ESSAY

 《医療過誤》

 7年前、私の夫、廣瀬昌助は末期癌で亡くなった。
 死を早めたのは、医療過誤だった。6年前パソコンを買ったのも医療過誤を訴えるホームページ作りたかったから。しかし、技術がなく、今まで封印されたままになっていた…。

 当時、亡くなった後、長い陳述書書いて簡易裁判所に送り、カルテ保全をした。その後、役者仲間達や友人達に署名お願いして、中野富士見町にある病院に陳謝を求めた。署名のお願いの医療過誤内容は、
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     《夫 故廣瀬昌助の医療過誤訴訟に対するご支援と署名のお願い》

初診による誤診と間違った手術
 @ 1998年6月29日、佼成病院にて「盲腸による腹膜炎」と診断され、虫垂のみ切除手術。(実際は大腸癌) いわゆる診断ミスと手術ミス。
 切開した時、主治医は盲腸のすぐ上にある大腸腫瘍に気づかなかったのだ。

手術後、入院中の対応の不手際
 A 1週間から10日間の入院予定が、膿が止まらず1ヶ月入院を要する。本人は入院中、右脇腹のシコリと痛みを訴えたが、「膿が回っている」とか「自然治癒を待つしかない」という言葉で片付けられました。(何故、精密検査をしてくれなかったのか?)
 B 入院3週目の頃、退院予定がはっきりせず、担当医に退院予定を聞いたところ「傷口を診てみないと」と言われたので、すぐ診てくれるよう頼み、妻の私が見せてもらったところ、15センチ以上の傷口がパックリとホール状態に…。中の血肉が見えてビックリ!(夫と私は管を入れて膿み出ししてると思っていた)「どういうことですか?」と尋ねると、担当医師は「説明せよと言われればしますよ」と、怯えているようでもあり、はっきりせず、結局説明ありませんでした。
 C 退院予定日にも、膿は止まらないままだった。仕事を入れてしまったので、病院から撮影に行ってたが、病院に20時以降に帰るのは困ると言われ退院し、毎日消毒に通うことにする。

通院後通院中の対応の不手際
 D 通院中、医者は「縫った絹糸が合わない万人の中の一人かも」と、盛り上がった肉をメスで切り刻まれ、中の内臓を縫った絹糸を取り出す処置をする。翌週も膿が止まらないので「まだ糸が残ってるかも」と、またメスで切り刻まれた。我慢強い夫もこの時は「本当に痛かった」と言ってました。
 (まるでモルモット扱い! 傷口を空気に晒す度に癌細胞は広がると、後日、東京女子医大の城谷助教授の説明で知った)
 E 11月6日(術後4ヶ月目) 痛みと熱が続いていたので診察。その時ですら精密検査することなく痛み止めの薬のみの処方。
 F 11月9日 かなりの痛みで歩いての通院は困難な状態。車で送った時転院を決め、「紹介状のみもらってくるように」と夫に言いましたが、CTスキャンを撮られ、外科部長が出てきて「肝臓が肥大してますね。どこの病院でも同じですよ」と言われ、点滴・注腸と3日間の予約を入れられて帰って来ました(私は仕事の撮影で立ち会えなかった)
 G 私が電話で予約キャンセル、「すぐ紹介状書いてくれるよう」依頼。(このままでは殺されてしまう不吉な予感)

転院後の経過
 H 11月12日 東京女子医大 城谷助教授診察。触診で癌と判断したと後日知らされる。
 I 11月16日 東京女子医大入院。城谷教授から末期癌を告げられ、私の頭の中は真っ白に…。大腸癌が直腸・肝臓へと転移。肝臓は肥大しすぎて手術では取り切れない程の病状になっていました。
 J 翌日、夫に告知。「死なないで」と言うと、「わかった」と答えてくれました。
 K 12月2日 大腸・直腸の腫瘍切除手術。

すでに末期で余命1ヵ月と宣告後、自宅療養
 L 昌助53歳の誕生日1月7日に余命1ヶ月と告知する。この日我が家に帰り、自宅療養が始まる。腹水が溜り始めて、上半身はアウシュビッツ、下半身が像のような躰になっても、あらゆる療法を試みて「治すんだ!」という気力を持ち続けました。
 癌が治るという本は読み漁り、ハンドパワーで治すという人の話を聞いては茨城県まで通ったり、アガリクスはもちろんビタミンCやB13というメキシコから輸入したビタミン剤の点滴を毎日したり、自然食品の店で食品買ったり、ビタミンの錠剤をすり潰して飲まし、良いと聞くものは買って試していました。夫はそれだけでお腹がいっぱいになってしまうようで、食事がなかなか出来ない状態でした。お金もかかって、我が家の財政はどうなるのかと思いました。
 (今では遅いですが、亡くなる命と悟って、食べられるうちに好きなもの食べさせてあげれば良かったと後悔しています)
 M 2月末、城谷助教授が来宅してくれて、診察。目に黄疸が。後、1週間くらいだろうと言われる。自宅で亡くなると警察沙汰になるから病院入れたほうが良いと言われ、荻窪の衛生病院ホスピスに入院することに。

ホスピス入院、そして永眠
 N ホスピス入院1週間後、無念にも3月7日永眠。(幼い娘を残して…。)
 最後まで別れの言葉を残さずに…。私の「死なないで」の言葉を守ったのか…。
 亡くなる前日、私が帰ろうとすると凄く淋しがった。「泊まろうか?」と言うと、「友紀(娘5歳)が可哀想だからいいよ」と。私は手を振って帰った。その時も中国の漢方の痛み止めを使用していた。私が帰ってから、夫は医者と長い問答をしてモルヒネを打ったと、あとで看護婦から聞いた。(癌は神経にいってないと聞いていたので一度もモルヒネは打ってなかった)その時、夫は医者と看護婦さんに「ありがとう」と言ったそうだ。これで死を待つしかないのだ。
 翌日、寝たままの夫。「パパ、もう喋れないんだよね」病室にあった聖書を私は読み始めた(私はクリスチャンではない、ただ安らかに逝って欲しかった) すると、夫は目を開け私を見た。夫の手を握り「昌助さん、もういいよ」と言うと、そのまま目玉を上に向け目を閉じた。それから、10分くらい経っただろうか、看護婦を呼び、亡くなったことを告げた。
 O ナースステーションに連絡する前に、私の友人と夫の親友、鶴田忍さんに彼の死を電話していた。1時間後くらい、俳優座養成所16期生仲間の鶴田忍さん、大林丈史さん、古谷一行さん、高田直久さん(彼は医療ビデオ制作会社に勤めてて城谷助教授を紹介してくれた人)、柿沼真二さん、須永慶さん達が駆けつけてくれた。
 「ダッコ(夫の愛称)って、こんなに鼻が高かったか?」と誰かが言うと、夫は微笑んだ!? 皆が、「今、笑ったよね」と。本当に微笑んだのだ。そして、彼らが私の代わりに葬儀社と打合せをしてくれました。
 P ホスピスの隣の教会で無宗教葬儀をすることになり、亡くなった翌日も棺式とかがあって、舞台の仕事で葬儀に出れない峰岸徹さんと河原崎健三さんが来てくれて、2人で泣きながら夫を棺に入れてくれました。葬儀も、彼ら16期生仲間達が私の代わりに滞りなく運んでくれました。そして、彼らは香典返しもしなくてよいと。本当に感謝です。本人としては志中半だったとは思いますが、皆さんのお陰で、せめても俳優・廣瀬昌助の素晴らしい最後の幕を閉じさせてあげることが出来たと思いました。

 ※日を増すごとに感じる淋しさや悲しみとともに、医者に対する怒りが募り、悔しさ・無念の思いでいっぱいです。そして病院側に謝罪と損害賠償を求めることを決心しました。ご支援頂ける皆様にご署名お願い申し上げます。
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 廣瀬昌助出身の俳優座16期生のお仲間はじめ、5000人以上の署名を頂き、私はそれを持って、娘と2人で病院に行き、陳謝を求めた。しかし、院長は「廣瀬さんの場合は、非常に不運で盲腸の裏に大腸癌が隠れてた。盲腸炎には変わりないので医療過誤ではない」との返答。この時の院長の話では最後の診察まで癌とは疑わず、盲腸の後遺症で膿が肝臓までいってしまったと思ってたと話した。東京女子医大では触診で判ったと言ってた。ここまで技術の違いがあるのか…。
 その後、医療裁判を見学したり、いろんな弁護士さんに相談した。
 仕事をしながらなので、労力も精神力も大変だったが…。
 最後にとても良い弁護士さんと出会い、相談した結果、「裁判しても敗訴する可能性が高い。もし、勝訴しても癌であった命の保障はせいぜい100万円くらいの価値しかない」と。何年も裁判に関わってる時間は私には無い。その時、まだ娘は7歳。娘を育てる為に働いていかなければ…。

 結局、陳謝を求めるのを断念しました。日本の医療裁判は病院側のほうに味方するように出来てるらしい。カルテ保全や弁護士にかかった費用は大変だったけど、一生懸命頑張ったのだから…。
 夫の死から7年も経ち、これも運命と思えるようになったし、人を訴える事も罪深い事かもしれないとも思えるようになった。未熟な医者にあたったのも、そういう病院を選んでしまったのも運命かもしれない。当時いろいろ助けてくださったり、署名等してくださった方々の好意には本当に感謝しています。

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