中世の里・浪岡町
   浪岡町には戦国時代に「浪岡城」があった。やがて台頭してきた「津軽為信」の
ために滅ぼされる運命を辿るが、それまでの長期間にわたって津軽の中心地にあ
って 全域に影響力を持っていた。北畠は何故それだけの力を持っていたか。 

 今からさかのぼること、約660年前。
 建武の新政で後醍醐天皇により16才の若さで陸奥の守に任じられた北畠顕家
は奥州に下向、政治機構を整え、住民を把握し、見事な成果をあげた。 
   また、足利尊氏の反逆に際し、東海道を進撃、尊氏を敗走させる。あの足利尊氏
が、北畠顕家率いる東国武士団のために北九州まで追い詰められ、一時は自決さ
え覚悟したという・・・・・。
 しかし、勢力を 回復した足利の豪族に叛かれ苦境に立ち、さらに吉野へ逃れた後
醍醐帝の命で、尊氏追討の軍を再び起こすが敗れる・・・・・。

 やがて足利氏の室町時代となり、北畠顕家の子孫は、かつて主従の関係にあっ
た陸奥の南部氏を頼る。そして、南部氏の支配下になった津軽に領地を有すること
となった。
 もともと南部氏は北畠氏の配下であったため、主すじにあたる北畠氏には特別の
配慮をした。そのため、北畠氏の浪岡城は「北畠御所」として、近在の武士達にも一
目置かれる存在であった。

         (北畠氏を頼って、天真名井の宮が津軽にやってきた話は「流転の親王」を参照)

        
浪  岡  城  址

    
   
  

 北畠氏累代墓所(一)

  町指定文化財第2号              指定年月日 昭和52年4月28日


  五輪塔の横に建てられている顕彰碑

案内板に書かれていること
                 
 この五輪塔跡は、国史跡浪岡城跡の主であった北畠氏の墓所と伝えられている。
 中央の「北畠累代の墓」銘の碑は、明治天皇巡幸に際し太政大臣三条実美の題
字により建てられた。
 明治初期には数基の五輪塔が残されていた記録もあるが、戦時中に多くの五輪
塔が遺失し史料的価値は低下した。
 しかし、陸奥国司として中世史に名を残す北畠顕家の末子累代の墓所として、現
在でも北畠子孫や地域住民の精神的柱石となっている。
            
     
 北畠氏墓所(二)
   

    

  

                     向こうに見えるのが津軽富士「岩木山」

 北畠氏の墓と言われるものは、実は二つある。浪岡中学校から本郷小学
校に向かう農免道路を行くと、二つの墓の案内板が見える。向かって左が北
畠累代の墓、右が伝北畠の墓である。
 (このページの上方の写真が累代、下方が「伝」である。)
 北畠氏が津軽為信に滅ぼされて約400年。この墓所が地元の人々の手に
よって守られて維持されてきたことが嬉しい。