中世の里・浪岡町 そのU
  
中世の里である浪岡には数々の史跡や伝説が残されている。
        
 
   美 人 川 伝 説?

 

   
    


 平安時代の終わりごろのことである。京都の公卿、近衛関白にたいへん器量の悪い

福娘という娘がいた。なかなかお輿入れの機会に恵まれないということで、両親はこと

のほか心配していた。

 そんな両親が娘の良縁を願って、清水観音へ願掛けに行ったところ、ある日、不思

議なおつげがあった。それは、津軽の外が浜で炭焼きをしている藤太のところへ嫁ぎ

なさいというものであった。

 両親からことの次第を告げられた福娘は、意を決して、一人津軽へと旅立った。はる

ばる津軽へと足を踏み入れたところで、福姫はまだ見知らぬ自分の夫に会えるのかと

思い、身なりを整え、かたわらの川の流れで顔を洗ったのだった。

 そして、そこで拾った杉の葉を楊枝にしてお歯黒をつけようと、ふところから取り出し

た鏡をのぞき込んだ。驚いたことに、それまでの醜さとはうってかわって、世にも美し

い娘に変じていたのである。

 世にもまれな美人となった福姫は、やがて出会った藤太という炭焼きと結ばれたのだ

った。藤原一族の流れをくむ高貴な名門の出であった藤太は、外が浜に落ちのびて炭

焼きに身をひそめていたのだった。藤太に嫁いだ姫は、献身的に夫に尽くし、二人はや

がて津軽の有力な豪族となったのである。

 この伝説にちなみ、姫が顔を洗った川は、「美人川」と呼ばれるようになり、また、お歯

黒をつけた楊枝の葉はいつしか根付いて今では巨大な杉の大木に生長し、「楊枝杉」

と呼ばれるようになったという。

 その杉は今も羽黒神社の境内に残っている。   (説明の看板より)


 
 
   源 常 平 の 大 銀 杏??

 
 案内板に書かれていること
 
 
 

  奈良朝和銅二年、道昭大僧都が

 行岳天王山玄上寺を建立し銀杏の

 種子を蒔き、大木となったが八百

 年前に玄上寺が焼失したので銀杏

 も枯れた。その後、津軽十三城主

 藤原秀栄の子が、乳母が病死した

 ので、墓の印として銀杏の枝をさし

 たのが大木となったのです。
 

  この源常平は、浪岡城主北畠氏

 がはじめに城を構えた場所である

 とも言われています。

                 
            

  津軽山唄発祥の地