特に相手に何か文句を言いたくなった時には、本当に気を付けましょう。あなたの大切な、大切なものを台無しにしてしまうかも知れませんからね。
私から始めましょう。目の前にいる人に、本当に有り難うの気持ちをいつも持ち続けることを今年の目標にしては如何でしょう。どうしたらそれを上手に伝えられるか、訓練をしましょう。今年は私から始めましょう。明るい未来への一歩を進めるために。
平成19年1月16日〜31日
正月気分も抜ける頃かと思います。新たな一年をどう過ごそうかとワクワクしている方もいらっしゃるでしょう。こうして、ああして、と思いめぐらして楽しくなっている方もいらっしゃるでしょう。でも、中にはまた一年が減っていってしまう、また年をとってしまう、と何となくもの悲しく感じている方もいるのではないでしょうか。それはとても勿体ないことです。だって、過ぎ去った昨日は二度と来ない訳でしょう。それを思い煩うなんて無駄なことでしょう。「そう云っても」という声がしそうですね。
「いかなる昨日より、今日が尊い」という言葉があります。今あなたが何かに夢中になっている時、年取ってしまったとか、あのときこうしておけばなんて思わないでしょう。只ひたすら今のことを夢中でやっているでしょう。しかも、そんなときは風邪もひかないなんて経験はありませんか。あなたの細胞の隅々までが情熱を燃やして生きている時には、溌剌としていて、病気など近寄る暇がありません。
お釈迦様は「弟子達よ。世の中のものはすべて移り変わる。お前達は怠ることなく勤め励めよ」と教えています。今を夢中で生きることは、何にもまして尊いのです。
あなたの今日一日は、きっと輝いていることでしょう。
平成19年2月1日〜15日
今年の冬は暖冬で、私には大変ありがたい冬です。スキー場などでは雪がなくて、当てにしていた収入が得られず、ガッカリと云うところです。私もここ数年多忙のためスキーが出来ずにいましたので、今年も出来ないなと思っています。
「今いる場所に満足できない人は、どこにも満足できる場所はない」という言葉があります。確かに「今が最悪だ」と思う時が人間にはあります。傍目にも「これは大変だな」という状況を過ごしていらっしゃる方もあります。ところが後で振り返ると、その時期を必死に乗り切ったことが、今となってはとても良かったと思うことの方が多いのです。渦中にあるときは「冗談じゃない」と思ってしまいます。これは本音です。でも、そうした状況を乗り越えるたびに、「乗り越えられない試練は与えられないのだよ」という言葉が本当に心に染みてきます。
一方、いつもいつも文句を言っている人がいます。傍目には何不自由もなく見えるのに、人にはそれぞれ悩みが絶えないものだなと思います。
あなたならどちらの人生が良いでしょうか。チャレンジして行こうとする人生と、何もしないでブツクサ文句を言っている人生と。
平成19年2月16日〜28日
2月15日はお釈迦様がお亡くなりになられた日です。仏教ではお釈迦様は最高の悟りの境地である涅槃に入られたと表現し、それをお祝いして涅槃会を行っています。お釈迦様がクシナガラでお亡くなりになられる間際に、25年そば近くお仕えしていたアーナンダ長老が嘆き悲しむ姿を見て、「色形ある肉体は必ず滅びてゆくのだよ。だから嘆き悲しんでどうなるであろう。世界は常に動いているのだよ。私の教えを導き手にして、自らの足で怠ることなく歩んでゆきなさいよ」と諭しておられます。私たちは、ずーっと生きていられると思いこんで、今という時間を無駄に過ごしてしまいます。たいていは、出来なくなってから「あのときやっておけばよかった」と後悔するのではないでしょうか。仏はいつも身近にいて、「今生きることの意味に気づきなさいよ」といっているのに、耳を傾けない凡夫がいます。
単純な教えですが、とても深い教えです。だからお釈迦様を慕う気持ちも強くなるのでしょう。昔西行というお坊さんが有名な詩を残しています。
「願わくは、花の下にて春死なん。その如月の望月のころ」
旧暦の如月の満月、つまり15日に私もみまかりたい。なんとよくお釈迦様を慕う気持ちが出ているではありませんか。私の父、現在の住職が好んで書き写し、壁に掛けている詩でもあります。
今日一日を大切に生きることにしましょう。私に命を授けてくださった多くの命たちのためにも。
平成19年3月1日〜15日
紅白歌合戦の時、テノール歌手が歌ってから大ブレイクした『千の風になって』は、元々は英語で書かれた詩です。誰が作ったのかは、判らないのです。死はいつ訪れるかわからないものです。ですから、急に大切な方をなくされた方には特に心に響く詩です。でも本当は生きているすべての人の心に響く内容のものだから、百五十年も昔から語り継がれてきた詩なのです。
仏教、とくに茶道の心得の中に、「一期一会」という言葉があります。目の前のお客様は、一生に一度しかお会いすることのない方かも知れない。だから、その方のために心を精一杯尽くそうという教えです。
伝えたかった一言を伝えることなく去っていくとしたら、とても寂しいことではないでしょうか。その一言を伝えるために、千の風になって吹き渡っているかもしれませんね。その言の葉を聴いてあげるのが、命あるものの努めなのです。泣いてばかりいては、折角の声が聞こえてこないのではないでしょうか。今のこの瞬間に、出会っている多くの風に、鳥のさえずりに、目の前のその人に、心を尽くすことが、多くの命の恵みを大切に、ともに活かすことに成るのだということが判るのではないでしょうか。実はそれが供養と言われるものなのです。心をお供えする、それがあなたの命を養うことでも有ると言うことが、すこしお判り頂けるのではないでしょうか。
あなたはいま、どんな風に吹かれているのでしょうか。
平成19年3月16日〜31日
春の陽気が続き、このまま春になるのかと思いきや、ここのところ真冬に逆戻りをした気候になっています。地球の自然環境を好き勝手に使い続けた人間への逆襲のようでもあります。天と地とは父母の如しというように、すべての命を生み出し、育んでくださっている親なのです。父親母親であれば、我が子かわいさにかなりの程度まで我が儘を聴いてあげるものでもあります。でも、かわいい子には旅をさせろというように、自らのあり方をわきまえて、無事に生きて行けるように、教育的な意味合いで、時には試練を与えるものです。その時代に子供である人間は、天地の恵みの意味を悟らなければ、命はつながって行かないのです。両親に甘えて、甘えすぎて両親が亡くなってしまった時、子供は生きる術を何も知らないことになり、ともに滅び行くことになるでしょう。
自然環境は人間のために有るのではないことを、日本人は山に樹木に、そのほか様々なものに神様が宿っていると感じてきました。そして私に直接命を授けてくださった両親を、さらにその両親に命を授けてくださった多くのご先祖様達を敬ってきました。命は多くのものの恵みによって初めて育まれるものです。ある一つのものによって成り立つのではありません。すべてご縁を得て、助け合って、仲良く生きなければ、せっかくの命は殺し合いの地獄に転落するのです。「和を以て尊しとする」とはとてもよい言葉ではないかと思います。
夫婦あい和し、家族仲良く生きてこそ、心が保たれることを、大自然も涙を流しながら、我々に語っているように思います。
平成19年4月1日〜15日
春の気配が感じられながら、寒い日に逆戻りする日々が続いた3月の末に、千日回峰行を満行された比叡山の藤波源信阿闍梨を久しぶりに訪ねて参りました。桜が咲くにはあと二三日というころでしたが、数日前までの寒さとは異なり、暖かい日になり、同行した筑波大学の先生と学生達も、時折聞こえてくるウグイスの鳴き声に心和ませておりました。
迫力のある護摩の法要の後で、宝珠院の書院にて藤波阿闍梨とお話しをいたしました。前回の時もそうでしたが、大変な修行をしたという衒いもなく、本当に感じたままを素直にお話ししてくださり、仏教や修行僧に会う機会の少ない学生達はすっかり感激していました。学生の一人が「阿闍梨様はやはり解脱を目指しておられるのですか」と尋ねると、「解脱とか涅槃とか難しいことを言うから、本当の生きる姿が分からなくなるように思うんですよ。私たちが仲良く、生き生きと生きられることが大切なんではないかなと思いますよ」などとお答えになっておりました。私の宗派が一番正しいとか、私の信じる神様だけが絶対なんだと言っていては、仲良くは生きられないと思います。
私だけが正しいという奢った心を、仏教では「我見」「我慢」と言います。「我慢」は今では全く別な意味で使いますが、私だけが正しいと慢心する心で、この心がすべての煩悩を生み出してしまうのです。つまり、争いや苦しみの大本になります。
ただひたすら自然の中を歩み続け、木々の香り、鳥の声、道々を踏みしめる自分の足音に、素直に心を巡らせていると、この宇宙自然の中のちっぽけな存在である私が、懸命に生きている大切な命であることを、本当に素直に受け入れることが出来るのだと思います。一方では私が正しいと傲慢になって周りを蔑み、そうかと思うと急に私なんかどうせこんなもの、この苦しみから逃げ出してしまおうと投げやりになる。こうした慢心を捨て、皆と仲良く過ごすには、何の変哲もない一日一日を生き、その生きていると言うことを感謝できるか否かにあるようです。
この法話を聴いている貴方は、紛れもなく生きている大切な命をお持ちです。一歩ずつ歩んでゆきましょう。
平成19年4月16日〜30日
つい先日筑波大学の宗教学コースの教員と学生とで、息栖神社と鹿島神宮、香取神宮を見て参りました。毎年近県の重要な宗教施設を宗教学実習の一環として見ておりますが、今年は特に利根川の河口にあり、潮来の水郷地域を治めていた日本の神々に触れて参りました。大きな森に囲まれており、いずれも神聖な場所として、すがすがしい気の充ち満ちた佇まいをしておりました。鹿島神宮と香取神宮はいずれも武神を頂き、鹿島神流など古武道の起源となる武芸の神様としても有名です。資料館には奉納された日本刀や武芸にまつわるものが多く治められておりました。
印象に残りましたのは鹿島、香取の両神宮には要石と呼ばれるものがあり、掘っても掘っても掘り出しきれないと伝わる石でありながら、地上にはちょっとだけ顔を出したものです。これはナマズを押さえ込む石として大切にまつられております。どうしてこのような要石が祀られているかといいますと、この地域は昔から地震が多かったからだと言うことです。ここのところ能登半島の輪島を中心とした地震があったり、つい今しがたは三重県の津市あたりのシャープテレビ亀山モデルの亀山でも大きな地震がありましたので、こうした地震を封じるための心は日本人には大切なものです。
このように日本人は自然の驚異をしっかりと受け止め、横柄に対処するのではなく、畏れかしこまりながら、神々として大切にお祀りし、ともに生きることを学んできたはずでした。お金になるからといって森林を無闇に切ることはなかったはずです。気温の寒暖差もこんなにも激しくなっている今日この頃の気候からは、瑞穂の国もとうとう砂漠の原野へと姿を変えているように感じられてなりません。私たちは日々、身の回りの神々に心を寄せ、畏れ敬うことを実践することが大切だと思います。
平成19年5月1日〜15日
五月の連休に入り、すがすがしい日差しや木々の香りを嗅ぐと、いい季節だなと思います。それもつかの間、急に真夏日になったり、一転して雨の寒い日が訪れたりします。またここのところ午後になると晴れていた空が急に暗くなり、ザーッとスコールのような激しい雨が降るようになりました。まさに砂漠の気候のようになってきました。瑞穂の国日本は大丈夫なのでしょうか。
公務員が不正をしたことをマスメディアが大きく取り上げ、まるで公務員すべてが悪い人というイメージを植え付けた結果、多くの優秀な人材が公務員を目指さないようになっていると新聞が具体的な数字をあげて報じています。お金にならない学問はいらない。金を稼げといって国立大学の予算をドンドンと削っていますが、優秀な人材ほど海外に逃げてしまうでしょう。米百俵の精神である、今はお金にならないような基礎学問を見捨てていると、将来日本は多くのお金を支払って、それらの人たちの残してゆく業績を買わなければならないことになるのでしょう。
目先にとらわれる、浮き世に流される、こうしたことがいかに愚かなことかをお釈迦様は時の王様達に説いて聴かせました。説いて聴かせて分からないのが凡夫の性です。そこで心を見つめるために瞑想修行を勧めています。座禅をして、ゆったりと部屋の風景や、身の回りを見渡すのも良いかもしれませんね。きっと普段気づかなかったことに心が留まり、少しだけ得をした気分になれるかもしれませんよ。
平成19年5月16日〜31日
赤ちゃんポストというものができたというニュースがありました。闇に葬られてしまう赤ちゃんの大切な命を救いたいという病院の人々の善意で出来たものです。当初から、子育て放棄を助長しかねないという反対意見を押し切ってのものでした。ところが出来たばかりの赤ちゃんポストに三歳の男の子が入れられていたというニュースが流れました。何でもお父さんと一緒に来たと三歳児が話しているようで、まさに善意を踏みにじる、安易な子育て放棄の例となってしまったようです。
世の中には多くの善意の心を、心ない人々が悪用する例が後を絶ちません。義務教育だからとでも言うのでしょうか、給食費や保育費を、お金があるにもかかわらず、支払い拒否する人々がいます。こうした人々のために、説話は地獄の話や、餓鬼道の話を用意してきたのです。地獄絵は私たちが現実に作り出している世界であり、決して架空のお話しではありません。愛欲に溺れて、我が子が邪魔になったと言っては殺してしまう例が後を絶ちません。親がうるさいからといって殺してしまう例まであります。ましてや友人同士は言うに及ばず、赤の他人など命の範疇にさえ入れていないように思います。
どうしたらよいのでしょう。命の意味を言葉で説明しても分からないのが凡夫です。家庭の中で神仏に手を合わせる行為などを毎日毎日見て育った人の心には、自然に命の元、先祖を敬う心が育つように、宗教儀礼を通して心を養うことができるようです。家庭での宗教儀礼の大切さを、もう一度見直すべきではないでしょうか。
親は食べなくとも子供に食べさせた時代は、物は貧しくても心は豊かであったはずです。物も心も豊かであって始めて、人間として幸せといえるのではないでしょうか。
平成19年6月1日〜15日
ここのところ現役の大臣が自殺をし、疑惑をもたれた団体の理事等も自殺をし、また癌と闘っていたZardというグループの歌手も階段から落ちて死亡するなどのニュースが世間を騒がせています。また大相撲では白鵬が横綱になり、お目出たいとはいえ、ある週刊誌が八百長疑惑で暴露記事を書くなど、私たちの心には、あまりよろしくない情報が蔓延しているようにも思います。情報がたくさん与えられるのは、とても大事なことで、幸せなことなのですが、私たち凡夫は情報に振り回されてしまいます。いわゆる「デマ」や「悪意の情報」で心を貧しい物にしてしまうことが多いのです。
公務員の汚職や不正が大きく取り上げられると、すべての公務員がそのような人と思いこんでしまいます。食べるものも「これは健康にいいですよ」という宣伝を鵜呑みにして、真っ赤な偽物を食べて、健康を害するという報道があると、すべての物が悪いと思いこんでしまう。
「あるがままの姿を自分の目で、心でよく見なさい」というのが、お釈迦様の大切な教えです。あの人が言ったから、これは健康に良い食べ物なのではありません。この人が言っているから、こういう職業の人は悪いのではないのです。その食べ物、この職業にはすべて命があります。その中から本当の姿を心の目でよく見ることが必要なのです。
5月30日に藤原紀香さんと陣内智則さんのテレビ版結婚披露宴が流れておりました。それ自体はマスメディアの作り上げたものではありましたし、芸能界では藤原さんが注目されていることは誰の目にも明らかです。でも、以前より年齢とともに素敵になってゆく女優さんだなと私に感じられていた理由が、きっと彼女が地位や名声ではなくて、陣内さんの人間としての価値をよく知ろうとし、それを実行しようと努めているからだと思います。どうしても「あの人はこんな人らしいよ」とか、地位や名声で相手を見ようとする私たちです。そのようなところに幸せな生活は生まれようがありません。そのことをお釈迦様は繰り返し弟子達に語っているのです。本当にありがたいことだと思います。
今の藤原紀香さんのように、年齢とともに素敵な人間でいられるように私も歩んでゆきたいと思います
平成19年6月16日〜30日
日本も熱帯地域のように、急な雨が降っては、すぐに晴れ上がる天候になりました。それなのに相変わらず梅雨は巡ってくるようです。熱帯のスコールに梅雨が加わって、先日は久喜にもかつてないほどの集中豪雨が降りました。光明寺はこの地区ではもっとも高い位置にあるのですが、水がはけきれず、本堂の前も海のように成ってしまいました。あいにく法事に来られた方々は、普通は車では入ることのない正門の中にまで乗り入れ、それでもずぶ濡れになりながら玄関に辿り着くという有様でした。
地球温暖化を何とかしなければと思いながらも、私たちは車に乗り、家ではエアコンなどを回し続け、明かりをつけて、二酸化炭素の量を大量に出すことを平気でやっています。京都議定書に二酸化炭素のもっとも多い排出国であるアメリカも中国も入らないということを見ても、身の危険よりお金優先という凡夫の悲しい性がよく見えてしまいます。
お金のために身を滅ぼすのが凡夫の性であるからこそ、道徳教育が家庭でも学校でも重要な位置に据えられていなければ成らなかったはずです。その習慣がない世代の先生や子供の親には、道徳教育が何であるかの教育を出来るはずがありません。
仏教は心を耕せと教えています。社会全体の心、人々の心が耕されるまでには、本当に長い年月がかかります。お金があるのに給食費を払わない。屁理屈だけが一人前に成ってしまった人の心を再生するのは、少なくとも三世代、おそらく百年の地道な努力が必要でしょう。
百年後の心を見据えて心を耕す時、仏の心が見えてくるはずなのです。百年後を見据えながら、今を生きられる人間に成りたいものです。
平成19年7月1日〜15日
世界のほとんどすべての宗教の戒律の中に不殺生の項目があります。ただし、キリスト教やイスラームなどアブラハムの宗教では、殺していけないのは人間に限定するのに対して、インドの宗教、たとえば仏教は生きとし生きるものすべてを傷つけてはならないという点が大きく異なります。私たちは命を食べなければ生きて行けないのです。すると、この戒律は守ろうとしても結局は守れないと言うことになります。
では守れないような戒律をなぜ作っているのでしょうか。どうせ守れないから殺してもかまわないという傲慢な心を起こすのが我々です。それを戒めているのです。避けられないことを深く心に刻みながら生きて行くと、大切な命を私の命のために使わせて頂いていますという感謝の気持ちが、自然に湧いてくるのです。そうすると小さな虫や草花にまで、慈しむ心が湧いてくるのです。お米一粒も仏様なのよ。小さな虫でも仏様なのよ。昔はこうした仏教の教育が家庭でよく受け継がれていました。だから「みんな仏様」という心が育てば、傷つけようという心も薄れるはずなのです。
ところが、残念なことに「汝殺すなかれ」と説きながら、人間だけに限定すると、虫けらはどうでも良いし、動物は人間のために与えられたと考えてしまう。さらに進むと同じ信仰を持たない人間は人間ではない。だから殺しても構わないということになり、十字軍や様々な戦争が神の名の下に行われることになったのは、この辺に原因があるようです。
山口県光市で母と幼い子を殺害し、未成年なら死刑にならないだろうと公然とうそぶいた少年の無期懲役が最高裁で差し戻し裁判になりました。許せないのはこの少年の行為と心のねじ曲がった有り様を無視して、弁護団は「死刑廃止」という自分たちの大義名分を主張するために事件を利用していることです。非キリスト教圏にある東洋の宗教観からすると許せないのです。唯一絶対の大義名分を守るためなら、手段を選ばないというのは本末転倒なのです。仏教は不殺生戒を何が何でも守れと強要し、すさんだ心をないがしろにすることはしないのです。すさんだ心に見合う自然の流れがあるなら、それを受け止める心を養う道筋を、温かく見守る勇気が必要なのです。死刑は凡夫の計らいです。それを神仏の名においてどうこうするようなことではないのです。私たちは自分の死を目の前にして、やっとどう生きるべきであったかを自覚し始めるようです。もっと早く、生きていられる時に気づかせるために、以前は家庭で死にゆくものを看取る中で、御仏は死を私たちの身近に与えてくださっていたのです。
私たちは、あの「死刑廃止」を振りかざすような心をもつ人間にはなりたくないものです。
平成19年7月16日〜31日
7月にしては記録的な大型の台風が通り過ぎてゆきました。次第にこれまでにはない自然環境が目につくようになってきました。おそらく自然を征服することが人類の知恵だと豪語した西洋文明の考え方の生み出したものでしょう。西洋文明の考え方は自然科学や経済など、様々な分野で私たちに便利さと裕福さをもたらしてくれました。私もとても快適に感じることが多くあります。その一方で、地球という命の中で生かされている私の命を静かに見つめると、大地の恵みに感謝することをややもすると忘れがちな我が身を反省せざるを得ません。
人間は安きに流れやすいものです。スーパーに並ぶ製品でも、一円でも安いものがないかと探してしまいます。その結果、端正を込めた優れたものは姿を消し、また健康で優良な食物も売れなくなってしまいます。結局は毒入りの饅頭を食べさせられ、心も体もバランスを取ることが出来ない人間が社会に蔓延することになってしまいました。気に入らないから人を刺す、に留まらず、何か知らないけど列車に飛び込んでしまおうとする心が生まれるのは、命の元である食事が危険なのです。中国の野菜が猛毒の農薬で汚染されていることは、すでに20年前にヨーロッパでは盛んに話題になっていました。今頃日本で騒いでいるのはどういうことでしょう。私たち日本人は何も知らされていないようです。
豪華な車を少し我慢して、少々高くても安全な食事をし、伝統に培われ、人々の心のこもった製品を購入することを、一人一人が実践する以外に、健康で生き生きとした心と体を取りもどくことはないでしょう。
命の元はご先祖様の愛情のこもったものを受け止める心から出発しなければならないのです。そのことをもう一度考えてみましょう。
平成19年8月1日〜15日
参議院選挙も自民党の歴史的な大敗で終えたとマスメディアが騒ぎながら、大勝したはずの民主党の内容もそれほど魅力的というわけでもありませんよね。欲望の象徴でもある株価がそれ程影響を受けていないことを見ても、私たち一般大衆の方がマスメディアより、そのことをよく知っているように思います。それでも、「これがだめならとりあえずあれ」と選べるようになるのは次善の策として喜ぶべきなのでしょう。
地球温暖化の大きな原因は確かに火力発電です。火力発電が二酸化炭素を排出する大本が石油だからだ、というので二酸化炭素を出さない原子力発電が良いというのは、人間の頭の陥る落とし穴の良い例でしょう。仏教はこうした表面的な見方を戒めるところから始めます。よくものを見ましょう。中越沖地震で原発が危うく崩壊し、大量の放射能をまき散らすところでした。
二酸化炭素も地獄を招き、よりよいと人間の浅知恵で考えた原発の放射能はさらに深い地獄へと私たちを導いてゆきます。これは紛れもない事実です。地獄と言うと何か空想の世界だと思っている人がいます。でもよく考えてください。素直に目の前のことを心の目で見てゆくと、現実に起きている戦争を始め、地獄というのは人間が生み出す人為的な世界であることに気づくはずです。
お盆というのはその地獄の釜の蓋が開く時と言い伝えられてきています。私に命を授けてくださった多くの命、ご先祖様が、その地獄の淵から、可愛い跡取りである私が無事に次の世代に命を渡すように、貴重な教えを授けに来てくださる記念日なのです。うっかりすると「私は正しく生きている」と自惚れて地獄に堕ちかねない、危なっかしい私に、「ほらほらそこに地獄への道がポッカリと空いているよ」と教えに来ているのです。
ゆめゆめご先祖様を疎かに扱ってはならないのは、お盆だけではないのですが、せめて一年に一度のお盆の日に最大限の感謝の気持ちをお伝えすることでお許し頂くことにしましょう。ちょうど一年生きて来られたことを誕生日に代表してお祝いするようなものです。政治や経済、科学技術、人間の小手先の狭い知恵に踊らされるのではなく、もう一度素直に、太陽の恵みと、大地の恵みと、私を支えている多くの命に、心から感謝申し上げたいと思います。
平成19年8月16日〜31日
酷暑の中で今年のお盆の行事が進んでゆきました。光明寺では本年から8月11日の夕刻に、新盆を迎えたご家庭だけですが、本堂にお集まり頂いて、「亡くなられた方をお迎えするということがどのようなことか」についてお話しする集いを催しました。それぞれのご家庭で二人、三人と連れだってご参加頂きましたので、多くの方々にご参加頂くことが出来ました。
亡くなられた方を迎えるために、実はあなたがこの世にいのちを授けて頂き、生きていると云うことの意味をよく知っていなければならないということからお話しを始めました。私たちは不思議なことに肉体という物質に「いのち」を宿して頂いたので、腐ったり、朽ち果てたりするのではなく、他の多くのいのちを食物として取り込んで、新たないのちとして生長してゆくことが出来るのです。いのちを受け取る能力を最初に授けたのが、両親であり、その両親にいのちを授けた多くの先祖の恩恵があればこそ、こうして他のいのちを頂くことが出来るのです。
「いのち」と大和言葉で言いますが、同じく肉体を生命あるものにする元と云うことで「たましい」と表現します。インドでは「マナス」という言葉があります。これは「こころ」であり、同時に「たましい」という意味になります。心によって肉体は変化します。心によって物質は変化してゆきます。それは心の本体が純粋な光だからです。純粋な光と気づくのは世の東西を問わず、人類が共通に感じ取ってきたものです。その光が輝いている人が、元気で生き生きとしている人です。こういう人の近くに行くと、元気をもらうことが出来るので、多くの人が集まります。輝かないような人のところには寄ってゆかないか、同じように悪い気を持った人たちが集まります。
悪い気の集まりは、魑魅魍魎となり、悲惨きわまりない状況へと物事が回転してゆきます。それを「地獄に堕ちる」と表現します。良い人を演じていても、真に輝くいのちでないと、地獄に堕ちると感じます。しかし、たとえば若いし、とても優しいし、こんな良い人が病魔に冒されて早くなくなる場合、その方の死は多くの方に生きることの大切さを教えてゆく、いのちの徳をもっています。これは決して地獄に堕ちては行きません。それはいのちそのものが光り輝いているからです。素地があるのに懸命に生きることに努めないと、いのちは光を放たないのです。たとえば欲望のままに、金儲けだけに走ったり、名声だけを求めて勉強や商売等に走り、多くのいのちに感謝せず、だからこそ自分のいのちの光を曇らせている人は、地獄の暗闇を作り出してゆくのです。生きようとせず、無駄にいのちを使っている人も、暗闇を自分で作り出しているのです。
生きる意味は、生きている光を輝かせることです。それこそがあなたにいのちの徳を託してゆかれた先祖への最高のご供養なのです。自分の欲望のために故人に祈ってはなりません。亡くなった方に、もっともっと良いところへ、浄土へお渡りくださいと、祈り続けてゆきましょう。
平成19年9月1日〜15日
最高気温が40度を超えた日々が続いたのに、今度はここ二、三日涼しい日が続いています。気象庁の予報では、6月頃には今年は空梅雨が予想されながら、7月にはいると長雨の日々でした。そのころ今年は冷夏であると予想されながら、40度を超える酷暑の日々でした。いま今年の秋は残暑が厳しいと予想されていますので、ひょっとしたら秋が足早にやってくるのではないかと思っています。とにかく寒暖の差が激しいので、体調管理が大変です。
9月の最初の週には四国徳島にある四国大学のキャンパスで仏教の学会が開かれます。四国ということで四国遍路をテーマとしてシンポジウムが開かれます。私もその学会に参加する予定です。最終日には第一番札所から何カ所かを「歩き遍路」をして回って見るつもりです。
光明寺では以前に檀信徒の方々と三年掛けてバスで四国八十八カ所霊場を巡る旅をしました。私はそのうちの3年目の引率をしました。皆さん年齢も結構高く、いつもなら歩くのもままならない足取りでお寺に見えるのに、信仰の力というのはすごいものですね。高い山の上まで、元気に上ってしまわれたので驚いてしまいました。
四国遍路は心の旅。何かの答えを見つけるために歩く方もいます。よく聞くのは「すべて歩いたからと云って、何かが見つかるわけではない」ということです。こうしたことが素直に云えるというのは、無心に御仏と一緒に、弘法大師様と一緒に歩まれたからだと思います。この飄々とした歩みが、心に何かを与えてくれていると私は感じます。
人生にも様々なタイプがあるでしょう。激しいもの、ゆったりとしたもの、様々です。でもどの人生もその人を育てる大切な人生です。「人生に無駄なことは何もない」と云われます。でも大切さに気づかなければ、せっかく御仏が与えてくださった実りある人生を活用することが出来ずに終わってしまうように思います。
日頃何をしているかは人それぞれでしょう。生きている間に経験する様々なことが、私を育てる大切なものなのだと云うことを感じながら、お彼岸までの半月ほどを過ごしてみましょう。名月を酒の肴にして。
平成19年9月16日〜30日
今回は予定通り四国徳島に行って参りました。仏教の学会の公開シンポジウムでは四国遍路をテーマとして、お遍路さんの専門家の先生、お接待に詳しい先生のほか、密教の専門家、日本仏教の専門家、弘法大師の専門家がお話しをしました。遍路の始めは修験道などの行者さんの道であったのですが、江戸時代に平和になり、一般の人も安心して旅行が出来るようになって、多くの人が歩いて回るようになったそうです。四国は弘法大師の生まれ故郷でもあるし、修行もされましたので、お大師様と二人連れというように、心の支えをもって遍路をするようになりました。
シンポジウムの次の日、台風が関東に接近していて午後の飛行機は飛ばないかも知れないと言われていました。盛んに台風情報は関東の天候の悪さを報道していました。でも、徳島に来て一番霊場から歩き遍路を始めないで帰るのは、どうしても心残りでした。きっとお遍路の功徳があり、ちゃんと飛行機に乗って帰れると心を決めて、朝早くに徳島駅からJRに乗り、板東駅に向かいました。前日までカンカン照りで、暑さのため歩き遍路をすると行って出かけた学生達はあまりの暑さに途中からタクシーに乗ったと聞きました。ところが私が歩いた日は、台風の影響もあったのでしょう、柔らかい日差しで、しかも心地よい気温でしたので、これも御仏のご加護だと感謝しました。
一番札所の霊仙寺では本堂の右脇にお遍路に必要なものが買えるような場所があり、そこで説明を受けながら納経帳と必要なものを手に入れ、本堂と大師堂でお経を上げて、二番札所へと出発しました。バスであればあっという間に着くような距離でしたが、山々の風景に目を移したり、様々な臭いを嗅ぎ、時々道を尋ねながら行きました。また他の歩き遍路の人や、自転車で回っている人とお話をしながら歩きました。
その間にも関東からメールで「台風だけど大丈夫か」など連絡が入り、電話もかかってきました。「いまお遍路の最中」というと、ますます心配されました。それでもお大師様や仏達に「祈りはきっと通じる」と念じながら、三番札所の金泉寺まで行きました。その日の目的を満行したので、心から帰路の安全を祈り、板野駅に行くと、調度特急列車が来る時間で、すぐに徳島に戻ることが出来ました。着替えを済ませ、予定より早い便に乗れるかも知れないと言うので、空港に向かいました。普段は変更が出来ないのですが、台風と言うことでしょう、間に合う便にチケットを変更することが出来ました。ただし天候によってはまた徳島に引き返す条件でした。
空の旅はそれ程揺れもせず、羽田に着陸する時も、まだアクアラインを走る車の姿が見えたので、大丈夫だなと思いました。無事着陸して、その後も列車で帰宅する間、雨も風もなく、遅れもなく帰ってきました。我が家に入る数歩前になって雨が降り出したのを見て、「今まできっと護ってくださっていたんだ」と御仏に感謝しました。テレビを見ると、列車の遅れが結構ひどいようでしたので、ますます不思議な力に見守られていたのだなと思いました。
本当に今回は歩き遍路が始められて善かったと思いました。祈る心はとても大切なものであることを改めて感じた瞬間でした。
平成19年10月1日〜15日
暑さ寒さも彼岸までと申します。お彼岸の中日を過ぎてぐっと気温が下がったと思ったのですが、その後も30度近くの気温になり、やはり温暖化を気にしないといけないのかと思ってしまいます。
私は今回お彼岸が明けた日から、シルクロードの中でも奥地に当たる新彊ウイグル自治区に行っているはずです。皆さんがこの録音をお聞きの10月の始めは『法華経』を翻訳した鳩摩羅什の生まれ故郷であるクチャにいる予定です。西遊記でおなじみの三蔵法師のモデルになりました、唐の時代の三蔵法師玄奘がこの地を訪れた時には、壮麗な僧院が建ち並んでたいへんにぎやかであったと伝えられています。
中国が文化大革命の時代に、多くの文化遺産を破壊してしまいましたが、その後急ピッチで復旧が進み、今では近代化の波がこの辺境の地でも進んでいるようです。私たちがNHKのシルクロードで見た20年以上前の映像と、最近見た新シルクロードとを比較しても、その変化は驚くほどです。
現在はイスラームを信仰する人々の中に残る仏教遺跡を訪ね、多くの血を流した人々の霊と、今はなき多くの仏教徒達の心を供養して参ります。その様子を次回のテレホン法話でご報告したいと思います。皆様ご健勝でありますように心よりお念じ申し上げます。
平成19年10月16日〜30日
中国の辺境の地、新彊ウイグルの地から、無事に帰って参りました。トルファンの町やクチャの町からさらに奥地へとはいり、昔多くの仏教僧達が修行をしていた千仏洞に行きました。シルクロードの街道が天山山脈の裾野を走っています。平野は土砂漠ですが、天山に降った雪解け水で、少し前に洪水になり、道が流されたりしていました。ですから道なき道を車に揺られながら行き、河の中を進むという行程でした。西遊記の孫悟空も見た火焔山を実際に見ましたが、一本の樹木もなく、鉄鉱石の赤々とした山肌を見ると、妖怪が出てきてもおかしくないと感じました。
千仏洞とは千の仏達を洞窟の天井などに描いている、礼拝や瞑想修行のための洞窟なので、そのように呼ぶのです。こうした洞窟の作られる場所には必ず川が流れており、ちゃんと生活ができることが解りました。過酷なところというより、俗世間を離れて、心静かに瞑想に耽るのにはよいところでした。現在はイスラームを信仰するウイグル族が遺跡の管理をしています。仏教だからといって、目の敵にしている様子もなく、観光資源としてかもしれませんが、愛情を持って管理しているように思えました。
それにしてもこうしたオアシスのある地は転々としているので、玄奘三蔵法師は地平線の彼方まで続く、荒涼とした砂漠を、よくぞわたっていこうとしたものだと、改めて感心しました。余程の情熱がないと、とても歩こうなどとは思わなかったでしょう。
一緒に行った仲間と般若心経や観音経を唱え、心より多くの命に供養をして、帰ってきました。ご供養をしてきたお陰なのでしょうか、あれ程に辺境の過酷な場所を巡ったにもかかわらず、不思議に力がみなぎってきております。周りのみんなが不思議がっています。そんなこんなで、私も御仏のご加護かとご本尊様にお礼を申し上げる日々です。この法話をお聞きの皆様にもきっとご加護が有ることと存じます。
平成19年11月1日〜15日
今回は天台宗の総本山である比叡山延暦寺に行って来ました。それは、滅多に行われない千日回峰行という厳しい修行をされている星野師が、その修行の中でも最も過酷な堂入りに入っておられたからです。テレビのニュースなどでも何回か紹介されていましたので、ご存じの方もいらっしゃると思います。明王堂というお堂に9日間こもり、水も飲まず、食事もせず、横になることもなく、眠りもせず不動明王の真言を唱えるというものです。医学的に言うと、普通の人間は9日もこの状態では生きていられないはずだという修行です。修行者は毎朝午前2時に、不動明王にお水を差し上げるために、明王堂から300メートルくらいのところにある井戸に水をくみに行きます。ですから、このときだけ私たちは明王堂の外で修行者に合うことが出来るわけです。そこで根本中道の近くの宿舎から夜中の1時頃に出発して、懐中電灯を頼りに比叡山の山道を明王堂まで下ってゆきました。私たちが行ったのは堂入り7日目でしたので、かなり弱っているのではないかと想像していました。でも意外なほどしっかりとしていました。人間の持つ煩悩がそげ落ちているのか、人間と言うより、生き物がいるという感じがしました。私たちも一心不乱に何事かに打ち込んでいる時は、崇高な雰囲気になっているのかも知れません。その後、無事に堂入りが終了したとニュースで取り上げておりましたので、無事で良かったとほっとしました。
私たちも日常生活で、心を浄くして、一心不乱に善いことに精進していたら、世間の様々な悪魔の手から守って頂いているという感覚がしてくると思います。日々これ修行であるということがよく分かります。
さて、このテレホン法話も父の代から続けて参りましたが、最近はめっきりお聞きくださる方の数が減ってしまいました。むしろインターネット上で開設していますホームページへのアクセスが多くなっています。そこで、永年続けて参りましたこのテレホン法話を今年の12月31日で中断することにしました。来年の1月1日以降はホームページに原稿と、某かの写真を載せることにしたいと思います。お聞きくださっていらっしゃる皆様を考えると、後ろ髪を引かれる思いもあるのですが、時代の流れかと存じます。まだ少し時間がございますが、来年からはホームページでお会いしましょう。
平成19年11月16日〜30日
今回は台湾の国立政治大学を訪ねて来ました。台湾には双璧といわれる台湾大学と国立政治大学が有名なのですが、政治体制の影響もあって、仏教の研究が国立大学で行われるようになったのは、ここ10年くらいのことだそうです。もちろん仏教系の大学には多くの仏教学者がおりますし、私の学生時代からの知り合いの慧敏師は台湾では新たな仏教運動の旗頭として、生き生きとした仏教を国民の間に浸透させており、なんと仏教の大学を政府から認可を受けて作り上げてしまったほどです。
仏教には一般に皆さんが触れあう仏教と、学問としての仏教学とがあります。仏教学はインド以来の仏教の内容を学問的に研究するので、それで救われるか、社会に貢献するかという見方からすると、少し後ろ向きの感じがします。皆さんが求めている仏教は、それによって少しでも心の平安が得られるようにと願うものだと思います。実はお坊さん達が皆さんに「仏教とはこうですよ」とお話しをするためには、仏教が何を教えているかを出来るだけ正確に知っている人たちが必要です。その人達に指導を受けることで、お坊さん達も自信をもって皆さんにお話しが出来るようになるのです。
この仏教学の分野では日本は世界的にとても進んだ国です。しかし、明治時代の政府の廃仏毀釈の後、また特に第二次大戦以降の占領政策の影響で、仏教の生き生きとした姿を皆さんに伝える機会が減ってしまいました。そのため、仏教というと只単にお葬式などの儀式をするもの、お祓いなどの祈祷をするもののイメージが増えて、本来の「どのように生きていったらよいか」を伝える宗教であることを忘れがちになりました。
台湾でもある程度似たところがあったようですが、厳しく戒を守り、伝統的な仏教教団を維持していますが、現代に生きた仏教の運動は日本より一歩進んで、皆さんに親しまれる仏教が進められているように思います。何処にそのような魅力を生み出す力があったのかを学んで、皆さんに伝えられるようになりたいものだと思います。
さて、前回からお話ししておりますように、テレホン法話をお聞きくださる方の数が大変少なくなっておりますので、今年でひとまずおしまいにします。若い世代にはホームページの方が人気ですので、そちらに記事を載せることにいたします。
平成19年12月1日〜15日
永年続けて参りました光明寺テレホン法話も最後の月になりました。来年以降しばらくはご法事の際にさせて頂いている法話の中からお話しをし、更新はしない形にいたします。
ご法事の際には、基本的に49日忌にはどのようにして対岸浄土に渡るのかについてお話しをしております。日常の生活の常識から言うと、不思議なのですが、49日忌を疎かにしますと、多くの遺族の方に某かの不安定な状況が生まれます。私も以前には、ご事情があるなら別に法要をしなくてもよいのではないかと申し上げたこともあったのですが、たびたびそのような状況を経験して参りますと、「何らかの形で必ず49日忌をおやりになってください」と申し上げるしかなくなりました。
49日忌は浄土に渡ると言いますが、世界の宗教を見渡し、聖典などに記述があるものを見ていますと、おおよそ40日から49日くらいに宇宙の大きな力との関係をすることが述べられています。神様からお告げを受けたり、何らかのものです。おそらくは命の根源からのメッセージなのだと思います。
私の命は、今は肉体をお借りして、そこに宿っておりますが、その命を生み出してくださった数限りない命の流れがあるわけです。その命の流れを遮ったりすると、その流れの中で生きている肉体をもった私たちは上手に生きられなくなるようです。とかく「私の身体は私のものだから、私が一番よく知っている」と言う人がいます。これが傲慢な心であり、様々な問題をまき散らしていることに気づかないと、困ったことになることがおおいようです。
大和言葉で魂を「ひ」と言い、それの宿るところを「ひと」というので、「ひと」というのは魂の宿るところであると日本人は古来より感じ取ってきたのです。その大きな智慧を頂、日々の中で、命があることの本当の意味、大きな命の流れをよく感じ取り、感じ取ると自然に沸き起こってくる祖先への感謝の気持ちを大切にお過ごし頂ければと存じます。
次はいよいよ最後のテレホン法話となります。12月16日に変わります。どうぞ年の瀬を無事にお過ごしください。お電話ありがとうございました。
平成19年12月16日〜31日
永年続けて参りました光明寺テレホン法話もいよいよ最終回になりました。お正月以降しばらくはご法事の際にさせて頂いている法話の中からお話しをし、更新はしない形にいたします。
相変わらずテレビを見ていますと、ムシャクシャするからとか、一人で死ぬのは寂しいからと言うような気持ちで、簡単に人の命を奪ってしまうようなニュースが目に入ります。日本は最も大切な命の教育を止めてしまった結果だと思います。共産主義を掲げ、文化大革命という心の時代には最悪の経験を過ごしてきた中国に参りますと、熱心に仏教の寺院にお参りをしている姿が目に入ります。中国人は日本人と同じように、仏教の寺院にも行けば、儒教や道教のお寺にも行き、同じように熱心に祈りを捧げています。先日中国の香港に近い広州市に行きました。そこで目にしたある寺院は、中にはいるといくつもの部屋があり、道教の神様の部屋、儒教の神様の部屋、お金がたくさん得られますようにと祈るための神様、そして一つの部屋は観音様の像が祀られていました。その一つ一つを何の違和感もなくお参りしていました。
よく日本人は神仏習合で、日本の神様とインドや中国から来た仏教の仏様を一緒に拝んでいるといい、これはおかしいという人がいます。これは特に西洋の常識が世界の常識であると思いこんで、神仏分離を強行した明治政府以降の誤った考え方です。西洋文明はキリスト教という一神教の考え方で育ってきました。ただ一つの神しか信じてはならない。他の神を信じるのは神の罰が当たる悪い行為であるという考えを押しつけるのです。これは砂漠を生き抜く民族には確かに必要であったのだと思いますが、本来この宇宙自然の限りない恵みを、神様や仏様と感じ取るのは、人間の大切な心なのです。一神教の国々は他を排除して、私だけが生き残り、私だけが幸せであることを教えることになります。汝の敵を愛せ、とは敵でもキリスト教徒である敵を意味して、それ以外の信仰を持つものは、敵の数にも入らないため、植民地政策や第二次世界大戦からアフガニスタンやイラク戦争に見られるように、堂々と考えの異なる人たちを攻撃して、これは正義の戦いだと胸を張れるのです。
しかし、命の最も大切なところは、この宇宙自然の恵みに心から感謝する、世界の多くの宗教の学び取ってきた姿なのです。どんな神仏にも頭を垂れ、敬う心は尊いのです。
日本人なら、光の恵みを与えてくださる最も大切なお天道様に礼拝をし、ご先祖様に感謝し、いま命を頂いていることを心から素晴らしいことだと感じ取って、それを日々実践することが、本当に大切なのです。西洋にかぶれて宗教と政治を誤って分けたり、学校教育から宗教色を排除してしまった結果、私たちは日々の生活の中で命を自然に大切にすることがなくなり、命を物としてしか扱えなくなってしまったのです。ごく当然の結果です。友人の命でさえ私の寂しさを紛らわせる物にすぎないと考えるような人々を、これ以上作りださないように、日々礼拝するお姿を皆さんにお見せすることで、他の多くの皆様のお心を豊かにして差し上げる功徳をお積みになられますよう、お念じ申し上げます。
来年のお正月からは、地獄と極楽のお話しや、白楽天のお話などをすることにいたします。コンピュータがお使いになれれば、ホームページで写真を入れて私の訪れた場所で感じたことなどご紹介するものをご覧になれるかと思っています。
皆様長い間熱心にテレホン法話をお聞き下さいましてありがとうございました。どうぞよいお年をお迎え下さい。そして生き生きとした日々をお過ごし下さい。