真言宗豊山派
瑠璃山 光明寺

法 話



平成17年1月1日~15日

 新年明けましておめでとうございます。真言宗豊山派光明寺です。

 昨年末にはスマトラ島沖で大きな地震があり、その津波のために12万人以上の犠牲者が出たと報じられていました。日照時間の短いドイツや北欧の人達がクリスマス休暇で訪れていたこともあり、犠牲者は世界中に広がっています。目の前で弟や父親、そして母親と次々に流されてしまった12歳の少年のことが報じられていました。人生一瞬先に何が起こるか判りません。お釈迦様の亡くなる直前に説かれた「すべては常に移り変わっている。怠ることなく努めよ」という教えが、本当にその通りだとつくづく思われるものです。衣食住足りている今の日本人。生活習慣病で何時あの世行きか判らない日本人。私も少なくとも散歩を日課としようとしながら怠けています。

 そんな平成16年でしたが、暮れには二回も雪が降り大晦日のお寺の庭が純白に覆われ、真っ白な気持ちで平成17年を迎えようと思いました。

 平成17年が明け、元旦には初護摩を焚きます。光明寺のご本尊様であります薬師如来に供物と祈りを捧げ、この一年の皆様の無事をご祈願申し上げます。光明寺の薬師堂にはこのほかに成田山から勧請して参りました不動明王も祭られております。おそらくは江戸時代と思いますが、当時なかなか成田山までお参りできなかった久喜の近隣の人々のためにご安置申し上げた成田不動尊です。ですから薬師如来の法力で無病息災をしていただき、不動明王の法力で除摩降伏して頂くことになります。

 正月の5日には光明寺の伝統行事である「ドラナワ綯い」が行われます。これも江戸時代から続く行事で、かつて薬師堂の前にあった二本の大きなケヤキの木に掛けた「しめ縄」を作るものです。仏前ですが、かつては神仏習合でしたので問題はありませんでしたし、「紙しで」の代わりに百八の草鞋を下げてあります。正月5日は旧暦ではその年の最初の「大安」の日に当たりますので、その一年の皆様の無病息災を祈願しております。

 良いこと悪いこと様々なことがいずれにしろ起こってくるのが人生です。でも見証を立て、命を授けてくださった多くのご先祖様方に供養をし、御仏を心から念ずることでそのお力をお貸し頂き、何とか無事に過ごすことをネアンデルタール人の以前から私達人類は学び取ってきているものです。代償を求めない純粋な心を供養することで、はじめて本当に無事で息災であることを授けてくださっていることに気づくこともできるものです。ちょうど大晦日にすべてのケガレを純白の贈り物で覆い尽くしてくださったように。


平成17年1月16日~31日

 この時期には楽しみなことがあります。先日の冬晴れの夕方、筑波から久喜へと車を走らせていますと、石下のあたりにさしかかった折り、夕日を受けて赤く染まる富士山が目の前に見えてきました。冬の赤富士です。葛飾北斎の「富嶽三十六景」の赤富士を思い出す本当に美しい姿に見とれてしまいました。まさに手を合わせたくなるその神々しさには、霊山と崇めてきた日本人の心のふるさとを感じます。次の日に今度は久喜から筑波に向かう途中、利根川沿いに関宿城を臨む場所に来ますと、すっぽりと雪をかぶった富士山がくっきりと浮かんでいました。思わずUターンをして土手に車を止めて、冷たい冬の強風に煽られながら見とれてしまいました。振り返るとそこには筑波山も見ることができ、本当に豊かな気分になりました。

 世相を見ると様々な暗いニュースが目につきます。でも私達はどんなときもこうした大自然の中に抱かれて生きていることを忘れてはならないでしょう。最近朝のドラマで「人間生きているだけで丸儲け」と語らせておりますが、私もある時期からそう思うようになってきました。縁あってこの身体を与えて頂き、誠に不思議にも様々な災難にも関わらず、生かして頂いていることを御仏に感謝できるようになりました。

 でも、昔から先祖を敬い、太陽に、自然の様々な姿に、そして人間を始め生きとし生けるものに手を合わせてきた先人の教えは、なるほど尊いものだと実感できるようになったのはそれほど昔ではありません。多くの日本人がそうであるように、西洋の理性など合理的な考え方を最高のものと勘違いして忘れてしまった日本人の本来の心を少しずつ取り戻しております。

 私達は一人で生きている訳ではないと謂うことを、理解するだけでなく、感じ取る大切な機会の一つは、一日に一度でもよろしいと思いますが、あなたを生み育ててくださった両親に感謝し、そして旅立たれた先祖達の名を一人一人思い起こしながら、よりよき浄土で幸福にお過ごしになられるようにと祈り念ずることにあるようです。

 年が改まってすでに半月が過ぎました。この命を今年も生かしてくださっている御仏を畏れ敬いながら過ごしてゆこうと思っております。


平成17年2月1日~15日

 二月に入りますと節分を迎えます。本来はこの日が大晦日に当たり、立春が正月に当たったと考えてもよいでしょう。ですから行く年の煩悩を払うために「鬼は外」と豆をまいて邪気を払い、「福は内」といって春の初めに福徳の神々をお招きする訳です。節分自体は本来春夏秋冬の四回ある訳ですが、現在は立春の前だけが習慣として残されています。本来の正月は今年は2月の9日に当たるようです。明治政府が強引に現在の太陽暦に切り替えたのですが、日本人は実に順応性が高く、今では旧正月というだけでほとんど意識に上りませんね。お隣の中国や韓国ではこちらの方が依然として大切なお正月となっており、様々な行事を行っています。

 邪気を払うというのは日々の生活の中でも大変大切なことです。私達は自然の本当に微妙なバランスの上で、やっと生かされていることをややもすると気づかずにいます。体と心を素直にして自然の流れを感じるようにしていると、どうもこの時期は心と体の力を吸い取られるような感じがするというと、不思議とお亡くなりになる方が増えたりします。体調が整ってくるとそうしたことが減ります。考えてみれば不思議でも何でもないことでしょう。また古来より厄年として気を付ける年回りというのも、体調の大きな変化や流れと一致してくることを皆さんも感じているのではないでしょうか。

 こうした先人の知恵は、すべて命の元をよく見つめるところから見いだされてきたものです。最近はテレビで細木数子さんが「お墓参りをしなさい」「先祖を大切にしなさい」というのも、こうした命の深い流れを勉強し、多くの人の具体的な事例に当たってきたからでしょう。私にも先祖供養が何故大切なものか、とてつもなく大きな力であるか、ようやく判るようになってきました。


 節分で年も改まり、福徳の神々から、新鮮な、そして生き生きとした気を与えて頂けるよう、心を供養して参りましょう。


平成17年2月16日~28日

 よく尋ねられる質問に、「お線香は一本が正しいのでしょうか、二本が正しいのでしょうか」というものがあります。仏教の本義からしますと「何本でなければならないという決まりはありませんよ」とお答えするのがよいと思いますので、そのようにお答えしております。かといって10本も20本もお仏壇に挙げたのでは煙たくて仕方ありません。ちょうどよい本数を上げるのがよいのです。大切なのは清潔にしてお灯明で明るくし、目を清め、そしてお香の香りで鼻を清めるというように、私達の五感を清める訳です。

 自分だけよければよいのではありません。周りの人達もそれで心が安まるように気を遣うことが、己のエゴを収める術にもなります。

 仏教は丁度よいことを持って正しい道とします。これを中道とも云います。言い直せば適当にするのがよいのです。いい加減にするのがよいのです。ところがこの言葉さえ私達は「ちゃらんぽらんにすること」と誤解してしまっています。

 
小さな親切大きなお世話という言葉がはやったように、人によって、状況によって丁度よい加減が変わってきます。これを覚るのが大切なのです。西洋文明の基礎になっているキリスト教の場合は神と個人との契約ですから、神のみが正しいので我々は神という基準に照らして正しいか間違いかを決めることになります。決まっていればそれに従えというのはある意味で気を遣わなくてよいから楽に感じられます。しかし彼らにも長い伝統があります。それを知らずに「決まっているからそうするのは正しい」というのは筋が違います。

 東洋の智慧、仏教の智慧に育てられてきた日本の心は、その場の状況に合わせて丁度よい本数のお線香をあげるのが、大切な心をご供養することになります。

 お線香の本数については、こんな風に考えましょう。お葬式など大勢の方が来られる時には、一本にして他の方にお線香をあげて頂く場所を譲りましょう。そして故人が迷わずに一本の道を辿って浄土にみまかりますようにと念じましょう。こうして心を供養して差し上げましょう。


平成17年3月1日~15日

 桜の花の知らせのその前に、ここ彼処からインフルエンザの知らせが舞い込んで参ります。毎年のこととはいえ、気のもめる季節ですね。手洗いうがいで何とか凌ぐようにしなければいけませんね。かかってしまうとウイルスや病原菌と戦わなければなりませんからね。

 仏教には5つの戒めがありますが、その第一はご存じのように不殺生戒です。生きとし生けるものを殺す無かれです。ということは「ウイルスも殺してはいけないのでしょうか」などと、昔よく考えたものです。

 
私達は必ず他の生命を頂いてしか生きられません。菜食主義にしても植物という生命を頂いています。人工的に作られたものだけを食べていると、それこそ身体に変調をきたすのは最近では常識として皆さんもご存じの通りです。だからお釈迦様当時にも植物だけは食べてもよいことにして不殺生戒からはずしています。病も上手につきあい、健康を取り戻すようにしています。結果として病原菌を殺すことになってもそれは自然の摂理です。

 こう考えると生き物を殺すなと云うのは無理なことだと判ります。こう聞くと凡夫は「どうせ駄目なら殺したって云い」と考える不届き者のようです。決してそうではありません。食事を目の前にし、命を頂くときに、「当然だ」と思うのではなく、「私の命を支えて頂くために尊い命を頂きます」と云う心が持てるかどうかで大きな違いになります。感謝の心で頂くことは、その命への供養です。供養されない命は怨念を残すのでしょうか。十分に供養してこそ血となり肉となり、その命を共に生かすことになるのかも知れませんね。昔から日本人は食事をするときに「頂きます」と言い習わしてきたのも、先人の知恵でしょう。ヨーロッパではたいてい「よい食欲を」と相手に対して言葉を掛けます。私達は頂く食物に感謝をします。このあたりが命あるものを平等に見る仏教と動物や植物は人間のために神が作ったのだから食べて当然と考えるキリスト教との違いかも知れませんね。

 誰が上でも下でもなく平等に命を捧げ合い、共存してこそ心の平安があります。インフルエンザには是非ならないように、なってしまったら治癒することに一所懸命に頑張るあなたの命に感謝し、間近に聞こえてくるウグイスの声や桜の花の便りを待つことにしましょう。



平成17年3月16日~31日

 先日やっとウグイスの声を聞けたと思ったら、またまた全国的には大雪です。春が待ち遠しいですね。

 
ある方の講演を聴いてきました。最近自殺者が多く、またふらっと学校に入っていって先生や生徒を刺して殺してしまったり、訳の分からない事件があります。生活苦という理由もあるようですが、飽食の時代の今の日本ですから、他の国の人が聴いたら驚いてしまうでしょう。今は心が貧しいのだと云われます。どういう事かというときに今日の講演者はこんな風に云っていました。つまり「私は誰とでも交換可能なんだ」と感じてしまっていることです。よい成績を取り、よい大学に入って、良い就職をするために、親の云うようによい子を演じている中に、自分の色も香りも消して、満遍なくよい子に近づこうとするあまり、透明人間になってしまっているようです。自分の色や香りを出すと、「何ちゃん駄目でしょう。云うことを聴かなくちゃ」とか「云われたとおり仕事をすれば良いんだ」と云われてしまいます。みんなの求めに応じている中に、私が休めば、別な人に交換可能なのが職場であり、さらには家庭であり、親子関係になってしまっているようです。親の望んだ子でないと愛されないのです。私はかけがえのない人で無くなってしまっていると感じると、生き甲斐も無くなるのです。

 
お坊さんも同じなのです。お葬式や法事に住職がどうしても行けないとしても、お檀家さんにとって「お経さえあげてくれれば、誰でもよい」ようになっています。仏教の本来の教えを織り交ぜて、お説法を一生懸命していると、「こっちは義理で来てるんだから、早いとこお経をあげて終わしてもらいたいのが正直な話だ」などと云われると、私は何でしょうと感じたりします。ご遺族や施主の方は「お話を聞いて、救われました」と云って下さることが多いので、勇気がわきます。本来はそういう場面でなくても「お話を聞いてよかった」と云って頂けるようにならなければならないのですが、まだまだ修行が足りません。このテレホン法話も話題がよかった時は、電話を掛けて下さる数も多く、そうでないと少ないようですので、少しでも皆様に多く聴いて頂けるように励むことにします。皆様が私の掛け替えのない先生です。きっと皆さんの周りにも沢山のすばらしい先生達がいることでしょう。


平成17年4月1日~15日

 3月31日になってようやく桜の開花宣言が出ました。ここのところ地球温暖化の影響で、4月の声を聴く前に桜が散ってしまっていましたが、今年は辛うじて桜の花に囲まれた入学式を見ることができそうです。こうした地球環境の急激な変化をもたらしたのは産業革命以降の私達の科学技術の成果です。欲望を原動力として経済を発達させ、物質文明の花盛りを迎えています。欲望の追求なしに、今日の豊かな生活は生まれてきませんでした。一方で環境に優しくを合い言葉に環境保護が注目されていますが、現実にはどこまでも人間に都合のよい生活の追求です。どこまで行っても人間のエゴイズムになっています。

 
仏教は欲望の追求を戒めます。欲望をコントロールして足を知ることによって始めて幸福な人生を送ることができると教えます。こんな事を今の私達の多くは受け入れることができないでしょう。

 
経済の発展や安定にとっては、コマーシャルをジャンジャン流して消費者を洗脳し、その商品を買いたいのだと思いこませ、またすぐに新たな欲望をくすぐって新しいものを買いたいと思わせる事こそ欠かせないことです。元来私達日本人は商業を「あきない」と行ってきました。その言葉の由来の確実なところは定かではありませんが、「飽きることなく続けてゆく」ことを基本にしているとよく言います。飽きさせることを基本とする現代の商業は、高い技術を消し去ってしまい、一度消えたら回復困難なものつくりの職人技術を廃れさせてしまっています。

 
仏教の「欲望をコントロールせよ」という教えは、明治以降の西洋に追いつけ追い越せの気運の中で、時代に合わない思想と錯覚させられてきましたが、この宇宙自然を見極めた仏教思想は今や西洋世界では非常に合理的なものとして注目されています。日本人が仏教思想は抹香臭いと云っている一方で、西洋文明は仏の教えを実生活に活用しているのがここ最近の傾向です。
 
私達の先祖達は目を覚まして、神仏にみ証を立て、天地に感謝し、日々の無事を祈ってきました。ここに実は自然科学の力を遙かに凌ぐ御仏の力を授けて頂く唯一の方法があることを、私達の先祖は長い年月を掛けて学び取ってきました。それをみすみす欲望の虜になって捨ててしまうのは愚かしいことでしょう。

 
花粉症に悩まされ、汚染された食事や水を口にして精神を病む人が多い中、もう一度素直にあめつち(天地)の恵みを思い出してみましょう。きっとあなたもそれが御仏の偉大な教えであることを覚ることができるでしょう。


平成17年4月16日~30日

 幸手の権現堂の見事な桜も散り始めました。今年は縁に恵まれ、上野の桜も見ることができました。一面を桜色に染めて咲き誇る桜は、やはり心をうきうきとさせてくれます。そこには理由を必要としない人間の心の営みがあるようです。こんな風に桜を愛でるのは日本人だけかと思いましたが、東洋の国々の人も、ヨーロッパの人もアメリカの人も、群生するソメイヨシノの美しさには感動するようです。その花の下で酒を酌み交わし、ワイワイと騒ぐという習慣がないだけのようです。

 
ここのところ中国で学生を中心に一般市民を巻き込んで反日の暴動が起こっているようです。先のサッカーのアジア大会の時のブーイングもさることながら、激しいものですね。日本人は今のところ静かにしているので、このまま落ち着いてくれればいいがと願ってしまいます。

 
国際学会の席で経験することですが、中国や韓国の先生達は、アメリカやヨーロッパの学者に対して、「あなた方は私達の文化をよく知りもしないで、仏教をキリスト教の立場から批判的に扱ったりするが、とんでもない話だ」などと、面と向かって喧嘩腰のような勢いで発言したりすることがよくあります。日本人としては喧嘩になるのではないかとハラハラドキドキしてしまいます。こうしたことに慣れていない日本の先生は学説に併せて、穏便に議論を進めようとするので、かえって突っ込まれたりしてしまいます。おそらく国民的な習慣の違いから来るのでしょう。中国や韓国など周辺の国の人に聴いてみると、「日本人は一人では大変おとなしくて、優しく親切なのに、集団となるととても恐ろしい」という感じを持っているようです。赤信号みんなで渡れば怖くない、私には責任はない、事なかれ的なところがあるのでしょうか。

 私達は花を愛で、同じように感動し、人の情けに涙し、冒涜されれば憤慨します。ただそれぞれの生まれ育った環境によって、その表現の仕方が違ったりします。その違いにとまどい、誤解し、それがもとでいがみ合うことが多いようにも思います。

 桜の花が一面を覆い尽くし、華やかに美しく飾ってくれているように、私達もすがすがしい心の花びらで様々な心模様を飾ってみたら如何なものでしょうか。きっとこの世の憂さを晴らすことができると思いますよ。


平成17年5月1日~15日

 今年のゴールデンウィークは天候に恵まれているようです。各地の行楽地にお出かけの方も多いのではないでしょうか。尼崎の鉄道の事故やバスの事故など聞こえてきますが、皆様が無理のない計画で安全に無事に過ごされることを心より念じております。

 日本では鉄道の運行状況は世界に類を見ないほどに正確で、各駅でほぼ定刻に発着しているというのは驚異的です。私達利用者はそれが当然のことであり、遅れたりでもしようものなら鉄道会社の怠慢をあげつらってしまいます。こうした要求が私達の日常生活の心の余裕をうばっているのかもしれません。人間的であることを忘れ、一年中どんな野菜でも果物でも手にはいることを当たり前とし、調理もろくにせず、出来合のものやファーストフードのものばかりを口に入れ、電気の恩恵で夜も明るく過ごし、さらに寒暖の差も感じずに過ごしています。大変便利ですし、もちろん私もその恩恵に浴しております。いつの間にか太陽の恵みを忘れ、宇宙自然の霊気の流れを感じなくなり、折角訴えかけてくれている体と心の叫び声をどこ吹く風と、ひたすらに自分の欲望のままに突っ走っているのが現代人かも知れません。

 いま光明寺の庭先にはハナミズキのピンクやツツジの赤や白が私達の目を楽しませてくれています。このようなときだからこそ行楽地でも道ばたに咲く花に心を留めて見る余裕を見つけてみては如何でしょうか。あるいは是非に光明寺にも足をお運び下さり、さまざまに微笑んでいる花に心を和ませては如何でしょうか。御仏の声が聞こえてくるかも知れませんよ。


平成17年5月16日~31日

 初夏の陽気かと思えば肌寒い気候に逆も取り。行きつ戻りつの不順な天候のためでしょうか、あちらこちらで風邪をひいた方を見かけます。電車の中でも頻りに咳をする人を見かけます。

 そ
れにしても日本列島は本当に長い。先日京都まで日帰りで行って参りましたが、東京は震えるように寒く、京都は初夏の陽気で、これでは体調を保つのは至難の業だと思いました。京都に日帰りしたのは日本の仏教学をリードしてきた長尾雅人先生が白寿のお祝いを前に、まるで古木が倒れるように卒然としてお亡くなりになられたからです。その追悼会のためでした。90歳を過ぎてもなお、多くの学生と共に相変わらずインドの経典を解釈し翻訳するという、本当に根気のいる仕事を続けておりました。80歳を過ぎてからパソコンを習得したりするのですから、驚いてしまいます。それでいて酒もたばこもガンガンと召し上がるので、もともと体力がある人だからと、我が身を慰めていました。

 
江戸時代の葛飾北斎も晩年になるほどにバイタリティー溢れる作品を造り出したのですから、私は心の力こそ生命の原動力なのだろうと思います。気候風土といった自然の大きな流れは私達の身体には過酷なものでもあります。その荒波を超えるのは、私達の小さな小舟を果敢に操縦する心の力です。朝のテレビドラマの「ファイト」でもそうです。人それぞれにさまざまな心の迷いや苦難がどっちにしろ降りかかってくるのが人生です。一つ一つ超えるたびに心の力が強くなります。丁度貯金のように増えていきます。利子も沢山ついてきます。綾戸智絵さんの息子さんが黒人とのハーフ故に小学校で虐められて帰って来たとき、怒鳴り込むのではなく、「あんたは男前やから虐められてもしゃーない。あの長谷川一夫でもそうやった」と勇気づけたそうですし、「父親の暴力が原因で離婚したのか」と云われたときにも、「とても優しい人だから、外での鬱憤が爆発してしまっただけや」と必ず前向きな答えをしているのが心にしみました。

 
どうも私達は失敗しないようにしよう、悪いことになったらどうしようと焦って、心の力をなくしてしまうようです。綾戸さん、いいこと云ってました。「焦ったら鍵が鍵穴にはいりまへんやろ。どうせ同じや。焦らんといたらスッと鍵穴に入りまっせ。おもろいやないですか。」

 息を引き取る瞬間まで心の力を前向きに前向きに燃やしていたら、最後の瞬間まで楽しめまっせとでも、云われているような気がします。北斎にも、長尾先生にも、そして綾戸さんにも。天候不順。十分に気を付けながら。でも楽しみましょうかね。この人生を。


平成17年6月1日~15日

 さわやかな五月晴れもあまり見られないまま、もうすぐそこに梅雨の季節がやってきています。ジメジメとしてあまり気持ちの良くない季節というイメージですが、瑞穂の国、日本に実りの秋をもたらしてくれる大切な季節です。その恵みの雨を彩ってみようと、光明寺では正門前のスペースに少しずつアジサイを植えてゆくことにしました。光明寺の玄関にはお花が添えてあります。これはお見えになる方が、代わる代わるにお持ち頂くものでもあります。この季節にはアジサイなどが飾られますので、お花が枯れると、折角ですのでその鉢植えを庭に植え直し、また元気を取り戻してもらうようにしています。命あるものは、その土地に根付き、やがて花を咲かせます。その花はそれを愛でる人の心にさまざまな勇気と、生きることの意味合いをそれとなく植え付けてゆきます。

 私達の人生は、華やかなときもあるでしょう。時には落ち込み滅入りそうな日々を送ることもあるでしょう。でも命は人々の心や、暮らしている郷土の土や雨、そして木々の恵みを助けとして、また再び息を吹き返すことができます。丁度鉢植えのアジサイが、庭で元気を取り戻し、光明寺の正門前に植え替えられて、訪れる人にその生き生きとした姿をお披露目することができるようにです。

 御仏の教えはいつもどこでも誰にでも分け隔てなく降り注いでいます。それでお経の本には、「教えの雨を雨降らす」という言葉がよく登場します。人間は我が儘なものです。調子のいいときは、自分の力や才覚で人生を亘っていると思い上がってしまっているので、いつも語りかけている御仏からの様々なメッセージに耳を傾けられないのです。いったん事が起こり、「何とか助けて」というときになってあわててしまいます。幼い頃にでもお爺さんやお婆さん、あるいはお父さんやお母さんに御仏を祈る手ほどきを受けていた人は、比較的たやすく御仏を念じ、御仏の声を聞くことができるのです。庭に植え替えられたアジサイが、本来の生き方を思い出し、思い上がるのでもなく、焦るでもなく、ましてや引け目を感じることもなく、土地の恵み、雨の恵みを、心から素直に受け取り、本来の生き方をしているようにです。

 今絶好調の人、ちょっと立ち止まって草花の優しい声を聞いてみませんか。今絶不調の人、ちょっと立ち止まって草花の優しい声を聞いてみませんか。光明寺の庭の草木も皆様をいつもお待ちしていますよ。


平成17年6月16日~30日

 すっかりと梅雨の装いとなりました。満員電車のむしむしとした空気の中を通勤通学する人には特に気の重い日々ですが、やがて秋に農作物の実りを期待する人々にとっては大切な恵みの雨の季節です。

 仏教というのは世界の宗教の中では特に変わったところのある宗教です。絶対的な神様を祀る訳でもありませんし、これを絶対に信じなさい。ゆめゆめ疑ってはならないとも強要しません。日本仏教の幾つかの宗派にはそのような傾向が見られはしますが、本来の仏教は、僧侶が模範的な生活や行動をすることで、周りの方に自然にその心の姿が浸透してゆくという布教の仕方を採ります。

 
私達は好むと好まざるとに関わらず何らかの悩みや苦しみを抱えて暮らしています。後から振り返ると、そうした悩み苦しみの多くはちょっと考えを変えれば採るに足らないことだったのにと初めて分かるものです。

 しかし人生には何度かそれまでの自分の大切にしていたものへの思いを断ち切らなければならない時があります。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあるという諺があるように、商売でもどうにも立ちゆかないときに地位も名誉もプライドもきれいさっぱり捨て去って見て、何にもとらわれない我が身の清々しい価値に気づくようなものです。

 先日NHKの番組で生命科学者である柳沢桂子さんの説く般若心経の心を放送していました。世界的な学者として飛び立とうとしていた彼女を襲った病気のために研究生活さえ断念しなければならなかったことを思うと、我が身の如くその辛さが身にしみます。あまりの苦しさに尊厳死を決意したけれど、彼女は我が子の悲しむ姿に思い留まり、生きることを選択しました。苦しみの中で様々な宗教書を読み、その中から般若心経を選び取りました。科学者である彼女は仏教の持つ実に自然科学と似たものの見方に気づきました。しかも苦しみという心を見つめるために最も大切な要素を併せ持ったことで、修行者の如くその奥義を究めていったと思います。

 大乗仏教の空という教えを、粒子という概念で見事に体得されていました。私なりに言い直してみれば、私達はエゴを持ち、それにしがみつくために人と争い、自分の心との葛藤などに苦しみます。でもよく考えてみたら私の細胞を作っている粒子はしばらく前には隣の人の細胞を作っていたかも知れませんし、鳥だったかも知れません。山や川であったかも知れません。実に私はこの自然の中で生かされています。全てに行き渡って何にでも成れ、何者でもあり続けることのない姿を「空」という訳です。観音様が、助けを求めるあなたのために何にでも変身して助けに来てくれるのも「空」だからこそというのが、粒子という考えでとてもよく分かります。柳沢さんが強調していましたが、仏の教えは言葉で言うとこんなもので終わってしまいますが、本当にそのことが腑に落ちると全てを受け入れることができるものです。腹が立つこともたくさんあるでしょう。でも、この宇宙は全てあなた自身だと覚ると、ひたすらに生き抜く路傍の花のように美しく生きられることでしょう。


平成17年7月1日~15日

東は大雨、西は日照り。日本列島は本当に長い。しかし大雨でも水不足にはなりやすいようです。

 本当は私は今頃シルクロードの奥地を視察しているところでしたが、中国の世情不安も手伝ってか、本年は見合わせることになってしまいました。中国からインドに仏教を学ぶためにゴビ砂漠や、タクラマカン砂漠へいたる桜蘭など、現在でさえ過酷な道なのに、商人のお金に対する執着を上回る情熱で玄奘三蔵法師や鳩摩羅什など多くの高僧が行き来できたその心意気は、現地へ行ってみないと実感として判らないでしょうね。きっと。

 中国での反日感情は一つには国家の教育の造り出したものだという向きもありますが、恨みは家庭で親から子へ、子から孫へと語り伝えられるものの方が大きい。これは家庭教育の重要さが如何に大きいかを実感できる良い例かと思います。日本人はこの大切な家庭教育の場を捨ててしまっています。躾が悪いのまで学校の先生のせいにするようでは救いようがない。第二次世界大戦の敗戦国である日本を占領統治したアメリカは、この小さな島国のひ弱な体格の国民のどこに、これだけの強さの秘密があるのかを調査し分析した結果、しっかりとした家族制度にあると見たと云うことです。だから50年掛けてこの日本の家族制度を崩壊させるために核家族制度を奨励し、責任ある個人主義に似た無責任なエゴイズムを浸透させようとし、その結果がようやく実を結んできたと云われています。

 ヨーロッパ社会で、アメリカ社会でさえ常識的な日常の助け合いの習慣は消えようとしています。虐められたと云っては友達を簡単に殺し、親を殺害しても、もう少しうまくやれば捕まらなかったのにと落ち着いた顔で答えるような世代を私達は造り出してしまいました。

 社会から良い意味での道徳や序列、例えば長幼の序というものが消えるとあっという間に帝国さえ崩壊してしまったのが歴史の示すところです。ほとんどの帝国が内部から崩壊したように、その国民の心も内部崩壊していきます。

 先祖を敬うのは古くさいと思いこまされ、まんまとそれに引っかかったあなた。あなたには仕事はありますか。うまくいかない方が燃えるという気持ちはまだありますか。友達はいますか。裏切られることをいつも畏れていませんか。生きようとする灯火が消えそうですね。ともしてくれるのは命を授けて下さった多くの先人達でなくて誰でしょう。

 こんな事を質問する風潮に日本はなってしまったようです。家庭で喧嘩しても憎しみだけで、相手を思いやる家庭の団欒がなくなりました。社会の基本である家庭の団欒が少なくなるにつれ、めっきりと「子供が心を開かなくて困る」「子供が何をしでかすか判らない」だけでなく「子供が自殺してしまった」と云って相談にくる人も増えて参りました。反目しあっても愛情のこもった家庭という団欒を、核家族の気安さに心を奪われて捨ててしまったのではないでしょうか。

 今の中国や韓国にはその団欒がまだありそうです。時々ラジオで流れる我が子を抱きしめようキャンペーンのCMが無駄になりませんように。


平成17年7月16日〜31日

 空梅雨かと思っておりましたら、ここのところ大雨に見舞われたりしています。猛暑かと思うと急に寒くなったりします。どうやら本当に地球温暖化と日本の砂漠化が進んできているようです。

 
久喜は夏祭りの季節です。浮き立つ心が抑えきれないのか朝の6時前からすでに賑やかな祭囃子が鳴り響き、6台の山車が市内を巡行する姿や多くの人が街に繰り出している様子を見ると、日頃の憂さを忘れようとしているようです。久喜の祭りも飢饉や洪水などの災害で多くの苦しみを味わっている民衆のために、神仏を祀ることで救済してもらおうと江戸時代に祇園祭として始めたもののようです。神を祀る、仏を祀るという点がどうやら忘れられているように思えます。それは今の日本が平和であることの証なのですが、災害は忘れた頃にやってくるといいます。常日頃神仏を祀り、礼拝をし、神仏を畏れ敬う事で自然の驚異を心に刻んできた先祖達のはからいを心に大切に持っている人には、たとえ災害が訪れても、被害が少なくて済むものだと云うことは、多くの先人達が暮らしの中から学び取り、子孫に伝えてくれた大切な智恵のようです。

 神仏が本来祀られている土地は、おそらくは修行者が研ぎ澄まされた感性によって見つけ出した土地なのだろうと思います。といいますのは、そのような場所に参りますと、体と心が清まり、多くの力を注入してもらえる場所だからです。もちろんそうでない場合もありますから、私達自身も感性を磨いておく必要があります。そんなこと判る訳ないと思う時は、霊山と言い伝えられる場所に何度も足を運んでいたら、少しは違いが分かるようになるかも知れません。

 それってオカルトみたいと思う方もいるでしょう。微妙な感覚ですからね。例えば友達などでも妙に馬の合う人と違う人、気の休まる場所と違う場所、心の癒される音楽と違う音楽等々、感性を磨くことで、相手の気持ちや生き物の心、生活する環境の微妙なメッセージを受け止めることができれば、心も体も健康に過ごせるのではないでしょうか。

 私達は自然の恵みの中で生かされています。現代社会のようにテレビやコンピューター等の文明の利器の発する強烈な電磁波を浴びて生きていますと、身体と心という最も身近な自然の流れが判らなくなってしまうようです。脳に変調を来さない中に自然を畏れ敬うことをもう一度学びなおしてみましょう。そうしたら祭囃子の中から崇高なファルセットヴォイスが聞こえてくるかも知れませんよ。


平成17年8月1日〜15日

 お盆の月となり、今年は予報通り暑さも厳しくなりそうな気配です。

 先日住職と私とで青森県のむつ市にあります恐山に参拝して参りました。恐山参拝は住職の長年の夢であり、これまでに何度も計画しながらも、その都度縁に恵まれず実現しなかったものでした。今回は無事に参詣させて頂くことができました。当日は曇りで少し小雨交じりで暑くもなく、もうすぐ80歳になる住職には恵みの気温でした。テレビでは入り口にある赤い太鼓橋が印象的ですが、道路沿いに意図的に作られただけのもので、凡夫の考えるものはこんなものかと興ざめのするものでした。しかし硫黄の臭いの立ちこめる中、大門を入り、近年整備された本堂やその他の施設の中を奧に進むと、左手に奇妙な形の岩がごろごろと姿を現し、地下のマントルから沸き上がる黄色い煙の立ちこめる姿は、確かに賽の河原に相応しい不気味さが漂っていました。烏が何羽も低空で飛び交う様子は、さながら地獄への道を連想させるのに十分でした。

 何者かを感じ取れるかと気を巡らせて見ましたが、その時はそれほどの感覚はありませんでした。只ひたすらに様々な霊に心より供養を続けて、そこここに立つ地蔵菩薩像に真言を唱え、風車のカラカラという声に送られてその場を後にして参りました。

 この恐山は慈覚大師円仁が開かれた霊場ですので、てっきり天台宗かと思っておりましたら、実はむつ市内にある円通寺の境内地で現在は曹洞宗ということを知りました。この円通寺を含め観音霊場巡りの巡礼地となっていますので、幾つかのお寺を巡礼し、観音様を参拝させて頂いて参りました。思いがけず出会う珍しいほとけ達にご縁を頂いた有り難さを感じてしまいました。

 二日目はカンカン照りの暑い日でしたのでお寺参りは一つにして早々に帰って参りました。帰ってきて気づくと、私の身体についていた何者かがスッと取れているような不思議な感じがし、それが今も続いております。身体が楽になっているのは参拝の御利益なのでしょうか。 こういう感覚があると心を込めた霊場の参拝や巡礼をもっとしたいと感じます。世界中で多くの巡礼が行われているのは、人間のこうした実体験と確信があるからなのでしょう。

 お盆には多くの先祖達の霊と出会えるのだよと伝えられてきたのは、凡夫には不思議な体験に見える大切な力との出会いの賜なのでしょう。お盆には私も多くの生きとし生けるものの生命に心より供養して参ろうと思います。


平成17年8月16日〜31日

 光明寺での今年のお盆の行事がようやく終わりました。夜中に土砂降りの雨。あしたの迎え盆は大丈夫かなと思っていましたら、やや小雨交じりながら天候も回復し、灼熱の太陽に叩かれることもなく、皆さんがご先祖様をお迎えすることができました。お棚経に回るときも雨はなく、大変助かりました。お施餓鬼でも、年々皆さんが熱心に私の法話を聞いて下さるようになり、有り難いことだと感じております。

 お棚経に歩いておりますと、この方がこの場所で、このようなお部屋で過ごされているのだなと感じられます。最近は葬儀も設備の整った会館で行いますし、皆さん黒の喪服姿ですので、全く印象が違っています。普段の姿に接するとやはり人間は天地の恵みを受け、国家や家に守られ、そして人間味豊に生きる生き物なのだなとつくづく感じさせられてしまいます。ご家族の方とお会いしていると、なくなられた方の姿が不思議に生き生きと感じられるのは、皆さんが故人やご先祖を大切にお迎えしているからだと思います。一軒一軒炎天下の中を回るのは体力的に大変なはずなのですが、このように嬉しいひとときでもあります。

 今年はお施餓鬼の法話で先祖供養の大切さが実体験として判ると言うことをお話ししました。それは命の元であり、私を生んでくれた父と母がいて、その父と母にもそれぞれ父と母がいる。こうして十世代、つまりおよそ250年から300年遡ると1024人必ずいる訳です。合計すると2046人いる訳です。その中の誰一人欠けても私はこうして生きていないのです。さらに何万年も遡ると人類は皆一家と言うことが当たり前のことだと判ります。現在の研究でもそのような研究成果が認められるようになっています。

 私達は肉体を持って生きています。肉体は父と母を通して大自然から頂いたものですから、いずれは患い、やがてはまた大自然にお返ししなければなりません。でもこの命は何世代も前から受け継がれてきたように、次の世代にそしてまた次の世代にと受け継いで欲しいと切望するのです。子へ孫へ。直接の子孫のないものでも、魂を伝えようとするのです。やがては人類以外の生物に受け継がれるのかも知れません。

 ところが頭でっかちになった現代人は、それを古い慣習として進化させるのではなく拒否してしまい、生きようとする本当の意味を見逃しているようです。命を見ずに肉体というものにしか興味を持たなくなる。だから「なぜ人を殺してはいけないの」という質問が出るようになる。粗末に命を扱うようになり、子孫を残そうとする魂の叫びを忘れ、即物的な肉体の享楽に走るようになる。心はやせ細り、子孫は滅び、国家は消滅してゆくのは、すべて先祖の恩恵を忘れた結果だと言うことを実感する場所をなくしてしまったからです。

 なぜ先祖を供養するのか意味を考えるのではなく、ひたすらに供養を続けてご覧なさい。多くの先祖達の心の声が実際に響いてきますよ。


平成17年9月1日〜15日

 まだ暑い日があるとはいえ、朝晩には涼やかさが感じられ、すでに秋の気配が漂ってきています。あちらこちらの寺院のお施餓鬼の法要もようやく8月末には終わり、私も少しホッとしています。9月になると早速に大学の授業なども始まり頭を切り換えるのに一苦労する時期でもあります。

 慌ただしい中でもこの度は比叡山の千日回峰行を満行された藤波源信阿闍梨にお会いしようと計画をしております。

 先日藤波阿闍梨の師匠である酒井雄哉阿闍梨が「徹子の部屋」というテレビ番組に出演していました。その中で「常行三昧」で90日間お堂の中を只ひたすら真言を唱えて歩き続ける修行を行っているとき、次第にお堂の柱が覆い被さってきたり天まで突き抜けるようになってきたとその時の状況をおはなしされていました。そして目の前が海になって切り立った岸壁に波がバサーンバサーンと打ち寄せており、波が引くとそこに細い桟橋のようなものが足下に現れてきて、しかもそこを通らないと先に行けないと言う状況が目の前に見えたのだそうです。でも酒井阿闍梨は恐ろしくて足がすくんで先に進めなかったそうです。その時に向こう岸から母親の声が聞こえて、只ひたすらに右の足の先に左の足を添え、何も考えずに進めと言われ、そのお導きで無事にその海を渡ることができたと言われました。そして、さらにそのことを師匠に言うと、経典にそれと同じようなことが出ていると言われて、それまで経典などあまり見もしなかった酒井阿闍梨が「これは本当のことが書いてある」と思い、経典を大切に扱うようになったと話しておられました。

 実は私も多少の修行を経験する中、どうも勉強している仏教の経典は様々な修行体験を持つ行者の実際の経験をその通り書き記しているので、修行経験のない人が文章だけを読むと、あたかも夢物語のように感じるだろうと思いました。しかし経典の内容は大変深い実体験の世界を描いており、しかもそこから見通せる真実の世界への大切な示唆が込められているのだなと思い至ったことがあるので、今回の酒井阿闍梨のお話が大変よく分かりました。そうした内容を酒井阿闍梨のお弟子さんで千日回峰行を今回満行された藤波阿闍梨に伺ってみたいと思って胸を膨らませているところです。ご報告はいずれこの法話でお話しできる機会もあると思います。

 私達は学校では知識を学びます。でも知識はすぐにも忘れてしまうことが多いのではないでしょうか。日々の修行。何も大それたことではありません。毎日お仏壇にお祈りをする姿をお子様方が見ている。お墓参りにお子さんを一緒に連れてゆく。そうしたことで、日々皆さんの命を生み育ててくれた多くの先祖達、その命の元を知ることができるのです。智恵は学校だけでは身に付きません。家庭で、家族で、日々受け継がれるものです。


平成17年9月16日〜30日

 この半月には本当に様々なことがありました。修復に出しておりました光明寺本堂の本尊様も見事にその輝きを増して帰って参りましたし、藤波阿闍梨にもお会いできましたし、また素晴らしい仏師とも出会うことができました。悲しい知らせも混じる中で、3度も東京と関西とを往復しました。

 今回は藤波阿闍梨とのことをお話ししましょう。常人ではとても無理と言われる千日回峰行を満行された藤波阿闍梨は初めに護摩供養をされ、そのあと私や筑波大学の宗教学の先生、今回の藤波阿闍梨の修行の様子を克明に映像に記録した川崎映像の方々を交えて色々とお話をすることができました。阿闍梨は特別なことをした風もなく、「毎日決められたことを淡々と進めるだけですし、台風などの悪天候も、不思議と山の上では激しくないのですよ」と語られていました。また「別に特別なことが見えるようになる訳でもないし、その場その場で見えるものが見えるだけですし」とおっしゃるのですが、実はこうしたことは心から修行に専念している人でないといえないことだと私は阿闍梨さんに申し上げました。私はほんの少ししか修行はしていませんし、経典を学問として扱っていたにすぎません。するとどうしても理解に苦しむ部分が多くあるのです。ところが、私の行った乏しい修行の経験でさえも、体験してみるとなるほどと分かるものが実に多くあるのです。その幾つかを挙げれば、どうも修行は単純な方が効果は高いということと、目の前にあるがままのことをあるがままに、しかも気負うことなく素直に受け止めることが実は最も日常の私たちに欠けているということ、そしてそのせいで人は外見や肩書きに縛られ差別するようになり、自分らしさより世間での格好良さを求めるうちに、自分の本来の心を見失い、目の前の大切な人の心を見逃してしまっていることなどです。大切なのは頭ではこれらのことをよく知っていながら、できないということ、体得していないということでしょう。

 人の一生、おしなべて見てみると、命を頂いているという尊さの他は、おまけのようなものです。今あなたがとてもよい調子であるなら、気を付けましょう。命のあることに感謝もできず、大切なことを見落としがちな時ですから。もしとても辛い時を過ごしているなら、御仏が何かをあなたに気づかせようとしていらっしゃる本当に大切な時であることを静かに心に刻んでみましょう。御仏の温もりが感じられると思います。


平成17年10月1日〜15日

 ようやく涼しい季節の到来を感じるようになってきました。暑さ寒さも彼岸までと言われながら、地球温暖化の影響でしょうか、彼岸を過ぎても暑いと感じる日がございます。私達人間は欲望に引きずられて日常を過ごしてしまいます。自分たちの都合だけで森林を伐採してしまいます。過疎地域を活性化させるよりも、熊や猿やイノシシの生活する野や山を彼らに返すのが、やがては人間が人間らしく生きることに繋がるように思います。この地球に暮らす生命と棲み分けをしてこそ、共に生きることができると言うことさえ忘れた人間には、心のバランスを保つことは大変難しいはずなのです。

 最近本当にこれまで考えられなかったような事件が起こりすぎます。「殺すのは誰でもよかった」という殺人犯のメッセージは、増えすぎたネズミが自分から集団を組んで川に身投げして行く姿を物語っているようです。

 「暴力はいけない」という意味を履き違え、学校の先生が生徒をぶっただけで問題になってしまう不自然な社会は、自然環境の中で生きる多くの動物の営みを忘れて、次の世代を育てる手段を奪ってしまったようです。昔「キタキツネ物語」という映画がありましたね。子別れの儀式はかわいそうで見ていられませんね。でも雄大な自然に抱かれて生きる大切な儀式でしたね。

 仏教説話の中にこんな話があります。ある時野原でカエルがヘビに食われようとしていました。カエルは竦んでしまっています。それを見てある人がヘビを追い払ってカエルを助けてあげました。命を助けて良いことをしたと思っていると、夜中にトントンと戸を叩く人がいます。明けてみると女の人が悲しそうに立っていました。「何の用ですか」と尋ねると、「私は昼間あなたに追い払われたヘビです。ここ何日も食べ物がなく、ようやくカエルを見つけ、やっと生き延びられると思いました。子供にも食べさせてあげられると思いました。それなのに貴方によって私の子はさっき飢え死にしてしまいました。私も長くはないでしょう。それを伝えたくてこうして参りました。」そういうとその女性は消えてしまいました。

 今貴方が生きていると言うことは、誰かの命を頂いて生かされている訳です。本当に多くの命が、そして大自然が貴方の命を守っているからですよ。すべての命を大切にせよ、そして懸命に生きよとおっしゃる御仏の御心と感じ取って合掌できたら、きっと御仏はにっこりと微笑んで下さることでしょう。


平成17年10月16日〜30日

 光明寺の歴代住職の過去帳の記録によりますと4代前の住職が新潟県西蒲原郡の粟生津村の出身であるとあり、ひょんな事からどのようなところかと調べてみることになりました。ようやく現在のその場所がわかり、それではということで住職と私で先日その足跡を尋ねて参りました。現在の吉田町粟生津の地に立ってみますと、実りの穂をたたえた田園風景の中に弥彦神社を頂く弥彦山と国上寺(こくじょうじ)を頂く国上山(くがみさん)の二つの美しい山を見ることができました。弥彦神社は多くの参拝者を迎える賑やかな町を造っていますので、皆様の中にもご存じの方がいらっしゃるかと思います。

 一方の国上寺は良寛さんが20年間お住まいになられた五合庵のあるお寺でございます。良寛さんもこの地方の出身で、豪商の息子でしたが、商売には向かず、出家をして岡山の禅寺で修行を積んだ後、この地に帰り、亡くなるまでの20年間を国上山の一角に四畳半ほどしかない方丈の庵で過ごされました。毎日人家もまばらな村に托鉢に出かけて食を得ていたようです。今でも山里には人家とて疎らですので、あまりよい食事にはありつけなかったのでしょう。しょっちゅうお腹を壊していたということです。村におりては子供達や村の人達に楽しげに接したことから子供好きの良寛さんのイメージができあがったのでしょう。

 五合とは米や粟などの穀物のことで、一日五合頂いて暮らすという事から名付けたようです。先ほどの「粟生津」という里の名が粟を生むところと書くわけですから、いずれにしても粗末な食事だったことでしょう。でもこの地域の風景を目にすると、黙々と働きながらも心豊かに暮らしたのかなと思います。

 江戸時代の直前はこの地域は春日山城に本拠を置き、長岡や栃尾を拠点とした長尾影虎こと上杉謙信の支配した地域ですので、その影響下にもあったでしょう。長尾氏は長尾足利家に繋がりますので、室町幕府の足利尊氏を輩出した家柄です。これはさらに室町幕府の関東公方の系統になっており、光明寺の隣の甘棠院というお寺にも縁があります。光明寺が末寺であった万祥寺を関東公方の隠居所に分け与えて寺格としたのが甘棠院の始まりですので、その遠い祖先を偲んで春日山城にも足をのばし、長尾家の菩提寺である林泉寺にもお参りして参りました。

 人の縁とは不思議なものです。本当に様々なことで人は繋がっているものです。一期一会のように今日お会いした方は今日のこの一瞬しかお会いしないかも知れませんが、私の命の大切なお方である。そのお方に巡り会わせて頂いたことに感謝し、心からもてなすという心は、私も永い命の繋がりの一瞬を生かして頂いているという感謝の気持ちの表れなのでしょう。

 お電話を頂いた貴方も、きっとどこかで私の命を助けてくださっているお一人です。本当にお電話有り難うございました。


平成17年11月1日〜15日

 夜のとばりにつつまれる頃、東の空を見上げると赤い明星が見えてきます。今年はまた火星の大接近する年だそうで、悠久のいにしえから続く宇宙自然の営みの雄大さを感じ取っています。こんなにも大きな大自然の恵みの中で生かして頂いていながら、人間は日々の生活に、そして人と人との心の行き違いの中で右往左往しているのだなと思うと、改めておかしさがこみ上げて参ります。

 なぜと思うように若くて頑丈な人が命を落とされ、あるいは紙一重のところで命拾いをする人がいます。車を運転していると、ここのところ、あちらこちらで事故に遭っている車をよく見かけます。ひやりとすることも経験します。無謀な運転でも事故に遭わないことは確かにあります。でも本当に一瞬の間なのです。

 今私に命があるのは、多くの先祖達がその命を伝えてくれたからです。宇宙自然の恵みを受けて植物や動物の命を育んで頂いているからこそ、私はそれを食べ、命を全うすることができている訳です。その一つ一つに心を留めることができるようになると、自然に感謝する気持ちが沸いてきます。その心をどのように表現したらよいのでしょうか。

 私達の祖先達はその心を供養するという行為で満たし、そうすることで命を豊に繋げて行けると言うことを学んできました。食べ物を粗末にすると罰が当たると教え、一円を笑うものは一円に泣くと教えてきました。日本人は木を乱暴に切り倒したりすると、木が泣いていると感じてきました。教科書など書物を床に置いたり粗末にすると頭が悪くなる、字が読めなくなると教えてきました。その一つ一つが先祖からの贈り物でした。そしてその財産を可愛い子供達に、子孫に伝えてきてくださったのです。これは迷信でも何でもない、本当に大切な命の法則なのです。

 その法則を家庭で伝えない風潮が広まって来てしまいました。学校では教えてくれない命の教育です。幸い寺院に生活しておりますと色々なご家庭を目にすることができます。よくお墓参りをされているご家族には命を伝えてくれた祖父母の話題も語り継がれているのでしょう。三世代同居していたり、祖父母と頻繁に行き来しておられる環境がいかに大切か、伝わってきます。受験勉強をしてより多くの知識を習得し、技術を身につけ、高い学力を得ることは人格形成にとても大切なことです。それは様々な大学で教えてみて感じることです。でもそれを本当に生かすことができるのは、こうした命の教育があってこそだと思います。

 いま貴方は「私は生かされている」と感じられますか。もし感じられるのなら、それは貴方が生きていることを沢山の命が祝福していることに気づいていると言うことです。


平成17年11月16日〜30日

 晩秋の日差しに照り映える山波の中へと紅葉狩りに出かける人々の姿を多く見かけるようになりました。つくばエクスプレスの「つくば」駅をおりて、大学循環バスを待つバス停のすぐ先に、「筑波山」行きの臨時直行バスの発着場ができています。これまではバスか自家用車でしか来られなかったつくばの街並みも様変わりです。

  陸の孤島のような感じのしていた街。どことなく閉じこもりがちであった学生達も、次第に東京はじめ彼方此方に足を伸ばすことができ、心の広がりを持てるようになったのではないかと期待しています。未来志向の高速鉄道に乗っているにもかかわらず、「日本にもまだこんなに緑に囲まれた豊かな場所があったんだな」と思い、開発が進む経済効果に対する期待感と、自然がまた失われる悲しさが同居した複雑な気持ちです。
 「つくばエクスプレスができたから、一度乗ってみたくて」とリュックを背負ってバスを待つ熟年の方々。一方でこれまで唯一の公共輸送手段だった東京駅とを結ぶバスがガラガラの状態で出発して行く。この鉄道の効果はすごいものです。
 私の通勤は車では1時間10分から40分、鉄道を使うと1時間50分から2時間くらいの道のりです。混雑した北千住乗り換えルートより、空いた野田線で行く方が面白い。車通勤では諦めていた推理小説を読んでいて駅を乗り過ごしそうになることもあります。電車では仮眠できるので前日遅くまで授業の準備や研究の仕事をすることも可能です。すると30年前に人工的に造られた「筑波山を望む自然豊かな?街並み」が、本当に有り難く感じられてきます。

 過疎地などの姿を見ていると、クマさんやシカさんに棲息地をお返し申し上げた上で、人間の住まうところには、広くて豊かな土地を分けて頂きたいという棲み分けの精神が、共生の出発点ではないかと思います。そうした気持ちが護られることを期待しつつ、いつも「流山おおたかの森」の乗り換えホームから周辺に広がる森を眺めております。久喜という小さな街並みも、もっと広い視野で街作りができれば、豊かな自然環境の中で心の癒しと生活の場と、仕事の可能性とを広められるのでしょう。そんなとき、この世で最も堅い壁は心の壁だと言うことをつくづく思い知らされてしまいます。「柏の葉キャンパス」や「みらい平」、「みどりの」という駅の名前の中に「心の豊かさを護る」という決意を表した私達が、本当にクマさんやシカさんと共存して行けるのか、それが「平成版プロジェクトX」かも知れません。



平成17年12月1日〜15日

 京都に住んでいる私の教え子から、真っ赤に染まった紅葉の映像が届けられました。今年の京都の紅葉は見事に色づいているようです。私も大阪の大学にいた頃、毎年京都の紅葉を見る機会がありましたが、いつも鮮やかに色づいているという訳ではありませんでしたので、今年は当たり年なのでしょう。

 その方のご先祖のお墓は京都にあるそうですが、明治時代にキリスト教に改宗したために、先祖供養をしないまま過ごしてきたそうです。その方自身は仏教に信仰を寄せており、仏教を学び、古の人々が京都の寺々に残してくださった、生きた仏教に触れる中で、仏教が生命の中心である心を修める宗教であることの意味を深く理解するようになってきたようです。親から子へ、子から孫へと延々と繋がる生命の流れの中で、私達は父と母を縁としてこの生命、つまり肉体と精神とを授けて頂いたのです。そのいのちの元である先祖を供養することの意味を肌で感じ取り、このほど百年ぶりに多くの先祖達の供養を復活させることにしたそうです。

 日本のキリスト教教会は確かに先祖供養などは低俗な迷信だと教え、日本の信仰を祖先崇拝という低級なものだと教えているところがあります。牧師になった友人が、彼の信者さんは墓参りに連れて行っても手も合わせることはないから、他の信仰の人から文句を言われてしまうと言っていたことを思い出します。私がドイツにいた頃、ドイツのプロテスタントの牧師さんなどは、私と共通の知人のお墓に一緒にお参りし、写真などを見ながら、故人を忍んだりしましたし、カトリックの神父さんも可愛がっていた犬をなくした時に、彼の犬も天国に行けるかなと仏教徒の私に、しみじみと語りかけていましたから、人間の心は宗派の教義とは別に、その生命の営みを敏感に捉えるものだと思います。

 ネアンデルタール人が供養をしたという考古学的証拠があるように、私達人類も、代々、供養の誠を尽くすことの大切さを肌で感じ取り、世界のすべての子孫に伝えてくださったのです。心の眼を澄ませてみると、私の細胞の隅々まで行き渡っている、先祖達の姿が見えてくることなど、不思議なことではないのです。聞こえるはずがないと信じている不思議な声が聞こえてビックリする必要もないのです。そしてまた欲望に汚された修羅の道を歩んでいると、生命は息もできず、マイナスのエネルギーがたまり、魑魅魍魎の姿として目の前に現れてくるのでさえ、しごく当然のことでしょう。

 あなたもご先祖様をはじめ、生きとし生けるものが、よりよくいきられますようにと祈りましょう。供養を受けた生命達の喜びの姿が、いつか、ありありと感じられるようになってくると思いますよ。


平成17年12月16日〜31日

 早いものですね。今年の法話も最後の回になりました。新年にはどのような心で向かえばよいかを考えて、今年の総決算をする時です。

 ここのところニュースを見るたびに、小学生が連れ去られ、殺害されたり、事もあろうに塾の講師が小学生の生徒を計画的に刺し殺すなど、次から次へと同様な事件が起こり、今の日本社会の異常さに背筋が寒くなる思いでいます。私もゲームソフトの中にある残虐なものや、性犯罪を呼び起こすようなテレビやビデオがその原因ではないかと考えていましたが、根はもっと深いように思います。

  仏教では身心一如と申します。身体と心は一体で、不可分なもの。心と体がバラバラになった時、人間は不安定になり、何をしでかすか判らないというのです。人間は社会的な動物です。家庭という最も基本になる社会の中で、つまり親兄弟とのふれあいの中で、喧嘩もし、慰め合いもし、喜びや悲しみを共有することを親から子へ、子から孫へと受け継いできました。そしてその家庭の隣近所両隣の地域社会で、かつてはどこが自分の家か判らないくらいに、行き来をし、他人との関わり方を学んできました。そうした社会では、孤独という心のバランスを破壊する邪気を、みんなで振り払っていました。勿論他人との煩わしさ、因習にとらわれるということもありました。が、それをすべて悪いものと教育した結果、社会の最も基本的な心のあり方を学ぶ場所を、私達は失ってしまったようです。

  先日テレビで象の群れが雨期と乾期の季節の移り変わりの中で、集団で水を求めて移動する様子を報道しておりました。親象は子供の象たちを外敵から守るように気を配り、見事に連絡を取り合って、一匹の落伍者もなく、目的地までたどり着く様子を見ると、象の社会性は今の日本人以上に良く教育が行き届いているなと感心してしまいました。落伍しそうになる象を見逃さないし、例え集団全体が遅れそうになり、全員が危険を冒すことになっても、その象のところにわざわざ戻り、元気を取り戻すように皆で応援して、集団に復帰させるのです。食べ物も何が良くて、何が悪いのかを、子供に身を以て教えているのです。

 私達人間は食の大切さも忘れてしまいました。手軽で、口当たりが良ければ、電子レンジでチンして済ませてしまう。私達の脳細胞は極めて多くのエネルギーを消費しています。そのエネルギーの元は、サプリメントではなく、いっぱいの太陽と自然の恵みを受けた生命でなければ、正常には発達しないように思います。あまりにも切れやすい人が多すぎます。

 家庭という社会性の基本と、食事という生命の基本と、そのどちらも壊してしまっているのではないでしょうか。簡単にお父さんに単身赴任を言い渡す企業のトップの皆さん、コンビニ弁当で済ませようとするお母さん、もう一度考え直してみませんか。新しい年には、みんなが家族そろって家庭料理を食べていたいですよね。