皇政奉還を図った天内一族
 
ーー 東奥日報に掲載された藤本光幸「白鳥館物語」から ーー

時は室町時代・・・・・・・・ 応仁の乱に揺れる京都・・・・・・・・・   
                
   暗雲に覆われた都を脱出し、本州最北端の地「陸奥(みちのく)」に向かう

天真名井宮義仁とは・・・・・・・・・・・・・・・                  
                  


        


天真名井宮義仁親王 (あまないのみや よしひと)  

   
     1466年、8月3日、103代後土御門成仁天皇の第3子として誕生。
  
    幼少の頃、唯一神道の提唱者であるト部兼倶の影響を受けて、自ら天真名井宮と号した。

   6歳で元服し、近従藤本左衛門尉に文武二道を学び、鬼童皇子として将来を期待されていた。
                               (*人間の力を超える素晴らしい能力を持った皇子)
 

    このころはちょうど戦乱に明け暮れた応仁の乱で、京都は焼け野原となっていたが、将軍足利義政は為

  政者としては無能な人物であった。

    このため、幕府の全国支配の権威は失墜し、世の中は荒れに荒れ、民衆の窮乏はその極に達した。南

  北朝合体後の皇室としても、幕府の保護によって、その御料地荘園から、ようやく年貢を得ていたのである

  から財源に受けた痛手は大きく、その日の暮らし向きにもこと欠くという状態だった。
    
    御土御門天皇が日野勝光らの横暴に、突然出家を計られたこともあり、兄君の御柏原天皇も20年間も

  即位の大礼を行うことができないという騒乱きわまりない時代だった。
 
 

    天真名井宮は幕府の失政を憂えた何人かの公卿と皇政の奉還を図った。文明11年幕府はこれらの動

  きを察知して親王を暗殺しようとしたが、刺客は藤本左衛門尉のために誅(ちゅう)せられ失敗に終わった。
 
 
 

  (文明11年の御土御門天皇の譲位問題は、この事件と関係があるのかもしれない。)

 

                     


                                                                                    
  陸奥(みちのく)に向かう天真内宮義仁