平成18年1月1日~15日
新年明けましておめでとうございます。真言宗豊山派光明寺です。
年末の買い物客の表情も、何となく以前より明るく浮き浮きしている様子に、少しずつ景気も良くなっているのだなと感じ取ることができました。皆様はどのように新年をお迎えでしょうか。昨年はムシャクシャしたから人を傷つけるというような動機の事件が頻発しました。私の見るところでは、家庭での教育が機能しなくなって久しいことの結果が、ようやく目で見える段階までに進んできたと言うことのように思われます。相対性理論を見つけ出したアインシュタインがこよなく愛した日本の美と日本人の心にたいして、「科学技術を身につけたとしても、どうぞ日本人の心を忘れないで欲しい」と語った大切なものを代々受け継ぐための大切な家庭教育を、日本企業も、日本の教育制度も破壊してきたように思います。
兄弟で喧嘩をする機会も少なくなりました。喧嘩をしてお互いの心のわだかまりが解けてゆくと経験する場も少なくなりました。相手もきっと痛かっただろうなと思いやる機会も少なくなりました。学校では成績さえ良くなれば良いと思う場がしつらえられ、ハチャメチャな名物先生の居所が少なくなりました。先生が生徒を叱ると親が学校に押しかけ、先生が生徒をぶっただけで、暴力教師のレッテルを貼り、マスメディアまでも騒ぎ立てる世の中になってきました。
童謡唱歌には本当に沢山の大切な教えが含まれています。「雨あめ降れふれ母さんが」と始まる童謡では、お母さんが傘を持ってきてくれる事への子供の心のそこからの母親への信頼と愛情がありますし、その傘を柳の木の下でずぶ濡れになっている友達に貸してあげようとする時に見せる、親子の心の行き来が良く見て取れます。今は雨が降ったらコンビニで傘でも買いなさいなのでしょうか。友達に貸すよりあなたが風邪ひかずに良い成績を取った方が良いと母親は思っていないでしょうか。それが40年後、一人暮らしをする身の上を作っているのかも知れませんよ。
すべての基本は家庭教育ではないかと私は色々なお檀家さんを見ていて感じます。学校の成績は勿論大切です。でも、家庭で育てられる人間の基本教育の上に立ったものでなければ、例え地位や名誉を得ていたとしても、豊かな実りは得られないことが私の周りには多く起こります。我が子可愛さのあまりに、誤った家庭教育が多く見られます。その裏返しに我が身可愛さのあまり我が子を虐待しているように見えます。さらに代々育て受け継がれてきた親のあるべき愛情のかけ方は、今はどこを探したらよいのか判らないところまで来てしまっているのかも知れません。親子で喧嘩をしても良いではありませんか。そこにどこまでも深い真の愛情が育まれているのなら。もう一度喧嘩するほど仲がよいと言うことができる世の中にしたいものです。
遠慮して聞けないことがあるような関係は、本当の信頼関係ではないのですよ。あなたは親子で、兄弟で、本気で喧嘩ができますか。そして喧嘩できるほどに仲の良い人達でしょうか。そのことを今年は良く考えてみたいものです。
平成18年1月16日〜31日
昨年末に国際会議と言うことでイスラム教の国であるエジプトとリビアに行って来ました。イスラム教については書物でしか知りませんでしたので、実際に見るイスラム教圏の人々や風土に触れることができて本当に有意義でした。
エジプトは四大文明の一つに数え上げられる、古い歴史を持つ国ですが、現在はイスラム教国ということで、どんなところかなと思っていました。日本ではもっぱらアメリカの描くイスラム教のイメージが強く、「そんなおっかないところに行って大丈夫なの」と知り合いにも言われ、それも仕方のないことかなと思っていました。勿論かの有名なピラミッドやスフィンクスは見ましたし、リビアでは古代ローマ帝国の壮大な遺跡を見て回ることができ、インドとの交易などの歴史を感じ取る上で大切な旅でしたが、これについてはまたの機会に致しましょう。
イスラム教が実際に人々の間で生きている国ですので、モスクに行くと、礼拝の前には、みんな水で足を洗い、手や顔を洗うなどして清め、モスクの中でメッカの方角を向いて、テレビなどでよく見る礼拝の仕方で、礼拝をしていました。特に金曜日の決められた礼拝の時間にモスクの隅に座って見ていますと、大勢の人が横にズラッと並んで「アッラーは偉大なり」と唱えて、ひざまずく姿は、心の清まる感じがしました。日本でも神社や寺院の入り口には身を清める水があります。手を合わせて心から神仏に礼拝するのと変わりません。イスラム教徒は何度も水で身を清めます。飛行場や公共のトイレにもウォッシュレットのようにお尻を洗うシャワーが脇に着いています。ヨーロッパではあまり風呂に入らないし、かのベルサイユ宮殿でもトイレがなく、外などで用を足した後、あまり清める事も少なかったために、香水が発達したという話とは異なっています。
国際会議ではエジプト大学やアイン・シャイムス大学の学部長をはじめ、質の高い研究者と会合を開くことができたため、彼らが世界の様々な価値観に対して、大変柔軟に受け入れておられたので、様々な点で心うち解けてお話をすることができました。エジプトでは一般市民に至るまで、大変日本を友好的に見ていると言うことが、様々な面で感じられました。第二次世界大戦の時には一貫して日本を支持し続けたので、ヨーロッパやアメリカからは良く思われなかったと聞いて、全く初耳でしたので、驚きました。
ともかく、エジプトに発つ前には、一体どんなところだろうか。仏教徒の私がイスラム教徒の中に入って行って大丈夫なのだろうかという愚かな心配は、霧のようにあっという間にはれ、エジプト人達の人なつこい雰囲気に包まれ、温かい思い出と共に帰国することができました。
世界には様々な人々が暮らしています。その多くは、ニュースで流れる、一方的なイメージで、私達は偏った見方をしています。それは身近な人に対しする見方も同じです。心を開いて、その人も、大切な命を一生懸命に生きているのだなと言うことを、いつも忘れないようにしたいと思います。
平成18年2月1日〜15日
ことしにはいってから、堀江モンの事件、昨年からの耐震強度偽装問題、東横インの設計変更問題、そして防衛庁の談合事件とモラルを問う事件がニュースになっております。阪神淡路大震災の時に高速道路が倒れたり、新幹線の高架橋が落ちたり、ビルが簡単に倒壊した時に、理論上は倒壊しないはずだと専門家が言っておりました。当時は理論は理論。実際は違うと思ったのですが、結局は建設する側が、「見えなくなるからゴマカシちゃえ」といって、手抜き工事をしていたことが原因だと言うことが、今回改めて心に刻まれたように思います。基本的にこうした場合に、ニュースも視聴率の取れそうな部分、つまりどのような手口でゴマカシたか、誰と誰が結託していたかしか取り上げず、信用第一であった商いの姿と、判かんなければいいやの心との時代的文化的背景には踏み込まないのです。心の時代と言いながら、時間もかかり、みんなが時間を掛けてじっくり考えないと、肝心の一人一人の心には印象を残さない問題を、何となくやり過ごすことに日本人はなれてしまっています。国会の野党の追求の矛先も、いつまでたっても政府や政治家の責任追及で終わってしまい、追求する側も同じ穴の狢と言うことを、コロッと忘れているようです。
仏教に瞑想修行という修行があるのはよくご存じと思います。健康になる第一歩は呼吸を正しくすることだと言うこともご存じだと思います。呼吸を調えて、ある一定の時間、様々なことに思いめぐらしながら、どうしても浮かんできてしまう妄想を振り払ってゆきます。振り払っても振り払っても浮かんでくる妄想を前にして、妄想を造り出している自分の心に眼が行くようになると、ようやく「あれは良い、これは悪い」と罵っている我が心の傲慢さに、「私も同じ穴の狢だ」と気付くことができるのです。これでやっと瞑想の第一歩に至れるものですので、何とも気の長い話です。そんな時間のかかること、忙しくってやってられない現代人。呼吸をすることも忘れて、心身共に病気になるのも、もっともなことです。
堀江モン、堀江モンと持て囃しておきながら、手のひらを返したようにボロクソに言う日本人。和を持って貴しとする美しい大和魂も、出る釘は打たれるの言葉通り、嫉妬に駆られた横並び人生になっていませんでしょうか。あなたの中の堀江モンをもう一度見つめ直してみませんか。
平成18年2月16日〜28日
2月の15日は涅槃会といって、お釈迦様がお亡くなりになられた日と伝わっています。各寺院では涅槃図をお祀りして、お釈迦様の徳を讃えることにしています。お釈迦様の誕生日と伝わる4月8日には天と地を指した仏像に甘茶を掛けてお祝いをする花祭りで、これは割合と皆さんもご存じのことと思いますが、お亡くなりになった日についてはご存じない方も多いように思います。あの有名な西行法師が「願わくば花の下にて春死なん。その如月の望月の頃」と詠ったように、むしろ仏教が私達の心を深く導いてくれるきっかけになった最大の出来事は、私達を導いてくださる大切なお釈迦様がお亡くなりになった瞬間だったと思います。西行法師も心を救ってくださいと念じに念じ、できるならばお導き下さるお釈迦様のご命日である2月、つまり如月の、その中でも望月、つまり十五夜ですから、15日に私も死にたいと念じたのでしょう。折しも太陰暦で2月15日は今の4月頃ですから、桜の花も満開の頃でしょう。
人生の旅路の最大の悲しみはなんでしょう。それは愛する人と別れなければならない時に味わう悲しみでしょう。お寺には我が子を亡くした悲しみに耐えきれず、泣きながらご供養に来られる親御さんが沢山おります。墓所や祭壇で涙を流す姿には、掛ける言葉もありません。また親を亡くされた方や、兄弟を亡くされた方、お友達を亡くされた方、実に様々です。
お釈迦様は確かに沢山の教えを弟子達に語っておられます。色々な場面で心を支えてくれる素晴らしい言葉です。光明寺でも法話の会をしたり、こうしてテレホン法話をしていますが、皆さん日常の出来事に忙しく、教養として、「ああ良いお話でした」という位で、後は忘れてしまうのではないでしょうか。でも、最愛の方を亡くしたことからおこる、避けがたい心の悲しみほどに雄弁に生きることの意味を語るものはありません。
恥ずかしながら私もまた、私を可愛がってくれた祖父が私の5歳の時に目の前で亡くなって以来、様々な大切な方々が私の目の前で静かに息を引き取ってゆくことで、不思議な教えを準備してくださったと思います。そしてこの命を何とか助けてくださいと祈りに祈るしかない瞬間に、何か判らない大きな力を感じ取る事ができ、以来祈る意味を学び取ったように思います。
ややもすると命を伝えてくださったご先祖様方をお祈りをすることを、西洋文明の影響で、祖先崇拝だ、迷信だと言って軽視する傾向が明治以降特に多くなっているように思います。でも西欧社会で生活してみると、同じように亡くなった方々への祈りを大切にしています。命の元であるからです。
お釈迦様がお亡くなりになったことで、弟子である私達は、その命の本当の意味を見つける、最大の教えを頂いたのではないでしょうか。あなたを残して旅立たれた多くの命、最愛の方の命を、心から念じ、祈ることにしましょう。
平成18年3月1日〜15日
トリノ・オリンピックも終わり、今回の日本は一つもメダルを取れないのではないかと思っていたところ、冬のオリンピックの花形種目、女子シングルで荒川静香選手が美しい滑りを披露して金メダルを日本に運んでくれたことに、多くの人々が感動と感謝の気持ちを感じたのではないでしょうか。彼女のドキュメンタリー番組を見ると、期待されながら10位にも入れなかった長野オリンピックのあと、バッシングに遭いながら、自らの心を見つめる長い旅をしてきたようです。今回は15歳の新鋭浅田真央選手に押される中、オリンピックのリンクに立てたことを感謝し、楽しんで滑りたい、観客に感動を伝えられるように滑りたいと言っていました。画面を通しての表情からも、金メダルを取ったことは最高に嬉しいのだけれど、それは支えてくれた人々のものであって彼女だけのもので無いという心が良く感じ取れました。金メダルを取ってきます、私は天才だと公言しながら成績不振に泣いた選手が今回多かったように思います。何故なのでしょうか。
仏教では我欲を捨てなさい。無心になりなさいと言います。我欲に汲々としている心の姿を「我慢」といいます。「堪え忍ぶ」という現在の使い方とは大きく違います。「我慢」は「我に慢心する」と書くように、慢心した結果、本当の自分自身を見失って、ありもしない自分の姿に酔いしれて、足下をすくわれる状態を言います。こういう心を持った人の近くに行くと、人間は何となく居心地が悪くなるのは、偽物の自分が偽物であることを取り繕おうとして邪気を発しているからでしょう。自我を捨てなさいとお釈迦様が説くのは、自分らしさを捨てろと言うことではありません。むしろ本当の自分自身を愛おしく思い、その自分自身になりきりなさい。自分自身を楽しみなさい。たとえそれが今のあなたの目には格好悪く、三流の人生に見えても、本当の自分自身はけなげにあなたを支えてくれているということを忘れてしまったのでは、命が続きませんよと諭しているのです。偽物は所詮偽物です。本物の輝きはどこにもありません。本物の自分を受け入れた時、それまで格好悪いと思っていた私の思い上がった慢心の方が、如何に醜いものであったかを思い知らされることでしょう。これが自我を捨てなさいと言う事です。
荒川選手が10位にも入れずバッシングを受け、浅田選手に負け、直前の何回かの世界選手権で思うように評価してもらえなかったからこそ、本物の自分の背丈を見ることができたのだと思います。また、彼女には背丈にあった、つまり本物の自分を受け入れることのできる、謙虚さと勇気とが培われてきていたのだと思います。
私達の人生、私は成功者でなければならないと密かに思い続けてしまうところがあります。その結果、自分を置き去りにし、高嶺の花ばかり採ろうとして谷底に落ちてゆく方が、あまりにも多すぎます。本物の自分を生きることができたものにだけ、強さと優しさが備わってくるものだと言うことを、なんと二千五百年も昔にお釈迦様が弟子達に諭しておられます。「自らを拠り所とせよ。本物を拠り所とせよ」と。
平成18年3月16日〜31日
暑さ寒さも彼岸まで。厳しかった寒さもようやく春の気配を帯びて参りました。梅が咲き、次第に桜の便りが待ち遠しいところです。町中を歩いていますと卒業式や卒園式のためにおめかしをしたお母様方がイソイソと歩いております。昨日入学したと思っていたら、もう卒業と感じている方も多いのではないでしょうか。
世の中の暗いニュースを見ていると、家族はいるけれど心寂しく、一日、一時間、一分がたつのが耐えきれなく長いと悩んでいる方がいると言うことがヒシヒシと伝わってきます。人の中にいる時に感じる孤独感は、人間が最も苦しく淋しいと感じることではないでしょうか。それは、自分が生きていることが空しくなるということです。
よくお金が沢山あれば幸せになれると思っている人がいます。課長より部長に、部長より社長にと地位が上がれば幸せになれると思っている人がいます。人間は欲しいものが手に入った瞬間からしばらくは喜びで満たされるでしょうが、長続きしないのです。欲しい気持ちには限りがないからです。四苦八苦の一つに、求不得苦という苦しみがあります。求めても得られない時に感じる苦しみです。しかし物欲などに狂った人には、求めて得られたのにもかかわらず、満たされないという苦しみが付け加わるといった方がよいようです。なぜなら、根本的な苦しみではなく、心が欲に食い荒らされてボロボロになっただけのことだからです。
お金も地位も名誉も、懸命に生きた人達だからこそ、自然に与えられたものだったはずです。でもその懸命に生きるという大切な部分をすっ飛ばして、そのものだけにしがみつくひとがいます。これを亡者といいます。
どんなにお金や地位や名誉があっても、今お医者さんから「あなたはせいぜい2ヶ月しか生きられません」と宣告されたらどうでしょう。すべてを捨てても、命を助けてくださいと願うのではないでしょうか。それならまだ救いようがあるのかもしれません。あなただって、気がついたら、命よりお金、地位、名誉となってしまっているかも知れませんよ。
健康お宅の日本人。「若返りますよ」の甘い言葉に誘われて飲んだ薬で命を落とす。「ダイエットに効く」といわれて身体を壊し、命を縮める。どこかへんですよね。
あなたは本当に生きていますか。今あなたの身体には何を食べたらよいか、身体で判りますか。空気の味が分かりますか。あなたの住んでいる家や土地の発しているエネルギーを感じ取れますか。全部あなたを生かすための大切な物です。そして何よりもあなたに命を授けてくれたのはあなたの祖先です。 さあ、春のお彼岸です。ガンジス川の向こう岸、彼岸を見つめて命の救いを心から念じてきたのはインドの人々です。私達日本人も多くの先祖達のお渡りになった彼岸に、命が救われますようにと心から念じて行きましょう。
平成18年4月1日〜15日
桜の花も咲き、もうすぐ入学式と心待ちにしている人もいるのではないでしょうか。今月はお釈迦様の誕生日があります。4月8日です。陰暦ですので、正式には5月になるかも知れませんが、花祭りとして昔からお祝いをしています。花が咲き始めると言うことは、生命が誕生し、開花し、成長することを心から祝うことを、お釈迦様の誕生日にあやかって、先祖達は私達に伝えてくださっているのです。
お釈迦様はお生まれになると、7歩歩んで、「天上天下唯我独尊」と言われたそうです。7歩歩むその足下に、次々と花が咲き乱れたとあるのは、赤ちゃんが生まれた時は、その子供が泣く姿が、まるで花が次々と咲いてゆく姿の様でもあり、それに見とれでもするかの如く、周りの誰もがニコニコしてこれを迎えるのだということを、教えているのです。「天上天下唯我独尊」は、学問的な解釈はいざ知らず、この宇宙にその生命は、つまりあなたは只一人しかいない、とても大切な命なのだと言うことを、もう一度思い起こすように、諭しているのです。
私達は病になってはじめて、健康の有り難さに気付き、親しき人の死に出会ってはじめて、生きていることの尊さを思うという、何とも愚かな生き物です。だから凡夫と呼ぶのです。こうした凡夫でも忘れないようにと、花祭りの儀式や、様々な仏教行事を行ってきました。残念ながらこうした大切な行事が廃れると共に、心もすさんでいったように思います。
甘茶をお仏壇に、お仏壇のない方は、清らかなところにお供えして、お釈迦様のご誕生をお祝いしては如何でしょうか。
平成18年4月15日〜30日
私もまあ、困ったもので、お彼岸の明けの日に熱を出してしまい、酷くならないようにと用心して、すぐに信頼しているお医者様に見て頂き、処方された薬を飲み続けているのに、だんだんと酷くなって、声が出なくなってしまいました。4月から12月までの毎月第一日曜日の朝には経典読誦会を行っているのですが、声の出にくい父にピンチヒッターを引き受けて貰いました。いやはやもう弱り切っております。お聞きのように、声がかれておりますので、お聞き苦しいところもあると思いますが、どうかお許しを頂きたいと思います。
薬を一生懸命に飲んでも、いっこうによくならない。かといって、重症ではないのだから、結局は自然治癒力によっていつかは治るはず。つまり、楽しい研究や調査に没頭する中で、風邪など忘れてしまうのが、私には一番良いようです。
つい先日私の勤めている筑波大学の同僚の先生方や大学院生達と毎年新学期の恒例となっている研修旅行に行ってきました。今年は雨引観音にお参りし、川田ご住職から貴重な掛け軸や秘仏のご本尊をお見せ頂き、また益子町の西明寺でもお医者様でご住職の田中雅博様に閻魔堂の笑い閻魔の像や、本堂の諸仏をご説明頂き、また境内にある医療施設をご案内頂き、日本の仏教寺院も積極的に社会に係わる模索をしていることなどを勉強しました。先生方や学生の多くはキリスト教やイスラームを研究しており、仏教を研究するものは少ないのですが、皆さん大変興味深く、現代日本では少し遠い存在と感じられる仏教の生きた姿を心に刻まれたようで、大変有意義な研修旅行でした。今回の研修旅行を終えて、家に帰りましたら、まだ咳き込むものの、なんだか身体に力が沸いてきていました。
今回の風邪は、昼寝ても夜も寝られるという十分な休養と、私には身近であったはずの雨引観音や西明寺には、実はこれまで知らなかった沢山の大切なものがあることを知り、それらを目を輝かせて見させて頂くことが私には何よりの薬だということ教えてくれたようです。
その上に母方の実家である益子の観音寺の如意輪観音様に皆さんを会わせることができ、しかもその日が祖母の月命日に当たっていたというので、お導きの不思議さを感じてしまいました。
身心を養生し、目を輝かせてものに取り組み、そして不思議なお導きの力を謙虚に頂くことが、生きてゆくことに大切だと実感しました。
平成18年5月1日〜15日
新緑が目にしみる季節となりました。木々を亘る風もさわやかで、思わず深呼吸して大地の恵みを胸一杯に吸い込みたくなります。このころは様々な生き物たちが成長しようとしており、私達の体調も大きく変化してゆく時です。
ゴールデンウィークには行楽地に出向き、楽しい時を過ごす方もいらっしゃるでしょう。ゴールデンウィークを終えると、気がゆるみ、いわゆる五月病といったように、何となくやる気の無くなる方もいるでしょう。身体はどこも悪くないのに、どうも気力がなくて、憂鬱に寝込む人も出てきます。折角の人生なのにもったいないな、と自分でも思いながら、どうにも仕方がないのです。
お寺には様々な方が訪れます。不思議なことに、病気になって初めて、俄然生きようとして、一生懸命になる方が、結構います。「こんな病気になってね。何度ここに来られるか判らないけど、一生懸命お墓参りに来ますよ」とおっしゃり、次の年には「今年も来ることができましたよ」と嬉しそうにお話をされてゆきます。時には「今回、お会いできて本当に嬉しかった」と言い残してお帰りになってから、しばらくして今度は祭壇でお目にかかることもあります。病気や苦難はこの方に生きる喜びを与えて下さったのかな、と思う瞬間です。
お釈迦様は人生の基を苦難を見つめることに置きました。もし健康で力のある時に、人生の大切な意味に気付くことができるなら、なんと素晴らしい人生を送ることができるでしょう。ところが人間は、というのもおかしいですが、私などは、知識ではよく分かっていても、我が身に降りかかってみないと、重たい腰を上げません。人に言われると判っていても、腹立たしく思うのは、人間の性です。
生きたくても生きる時間が無い方がいます。すべての命が生きようとするこの季節、体力にも気力にも力がいります。もし力が出てこないなら、御仏に心からお祈りしてみましょう。例えば観音様に祈るためのお経があります。延命十句観音経という短いお経ですが、檀信徒のおつとめの中にあります。次回はそのお経のお話をすることにしましょう。それまでにお唱えしてみて下さい。きっと不思議な体験をされるのではないでしょうか。
平成18年5月16日〜31日
先日岩槻のロータリークラブの主催で、岩槻にある慈恩寺に、西遊記でおなじみの三蔵法師のモデルになった玄奘さんの遺骨の一部が実際に祀られていることをもっと見直そうというフォーラムが開催されました。私の仏教研究の分野が、この玄奘三蔵法師が中国に伝えた仏教と言うこともあって、参加してきました。
一般には観音霊場として有名な慈恩寺の副住職さんが、どのような経緯で玄奘三蔵の遺骨などという貴重なものが、日本全国の中でも岩槻の地の慈恩寺に祀られることになったのかをお話になられました。確かに玄奘さんが多くの経典を翻訳したところが中国の慈恩寺であったことも何かの縁であったと思います。第二次大戦中に南京で日本軍がたまたま遺骨を発見し、玄奘の遺徳を日中の仏教徒でお守りしようと言うことになり、分骨して東京の増上寺に移したのが日本伝来の発端でした。その後戦禍を逃れるため埼玉県蕨市にある三学院に移しましたが、戦況が悪化し、さらに避難させるため、慈恩寺の名にちなんで、この地が選ばれたと言うことです。
岩槻の慈恩寺は平安時代に慈覚大師が、玄奘三蔵のゆかりの長安の大慈恩寺の風景に似ていることから名付けた訳ですので、安置すべき地に安置されることになったのだと思いました。
本当にご縁とは不思議なもので、なぜか在るべきところに在るべきものがチャンと収まるものなのです。これを欲望に駆られて、本来相応しくないところに祀ろうとして、独り占めしたり、移すのを拒んだりしていたら、すべてが破壊されてしまったかもしれません。おそらく玄奘さんはこの地に安置されることになって、心安らかにされていると思います。その証拠に、戦後中国の蒋介石総統に返還すべきかお伺いを立てた時も、慈恩寺に祀るようにとお墨付きをいただいた訳ですし、その後も60年もの間続いている訳です。
地位や名誉、それに付随する金銭なども、しがみつこうとすると、すべてを失うことになる例が沢山見受けられますので、仏法の言う己への執着を捨てよと説く意味が何となく判るかと思います。気に入らない嫁でも、あるいは婿さんも、よく見たら我が身の錆を洗い流すために御仏が差し向けて下さった天使ではないでしょうか。ましてや、我が子は御仏の与えてくれた菩薩様ではないでしょうか。三蔵法師が不詳の弟子孫悟空に支えてもらい、様々なことを学ばせて貰ったように。大切にお育て申し上げましょう。
平成18年6月1日〜15日
今年の5月は、例年になく愚図ついた天気の日が続いています。洗濯物が乾かないのもイヤですし、日照時間が足らないために、野菜などが高騰しているのも困ったものです。私達の気持ちも、だんだんと滅入ってくるのは、単に気のせいばかりではないようです。気圧のせいなのでしょうか、気分が気候に左右されるのがよく分かります。特に病気の身体には応えるようです。
私達は、身体や心に悪いことが起きないと、大切なことに気付かないように出来ています。健康な時は、無茶をして大切な身体を傷つけています。自然の恵みに感謝する気持ちも湧きません。私の子供の頃には「可愛い子には旅をさせろ」といいましたが、お受験や塾通いに親がアッシーとなってしまい、子供はそれが当たり前だし、勉強してやってんだから当然だとさえ思っています。もっとも子供が一人で外出すると、事件や事故に巻き込まれるので、現状では仕方がないとは思います。
教育は知識を教えることだけではありません。それだけでは徳を積むというような心は育たないものです。試験の点数はとれても、生きる基本を知りません。私達の脳がどうしてこのようになったかも知りません。それは、社会の中の対人関係の難しさを、無事に切り抜け、生き抜くために与えられた脳なのです。それならば社会の中でどのように振る舞うべきか、十分に身につけさせることが、教育の基本のはずです。
誰が先生なのでしょうか。それは同じ屋根の下で暮らすおじいちゃん、おばあちゃんの姿です。昔話などを子供に聞かせる中で、子供や孫達は自然に生きる術を学んできました。これが出来て初めて、知識の習得は意味があるし、学問をする基本があります。
日本企業の多くが、社員を頻繁に日本国中に転勤させる中に、同居するおじいちゃんやおばあちゃんの話や行動などで教える徳育がなくなりました。単身赴任や午前様帰宅では、子供が父親をお金を運んでくる人としか認識しないのは当然です。私は家庭崩壊、そしてひいては日本社会の崩壊の一つの大きな原因は日本企業の生み出した転勤族という災いだと思います。
先祖の墓地を護り、お位牌にいつも祈りを捧げている後ろ姿ほどに素晴らしい教育はなかったと思います。先祖を祀るのは自分の命の源を心に刻むことです。これほどに充実した教育はないと思います。どうぞ、お子様やお孫さんと命の源に手をあわせることにしましょう。
平成18年6月16日〜30日
今回の話題はなんと言ってもワールドカップサッカーでしょう。初戦で、オーストラリアと戦う中で、あと勝利まで6分ほどとなった時、相手のフリースローを日本のゴールキーパーが逃し、そのボールをタイミング良くゴールされてしまいました。素人目にも選手には疲れが見られ、パスを回したボールに、足がついてゆかない状況が見られました。攻撃用の元気な選手に適宜交換していたオーストラリアの勢いが増す中、耐えに耐え抜いていた日本の選手の緊張の糸が、プッツリと切れた瞬間だったと思います。
私達も努力を重ね、毎日毎日頑張ってきた商売や、事業、あるいは受験生であれば受験勉強などが、後一歩のところで水の泡になることがあります。これは何千年前も今も変わらない、私達の心の営みです。努力は本当に素晴らしいことです。でも、私達の心には十分な余裕が必要です。実力以上に背伸びをして頑張ってしまう場合には、特に余裕がありません。ですから、努力する割には、周りから評価されずに、落ち込んだり、評価してくれない周りを責めたりします。この責める心は相手の心も傷つけます。そうしてギスギスとした関係になり、ついには疎遠になってしまうことが多いのです。
お釈迦様は6年間、生命の極限に達するような修行を重ねていきました。しかし、いっこうに本来の心の平安が訪れず、心が救われなかったのです。ある時、修行をするお釈迦様の近くから、一人の琵琶の先生が生徒にこんな風に言っているのが聞こえてきました。「いいかい。琵琶の弦は強く張っても、弱く張っても、良い音色は出ないのだよ。強く張りすぎると切れてしまうし、弱すぎると音楽を奏でられないだろう。」というものでした。
その時お釈迦様はハッと気付いたのでした。「なるほどその通りだ。こんなに激しい修行をして、身体がボロボロに痛んでしまったのでは、豊かな心でものは見られないではないか。」といって、身体を健康にし、心をゆったりとするために、菩提樹という大きな木下に座り、ゆったりとした息をしながら、瞑想にふけり、そして悟りを開かれたのです。
お仏壇があるご家庭ならお仏壇の前で、お仏壇のないご家庭ならば、何か神聖なものの前で、今の自分が無事でいられることを感謝し、無心に祈るうちに、心はゆったりとして、すべてを包み込む大きな愛情を周りの人に与えられることになるでしょう。どうぞ無心にお祈りをする時間や場所をお作り下さい。あなたと、その周りの人達の平安と幸福のために。
平成18年7月1日〜15日
ここのところニュースを見ていますと、ごく普通の大学生や高校生、中学生と言われる人達が、まるでゲーム感覚でもあるように、ムシャクシャしたからとか、あいつ気に入らない、等と言った本当に些細な理由で友達や親族を殺してしまう事件が目につきます。何故なのだろうと思いめぐらしておりますが、ひょっとすると家族の間に人間としての基本的な信頼関係がなくなっているからではないかと私には感じられてきました。
洗濯機が出来、食事もコンビニへ行けばいつでもお弁当が手に入る便利な世の中ですので、十分な時間が出来たと思うのですが、子供達は小さい頃から母親が苦労をして洗濯をしている姿を見ることもなくなりましたし、朝早くから台所でみそ汁の具を包丁で刻む音を耳にすることも、夕方にトントントンとまな板に響く包丁の音や、近所の家庭から漂ってくる、おいしそうなおかずの臭いも少なくなりました。
深刻なことに、多くの子供達が、朝食を食べさせてもらえなくなっているようで、学校で軽い朝食を用意しないと、授業が始められないほどに心と体の両面で健康が保たれないことになっているようです。
『般若心経』に眼・耳・鼻・舌・身・意と言う部分があります。私達は身体全体で考えています。それによって心が養われています。私達はまず目で家族の働く姿を捉え、食事の音や、香り、そして愛情たっぷりの食事から最も大切な心のふれあいを学びます。猫や犬、鳥たちの親が必死に子供達に食べ物を与え、子供達はそれに貪るように食らいつきます。生きる最初の教えを頂き、身につけてゆきます。そこで深い愛情を学んでゆきます。この最も基本的なコミュニケーションがなければ、動物としての最低限の生きる意欲や生きていることの意味を学べるはずがありません。
苦難を乗り越え、生きるという基本的な強さを教えるはずの父親の姿が家庭の中から消えて久しいように思います。猛烈社員や転勤に次ぐ転勤の挙げ句の果てに、単身赴任でどこにも姿がありません。その世代が親になり、生きる基本を教わっていない両親には、子供達に伝えなければならない、生きる基本を知りようもありません。いつの間にか私達日本人は知識だけが一人歩きをし、その一方で動物以下の生き方をするようになってしまっているように思います。
家族の姿を目で追い、食卓を囲む会話を耳で聞き、おいしい香りを鼻でかぎ、舌で味わい、お風呂で身体を洗って貰ったり、子守歌で寝かしつけて貰ったりして、両親の愛情をいっぱいに受けてこそ、心は健全に育つのだと言うことを『般若心経』は教えていると思います。
どうぞ少しの時間でも家族のふれあいのためにお使い下さい。朝食という最も大事なエネルギー源をしっかり取って、最も大事な生きる意味を見失なわないようにしたいものです。
平成18年7月16日〜31日
梅雨もあけていないのに、猛暑となり、熱中症で病院に運ばれる人も多いようです。人間は微妙な自然環境の変化によって、体調を崩したり、命の危険にさらされることがあります。大切な食事も、便利さを追求するあまり、身体に良くない食べ物がドンドンと市場に出回り、私達の健康を台無しにしています。農薬などの規制もやっと厳しくなってきましたが、それでも何十年か前の様な自然の恵みは少なくなってしまっています。もちろん、様々な研究の結果、より品質のよいものと言うことで、昔起こりやすかった様々な病気は減ってきました。喜んで良いはずなのですが、新たな弊害に悩まされている訳です。
私達はよかれと思ってしたことで、かえって事態を悪くしたりすることがあります。小さな親切、大きなお世話と言われることもあります。どうやら頭で考えて、これが良いに違いないと思うことは、単に私にとって良いということであって、大自然の大きな流れからすると、それはあなたの勝手でしょうといわれかねないことかも知れません。つまり、私のエゴでものを観ているのです。自分の都合で世界を見ているのです。
私も猛暑の中ではエアコンのない生活は考えられません。でもエアコンを使うことで益々気温が上がり、地球は温暖化し、やがてこれまでの気温で生活していた生物は生きられない環境を私達が作り上げています。
水が欲しいからといって、たらいの中の水を自分の方へ自分の方へとかき寄せると、自然にドンドンと自分から遠くへ遠くへと行ってしまうものだと、仏教は教えています。インドの猛暑の中で、少しでも涼しい木陰を選び、静かに今の自分の有様を見つめてきた多くの仏教徒達の姿は、自分の方へ水をかき寄せるむなしさと、あるがままの水の姿に順応させてゆく尊さを私達に教えているように思います。
平成18年8月1日〜15日
例年になく雨の多い梅雨がようやく明けたようです。ジトジトとして人間にもキノコが生えそうな陽気で、体調を崩している人も多くいます。私もまた声がでなくなり、難儀をしております。
今月はお盆の月です。光明寺では8月の15日にお施餓鬼の法要を致します。もともとはお盆の行事とお施餓鬼とは別な行事なのですが、私どもの地域では一緒に行っています。
お盆は一年に一度皆様に直接命を伝えて下さったご先祖様達をお迎えして供養をする日です。進化の過程で海の中にいた先祖達もいるでしょう。ですから私達の血液は海水の塩分と同じなのだと言う人もいます。空を飛んでいたこともあるでしょう。みんな皆様の命の源ですので手厚くおもてなしをするのは当然のことです。しかし、皆様に命を伝えて下さった方々の中には供養をして下さる直系の方がいない方も沢山いる訳です。
インドの思想の中には輪廻思想というものがあります。私達は生まれ変わり死に変わりする中、地獄に堕ちることもあるかも知れないし、餓鬼道に堕ちてしまうこともあるかも知れない。こうした計り知れない見捨てられた命に供養するのが施餓鬼の意味でもあります。よく「私の家にはまだ先祖はいませんから」と言う人がいます。とんでも無いことです。普段なかなか供養をしてあげられない先祖達に供養をして差し上げられる絶好のチャンスなのです。例えば先祖代々の供養のお塔婆を奉納するなどです。近年お身内で大切な方を亡くされたのなら、先祖代々の供養塔婆とその方の供養塔婆とを奉納するとよろしいかと思います。
普段はなかなかお墓参りにも行けない人も、とても良い機会ですので自らの命の源であるご先祖様に心を向けて差し上げて下さい。きっとお喜びの心を返して下さると思います。
平成18年8月16日~31日
今年の光明寺のお施餓鬼法要も無事終わることが出来ました。今年の法話はコンピューターのパワーポイントを使って行いました。パワーポイントと云うのは、企業などが新商品を紹介する時に、スクリーンに映像を映し出して説明するのによく使われています。そうですね、丁度紙芝居をスクリーンに映しているようなものだと思って頂けると判りやすいかと思います。
餓鬼に施すと書く施餓鬼の意味を、地獄の様子を描いた絵や餓鬼の姿を描いた絵などをお見せして説明しました。地獄というのは、欲望に絡まれて人のものを奪い取ってしまおうとする盗賊や強盗、殺人などはもちろんですが、様々な理由を付けて隣の国に攻め込んで、殺戮の限りを尽くす戦争が、その最たるものです。第二次大戦中の日本を見てもその通りです。食べるものも無く、云いたいこともいえない苦しみの世界です。これは人間の貪りの心が起こす、まさに人為的なものです。
これに対して餓鬼の世界は、自然現象の中で苦しむ世界だと思うと判りやすいと思います。人間の歴史に限っても、その多くの部分は地震や洪水、その他様々な天変地異に見舞われて、食料を確保できない飢饉の時代です。今のアフリカなどの映像で、食糧難のために多くの子供達が栄養失調で、お腹がふくれあがってしまっている姿が、そのまま餓鬼の姿として描かれています。ペストやコレラなどの伝染病や、様々な病気で苦しむ姿もこの餓鬼道であると思うと、判りやすいと思います。
そこで近現代の自然科学や医学はこうした自然の猛威を克服してきました。いいえ、克服してきたはずだったのです。よく見ていると、克服したと錯覚して、人間は自然をないがしろにする傲慢さを備えるようになってしまいました。自然の生態系をぶっ壊してしまって、便利にしたはずが、環境を汚染して、挙げ句の果てに生きられない環境を作ってしまいました。マスクをして歩かないと有毒な花粉や汚染物質にやられてしまう世の中になりました。生命維持装置を着け、切開した喉から管を差し込まれ、無理矢理呼吸させられ、管から栄養を流し込まれて、苦しみの中で生かされてしまっていたりします。命は機械ではないのです。苦しみを感じる生命態なのです。
多くの先祖達が残して下さった、尊い「死」という教訓を忘れさせてしまいます。自然は畏れ敬うべきものであることをインドや中国、日本の先祖達は子孫に受け継いできました。人間は地上に命を頂く一つの種族に過ぎないのです。そのことを謙虚に受け止め、多くの先祖達に心から供養する、それが施餓鬼の法要の意味だと云うことを、今回の法話では申し上げました。
映像をお見せしたことで、お年寄りからも、小学生からも好評でしたので、こうした方法で仏教の教えをお伝えできればと思っております。お集まり頂きました多くの方々に心より感謝申し上げます。
平成18年9月1日〜15日
すでに秋の虫たちの声を聴くようになり、残暑があるものの、朝晩は少しずつ涼やかになりました。これからが夏ばての出る時期ですので、心して生活をしなければならない季節でもあります。
夏の終わりにはカブトムシを捕りに行ったご家族が、飲酒運転の車に追突され、その弾みで橋の欄干を突き破って川に転落し、幼い子供三人の命が失われるという事件がありました。母親が川に何度も潜って、沈み行く車から三人の子供を連れ出したものの、三人の命を救うことが出来なかったということを報道で聴いていると、酒を飲んで車を運転した加害者が自分の罪をどのくらい今意識しているのかと思ってしまいます。事件後に飲酒運転の検問をしてみると信じられないほど多くのドライバーが検挙されたそうで、自分だけは大丈夫という傲慢さが地獄への片道切符であることを思わざるを得ません。
光明寺でも、朝勤行の際に、境内のお堂や墓所にお参りをしていると、ふと墓地から悲しげに泣く声が聞こえてくることがあります。お子さんを亡くされたお母さんなどが、お子さんとお話をされていることがあります。その中には飲酒運転の車にはねられ、突然にお子さんと別れることになった方もおられます。もちろん父親にとってもこの上もなく悲しい出来事ですが、自分のお腹を痛めて命をこの世に生み出した母親の悲しみは大変深いものがあります。日中は元気に振る舞っておられますが、遺骨の安置してある墓所に来て、お子さんとお話をされている姿をお見かけしても、かけて差し上げられる言葉は見つかりません。
酒は、麻薬は、脳を狂わせます。酔わせるのは凡夫がこの世の憂さを晴らすには良いと思っているのですが、戒律の中でも禁じられているように、そのこと自体が罪であるのです。それは、酒を飲む本人、麻薬を服用する本人が、そのことを判っているからです。つまり、確信犯なのです。脳を狂わせ、心を酔わせて、便利なはずの車を凶器に変えるのは酒を飲んだ本人です。便利なはずの包丁を凶器に変えるのと同じなのです。
仏教の戒律は自分と約束する誓いですので、違反しても教団が罰することはありません。でも自分自身がそのことを自覚しているので、どうしても守れないなら、教団に申し出て自ら進退を明らかにします。「飲んだら乗るな。乗るなら飲むな」という標語は大変仏教的です。ですから、これがどうしても守れないなら、自ら進退を明らかにして運転免許を返上するのが、人間の道です。動物でさえ厳しいルールを守って集団生活をしているのです。ですから、飲酒運転は本来人間以下、動物以下の行為なのです。自ら律することが出来ないなら、社会がこのような人には二度と運転免許を与えない必要があるでしょう。
こうした思いから戒律は作られて来たものなのです。便利な文明の利器を凶器に変えることのないように心して参りましょう。
平成18年9月16日〜30日
秋雨前線が長雨を降らせ、台風も近づく今年の秋は、彼岸を待たずにすでに秋本番となってしまいました。
飲酒運転が如何に罪深いかをお話ししたのに、いっこうに減らない現実を見ると、道路を歩いていても、いつ酔っぱらい運転の車に飛び込まれるかと不安になってしまいます。
世の東西を問わず地獄の話はたくさんあります。それは地獄というものが私達が人為的に犯す事件から生まれるものだからでしょう。戦争で折角築いた国や都市や文化や、そして何よりも掛け替えのない家族を失ってしまう。
憲法でいくら戦争を放棄したと宣言しても、欲望を抑えきれない人間の性、自分だけは正しいと云う傲慢さに気付いていない私達が居る限り、無くならないでしょう。お酒を飲んだら、車は運転しない、と酔っていない時には判っていても、酩酊するとそのことをすっかり忘れてしまうのです。戦争はしてはいけない、人を殺してはいけない、人のものを盗ってはいけないと、しらふの時には判っているけれど、カッとなってしまうと、すっかり忘れてしまう。そうです、最近はすっかり忘れてしまう人が多いようです。
愛の鞭と暴力をごっちゃまぜにしてしまっている不思議な日本があります。先生が生徒を打つと、暴力先生として血祭りに上げられてしまう不思議な日本があります。飲酒運転を飲み屋さんの前でいつも警察官が取り締まると、きっと営業妨害だと問題にされてしまうのではないかと不安になります。
私達は、動転してしまうと、何をするか判らないのです。これを煩悩のなせる業といいます。判っちゃいるけど、やめられない。そこでやめる勇気を養うのが仏教の修行なのです。仏教は何も特別なことは教えていません。あなたの心を出来るところから律してゆきましょう。
平成18年10月1日〜15日
安倍政権が誕生し北朝鮮に拉致されている日本人を救出することを本格的に行うことが報道されました。難しい外交問題でもありますが、安否も判らなかった家族を長年待ち続け、政府に陳情してきた家族のお気持ちを推し量ると、胸が詰まります。電車内につり下げられている週刊誌の宣伝見出しを見ると、安倍政権の悪いところをあげつらう記事が並んでいます。本当にそうなのかと思うよりも、記事が売れればいいやというさもしい心が感じられ、卑しい人達だというイヤな気分になります。
誕生した政権には期待すべきでしょう。それはこの政権しか目の前にないのだし、どのような形にしろ選んだ訳ですから。例えば拉致問題であれば、大いに注目し、期待をして、もし不甲斐なさが見られるなら、その時清き一票でこの政権にもの申せば良いはずなのではないでしょうか。
何もやっていない時から反対だ、駄目だ、期待できないと云うのは恥ずかしいことです。こういう人に限って、自分では何も出来ない人であることが多いのも世の常です。拉致問題にしても、そのようなことは存在しないと豪語していたある政党が、実際に北朝鮮から拉致被害者が帰国した時になっても、誤りを認めることもなく、協力しなかった謝罪もないという事実は、こうした人の心を良く表しています。
仏教経典の中に修行する人達の告白を集めた経典があります。こんなに一生懸命に修行をしているのに、煩悩が次々と起こり、よからぬことを考えてしまう、等々です。私が仏教の好きなところは、聖人面をしないところです。自らの至らないところを、そのまま認めて、公言してしまうところ等です。我も人、釈迦も人なら、人間らしく人々の心を見ていくことが出来ようというものです。だから、仏には私を煩悩のまま受け入れて下さる慈悲の心を感じられ、安心して身を任せようと思われるのだろうと思います。温かく見守る術を身につけたいものです。
平成18年10月16日〜30日
さわやかに晴れた秋の日差しの中で、私の住む久喜市では市民祭りが行われました。久喜市等に住まう市民が思い思いのサークルを作って模擬店を出したり、各商店などが自慢の品揃えを提供し、祭りを盛り上げていました。会場となる大通りは歩くこともままならないほどに人々で溢れており、とても楽しげな催しとなっておりました。
祭りというと、その昔は疫病などを追い払うために神々をお祭りしてご加護を願うものであったり、秋の豊穣を神々に感謝するものでしたが、医療が進み、農業技術が進歩した今では、人々が人々に対して様々な品物を提供することで、自らの喜びを人々の喜びとして貰うことへの充実感を、ともに分かち合っているように思います。これは本当に素晴らしいものです。
日々の生活の中では、多かれ少なかれ悩みや解決しなければならない問題を抱えている訳ですが、それでも心に余裕を持ち、イベントとしての祭りに多くの方が自発的に参加できるのは、日本が豊かで平和であるからです。こうした恵みに感謝する心が自然に生まれ、持ち続けられたならば、私達に命を託してゆかれた先祖達も本当に喜んで下さっているはずなのです。
実りの秋は私達に恵みを授けて下さいます。そしてこれから訪れる冬はその果報を使ってしまうのではなく、温め、十分に成熟させ、成長させて、来るべき春に力強く生きてゆくための糧を育む大切な季節であります。御仏はそのことを私達に優しく教えて下さっているようです。
平成18年11月1日〜15日
最近はいじめがあると人が死ぬ時代になったようです。不思議なことにその責任を学校とか会社とか、赤の他人に負わせようとするのが日本人のパターンになっています。学校とか会社とをやり玉に挙げていては、結局誰も責任を取らず、本当の原因を闇に葬ることになるのではないかと思います。
仏教では「人身受け難し、今すでに受く」と説きます。この地球上でさえ、何兆ではきかないほど無数の命が誕生しています。その中で人間の身に生まれることが出来るのは何と難しいことではありませんか。その縁を受けることが出来たことを、気付かせる教育の場は、家庭しかありません。ほ乳類の多くは家族の中で食べること、兄弟げんかの中から社会で生きることを学び、祖父母から年老いることの意味を身につけ、成長してからは、子供を育てることによって命の何たるかを学び、子孫へと命をつないできました。
「己の欲せざること、人に施す事なかれ」は日々の生活の中で祖父母から、両親から、兄弟から、自然に学ぶことが大切なのです。現在放映されているNHKの朝の連続ドラマを見ていると、曾おばあちゃんが権威を持ち、祖父母は彼女に従い、父母はまた祖父母の言いつけを守り、子供はその後ろ姿を見て、その意味を理解し、孫はクスクス笑いながら、すべき事が何かを学んでいます。友達にいけづをしてしまったことを、悪かったと悩み、そのことを両親に諭されて、謝ろうとする心の様子を見ていると、本当に心を育てる教育が、どこで行われるのかよく分かります。
便利さを求めていた核家族は、心の孤独を育ててしまいました。これはもうすでに30代、40代の親の世代がそうですから、その子供の世代に伝える術はないように思えてしまいます。
簡単に命を絶とうとするのは、命の意味を学ぶ場が少なくなったからだと思います。今の我が身がどのような生活を送っているか、よく見つめてみることにしては如何でしょう。
平成18年11月16日〜30日
朝の連続テレビ小説には、今の日本人が忘れてしまった家庭教育の基本が沢山出てきます。私も久しぶりに楽しみに見ています。
先日は親が子供を叱る時の大切な家族の役割が出ていました。子供時代の回想のシーンの中で、主人公が母親に嘘をついたと云うことで懇々と叱られていました。本人も悪かったことが判っているだけに、ただただうなだれています。しばらくたった頃に曾お婆さんが、ひ孫の叱られているところに行って、孫の嫁に、「嘘をついたのは悪い。だから私も一緒に謝るからどうか許して下さい」とひ孫と一緒に何度も何度も頭を下げていました。
今の核家族では、この救いの手を出してくれるお爺さんお婆さん役がいません。子供にはどこにも逃げ道がないのです。かといって嘘をついたという事実を、まあ良いでしょうと云ったのでは人間の基本的なモラルが身に付きません。そこで、いつもは母親や父親よりも権威の上位に当たるものが、悪かったことを一緒に認めた上で、謝るという行為を、実際に頭を下げて身につけさせる訳です。人間誰しも自分の咎を責められて、素直に謝りにくいものです。それを押してでもそのことを陳謝出来るようになるのは、愛情をもって共に謝ってくれている人の行動があったからではないでしょうか。
今はややもすると孫可愛さに、「そんなに怒らなくたって良いじゃないの。よしよし」としてしまうお婆さんやお爺さんがいます。そのくせ普段は息子や嫁の顔色を伺ってはいないでしょうか。
家庭の中に時には叱る人になり、時には一緒に謝る人になる、様々な役割分担があって、子供の心は色々な役割を身につけられるのだと思います。いじめたら徹底的にいじめ抜く。いじめられると逃げ道がなく、命まで安易に断つ。色々な役割を家庭の中で心が学んでいれば、家庭でも社会でも自分はひとりぼっちだなどと思わないですむのではないでしょうか。今自分はどんな役割を演じればよいか判るのではないでしょうか。
プライバシーを守ることばかりに気を取られて、心の多様性がドンドンと失われてゆくようなことのない様にしたいものです。
平成18年12月1日〜15日
ここのところ朝夕冷え込むことも多くなりましたが、日中は例年に比べて温かいように感じます。私にはとても助かることなのですが、虫や動物や我々人間の体調にも様々な変調をもたらしているように思います。地球規模の環境破壊が徐々に身近に感じられるようになってきました。
ここのところテレビではイジメを苦にした自殺が連日のように報道され、みのもんたなどはここぞとばかりに「教師が悪い、教育委員会が悪い」とその責任のすべてがそこに有るかのように唾を飛ばしながら番組を進めています。私にはイジメの構造はここにあるような気がしてならないのです。こういう事件が起きるとマスコミの標的にされ、弱い立場にあるのは当事者となった教師や校長などです。おそらく何か弁明を云うと、揚げ足を取られてさらに攻撃の標的にされてしまいます。仕方なく物言わず、ひたすらに「私が悪うございました」と言い続けるしかない状況です。マスコミは一方的に攻撃できる武器を持っています。まさに学校においても、ある生徒が「自分は正しい」と錯覚すると、相手を徹底的に攻撃するのではないでしょうか。
戦時中も「欲しがりません勝つまでは」などといって、「この戦争はおかしいな」と気付いていても、みんなから非難されるからと思って黙ってしまったのではなかったでしょうか。
家庭は最も人間らしさが出せる場です。いつもいつもお世辞を使った関係では家庭は成り立ちません。どんなことをすると兄弟や親や子供は嫌がり、また喜ぶかを日常の衣食住の中で身につけなければ、隣近所との人付き合いの意味は理解できません。隣近所の人付き合いがうまく出来なければ、学校や会社など社会の入り口での人間関係は作れないでしょう。それが出来なければ日本という国の中で責任有る市民としてのコミュニケーションなど出来るはずはないのではないでしょうか。
学校は知識を教えることがどうしても主になります。そこに心を育てる教育がなければ知識は生きてきません。その心を育てる基礎は家庭だ担うしかないです。そして隣近所両隣で一緒に育てる社会が後押しをしなければ難しいでしょう。両親が自らの責任を放棄したことを学校や社会にぶつけても、おそらく何の解決にもならないように思います。テレビなどで弱い立場になってしまった人を一方的にイジメる構造を、私達は日々訓練されてしまっているようです。
「自らの心を修めよ」と諭されたお釈迦様の言葉が、何千年たっても一番難しいことなのだなと感じます。だからお釈迦様はなくなる直前に「心を修める修行は日々怠ることなく続けよ」とおっしゃったのだなとつくづく思っております。
平成18年12月1日〜15日
早いものですね、平成18年もあと半月となりました。今年は若年層の自殺が連鎖反応の様に起こり、命の意味が伝わらないことが印象に残る年でした。命の教育はまずは家庭がなければならないと思います。戦後云われた個人主義を利己主義と勘違いしている日本人は、挨拶をすることも学ばせず、食事の意味も教えなくなりました。お父さんは単身赴任で家にいなかったり、いても仕事で家庭に参加せず、お母さんはパートや、趣味や何やかにやで、家庭を守ることを放棄していることが、多くなりました。そのくせ、学校や近所へ文句を言うことは目を覆いたくなるような惨状になっていると思います。お爺ちゃんやお婆ちゃんと同居しないので、目上に気を遣うという最も人間の脳を発達させる教育の場を失い、年を取ることを生活の中で感じることも少なくなり、ましてや死に行く姿を家庭の中で実際に学ぶ機会も失ってしまいました。
これはすでに集団生活を円滑に進める智慧をもつ動物たちより遙かに劣ってしまう結果になっています。すでに人間ではなく、動物でもより下等な心に成り下がってしまっているようです。
教育基本法が改正され、家庭や親の役割が重視されているようです。問題はどのように運営するかでしょう。運営する人達がすでに人間としての知恵を失いかけている状態では、余程気を付けないと単なる権力のごり押しになり、懸念する声の多い、強権政治になりかねません。しかし、戦後、この言葉に騙されて、ことさら自分勝手な行動を教育してきたのは、やはり誤りであったと認めるべきでしょう。
お釈迦様は、一人一人の心の状態を慈しみの心でよく観察し、どの時点でどの弟子にどのような導き方をするかを決めてこられました。大きな愛情は時には子供を苦境に置くことになることもあるでしょう。子供が本当に何かを成し遂げようとする心をもっているなら、ジーッと見守る勇気が親には求められます。学校で先生に叱られたら、その意味をジーッと子供と一緒に受け止める心も必要です。学校や社会で身の置き所に困った時に、初めて「どうしたらこの状況をよい方向に導けるか」を考えることが出来るはずです。そのことによって人間は他の動物に無い前頭葉はじめ勝れた脳を発達させることが出来たのです。
このようにご先祖様方は、長く苦しい日々の中で、私達に限りない財産を残してくれているのです。ご先祖様を大切にしなさいよと家庭の中で語り継いでくれたのを、「古い」と云って捨ててしまうのは、誠にもったいないことではないでしょうか。
私も凡夫、あなたも凡夫。仏教は、慈悲の心、まろやかな心をいつも持ち続けることを教え、そして皆さんと共に行っていこうと説く宗教です。平成19年はこうした慈しみの心を共に磨いて行ける年になりますように念じております。
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