| 氏名 | 川村道哉 |
| 住所 | 〒651-2129 兵庫県神戸市西区白水1−33−4 |
| 所属 | 社叢学会 会員 社叢インストラクター ひょうご森の倶楽部 親林隊員 ひょうご森のインストラクター 三木山サポーターズクラブ 会員 日本自然保護協会 自然観察指導員 延命寺公園を護る会 管理会会長 |
@ 『明石公園の自然環境に親しむ会』
私が故松下嘉夫氏と共に立ち上げた自然観察会です。主として樹木を中心としましたが、現在、後継者が担当して盛況を博しています。定員枠を超える申し込み者があるのは嬉しい限りです。
A 『とちわらこども自然体験キャンプ場』
朝倉克浩氏が祖先より受け継いだ昔の庄屋の百年家を活用、週末を中心に自然観察教室を信念に基づき活動しています。周辺は恵まれた自然環境ですが、文字通りに過疎の山村です。朝倉家の前の畑で丹精こめた有機農業で育てた野菜など、直に味わえる施設です。
新鮮な鶏卵は近くで求められますが、ネギがあっても、カモは背負って行って下さい。周辺環境整備などに「ひょうごの森」の仲間を誘ってお手伝いをして来ました。
B『ひょうごの森』の活動
阪神淡路大震災後に兵庫県知事:貝原俊民氏が県下に号令をかけて誕生したボランティア組織の一つです。
私は以降、『ひょうご森の倶楽部』と『ひょうご森のインストラクター』に所属してこれまで活動を継続して来ました。
目下、兵庫県立三木山森林公園内と加古川市内の国有林・弁財天山などの里山保全活動に参加しています。
加えて三木山森林公園では、サポーターズの一員として、加古川水系の絶滅危機種の山野草復元のお手伝いをしています。
C 『社叢学会・社叢インストラクター』
鎮守の森の活動をしています。これとは別に社叢学会の一宮研究会に所属して、社叢の歴史と社叢のあるべき姿などを追求しています。
D 『延命寺公園の自然環境を護る会』
主宰者として活動しています。後述します。
@ 『道 そして何か幾つか』 1996年 11月
A 『明石公園の樹木と自然観察』 2005年 3月
B 『鎮守の森の樹誌』 2010年 4月
C 『播磨国「伊和神社」と但馬国「出石神社」の狭間の式内社 「赤羽神社」の周辺
並びに今後の社叢のあり方についての序論』 2010年5月
C-2 『村社とされた播磨国明石郡の式内社「赤羽神社」周辺について』 2010年11月
C-3 『播磨国明石の式内社「赤羽神社」の里』 2011年5月
C-4 『播磨国明石郡式内社 「宇留春日神社」の里』 2011年11月
C-5 『播磨国明石郡式内社「弥賀多多神社・堅田神社」の里』 2012年5月
いずれも私家版の小冊子、兵庫県立図書館、兵庫県立人と自然の博物館図書室、神戸市立中央図書館と西館、明石市立図書館で閲覧できます。
D 紙芝居『明石公園物語』 2003年
原案・脚本 川村道哉 時代考証 宮本博(司書) 監修 高田崇正(教諭)
美術 山下みえこ(明石アートクラブ)
明石市立図書館児童部、ひょうご環境創造協会にて閲覧に供しています。
日本の国は1945年8月15日、アジア太平洋戦争で敗れ、都市は焦土と化し、戦いの終わった後の山河は、見るも無残な姿に変わり果てました。その結果、沖積平野にある都市・農村は幾多の台風と水害に見舞われ、人々は苦難の道を歩みました。それでも勤勉な私たち日本人の先輩たちの努力の成果の一つとして、わずか25年で戦前は弾丸列車でイメージされた新幹線を東京と大阪間を3時間余りで走らせ、大阪府の郊外・千里山で万国博を開催して、『世界の国からこんにちは!』と挨拶をしました。
あれ以降、昭和の経済高度成長の大きなうねりに巻き込まれた私たち日本人は何を得て、何を失ったでしょうか。答えは数え切れないほどありましょう。帰する処、この狭い国土で1億3千万の日本人は生存していかなければなりません。資源が少ないと言われたこの国土で私たちは、何かを生み出し続けねば戦いに敗れるどころの比でなく、生存できずに日本の国は破滅の道を歩むことになりましょう。
そのため日本のこの国土、この自然環境を私たちはどのように運用するか、大きな鍵がここにあるように思います。縄文の時代よりこの方、日本の国は森の中に生まれ、森に依存して生活が始まり、森の中に鎮まるカミを見出して、その八百万の神々を崇拝して弥生時代の前から農耕が始まり、やがては大和朝廷が奈良盆地を中心に仏教文化を受け入れて中央集権政府を樹立して、現代に至っています。この国の始まりの8世紀頃は世界的にも温暖な気候に恵まれていたそうです。それが京都議定書が成立しても産業革命以降、進んでいる温暖化現象をこのまま阻止できないとすると世界の文明は21世紀中に滅亡すると言われております。
人間は単独・一人では生きられません。多くの人々が力を合わせて社会を築き、多くの他の生物のいのちをいただきながら生かされているこの現実を直視すると、あらゆる生物のなかでも霊長類のトップを占めると言ってた人間も、所詮、地球に寄生する一生物に過ぎません。 私たちは毎日の糧のため忙しく働いています。それでも森のなかで静かに瞑想する余裕を見つけませんか。
先祖から受継いできたこの大いなる遺産・国土の森の中には私たちが現在知らない力が隠されているような気がします。樹木の繁っている森、広い山野に田畑、海にそそぐ河川、母なる海原など自然環境に私達は近づきましたら自ずから感謝の気持ちが起こりましょう。先祖から受け継いで来たこの自然、地球環境を未来に引き継ぐために、その働きかけのお手伝いを少しでも出来たらと思っています。森の神々も私達の未来に力を貸して下さる事と信じています。
神戸市西区白水に市民用に鎮守の森とも言うべき延命寺公園が、2006年6月20日に完成しました。わずか2515平方メートル(2反5畝)の小さな街区公園です。
伊川河岸段丘右岸の南端は共同墓地があり、その隣は昔、城山とも墓山とも言われた白水集落の入会地がありました。
その北側にある団地に1981(昭和56)年9月に引越しして来た当時は、マツクイムシにやられた赤松の大木が倒れていて、燃料革命のため見向きもされなくなった放置林でした。アベマキやコナラなど落葉高木とモチノキ類にヤマモモ、カクレミノなど常緑樹が密生していて昼なお暗き藪で、その上に私の太ももより太いヤマフジの幹が地上や樹木間を絡み合っていて、大人でも恐ろしくて近寄り難い森だったのです。
不燃粗大ゴミが積み上げられていて,腐食しないビニール製袋類や菓子類の包装紙が地上に散乱して、オマケに一升瓶にビール瓶、瓦礫など捨て場所になっていました。それも落ち葉の中に埋まったままの腐らない状態で長らく放置されていたので腐葉土を掘り下げて、廃棄物を数年かけて拾い集めました。
地役権者は丘の下の地元白水集落、その入会地で、かつては春秋2回の村中総出の手入れもして来た墓地隣の里山林でしたが、引越した当時は既に山の柴刈りの手入れをしない・出来ない時代に入っていたのです。専業農家もなくなり、いわば放棄した山の状態であって、バブル経済が崩壊してから周辺の土地の区画整理事業を開始しました。この森の周辺の農地・牧場・竹林・農業田溜池など整理して宅地造成地となり、それに付随して公園の設置が必要となったため、この森が公園用地として企画されたのです。
潤和 財産区管理会の延命寺公園整備工事は、この丘の共有林を神戸市へ街区公園として移管する前提で始まったのです。それも数年前に高木となっている落葉樹が台風で転倒して団地住宅に損害を与える危難を避けるため、業者に伐採させるまでは私が散策するのに適した美林の里山林に仕上げていたのです。ところがアベマキ・コナラなどを伐採後は、山の林の中に陽が差し込み、ネザサと外来帰化草本類が一斉に蔓延して荒れ果てて無残な様相になりました。
神戸市は公園として受け入れるために児童の遊具と大人のスポーツ装置を設けて、身障者も利用できるように緩やかな勾配の4メートル幅の舗装道路を敷設して、災害発生時など緊急時にこの公園に車両を駐車することを計画していたのです。この丘ののり面をコンクリートで固めた人工的な公園に造成する計画が決まっていて、車椅子が登れるようにゆるやかに一周するスロープを敷設するため、この森の80%の樹木を伐採する必要が生じました。この森の樹木を伐採すると周辺からお墓が丸見えになって団地住民の強い反対にあい、また丘の周囲をコンクリートのよう壁で築き、舗装道路を敷設することは造成費用がかなり増大して地益権者の潤和区画整理事業組合も、その負担に耐えかねる反対意見でした。これに対して大震災を経験した震災都市の神戸市が地球温暖化の対応策が要請されている昨今、国や県の政策とは逆の方向へ企画している本案を廃棄して潜在自然植生の鎮守の森・縄文の森への回帰と景観の維持と地球温暖化阻止のために都市緑地として、その緑を継続・保全するよう発想の転換を求めて、私は白水墓地管理会とは別個に、神戸市の公園担当部署と折衝を重ねました。これに対して、あくまで市の政策を盾に規定の計画を覆すことが出来ないとの担当行政職の回答でした。
兵庫県は平成17年度から農林水産部の施策として『新ひょうごの森づくり拡充事業』の5ヵ年計画を発表しました。内容は住民参画型とミニ里山公園型の2方式で専門家の派遣、資材の提供、森林整備、観察路の開設等が予算化され、これを主宰するボランテイア管理会には別途、助成もするというプランです。
私は、この助成を受けないで神戸市長に直接、この緑の里山を伐採して低木を主体とする公園にすることは、管理には都合がよかろうとも、秀吉の悪名高い『播磨攻め』で廃寺になった『延命寺』という名称を残すためにも、全くふさわしくない公園化計画と書いた書簡を送りました。白水の発掘調査の終わった寺跡を記念する公園である以上は、環境保全が問題化されている現今、時勢に合わない行政計画と、その変更を求めたのです。暫くして[樹木を残して景観に配慮しながら安全で安心な公園に、新たに植樹もする方向で調整する]という公文書が届きました。兵庫県の森林政策では、例えハギレのような造成地の残りの土地でも緑を残すよう保全の指導をしていて、時期を得た適切な助言があっての遷移にまかせる自然植生の鎮守の森形式が護られたのです。
この森にはタヌキ・イタチが棲み、野良猫どもの巣窟でさえあったこともあり、キジやキジバトが猛禽類や野良猫の地上攻撃波の危険を顧みず帰巣本能で孵化に帰って来ます。その他の野鳥もヤマモモやモチノキ類,その他の果実など実る樹木があって楽しみにしています。歓迎すべからざる客にコガタスズメバチ、薮蚊に蛇、トカゲ、それに大きなムカデも頑張っています。かつては脇の農業用溜池のイシガメもこの森で産卵していた時代もあったのです。
これからは21世紀の調和の時代に対して市民が憩える公園となって、なお遷移の法則に従って潜在植生の常緑樹が繁るこの土地本来の森・縄文時代の森へと回帰する公園であることを願っています。縁があってこの森の近くに住むことになりましたが、以前、この地の『白水遺跡』調査を神戸市教育委員会文化財課が行っていた事を知っていました。その報告書を眺めてみると古くは弥生時代中期の河道が発見されており、後期の竪穴住居と土器棺が、古墳時代中期から後期に掘立建物、祭祀遺構、延命寺古墳、流路と溝、後期の水田が、そして奈良時代には土器と瓦に始まって梵鐘鋳造遺跡・その他が発見されて10世紀後半から11世紀前半の平安時代中期に、この寺院の最盛期を迎えていたそうです。それから建物の方向が明石郡の条里制へ一致する傾向が見られて、それ以降の『伊川荘』へと進んだようです。これからもこの森のお世話を引き継いで行き、更にまたそれがバトンタッチされてこそ、この森が生かされると思っています。いわば延命寺が繁栄していた頃の当地のご先祖が残してくれた鎮守の森として、小さいながらも未来に存在を誇れる公園であって欲しいと願っています。
なお鎮守の森の研究、保存とその活用と今後の展開については2002年に『社叢学会』が発足していて、学際的な研究成果が、やがて地球環境の緑化復元維持のため京都議定書が署名されたその地の京都を中心に日本全国に、いや全世界・この地球上に発信しています。歴史上、森を失って滅亡した文明国家群がいくつあるか、それを真摯に受け止める国民なら必ずや未来に夢を画けていくものと確信しています。
(2010.7.1改訂)
以上