真言宗豊山派
瑠璃山 光明寺

法 話



平成16年1月1日〜15日
(護摩について)

 年も改まり、何か心もすがすがしい気分になります。今年こそはと身を引き締め、心豊かにと決意を新たにするのに最も適した時です。

 光明寺では元旦の朝に、悪業を払いのけ、皆様に福徳を招く為に薬師如来を本尊として初護摩を焚いております。「護摩」と言いますのはインドの言葉「ホーマ(homa)」を漢字に移したものです。漢字の「護」は「ホ」に近い音ですが、本来の日本語の発音になかったので「ご」と発音するので「ゴマ」と言っております。「ホーマ」は「(火の中に)注ぐ、投げ入れる」を意味する動詞「フ(hu)」に由来します。もとはインドのバラモン教の火の神アグニを供養して、魔を除き、福を求めるために行われた儀式で、これを密教が採り入れたものです。

 炉の中で火を焚き、供物を焼いて本尊を供養するのですが、その火は煩悩など悪業を焼き尽くす智慧を象徴するものです。この護摩供養の火とその煙にあたって御仏の智慧の力を授かり、すべての災いを払いのける訳ですから、皆様も必ず福徳を招くことができるのです。
煩悩もまた私たちの肉体と心を焼き苦しめる炎に譬えられます。この煩悩の火はパックリと開いた地獄の口です。ですからこれに供物を投げ入れて、その口を満足させ、御仏の智慧の火で煩悩を焼き尽くし、ふらふらと迷ってしまう弱々しい私の心を力づけ、福徳を授けて地獄などの災いから救うために行うのがこの「護摩供養」です。

 残念ながら私たちは煩悩という悪魔のささやきに心が迷い、少しでもよくないことが起こると、不安になったり、「やっぱり私はダメなんだ」と心を勇気づける努力を捨ててしまおうとします。「こんなひどい目に遭うのはあの人が悪いのだ」と更に煩悩を身にまとおうとします。 あるいは少しでもよいことが起こると、「そんな加持祈祷なんて関係ないさ。私の力だけでやって行けるさ」と傲慢になります。いずれの場合も大自然の大きな流れの中で生きている大切な自分の命の姿を見失ってしまいます。

 一瞬一瞬尊い命を活かしているのが私たちの日常生活です。今年はどんなことが起こるのでしょうか。 気に染まないことが起こったときは、「私に人生の勉強をしろと云うことだな」と思ってはどうでしょう。 順調なときは「心を許して大きな流れから、外れないように気をつけよう」と思ってはどうでしょうか。 貴方の流れている流れは、いつも貴方を活かそうとする流れです。この一年も自分の流れを見失わないようにしましょう。


平成16年1月16日〜31日
(ドラナワについて)

 正月の五日の日には光明寺の伝統行事である「ドラナワない」が行われました。ここ数年メンバーも高齢化して後継者をと心配しておりましたが、今年は次世代を任せられそうな方が数人加わって下さり、少し活気を取り戻してきた感じが致しました。「ドラナワない」は江戸時代から続くもので、その起源ははっきりしませんが、久喜に米津藩が配属になり、様々な祭りや行事を奨励し久喜の街の活性化に尽力された事に端を発していると考えられます。

 光明寺ではご本尊の薬師如来の功徳を頂き、皆さんの無病息災を祈願するために、現在の薬師堂前にあった二本の大きなケヤキの木に「しめ縄」を渡したのが始まりと考えられます。「しめ縄」と言うと神事に思われますが、当時は神仏混淆でしたし、場を浄め悪霊などの侵入を防ぐ厄除けの意味の結界ですので仏教行事としてもごく自然のものです。薬師堂にお参りしてこの縄をご覧になると判ると思いますが、「しめ縄」に下がっている「紙しで(垂)」の代わりに百八の煩悩の数に当たる百八足の草鞋(わらじ)が下げられています。この草鞋を履いて薬師如来の浄土である瑠璃光浄土にわたり、健康を授けていただき、そして災いを除いていただく事を祈願するわけです。この縄をなうときに大勢の僧侶が息を合わせるために銅鑼を鳴らしながら行ったので「ドラナワ」と言われるのだろうと考えられています。ちなみに何故元旦ではなく正月の五日なのかと思うのですが、旧暦で考えますと、元旦は必ず先勝、五日は必ず大安となっています。ですから一年の最初の大安が正月五日であったのでこの日を選んだのではないかと思われます。

 三百年以上続く伝統行事です。伝統を繋ぐと言うことは、多くの人の心が合わさり、縄の様に一日一日、一年一年と心の絆を編んで行くことです。それは家族の絆にも繋がります。多くの家庭の絆がしっかりと結ばれて行けば社会の絆も結ばれてくることになります。 また私たち自身の命の絆も遠い祖先からの絆を一日一日、一年一年と編み上げている結果なのです。ですから与えられている命を大切に、前向きに、チャレンジ精神を持って、編み上げていれば、自ずから御仏はその姿を護り育てて下さるのは、経験しておられる方は「なるほどその通りだ」とお感じになることでしょう。

 皆様も光明寺の薬師堂にお参りの際には「ドラナワ」をご覧になり、薬師如来に無病息災をお念じ下さい。今年一年、皆様が無事にすごせますようにお念じ申し上げます。


平成16年2月1日〜15日
(涅槃会について)

 2月の15日はお釈迦様が亡くなられた日と伝わっています。お釈迦様の場合は亡くなったとは言わずに完全な涅槃に入られたと表現します。
「涅槃」と言う言葉はインド語の「ニルヴァーナ」nirvanaの音を漢字に移したものです。インドの言葉の意味を辿りますと「ロウソクなどの炎を吹き消した状態」ということになります。インドは大変暑い国です。50度にもなろうという、どうにもやりきれない夏の暑さに苦しむ思いと同じように、この世の人生のどうにもやりきれない苦しみの元の煩悩を炎に譬えるわけです。「恋の炎に身を焦がす」と表現するように、欲しいものを手に入れたいと思いながら手に入らない苛立ちや、嫉妬心に身もだえしたり、友達が出世などしたのを素直に喜べず嫉妬の心に悩まされるといった、どうしようもない煩悩を「ふっと断ち切ることができた時に味わうことのできる、何とも言えない涼やかなきもち」を「涅槃」と言うわけです。

 お釈迦様は29歳で出家し、修行を重ねて35歳の時悟りを開いてブッダになったのですから、その時に「涅槃に入った」と言うのですが、そうはいっても肉体がある間は切り傷を作れば痛いと感じるわけですし、年を取れば身体がしんどいとも感じるわけです。ただ我々凡夫と違うのはそれをイヤだとか落ち込んだりすることがないのです。それは勿論とんでもなくすごいことなのです。でも肉体も無い状態になればこうした感覚も必要なくなると言うので、「完全な涅槃に入った」と言うのです。この日が2月15日に当たります。仏教徒にとっては慕うお釈迦様の肉声を聞くことができなくなった日ですから、忘れることのできない日です。

日本でも西行法師がお釈迦様を慕い、極楽浄土に往生することを願って「ねがわくは 花の下にて 春死なん。その如月の 望月の頃」と詠んでおります。如月は2月のことですし、当時は太陰暦ですから望月は満月の日、つまり15日を意味します。太陰暦の2月ですから3月から4月の花の咲く頃ですので、その情景がよく出ています。

 私たちの慕う人が亡くなると言うことは、言葉では表されないほど切ない思いにかられ、一目でも会いたい、一言でもその言葉が聴きたいと思うのです。 そこで仏教寺院では2月15日に涅槃会という行事を行っています。ちょうどご法事を行うように。亡き人に供養の心を捧げ、今生きていることを心から感謝申し上げることに致しております。


平成16年2月16日〜29日

 立春を過ぎ、春一番の風も吹いて参りました。寒い日々の中に少しずつ春の気配が顔を覗かせ、木蓮の花や桃の花の便りが待ち遠しい頃です。週に何度か筑波に向かって車を走らせていますと、冬の空気のしまった早朝には目の前に筑波山の姿がくっきりと浮かんでいることがあります。 何となく嬉しい気持ちになります。 そんなある日、本当に快晴の朝、何気なくバックミラーに目を移しますと、雪化粧をした富士山の姿が映っていました。思わず振り返ってしまいました。 境町の利根川沿いの道を走っておりますと左の方に筑波山が見え、その目を右の方へと移しますと、対岸の関宿城のすぐ後ろにくっきりと富士山の姿を目にすることができ、とても幸福な気分になりました。仏教徒ですから、御仏の加護を受けているように感じたと言った方が良いでしょう。

 普段は観ることができない風景の中を進んで行くのは本当に有り難い気持ちになります。 本当は富士山も筑波山もそこにあって見守っているのに、雲が懸かっていたり、もやが掛かっているために見えないのです。 見えないから無いものと思って生活していますし、その恩恵に感謝もしなくなるのが私たちの常のようです。

 私たちは多くのものの恩恵を受けて生きることができるわけです。太陽の恵みもそうですし、地上を満たしてくれている空気もそうです。日本という国家が存在することも日本人には有り難いことです。難民の方と接したときにつくづく思い知らされることです。 友人がいます。 そして家族がいます。 普段は何だかんだと言っては喧嘩をすることもあるでしょうが、よくその恩恵を見つめてみれば生活の基本であることが判ってきます。 そして何よりも私の命を直接に授けてくれた両親がこの上もなく有り難いものであることが実感されてきます。 普段は心にもやがかかって見えないとしても、必ず見守ってくれている深い愛情がそこにあります。

 仏の智慧というのは本当に不思議な力があります。でもそれは無いものを見えるようにするような力ではありません。当然見えるはずのものを見えるようにする力です。 我欲があると見えるはずのものが見えないようです。俗に言う欲目というやつです。岡目八目と言うように当事者でなく、欲目で観る必要がないと物事が本当によく見えます。 ですから当事者であっても、我欲を捨て去って、純粋な目で観ればよく見えるものだということを、お釈迦様や多くの修行者は体得し、私たちにその道を示されているのです。 見えるはずのものを素直に見えるように。

 私たちも常にすがすがしく澄んだ日の空気のような心を持ちたいものですね。


平成16年3月1日〜15日

 この季節になりますと受験生が神社や仏閣の絵馬に合格祈願をする姿を目にするようになります。試験場ではコトコトと鉛筆の音が響き、何ともいえない緊張が感じられます。 よく受験地獄といい、こんなものなくした方がよいという声もするのですが、こんな時でもないと幅広い知識を学ぶ機会は少ないだろうなと思います。 人間はどうもお尻に火がつかないとなかなか真剣に取り組もうとしないところがあるようです。好きなことだけで人生が過ごせるのなら兎も角、好むと好まざるとに関わらず様々な問題に突き当たるわけですから、受験もよい機会だったと我が身を振り返ると思われます。

 お寺に来られる様々な人たちの人生を見てみますと本当に千差万別です。何が幸せか分かりません。 ただ、人生の苦難にあったとき、「御仏がこの苦難を与えてくださったのは、私にそこから大切なものを学び、本当の心の平安を得させてくださるためのものだ」と思うことができた人には、本当にすばらしい人生を与えてくださっているなといつも実感させられるのです。 
受験にしろ、スポーツにしろ、商売にしろ、成功を目指すときに意欲を授かるように、降ってきた災難を、心落ち着けてよく観察し、自分のこれまでのエゴイズムをしっかりと見つめ、これを謙虚に受け止めて、前に前に進むうちに、道が自然に見えてくるものです。実に様々な出来事が御仏のお導きであると感じられるのは私だけではないと思います。 欲に絡まれた頭で考えた浅知恵は、一時の成功は生むかもしれませんが、本当の心の平安には結びつかないものです。

 人生本当に色々なことがあります。 何が幸せか分からないのですから、いま生きていること、そして我欲を捨てて祈ることができるのでしたら、これほど幸せなことはないと思います。
皆様の人生もきっと素晴らしいものですよ。気がついてくださることを、いつも御仏は願っておられますよ。


平成16年3月16日〜31日

 地球温暖化も進み、今年もすでに桜の開花が間近であると耳にすると、待ち遠しいような気もしますが、新入社員の花見の席取りの役目もなくなり、また入学式の風物詩も消えて行くようで、人間の浅知恵で巻き起こした環境の変化が思わぬ副産物をもたらしていると云った気分です。

 先日まだ冬と早春とのせめぎあう京都に行って来ました。様々な人生を抱えて皆様がお参りされる光明寺ですので、その光明寺の鬼門を塞ぎ、お参りをされる方々の魔よけの意味も含めて不動明王の像の制作を依頼するためです。京都は千年の都と云われます。それは風水、つまり気の流れを十分に研究し尽くした当時の人々が実に見事に計画した街だからだと云われています。江戸を造る際に徳川家康は京都に習って計画したから400年の都を保っているのだと思います。自然の流れを素直に受け止めることができると、人も家も街も滞ることなく命を全うできるようだと云うことを、心から感じます。

 私たちは「自分だけで生きていると傲慢になっている」とよく言われますが、なかなかそのことが実感できません。感謝しろと云われると反発を感じてしまいます。そして災難が起こった時になって初めて「これは大変だ」と慌てふためいてしまうようです。そうは云うものの実際に気の流れを体で感じられるようになるには、それなりの修養の時間が必要です。 そこで千年の風水に守られた京都を訪れ、仏像を制作する仏師にこうした心、魂の息吹が伝わるように話して参りました。こちらの心をくみ取った仏師も、「確かに京都の人もすでにそうした先人の知恵を忘れてしまっている。もう一度思い起こさなければ」としみじみと感じたようです。

 京都が鬼門を防ぐために比叡山をおいたように、光明寺でも御仏の力をお借りして鬼門を塞ぎ、私たちの命の障りを防いでいただくために、魂のこもった仏像を安置したいものと思っております。その願いが現実のものになるように念じ続けることにしています。 人生という道には避けようのない災いが潜んでいます。御仏の力が皆様に深く行き渡り、苦難災難が襲ってきたとしても、必ず解決することができる力を授けてくださるよう、日々心を込めて参ります。

 これから桜の花が咲き、新緑を迎える中、皆様の命の泉が滞りなく流れて行きますよう念じております。どうぞお心安らかにお過ごしください。


平成16年4月1日〜15日

 4月8日はお釈迦様の誕生日です。この日は「花祭り」といって、花御堂に安置したお釈迦様に甘茶をかけて祝う習慣があります。このような習慣もいまではあまり見かけなくなりました。
伝承では、お釈迦様がお生まれになった場所は現在のネパール国内になりますが、ルンビニーという園です。母親のマーヤー夫人が出産のために里帰りする途中で産気づき、立ち寄った園だと伝わっています。現在この場所は復興中ですが、数年前の発掘調査で、現在の摩耶堂のすぐ横の地下に元来の摩耶堂があることが分かり話題になりました。そこでここがルンビニーであることが改めて確認されたわけです。

 私もこの場所に行ってみましたが、菩提樹や、マーヤー夫人がお釈迦様を出産されるときにつかんでいたと伝わる無憂華の木などが生い茂る、本当に気持ちの良い森です。無憂華はインド名をアショーカといいますが、「ショーカ」が「憂い」の意味で、「アショーカ」はその反対の意味なので「憂いのない花」ということで「無憂華」と漢訳されたわけです。きっとお釈迦様を出産するわけですから憂いなどあるはずはないということで、その木をこのように名付けたのでしょう。ちょうどピッパラの木下でお釈迦様が悟られたので、「悟りの木」という意味で「菩提樹」と名付けたのとよく似ています。

 菩提樹は酸素をふんだんに放出するそうで、修行者が瞑想するには最適な木であるように、この無憂華も出産に適した何かを発散しているのだと思います。本当に心身が清められ、感覚が澄み渡ってくるとそうしたことが自然と分かってくるのでしょう。私たち現代人はこうした自然の大切な営みを感じる能力を失ってしまっているようです。少しでも心身を清め、本来の能力を取り戻すことができれば、自分の体の声や、本当の自分の心の声も聞こえてくるのでしょう。

 今の時期は様々な生命が躍動を始める季節です。桜の花を愛でるだけでなく、様々な自然の喜びにあふれた声を聞けたら、なんとすばらしいことでしょう。


平成16年4月16日〜30日

 桜の花も散り、新緑の黄緑色が風景を染め始めるようになりました。新たに学校に入学したり、新社会人としての生活をスタートさせた方も多いことかと思います。

 先日ラジオを聴いておりますと最近は大学生の自殺者が多くなっていると云っておりました。その原因を色々と探ってゆくと、どうも両親に、そして特に母親に行き着くのだそうです。どうやら幼い頃からどのような勉強をしたらいいか だけでなく、生活のあらゆる面で至れり尽くせりの人生を送るうち、苦難に出会ったときにどう対処したらよいかという訓練を受ける機会を失ってしまっているようなのです。お勉強はとても良くでき、まじめなのに、就職がなかなか決まらないと云って人生を悲観して自殺するようなのです。全部が全部ではないとは思いますが、実際に大学で学生と接していると、経済的な事情などではなく、精神的に不安定になってしまって休学している学生が目立っているのです。私の子供の頃のように、その辺で遊び回るうちに色々な友達ができ、いたずらをしては近所の人に叱られたりする機会も減っているのでしょう。褒めてもらえないとそれだけで落ち込む人もいる始末ですから、けなされたり、ましてや咎められ叱られたりでもしようものなら、これぞ人生の終わりと閉じこもってしまうようです。私の乏しい人生経験から考えても、まず褒められることなど滅多になく、ほとんど注意され、けなされ、少し成果が上がると妬まれる毎日のように感じるわけですから、たまったものではないでしょうね。

 お経の中にも母親の愛情について書いてあります。もちろん母の愛情のように慈悲深いという表現も見られるのですが、「母親の愛情が深すぎるために、大きな執着となり子供が人間として成長できない。慎むべき最も重要なものの一つである」などと書かれているのですから、何千年たっても人間の世界は同じことを繰り返しているようです。キタキツネが成長した子供を巣から追い出す姿や、昔小学校の先生が麦踏みを例にとって、「踏まれても踏まれても立ち上がるからこそ、良い実りをもたらすのだよ」と諭してくれた言葉を思い起こします。

 新緑は長く厳しい冬の寒さを糧にして青々とし、夏の暑さを糧に秋には美しい紅葉を見せてくれるように、良いも悪いも与えられた苦難を素直に受け入れ、それにくじけることなく、「ああこれは御仏の与えてくれた大切なみ教えだ」と思えるなら、あなたの人生は豊で安らかなものになると思います。


平成16年5月1日〜15日

 ボタンの花やツツジの花など様々な花が咲き、私たちの目を楽しませてくれる季節になりました。赤や黄色やピンクの色づくこの季節には、本当に心がうきうきしてきますの。光明寺に昨年長谷寺のボタンを管長猊下が手ずから植樹してくださいましたものが、大きな花をつけて庭の景色を美しく飾っています。

 奈良県にある総本山の長谷寺は「花のみ寺」と呼ばれるように四季を通して花に囲まれる美しいお寺ですが、中でもこの時期に咲く数多くのボタンの花は有名です。ゴールデンウィーク中は全国から観光客が訪れ、普段静かな境内が、にぎやかになります。様々な説法会や法要も催され、一年の中でも最も活気意あふれるときです。

 花というのは実に多くの教えを私たちに施してくれます。花は「ねえ、私きれいでしょう。褒めなさいよ」とも云わないし、「気づきなさい」とも云いません。ただそこで与えられた命を精一杯生きているのです。無心に、ひたすらに自分の命を生き抜く人には感動することがありませんでしょうか。なんだか判らないけど、懸命に走っている人、懸命に子育てをしている人などを見ていると、自然に涙がこみ上げてきてしまうのは私だけではないと思います。 花は見る人の心によって姿を変えます。傲慢な心で見れば美しく咲いていると云うことしか目に入らないかも知れません。落ち込んでいれば可憐にしか見えないかも知れない。被害者であれば、踏みにじられ萎れた花に見えるかも知れない。あなたが見ている花の姿はあなたの心の姿でしょう。花はただそこに懸命に咲いているのです。

 私たちは地位や名誉やお金など様々な大切なものに支配されています。でもそれらは命の元がしっかりいてこそ意味のあるものです。つまりおまけのようなものです。 適度な運動が必要だと云われながら、なかなかできない私がいます。人と人とのコミュニケーションに失敗することもあります。 そんなときにふと路傍に咲く花に目をとめ、命の営みのすばらしさに感動する心があれば、ただひたすらに生き抜くことの意味が心に蘇ってくるはずです。 それが何者にも代え難いあなた自身です。 そのあなたをいつも無心に限りない愛情で包み込んでいるのが、分け隔てのない御仏の慈悲の心です。 じっと心を澄ませて、感じてみてください。あなたをそっと包んでいてくれる人のことを。


平成16年5月16日〜31日

 先日、上野の東京国立博物館で開催されている「弘法大師入唐1200年記念、空海と高野山」展に行って参りました。真言宗の礎を築かれた弘法大師が当時の中国、唐の国に留学してから1200年目という今年に、留学先から持ち帰った数々の仏具や経典、仏像を始め、高野山に根付いた密教の生み出した仏像など、貴重な宝物を間近で観ることのできる展覧会でした。高野山に住む僧侶でさえ観ることのできない物まで数々展示してあると云うこともあって、千載一遇のチャンスでした。

弘法大師は20年の予定で留学したのに、たった2年で帰ってきたのです。たった2年で何ができるのかと正直思うのですが、彼が持ち帰った物を見ていくと、その質の高さ、学識の飛び抜けて勝れていたこと、そして中国人にも書けないようなすばらしい中国語で文章を綴っているという事実を目の当たりにすると、本当にすごい人だったんだなと実感させられてしまいます。

 展覧会場で販売しているカタログがまた充実しており、これで2500円とはとても安いと2度びっくりという感じでした。でもカタログがどれほど充実していても、実際の仏像なりと相対してみないと、その仏像の発するゾクゾクとするほどの生命力は伝わらないものです。金剛峰寺西塔の中尊として安置されていた大日如来座像の前に歩み寄ったときに、ゾクゾクとし、涙さえこぼれてしまいそうな命を感じました。おそらく唐の様式を伝えるものと思われますが、これぞ本物の力と思いました。

 是非このように本物の命の力をいつも感じていたいものです。本物の命の力を感じることができれば、私たちの日々の生活がいかに本来あるべき命の流れと離れた狂ったものであるかも分かるものです。狂いに気づくことができないと、体調も狂い、心も変調を来すようです。

 密教は煩悩さえも生命の力に変えてしまう生の仏教ともいえるところがあります。なかなか頭では理解できませんが、こうした展覧会でその息吹を感じることができたのは、大変有り難いことです。一つ一つが御仏のお導きと思います。人生の荒波も、生命の力でしょう。深く御仏の力を信じ、頂くと、自然に荒波も私たちを無事運んでくれるのでしょう。どこへ? それは皆さんが一番よく知っていることです。自分の心の声が聞こえるなら。


平成16年6月1日〜6月15日

 6月の15日は真言宗の宗祖である弘法大師様の誕生日です。西暦で云えば774年に現在の四国香川県善通寺市でお生まれになりました。彼の一族は当時没落気味で、優秀であった彼に都で出世してもらい、一族に再び繁栄をもたらしてもらいたいという期待を掛けていました。京都の大学に入学した彼は、しかしながら儒教を基本とした官僚制度の中で出世したとしても、人間の本当の幸せには繋がらないと見定めて、大学をやめて、修行の道を選んだのです。さぞかし父母を始め一族の人達はガッカリしたことでしょうね。でも彼の決意が若干24歳の時に著した『三教指帰』に見事にしたためられています。

 私たちは、あるいは子供達、あるいは孫達は、何となく良い大学に入り、良い会社に入ったら、それだけで幸せになれると思ってしまってないでしょうか。現実には、テストの点数が高ければ価値の高い人間だと錯覚したり、一流企業で働いていれば自分は勝れていると自惚れていると、生きると云うことの大切な意味が見つけられなくなってしまうようです。
 生きるとは何か。それは単に幸福を求めることではないようです。幸も不幸も併せ持つのが人生です。どんなに頑張っても認めてもらえないこともあります。むしろその方が当たり前の日常と思います。褒められるために頑張るのでは、先が見えています。何よりも寂しい人生ではないでしょうか。

 弘法大師は自分の幸福のためになど眼中になく、ひたすらに心の満たされぬものを問いかけ、熊野の山中、四国の山々を修行して巡りました。その彼の目に飛び込んできたものは、この命を生き抜くための仏教の教えであったのです。それこそが密教の教えです。
あなたなら、あなたにしかない光を周りのみんなに施すことです。自分のもの、自分のものといっていると、その光は鈍く、暗くなっていきます。あなたの光は、きっと思いがけない行動の中にあります。

 毎日一生懸命トイレ掃除をしている時かも知れません。買い物をし、みんなの食事を作っているときかも知れません。子供の世話、両親の世話をしているときかも知れません。 あなたが「こんなつまらないこと」と馬鹿にしていることの中に、実は御仏の導きが隠させているものです。


平成16年6月16日〜6月30日

 少年や少女といえば昔は純真で、喧嘩もするが、だからこそ仲良くなるすべも育てていけた大切な年頃だったはずなのに、と思うような事件が相次いでいます。小学生が幼児をビルから突き落として殺してしまったり、インターネットでの言葉のやり取りから仲良しであったはずの友達をカッターナイフで殺害してしまうのは、いったいどこに原因があるのかと思ってしまいます。私たち日本人は特に第二次大戦後、戦前の修身教育や国家神道が戦争の原因だという頑なな考えから、本来必要な道徳教育や宗教の心をことさらに否定してきました。これがあるいはアメリカやソビエトの日本統治の隠れたシナリオであったとさえ云われるけれど、それを実行してきたのは私たち日本人であったことも認めなければならないでしょう。

 世界の宗教が戒めとして共通に持つものの中に、「殺すなかれ」「他人を傷つけてはならない」あるいは「人のものを盗んではいけない」などがあります。宗教に依らずとも道徳教育として社会生活をする上で人類共通の約束事です。道徳教育は元来祖父母から父母に、父母から子供へと家庭で受け継がれることを基礎とするのでなければ伝えられるものではありません。昔から三つ子の魂、百までもという諺があり、また犯罪心理学など多くの分野の研究でも裏付けられるように、生まれたときから日々、言葉でだけではなく行動で浸透させなければ身に付かないものです。ところが躾は学校に押しつけ、何かというと教師の責任にしてしまうところに、生きることの根本を忘れてしまっている私達の姿が浮かんできているように思います。
仏教では逃れられぬ苦しみとして、生きること、老いること、病に伏すこと、死ぬことの四つをあげます。後半の三つはピンと来るけれど、どうして生きているのにそれが苦しみかと云うことが判りにくい人もあるようです。生きることは海の中にいたかも知れない遠い祖先が様々な苦難の中から我々のために残してくださった遺産を受け継ぎ、さらに次に伝える営みです。大きな苦しみの源であるけれど、それを産みの苦しみとすれば喜びの源でもあります。

 私たちは目に見える枝葉のことばかりに眼を奪われています。丹精して花を咲かせるのではなく、美しく咲いた花をお花屋さんから買ってきて、枯れたら捨ててしまいます。「どうして人を殺してはいけないの」という問いかけは、「どうして成功した人生だけを望んではいけないの」、あるいは「私には努力する人生や、失敗の経験なんていらない」という声にも思えます。これは自分の命の元を忘れていることです。命の元である両親が如何に大切なものであるか、その両親を生み育ててくださった沢山の先祖達に供養するという意味が、どのようなものかを身体で分かっているかどうかに大きな分かれ目もあるようです。

 祖先崇拝は低級な思想で、これは捨て去るべきと云う考えを、いつしか植え付けられてはいないでしょうか。人間が立って歩くことができるのも、言葉を使うことができるのも、あるいはどんな些細なことに至っても多くの祖先の恩恵に与っていないものはありません。そのすべてを生み育てている大きな命を常に見つめてきているのが仏教という宗教です。生きることがその根本にあり、特定の神様や絶対者がいる訳ではありません。仏教が私たちに求めているのは、ただひたすらに自分自身の命を深く深く見つめ、その意味を十分に知ることなのです。自分の命の尊さを覚った人は、すべての命に優しくできるものです。それが御仏の慈悲の心でもあります。

 どうかあなたの命に、そして兄弟の、両親の、さらには多くの人達の命に眼を向けてみて下さい。あなたは決して一人ではないのですから。


平成16年7月1日〜7月15日

 今年は益々地球温暖化のせいか、早くから猛暑に見舞われているような気がします。カンカン照りの太陽かと思えば、あっという間に水浸しにしてしまう集中豪雨、台風や雷、そして竜巻までも襲ってきます。本来はこうした自然の恐怖を前に、戸締まりをし、「どうぞ無事で有りますように」と神仏に祈って来たのが人間だったはずです。いつの間にかデジタル化した映像の世界で、まるで自分がこのような自然現象を支配しているかのような錯覚に陥り、台風のさなかに防波堤に打ち寄せる波と戯れる人の姿を見るのは、魂を忘れた心を見るようで怖いことです。 映像で見るパンダが可愛いからと頭を撫でに行くようなものです。

 私達は太陽や風、雨、その他の自然現象の中から生まれてきました。母なる大地、母なる海から生まれたものであるのに、生命の根本を忘れています。母は我が子を限りなく慈しむけれど、生命としてあるまじき行為に至ったときは、恐怖のどん底に突き落とすほどに怖いものです。お母さんは時には怖いものでしょう。

 私達の関わるすべては生命のこもったものでなければなりません。それが生きていることです。言葉にも生命が、魂がこもっていなければ、心の通わない凶器になります。ある会社で上司と部下がメールだけで連絡を取るうちに、取っ組み合いの喧嘩になったり、携帯のメールだけで約束を急にキャンセルして親友を失ったりという事例を先日ラジオで耳にしました。

 仏教の基本は心です。言葉にも魂があります。どのような心で伝えるかが大事です。がしかしこの現代社会、電話やメールだけでなく、ちゃんと相手の目を見、親ならばただ言葉で子供を叱るのではなく、抱きしめて音声にならない言葉を伝えてあげることも大事でしょう。友人なら目を見ながら魂が伝わっている感触を知ることも大切でしょう。

 文明の利器は大変有り難いものです。でも魂の抜け殻は凶器になることを忘れたくないものです。私達は生きているのですから。


平成16年7月16日〜7月31日

 先日長野県にある日本有数の気場である分杭峠に行ってきました。高遠のお城を過ぎてさらに山奥に入り、山の上まで行きますと、分杭峠にたどり着きます。気の流れが強くなる地形には共通するものが有るようですが、本当に強い場所のようで、私にも気の流れの強さを感じることができました。その場所は気孔やヨーガなどの特別な実践修行を行っていない人でも、何か身体に感じられるものがあるようです。 気場というと聞き慣れないと思いますが、分杭峠は日本列島の地形が作り出す何らかのエネルギーの流れがとても強くなっている場所です。そのエネルギーを中国の人達は「気」という言葉を使って表現しているのです。

 私達は環境に左右されて生きています。家の日当たり風の流れ、湿気の度合い、イヤな臭いとの関係などは特に私達の脳に影響を与えるようですし、そのために病気になったり亡霊に悩まされたりなどします。これを祓っていくのは本来は本人の修練に依るようですが、それがなかなかできないので、苦しいときの神頼みとなるようです。

 光明寺にも「お経を上げてください」と訪ねてくる方がいます。光明寺ではこうした形のご祈祷はあまりしないことにしておりますが、その場合には法要の日までにどのように心の準備をするかと云うことで導くようにしています。その上で私が心して法要をし、実際に気の流れが調っていくのが感じられる場合、確かに効果があるのです。以前はこれはなぜだろうと思いましたが、気の流れを感じるよう修練していきますと、なるほどと分かってくるものです。決して、お守り札はそのものだけで良い訳ではありません。注意して注意してそれでも避けられないような災難に遭遇したとき、守ってくれるものです。どうやら心と身体が宇宙自然の流れに素直に従っていると、生命は生きる方向、活かす方向に向かうようです。

 光明寺にも多くの方が毎日お墓参りに見えています。自分の生命のもとであるご先祖様に常に心を尽くしていると、守ってくださると遠い昔から日本人は学び取ってきました。これが日本人の智慧でした。祖先崇拝は低級だ等という悪魔のささやきに心を惑わされず、ひたすら心を尽くすことで、お陰様という人生を送ることにしましょう。もうすぐお盆が参ります。お盆にはご先祖様をお迎えするのだという智慧を、しっかりと身につけてゆきましょう。


平成16年8月1日〜8月15日

 お盆の時期となりました。お盆はお釈迦様の二大弟子のひとりで、神通力第一と呼ばれた目蓮尊者が超能力で自分を慈しんでくれた母親が餓鬼道に落ちていることを知り、修行僧の力の最も強い7月15日の雨安居あけの日に食べ物を供養して、母親を救ったというお話に基づいています。目連尊者のインド名はモッガラーナです。

 今回からはこうしたお釈迦様の勝れたお弟子さんたちのお話をしていくことにしましょう。お釈迦様の二大弟子といえば、智慧第一のサーリプッタと、今申し上げた超能力第一のモッガラーナです。この二人は幼い頃からの大の親友で、サンジャヤのもとで一緒に出家し、後にお釈迦様の勝れた教えに帰依して、弟子になったのでした。他の弟子たちより後に仏弟子になったのですが、お釈迦様から最も信頼されました。最初は古くからの弟子たちも不満がありましたが、その徳の高さに皆も納得するようになりました。

 そのうちのサーリプッタの話ですが、智慧が最も優れていると評された彼は、仏弟子となりながら、すぐには悟りが開けなかったそうです。一緒に弟子になったものよりも遅れてお釈迦様の教えを体得した訳です。変でしょう。智慧第一なのに。大器晩成と云うこともあるかなと思います。

 経典はこんな風に述べています。サーリプッタは準備がとても入念であったので、何から何まで怠りなく準備するのに時間がかかったのだと云っています。そして身軽なものは何の準備もせずに飛び出せるので、すぐに覚ってしまうようなものだとも云っています。ですから覚ってもその深さには大きな違いがあるということでしょう。
 私達も何かというと人と比べたがります。なかなかみんなと同じように行かないもどかしさに気をもみ、場合によっては投げ出したり、あきらめたりしてしまいます。ちょうど巡礼の旅などで、もしあなたが一歩一歩目的地に近づき、そこに至ったときの心の清々しさは、車であっという間にその前に立ってしまった人には味わえないものがあるようなものです。

 こうしたことを私達はウサギとカメの物語で身につけてきたのでした。もう一度思い出してみましょう。


平成16年8月16日〜8月31日

 今回もお釈迦様の二大弟子であったサーリプッタとモッガラーナのお話をしましょう。この二人は同じ時に身ごもり、幼い頃から大の親友でした。ある時人生の問題などを考えるようになり、二人で出家することを決め、サンジャヤという修行者のもとで出家しました。でもサンジャヤ先生の教えの内容をすぐに判ってしまった二人は真の指導者を求め、先に勝れた先生に巡り会った方がもう一人にすぐに知らせ、ともにその先生のところに行こうと誓い合っていました。そんなある日サーリプッタはお釈迦様の弟子のアッサジの托鉢する姿のすばらしさに目を奪われ、教えを請いますと、彼の先生であるお釈迦様の教えの一部をお話しして下さり、サーリプッタはお釈迦様こそ私達の先生とわかり、モッガラーナに知らせて、二人でお釈迦様の弟子になりました。お釈迦様はこの二人が大変勝れていることを即座に見抜き、私の二大弟子であるとおっしゃったので、古くからの弟子たちは少々不満でした。でもこの二人とともにいると、その徳の高さが判り、弟子たちも次第に納得しました。

 そんな親友の二人があるとき二人だけである村の森の中に住むことにしました。この村には残飯をもらい歩いて生活する一人の男がいました。そのうちこの男が二人に仕えて一緒に住むようになりました。二人の仲の良さを見たこの男は、二人を仲違いさせようとして、サーリプッタに「モッガラーナがこれこれとあなたの悪口をいっていますよ」と云いましたが、サーリプッタは笑ってまるで取り合いませんでした。そこでモッガラーナに「サーリプッタはあなたよりも智慧が勝れていると自慢していましたよ」と告げ口をしましたが、やはり取り合いませんでした。サーリプッタとモッガラーナは互いにこの男の行状を話し、この男を追い払うことにしました。

 私達の現実社会では陰口を言い、その口車にまんまと乗せられて、大切な友人を亡くし、財産をなくし、命まで無くしてしまう人もいます。逆に連帯保証人などにさせて、信頼している友を裏切ってその人をどん底に落とす人もいます。でもこうした人は大切な友人を失い、結局は財産をなくし、死の床に際して地獄の底に落ちていく様子をよく目に致します。

 サーリプッタとモッガラーナが私達に教えているこうした信頼関係は言葉だけでは表せない、かけがえのない教えだと思います。



平成16年9月1日〜9月15日


 今年の夏は猛烈な暑さと、猛烈な台風に見舞われたました。気候が私の子供の頃とは明らかに違ってきたなと感じます。人間の仕業かと危惧するところです。

 今回は、お釈迦様の弟子の中でも多聞第一といわれたアーナンダのお話をしましょう。この方はお釈迦様に25年の間、いつもそばで身の回りの世話をしながら、お釈迦様の説法をずっと聞き続けた方です。しかも記憶力抜群でありましたし、その内容を逐一覚えていたので、「多くを聞いた」と云うことで「多聞第一」と云われる訳です。アーナンダは大変親しみやすい人柄で、多くの逸話が残っていますので、この法話でも時々登場させることにしましょう。

 さて、アーナンダは記憶抜群ですから、お釈迦様が弟子たちに説法する内容をことごとく覚えており、お釈迦様の話についての知識は誰よりも豊富に持っていた訳です。ところが、アーナンダはお釈迦様がクシナガラの町でお亡くなりになったときまで一緒なのに悟りを開けなかったのです。そこでお亡くなりになった時の様子を描いた涅槃図などでは、お釈迦様の傍らで嘆き悲しむ姿で描かれたりもしています。

 ほかのお弟子さんたちの多くが悟りを開いたのに、知識の豊富なアーナンダはそれができなかった。ここに現代の私達の頭でっかちの生活と似たところがあるように思います。私達も情報は驚くほど持っています。健康になるにはどうしたらいいかなどでは、「ためして合点」でココアが良いと云えばスーパーに走り、「みのさん」が赤ワインのポリフェノールがすばらしいというと、薬のつもりで飲み始め、「あるある大辞典」でアミノ酸が体に良いとなると店頭で売り切れてしまう。しかも今はインターネットで実に様々な情報が手に入ります。

 こうして皆、本当に健康になっているのだろうかと首をかしげるときがあります。番組を繰り返し見ていると、まるでこの前と反対のことを言ったりしていることに時々気づきます。番組で取り上げるものの中に、私達の先祖たちが自然の中で、学び取ってきた食の文化が意外に日本人には最も良いと云うことが判ります。科学的な知識もなくこれらを獲得してきたのは、知識ではなく、自分の身体と、風土や気候といったものを素直に受け入れてきた先祖の智慧のたまものでしょう。知識は本当に大切なものです。でも氾濫する情報に溺れて、本当の自分の命の営みを忘れてしまうと、どうやら智慧を授かれないようです。アーナンダはお釈迦様が亡くなったときも悟れず悩みますが、その後情報源のお釈迦様を失い、自分の心と向き合う中で、ようやく悟りを開くことができました。

 仏教はすべて極端な情報に執着するなと説きます。バランスが大切なのです。授かった命です。身体と心の声を素直に聞くことができれば、どこでバランスを取ったらよいかは自然に分かってくるものです。



平成16年9月16日〜9月30日

   お釈迦様のお弟子さんには様々な人がいます。今回ご紹介するチュッラパンタカというお弟子さんは、お釈迦様のお弟子さんの中でも、とーっても記憶力が、「悪い」というので有名な方です。実は私も記憶力には自信がないので、この方のことを聞くと勇気がわいてきます。それはさておき、このチュッラパンタカのお母さんはある大富豪の娘さんでしたが、そこで働く男性と恋に落ちて、駆け落ちしてしまったのです。愛があれば、というのでとても幸せに暮らしていたある日、身ごもったことに気づきます。インドでは日本と同じように実家にかえって出産する習慣がありますので、親元に帰ろうと旅に出ました。ところがその途中の大きな道の際で子供を産んでしまいました。そこでその子を「大道」さん、マハーパンタカと名付けました。それで引き返してしばらく幸せに暮らし、また身ごもったのでまた実家に帰ろうとします。今度は小さな道の際に来たときに出産してしまったので、その子を「小道」さん、チュッラパンタカと名付けました。お兄さんの大道さんはとても利発で、色々なことをすぐに理解してしまうのに、弟の小道さんはなかなか言われたことを理解できないし、覚えられないでいました。

 ある時お釈迦様のお説法に感激した大道お兄さんは弟を伴って出家致しました。彼は弟をよく面倒見、色々とお経を覚えさせようとしたり、内容を理解させようとしましたが、ついにあきらめてしまいました。「チュッラパンタカよ、お前は悟りを目指すのは少々難しいだろうから家に帰った方が良い」と云い、弟もその通りだと思って帰り支度をしていました。そこにお釈迦様が現れて、「何をしているのか」と問うので、「私はものが覚えられないので、悟りを目指すのを諦めて帰ろうと思います」と答えました。すると「なぜ私の所に相談に来なかったのだ」と云って彼を連れてゆきました。そしてお釈迦様の説法所に来る人の足や裾の汚れを「塵払いたまえ、垢取りたまえ」と言いながらこの布で払いなさいと指示しました。すると「そんな永い文句覚えられない」と答えたので、「ここに来る人に云ってもらうから、それを繰り返せばよい」ということで、毎日毎日塵を払っていました。

 そんなある日、お釈迦様の説法を聞いて、来たときとは打ってかわって、すがすがしい顔をして帰る人々にふと気づきました。自分は塵を払っているけれど、お釈迦様はみんなの心の塵を払っているんだ、と気づきました。そして自分の手にしている布が汚れでいっぱいになっているのを見て、私はこうして自分の心の塵を払っていたんだと思い、忽然と覚ったと云うことです。お寺の境内や堂内の掃除をすべての基本とする仏道修行はこんな所に意味があるのです。

 ちなみに智慧の慧、「めぐむ」ではなく難しい方の「慧」という漢字を思い描いて下さい。心という字の上にハレー彗星と言うときの「彗」という時を書きます。彗星は日本では「ほうき星」と云われるように「彗」は塵を払う「ほうき」です。ですからこの智慧は心の汚れ、煩悩を払いのけ、払いのけたところに生まれてくるものです。どんなに知識が豊富でも、例えば百科事典すべて頭に入っていても、親しい人の死に接したり、信頼する人に裏切られたりするときに生まれる悲しみや、恨みと言った苦しみを解決することはできないでしょう。死ぬのは自然の摂理、悲しむのはおかしいというのでは、私達は納得できないのです。その悲しみを心の底から受け止め、そこから生きていることの有り難さや生きる意味を覚る所などに生まれてくるのが智慧です。

 記憶力が悪いとお悩みのあなた、嘆くことはありません。今あなたは生きているではありませんか。それ以上は青色は青色に光るように、あなた色があなた色に光るならば、これ以上にすばらしいことはないではありませんか。


平成16年10月1日〜10月15日

 イチロー選手がアメリカ大リーグ最多安打記録にあと2本と云うところまで来ました。10月何日にこれを超えるでしょうか。今回のテレホン法話の最中に結果が出る訳です。必ず成就すると念じています。彼がこの結果を出すためにどれだけの精進と努力をしてきたかを考えると、超人的と思ってしまいます。野球選手としては必ずしも恵まれた身体という訳ではないでしょうが、自らを知り、彼を知る人の縁を大切にしていることも判ります。彼を育てた父親も、見いだした仰木監督も、自分の尺度に合わせるのではなく、彼の尺度を大切にしたことが、今の彼を生み出す原動力になったと思います。

 着物や服を仕立てるのにも「しつけ」が大切ですし、稲や作物を育てるにも「しつけ」が大切です。先日学校の先生たちがバラエティー番組で不思議なことを言っていました。「字を教えるのも押しつけだ」 すかさずラサール石井さんでしたか「字を教えてはいけないの」と驚きの声を上げていました。どうやら「生徒の思うままにさせろ」と言うことらしいのですが、どこか変ではないかと思いました。生徒が何に向いているかをキチッと見極める目を持つ教師でなければなりませんが、その生徒がその能力を発揮でき、独り立ちできるまでの方向付けをするために、基本的なことは厳しく鍛えてあげなければ「しつけ」はできませんよね。「しつけ」をしていない服が服に仕上がらないように、「しつけ」をしていない作物が実らないように、人間も同じことではないでしょうか。どこか自由とか平等の名の下に我が儘や悪平等がはびこっているように思います。

 仏教はすべての生きとし生けるものを平等と見るので、インド社会の中では大変特殊な宗教でした。でもこの平等とは何でも同じことをやれと言う平等ではありません。よくお医者さんにたとえられます。便秘の人には下剤が効くでしょうが、それがよく効く薬だからと言って、平等に皆下剤を飲まなければならないとしたらどうでしょう。頭の痛い人にかゆみ止めをあげたって仕方がありません。お釈迦様は目の前にいる人にあったお薬を説法として与えました。 友達に「私って駄目な人間。お願いだから本当のことを云って」と言われて正直に本当のことを言ったらどういうことになるでしょうか。嘘も方便と云うことだってあるのです。

 教育は育てることにあるのでしょう。育てるとは最初はくねくねとして行方定まらないものを、その人の行くべき道に導くことです。これがきっと中道という道でしょう。真ん中の中という字ですが、これは中毒というときの中、つまり毒に中ると言うときの中ると言う意味です。その人に中った道です。あなたに本当に中った道ならば、周りにも優しく慈しみ深い道となるものです。そのことをお釈迦様は自ら示されました。 私の中道って何。 そうやって答えを考えるうちに日が暮れますよ。 まずは歩み続けましょう。 今はまだ自分探しの道であっても。


平成16年10月16日〜10月31日

 やりましたね、イチロー選手。シーズン最多安打記録262本。しかも野球の本場であるアメリカの大リーグ記録です。徹底した自己管理と人知れず練習をすることによってなしえた記録であると伝えられています。普通なら「今日は飲みに行ってしまおう」「たまには遊びに行こう」と云うことになるところを、野球をするためと小さい頃からひたすらに一本道と言うところでしょう。

 そうした中、最近はあまり聞かれなくなってきた内助の功がクローズアップされてもいます。奥様は野球場に足を運び、試合の状況を見極めて、およそ何時くらいにイチロー選手が帰宅することになるかを逆算し、食事の支度を始めるのだそうです。その他イチロー選手がストレスをためないよう、様々な工夫をしているそうです。もとアナウンサーと云うことですが、決して目立たぬよう、出しゃばらないよう気遣っています。結婚当初は週刊誌等で何かと叩かれたものの、今はそうした記事の方がひんしゅくを買うまでになっております。イチロー選手と奥様、この双方が支え合って大記録が生まれたのだと思います。

 他にもこうした例を耳にします。画家の平山郁夫さんの奥様は同期生で、しかも卒業の時は奥様がトップで、郁夫さんは二番だったそうです。でも奥様は主人をしっかりと支えることに徹しております。「主人」というだけで目くじらを立てているようでは、偉業はならないでしょう。目くじらを立てる人は男性だけ得してると思うのでしょう。女性では五島みどりさんという天才的ヴァイオリニストがいます。彼女は天才故、その才能を伸ばすべく母親は離婚までして、世界中を彼女を支えて移動した訳です。この夏のアテネオリンピックの選手たちもまさにその通りです。

 仏教教団も似たところがあるなと思います。出家者は厳しい戒律を守り、自分の悟りを目指してひたすらに修行を重ね、一般の人に教えを説く生活を送っていた訳です。それを支えていたのは多くの仏教信者さんたちです。食事や生活の一切はこうした人達の心からの寄進に依っていました。徹底した自己管理をする人と、それを心から支える人があって修行は成り立つものであることをお釈迦様は熟知し、大切にされました。私達は一人で生きていることはできませんし、何事かをなすこともできません。

 成果をほしいままにして栄光に浴すことに目を奪われ、その立場の人をうらやむのは寂しいことです。その立場の人はきっと孤独であり、徹底した自己管理をしなければ心身共にボロボロになるでしょう。一方献身的に支えている人も大変な努力でしょう。でもきっと孤独ではなく、心豊かなのではないでしょうか。これが慈悲の心ですから。慈悲の心に満たされたガンジーやマザー・テレサのように、内助の功とうたわれる人々はきっと楽しく心豊かなのではないでしょうか。

 そんなのつまらないとお嘆きのあなた。今寂しいのでしょうか。


平成16年11月1日〜11月15日

 10月23日の夕刻、私はある会合の席上にいました。先生方の挨拶が進む中、建物が大きく揺れました。その後も3度も大きく揺れた時には、つい2週間前に筑波を震源地とする大きな地震があったばかりでしたので、さては直下かと皆心配しました。

 久喜に帰る車のラジオでは新潟を震源とする地震で、東北高速道路が通行止めと云うことでした。また久喜の自宅へ電話を入れると、この地域は地震のため通じませんと云うことでしたので、そんなにひどいのかと心配しました。幸い自房は無事でしたが、テレビのニュース等で久喜の名前が何度も出たので、問い合わせの電話が相次ぎました。

 徐々にニュースで状況が明らかになるにしたがって被災地の被害の大きさに背筋の寒くなる思いがしました。先の阪神淡路大震災の時、通常なら私は関西にいて地震を体験するはずでしたが、御仏のお導きか、たまたま埼玉にいたために地震に遭遇せずに済みました。しかし、直後の西宮はじめ三宮に知人を訪ねていったときには、大変なことになっていると実感しましたので、今回も報道を聞くたびに涙の出る思いがします。

 阪神淡路大震災の後も真言宗の仏教青年会を始め多くの仏教僧がボランティアで現地に行っておりました。ボランティアというとキリスト教というイメージを報道機関が持っているのか、こうしたことはあまり報道されませんでした。大乗仏教の第一の実践行は布施波羅蜜です。ボランティアの原点はインドにあります。キリスト教がこれを取り入れたのは随分後のことであることがわかっています。イスラム教もこの習慣を取り入れています。

 布施行の原点は物を布施すること、情報を布施すること、そして何よりも心を布施することです。どうやら日本人にはこの心が浸透しているように思います。それは、フセイン体制崩壊時のイラクのように、こうした状況になると諸外国などでは略奪や犯罪が横行するのに、日本では助け合い、物を分け合い、「あそこに行ったら水があるよ」、「ここに行ったら怪我の手当ができるよ」と大変な自分自身を差し置いても相手を思いますし、水がヒタヒタと寄せるバスの天井で頑張れと声を掛け、あるいは余震で崩れるに違いない崖っぷちで夜通し土砂に埋まった車の中から2歳の男の子や家族の救出をするのは、布施の心がもう日本人の心となっているからではないかと思います。よく日本人にはボランティア精神が欠けると云われたのは、ことさらにボランティアを叫ばなければならない外国とは違うからではないかと感じます。争いの絶えなかった太古の日本にこうした心を育んできたのは、元々ある和の精神と仏教の布施の心であったのではないかと思うようになりました。


平成16年11月16日〜11月30日

 いまだ癒えやらぬ新潟地震の被災地の映像をニュースで見るに付け、こうして屋根の下で温かい布団で寝起きでき、食事をとることができることを心から御仏に感謝したい気持ちになります。人生には様々なことが起こります。それは何千年前から変わらぬ自然の営みです。だからこそその状況をよく観察して心にとどめ、苦しみとだけ捉えるのではなく、それを乗り越えようとする心を支えてきたのが仏教という宗教です。神や仏も大切ですが、その慈悲を受けようとする私達の心という鏡をいつも磨くことを身をもって示してゆくのが仏教の教えです。だから信者になれと無理な勧誘もしないのも仏教教団の本来の姿ですし、私の好きな点です。

 こうした心を磨いて少しでもあるがままの人の心、あるがままの事柄を、素直に受け入れられれば、社会の中の謂われ無き偏見に涙することも無くなるし、心ならずも相手を傷つけることも無くなるでしょう。でも、現実にはなかなか難しいものです。現実の軋轢や持てあます心の問題で悩む人がかなり多くなっている現代社会です。そのような中でも出家をしたいと臨む方がおります。一般の方からも何人かご相談を受けたりしました。生活の面など現実的になると、三日坊主というように、よほど覚悟しないと難しいかなと思います。世情でお坊さんは裕福で優雅でと思われますが、一歩舞台裏を覗いてみるとそうも云っていられないようです。

 真言宗豊山派の区分けで久喜は埼玉2号支所という区域になります。先日約20年ぶりに支所主催の得度式がありました。得度を受けたのは男性一人、女性二人の三人でしたが、その一人に光明寺に一般の家庭から嫁いで参りました家内もおりました。剃髪をするので男性でもなかなか決心が付かないようですが、女性二人とも剃髪で臨み、男性よりも凛々しかったので各住職方も心にグッと来るものがありました。家内は出家の希望がもともとあったようですが、お寺の裏方の現実に目を丸くしながらも思うところがあったのだと思います。

 出家は字をひっくり返すと家出です。それまで生活を共にしていた両親や親族と別れ、自分を守ってくださった土地の神々に別れ、仏門に入る訳です。現在の日本では、そのまま家族と生活しますが、このような別れの儀式が得度式にはあります。心を新たにして自らの至らない現実を見る覚悟を定めるのです。最初は女性にとって特に剃髪は可愛そうかなと思い、理髪店でも剃髪の間中、店員全員が心配の眼差しで見ていました。でも儀式に臨んでみると、心を出家させるにはこの剃髪は何と神々しいものかと、感じ入ってしまいました。

 自然の恵みは人間にとっては過酷なことが多いものです。きっとこれも御仏が与えてくれた心の鏡を磨かせて頂く大切な縁なのかも知れません。そうでないと私などは鏡の曇りに気づいても、ついついほったらかしにしてしまいますので。


平成16年12月1日〜12月15日

 早いものですね、今年ももう師走。この一年、本当にいろいろあったのに、すでに何があったか一生懸命思い出さないと判らなくなっていることも多いのではないでしょうか。新潟地震は現在進行形ですから、さすがに覚えていますが、浅間山の噴火もありましたね。アテネオリンピックでは沢山の金メダルを取って、とても嬉しい気持ちになりましたね。

 一方で茨城県では両親のいじめに遭い、このままだと殺されるに違いないから先に親を殺してしまったと言う事件がありました。小学生を誘拐して、虐待した上、殺して捨ててしまう事件もありました。気の弱い後輩のアパートに子連れで居候し、挙げ句の果てに後輩に我が子を殺されてしまうような事件もありました。

 道路を走っていると、生活のゴミを車の窓から平気で投げ捨てて行ってしまう人もいます。外国産の肉を国産と偽ったり、産地を誤魔化してボロもうけをしたり、リコールを隠して多くの人を死なせても何とも思わない心に私達日本人は慣れっこになってしまったのかも知れませんね。もしかしてあなたは「私はそんなことはしない」と思っていませんか。

 実は「私は違う」と思うところに慈悲の心は生まれてきません。慈悲の慈は「いつくしみ」と読ませます。「わたしもおなじだよ。一緒に歩いてゆこうね」という意味です。慈悲の悲は日本語では「かなしむ」と読みますね。これは「あなたの悩みや悲しみはまるで私のことのようですよ」という意味です。

 子供が何か失敗すると、「お前はいつもそうなんだから」とか「ちゃんとしていないからそんなことになるんだ」と追い打ちをかけて叱る親がいます。慈悲の心に欠けるものです。失敗はするものです。そして子供は成長するものです。先回りして失敗しないようにしてしまう親もいます。折角の成長のチャンスを奪っています。ジッと見守り、失敗したときに尻ぬぐいをするだけでなく、自分の失敗として共に歩む所に慈悲の心があります。

 先日持病の腎臓結石で病院に行ったとき、いつもの先生がお休みで別な先生に治療してもらうことになりました。その先生は何となく自分は専門家だというような患者を見下したような感じの方で、病状についての治療法しか理解が及ばず、私の訴えている心の声が聞こえないのです。説明される治療法がなるほど良いのかも知れないけど、私の魂は嫌がっているのです。暗に「この治療法を選ばないなら、後は自分で責任を持て」という雰囲気ですので、患者としては困ってしまうのです。仕方なく私は、祈りと共に御仏のお導き、魂の叫びに従うことにし、その治療法を拒否しました。次の日、結石は無事に体外に出、事なきを得ました。ただひたすら感謝の気持ちです。親の場合も、学校の先生も同じでしょう。直る医者に慈悲の心、知識ではなく智慧が必ずあるものです。技術や知識ではなく慈悲の心に包まれて、きっと子供も生徒も患者も癒されると思いますよ。

 モラルのなくなりつつあるのが現在の日本の社会のようです。ニュースで頭を下げる起業家や役人の姿は我が身、我が心の代弁者かも知れません。私もまた頭を下げながら、我が身のさびを御仏に懺悔し、今年の煩悩の垢を払う準備にそろそろ取りかかろうかと思います。


平成16年12月16日〜12月31日

 今年のサッカーJリーグの年間チャンピョンを決める試合はご覧になりましたか。浦和レッズと横浜マリノスとの試合でしたが、試合全体を見ていると80%は浦和が攻め続け、シュートも圧倒的に多く放ち、しかも後半は横浜は退場者を出して一人少ない10人で戦っていたという状況にもかかわらず、結局横浜マリノスの連続優勝と云うことになりました。絶体絶命の日本サッカーチームをフランスのワールドカップに連れて行った名監督岡田さんの凄さに脱帽といったところです。絶対的に不利な条件の中でも知力と胆力とを持ち合わせた岡田監督の勝利でしょう。

 私達の人生ではいつも圧倒的に強い相手と相対していかなければならない状況にあります。商売があんなに繁盛していたのにという家族が、一瞬のうちに無くなってしまうことはよく見る光景です。自然の災害もあれば、事業上のトラブルもあるでしょう。昔から手に職を着けるとか、今なら様々な資格を取るなど「知力」のもとを考えてきました。ただ、本当に使える「知力」を養うには結構長い下積みの期間が必要です。そしてここぞと云うときに気力を失わせない「胆力」もどうしても必要です。これも人それぞれに鍛えなければならないでしょう。横浜の戦術が鉄壁の守りと一瞬のカウンターアタックであったとすれば、私達も人生の中で、ジッとこらえ、辛抱し、チャンスを待つ胆力が必要でしょう。勢いに任せて打って出るよりも遙かに「胆力」が要求されるのでしょう。

 仏教では圧倒的な敵は私を誘惑する煩悩です。煩悩にそそのかされて地獄の底に落とされないように磨いてゆくのが智慧です。この智慧を育てるのが修行であり、胆力です。胆力が備わっていないと慈悲の心はなかなか働きません。この智慧と慈悲の力で煩悩を払うのですが、凡夫である私達にはなかなか難しいところです。そこで仏達の智慧と慈悲のお力をお借りして煩悩を払おうというのです。

 除夜の鐘を突くことによって響いてくる御仏の声に耳を澄ませ、私の108の煩悩を一つずつ取り除いて行きたいと思います。


平成15年12月16日〜31日

 平成15年もあと半月ほどになりました。俗に先生も走るほど忙しい「師走」のさなか、いかがお過ごしでしょうか。 忙しいとついつい心の余裕もなくなり、周りのことも見えなくなるようです。暮れになりますと事故等が増える原因の一つもこうした心にあるのでしょう。NHKの大河ドラマ「武蔵」の中で柳生石舟斎が武蔵に「試合の最中に鳥の声が聞こえたか、風の音が聞こえたか」と諭すシーンがありました。忙しいときだからこそ、鳥の声を聞き、風の音を感じる心が大切なのです。これは釈尊が人生という道を歩む極意として求め続けたものに通じる瞑想修行という実践法でもあるのです。

 私たちは日常、とても大切な人にさえ、自分の本当の気持ちを伝えようとしても、仲なかその言葉が伝わらないという経験があると思います。親孝行のつもりで手伝おうとするとかえって親を傷つけたり、子供のためと思って手助けしたり、アドヴァイスをしたりして、うるさがられたりします。相手はその人の心と言葉によって私の言葉を理解します。もしその誤解を相手の責任と考えるなら、永久に私の心が伝わることはないでしょう。私の心に鳥の声、風の音を受け止める心の余裕があれば、相手の心の声を受け止める力ができるというのは今も昔も変わりません。すぐに腹を立てる人、すぐにいらいらする人にはその心の姿が顔に出ていますでしょう。身のこなしにその心が顕われているでしょう。こうした心を止まって、観る、というのが仏教の瞑想法である止観門という方法です。

 この一年は貴方にとってどんな年だったでしょう。止まって、よく観てみましょう。きっと思いもかけない人や出来事が、貴方を支えて下さっていたことに気づくことができるでしょう。そうした人々や物事に感謝する気持ちが自然に沸いてくるのであれば、来年は本当にすばらしい年になる事でしょう。すべて貴方の心次第なのですから。