北 前 船

風待ち湊であった深浦(写真は現在)



 
   かつては日本海沿岸こそ,陽のあたる表日本であった。荒れる風波をものともせずに,
日本海を下ったり上ったりした北前船は,「板子一枚下は地獄」という危険を背負いながら
の航海だったが,その代償として巨万の富を得,文化を運んだ宝船であった。

   この船は自己資金でもって商品を購入し,それを遠隔の湊へ運び販売し,その差額に
利益を見い出す買い積み商船だった。北前船と言うのは,こうした商業形態を呼ぶ名称
で,北前船という特別の船型は存在しなかった。

   では,どんな船を使ったのかということだが,1700年の享保年間以降,「弁財船」を
北前船として使用するようになったと記録にある。

 大阪を春彼岸の頃出航し,瀬戸内海の要所の湊に入っ
て商品を積込み,下関から日本海へ出て,途中積み荷を
売りさばきながら北海道へ向かうのは,「下り船」と称した。
 折しも5・6月の北海道はニシン漁の最盛期で,綿花栽
培に無くてはならなかった「ニシンのメ粕」などを仕入れ,
台風の前に瀬戸内海に帰る船は「上り船」だった。

   特に北海道からの積み荷は高値で売られ,一航海で千
両の利益を揚げる船であった。

 また,積み荷の品物が動くことは,必ず人間が介在する
ので,文化の伝播にもつながり,歴史的にも大きな役割を
果たした船でもあった。

 北前船が運んだ文化として,次のようなものがある。


  o輪島の漆器は,中世以降の伝統工芸品で,北前船によって東北地方へ運ばれた。
 o蝦夷屏風とアイヌの厚子(あっし)は,北海道の人情・風俗を本州の人たちに紹介する資料
    として運ばれた。
 o越前の笏谷石(しゃくたにいし),瀬戸の御影石は,敷石・玉垣・鳥居に利用された。
 o船乗り達によって民謡も運ばれた。
  (江刺追分の源流は信州追分峠の馬子歌)

 さて,北前船は風まかせ帆まかせの船だったので,湊で荷役がすんでも,風が無け
れば出航できない船であった。つまり,出航が可能な順風が吹くまで待つ湊が「風待ち
湊」である。

 
  深浦は松前まで25里,出羽の男鹿まで35里と言われた北前船の,沖乗り航路の
重要な中継地であり,津軽第一の風待ち避難港として栄えた湊であった。
   避難港の祈願時として円覚寺の存在も大きかった。

  ここには航海の安全を願った船絵馬70点。避難時,髷(もとどり)を切って神に祈
った髷額28点が残されていて,現在国の有形民俗文化財として指定されている。
  この港の繁栄を江戸時代後期の紀行家である菅江真澄が「津軽のおち」という日
記に??百艘もの船が順風を得て出航した情景を書き残してくれている。
 

 また,一説には町の旧家の7割が
北前船のふるさとである越前など北陸
からの移住者であり,言葉・食の味・文
化など,京・大阪の影響があるとも言わ
れているように深浦は往時の経済文化
など,たくさんの史蹟が,歴史のロマン
を伝えてくれる町である。

(深浦町歴史民俗資料館館長 
 西崎 正孝氏のお話から。)
深浦町歴史民俗資料館 0173-74-3882 開館9時〜16時  休館日 年末年始 
 ※資料は歴史民俗資料館のパンフレット等からお借りしました。