現在のページリンク集→米国国務省外交研修所・日本校(講演録)、日米地方政治その違いの由来

 

平成23228日、横浜の港の見える丘近くにある米国国務省外交研修所・日本校において、以下のような講演をしました。           上橋 泉

 

日米地方政治は何故かくも違って見えるのか?

その違いの由来についての考察

 

 今日、日本の地方政治は大きな曲がり角に立っている。大阪、愛知、名古屋、神奈川に見るが如く、中央政府から独立したいとの心情が地方で広がっている。ローカル政党が各地で誕生している。日本の地方は中央政府によって武力で押さえられているわけではないが、この国の行財政制度が、中央政府が地方を自由にコントロールできる体制になっているので、この体制を壊したい、或は、この体制の中でいかに地方の自由度を高めるか、熱い議論が地方で戦わされている。

両国に制度の大きな違いがあるにも関わらず
制度の違いが理解されず生まれている誤解

 

制度の違い(その1)  (日本の3段構造とアメリカの4段構造の違い)
アメリカの市町村議員はボランティアであるが、日本のそれは高給取である。
 

(答)日本の市町村はアメリカの郡に比すべきものである。日本の市町村議員は、アメリカの郡参事官に比べれば待遇がよいわけではない。 

制度の違い(その2)  (日本では国と地方の事務が重複している)日本の地方政治は効率が悪い。日本の市町村役場の建物は、アメリカのそれに比し巨大過ぎる。 

(答)日本の市町村の事務の範囲は、外交と国防を除いて中央政府と同一である。日本の行政は、国が企画をして資金を準備し、資金は県を経由して市町村に配布され市町村が執行している。現在行われている景気対策も、国が地方に使途を限定した交付金を配布するという形で行われている。日本の市町村は巨額の予算を執行しているが、中央政府の各省が定める使途にしか使用できないと言う不満が強い。
 アメリカでは公的予算の半分を連邦政府が使っているが、日本では中央政府は公的予算の
40%しか使っていない。アメリカでは各地に巨大なフェデラル・ビルディングがあるが、日本の国土交通省の国道河川管理事務所など小さなもので、今年の豪雪に対応できなかった。
 市町村を国の執行機関とする日本の行政システムは伊藤博文が作り上げた。ナショナルミニマムの確保と言う点で、これ以上精緻なシステムはないが、近年地方分権の声が高まりで激しい批判にさらされている。

 

制度の違い(その3)  (日本の地方政府のコーポレートガバナンスの欠陥)
日本の地方議会は行政追従傾向が強く、その働きが見えない。地方議員の資質がアメリカのそれに比し劣るのではないか?
 

(答)戦後の地方自治が久しく議会が行政に追従する形で運営されてきたのは事実であるが、日本の地方政治家の資質がアメリカのそれに比し落ちると言うよりも、日本の地方自治体のコーポレートガバナンスの欠陥に由来する部分が大きい。 

日本の地方自治法では、議会の権限が行政の権限に比し制限的である(例えば、議長に議会召集権がない)。権限の弱い分だけ、議会が自治体の政策について責任を問われる局面も少ない。議会が有権者に対し説明責任を問われないと言うことになると、議会の役職を決めるに当って議員の能力が顧みられることはない。通常、組織の役職に対する待遇はその責任に比例するが、日本の地方議会では以上に述べた事情から、待遇は全員一律である(米英では地方議会に到るも、議会の会派の人事でメリットクラシーが徹底しており、議員の待遇も通常の組織のように階層型になっている)。 

日本の地方議会がこんなことになったのは、GHQの憲法起草者に地方自治の専門家がいなかったからである。また、日本の地方自治体のコーポレートガバナンスの設計に選択肢をもたせなかったことも、憲法の大きな欠陥である。自治体の規模によりコーポレートガバナンスの形態が異なった方が、効率がよいのは目に見えている。 

近年、名古屋市・鹿児島県阿久根市・千葉県松戸市などで見るとおり議会が行政に追従するする傾向は弱くなっている。以前は、市長に追従する議員には、彼の選挙地盤に予算を多く配分することがあった。しかし、今では市長が議員に褒美を与えるだけの財源がない。それどころか、改革に熱心な市長は議員の待遇を下げようとしている。議会と市長の対立は広がるだろう。
夕張市の財政破綻が引き金となって、議会は何をしてきたのかと議会の責任を問う声が大きくなっている。これらの事例は、日本の地方自治の制度改正が必要な時期にさしかかってきたことを示している。
 

制度の違い(その4)  (日本の公職者の現職出馬禁止制度)
日本の地方自治体の首長選挙では、共産党を除く全政党の相乗り候補が勝利することが多い(
1970年代は首長選挙で保革対立が多かったが、冷戦終結以降は共産党を除く全政党の相乗り選挙がほとんどになった。しかし近年相乗り選挙が減る傾向が出てきた)。対抗馬は、共産党か、よほどの変わり者しか出ない。日本の政治家は夢も野心もないのか? 

(答)日本の政治家の政治家の勇気をくじいているものに、公職者の現職出馬禁止制度がある。議員も生活をしているから、簡単には現在所得を得ている公職を捨てるわけにはゆかない。日本で、なぜ現職出馬禁止制度が設けられたかというと、日本人の極端な潔癖性がある。 

日本の国民性の特異性が生み出している
日本の政治の特異性を草の根で見る

 

国民性の特異性(その1)   (日本人は政治を不浄と考える)
日本では市民参加型の政党地方組織が未発達で、自民党の政党地方組織は地方議員後援会の連合体(地方組織の代表は地方議員が占めており、アメリカのように一般市民が地方組織の代表に就くことはまずない)、民主党のそれは労働組合主体、公明党のそれは
100%創価学会になっている。市民参加型の政党地方組織は共産党以外では見られない。日本人の一般市民は、なぜ政治参加をしないのか?
 

(答)日本人は政治を不浄なものと考える傾向がある。日本でも地方では政治家を身近に知る(親戚、同級生、同じ村)ことができるので、政治を毛嫌いするという傾向がいくらか弱いが、大都市圏ではサラリーマン層は政治参加しないだけでなく、政治家にアプローチされることも毛嫌いする。大都市圏で自民党の地方組織に加わる人たちは決まって土着の人たちである。 

国民性の特異性(その2)   (日本人は嫉妬心が強い)
日本では何故、大政治家が出ないのか?
 

(答)日本人は優れた個人を顕彰しようとしない。日本人は自分より優れた個人がいることを認めたがらないためだろう。故に、日本では国でも地方でも公共物に政治家名を冠することをしない。日本人は他人の野心が許せない。野心は全て不純だと考えるからだ。夢をもつことより、野心を持たないことの方が道徳的な生き方だと考える傾向がある。その結果、夢を持たない自分が、夢を語る人物の足を引っ張っても、悪いことをしているとの自覚がもてない。むしろ、日本人は、「夢を持たない自分は潔癖だ」と誇らしく思っている。この傾向が、国でも地方でも大政治家を生み出す大きな足かせとなっている。 

国民性の特異性(その3)   (日本人は合議機関である議会が好きではない)
国政では短命内閣が続く。一方、いずこの県でも知事は超長期政権である(首長が上級官庁の出身者である場合が一番長期政権になる)。日本では、優秀な政治的人材は必ず地方首長をめざすのだろうか?
この傾向は、江戸時代から認められる。江戸時代も名君は決まって地方の藩主である。上杉鷹山は名君と言われたが、彼に劣らず質素な生活を貫いた老中の松平定信や水野忠邦は何故不評だったのか?

(答)国政の短命内閣、地方の超長期政権という極端なコントラストの原因を、国は議院内閣制、地方は首長直接選挙制という制度的違いに求める説もある。明治に議会制度が始まって以来、欧米並みの長期政権は四内閣(伊藤、桂、吉田、佐藤)しかないからであるが、議院内閣制をとるイギリス・ドイツが長期安定政権であることを考えると、議院内閣制が短命政権の原因であると見ることは正しくない。 

日本人は中国人、朝鮮人と違って自己宣伝しない(日本と両国の外交関係が悪いのは、過去の歴史のせいではなく国民性の違いによる)。日本人は「自己宣伝は徳の高い人間のすることではない」と考えている。日本人はこの徳目に忠実すぎて、自己宣伝をする政治家を軽蔑する。議会は自己宣伝マンの集合体であり、猥雑な世界である。

一方、行政は選挙で選ばれるトップ一人を除いて自己宣伝する必要のない組織である。日本の行政は歴史的に腐敗が少なかったのも事実である。これらの理由からだろうか、日本人は明治以来、国でも地方でも議会を行政より劣位に置いてきた。 

 議員が行政課題をテーマに集会を催しても人が集まらない(選挙時の動員集会は性格が異なる)。同じテーマで行政が集会を催すと人が集まる。この現実に議員は愕然と来る。一般人は、「議員の発言は政治的に脚色されていて信用できない」と考えているのではないかと、議員は疑心暗鬼になる。
 社会教育団体、文化団体がイベントを行うときには、しゃかりきになって行政や教育委員会の後援名義を取ろうとする。官僚不信が頂点に達していると言われる今日でも、この傾向は微動だにしていない。
 アメリカでは議会が軍人や市民を表彰することが多い。大統領に表彰されるより権威があると思われている。日本では、議会から表彰されても誰も喜ばないから、議会が表彰するのは永年勤続の議員だけである。
 

論争することが嫌いな傾向も加わって、日本人は合議機関である国会や議会をとことん毛嫌いするようになった。今では、日本人は合議機関である国会で選ばれる首相に権威を認めないし、議会から選ばれない地方の知事や市長の方に権威を認める。 

江戸時代、藩政は藩主専制で運営されたとのイメージがある(名君はいずれも開明型専制君主であったように物語では伝えられており、ドラマでもそのように描かれる)。徳川幕府は、最初の三代と吉宗を除いて、幕閣の合議制で運営されていた。
 老中の松平定信や水野忠邦がいかに質素な生活を貫いても、彼らが合議制機関に所属している以上、彼らが国民から評価されることはなかった。上杉鷹山が今日に到るまで高い評価を受けるのは、開明型専制君主であったからである。
 

日本人の思想性と日本外交の形

(疑問)
日本の外交スタイルは、普遍性を持つ世界像を自らは決して提示しないで、それを外国政府に提示させて、そのフレームの中で日本の利益を図ろうとするもので、この姿勢は明治以来、一貫して変わらない。
 明治以来、日本政府が世界に向かって普遍性を持つ世界像を提示したのは、二度しかない。一つはベルサイユ会議での人種平等宣言、もう一つは大東亜共栄圏宣言である(世界から歓迎されたかどうかは問わない)。日本政府が胸を張って出した世界政策は、明治以降、後者一つしかない(ベルサイユ会議での人種平等宣言は控えめに提案し、英米の反対に会うとすぐ引っ込めた)。大東亜共栄圏宣言は
1955年のバンドンAA会議の生みの親となっている。日本はもっと世界に普遍性ある理念を提示してもよいのではないかと思われるが、何故しないのだろうか? 
 

(答)世界に向かって普遍性ある理念を提示することをしないのは政治家に限らない。学者文化人でも、岡倉天心、内村鑑三、新渡戸稲造、鈴木大拙、大東亜共栄圏の基礎付けをした京都学派の学者を除いてほとんどいない(後述するが、日本国内では思想論争は盛んで思想の博物館と言われるくらい多種多様の思想が生まれている。しかし、それを世界に広げてゆこうとした思想家はほとんどいない)。これは、明治以降、日本のインテリが西洋の学問ばかりしてきた為なのであろうか?それとも、日本の大衆にも思想は外から来るものと考える傾向があって、それがインテリの足を引っ張って普遍性を持つ日本発の世界像を考える勇気をくじいているのだろうか?私の考えは、以下の通りである。 

日本人は、1980年代に、「日本人は経済効率のことしか考えられない、思想性のない低俗な民族である」と主張したレビジョニスト(例:チャーマーズ・ジョンソン、カレル・ウォルフレン)が考えるほど思想性のない国民ではない。日本の思想にも独創性は十分あると、「日本人は、思想は外から来るものと考えている」(『この国のかたち』の巻頭)と主張する歴史小説家・司馬遼太郎も認める。 

日本の歴史で思想の花が開いたのは鎌倉期と江戸期である。今日の日本仏教の三大宗派(浄土真宗、曹洞宗、日蓮宗)が生まれたのは鎌倉期である。それぞれの宗派の開祖である親鸞、道元、日蓮の絶対者のとらえ方は、ドイツ観念論の三大哲学者カント、シュライエルマッヘル、ヘーゲルのそれに相当する。親鸞とシュライエルマッヘルは絶対者を慈父母のようにとらえ(情的把握)、道元とカントは各人の内なる絶対者の道徳律を実生活で実現する義務を説き(意志的把握)、日蓮とヘーゲルは歴史を絶対者の意思の展開と見て、絶対者の意思を正確に理解する必要性を説いた(知的把握)。 

江戸初期の中江藤樹は、朱子学のみが公認哲学とされた江戸初期において、朱子学のアンチテーゼである陽明学の思想的深化に努めるだけでなく、それを庶民の実践哲学とした。彼の宇宙観はスピノザの宇宙観に似て、宇宙万物の本質は、宇宙の始まりとともにある神聖なる要素が充満したものであり、この神聖なる要素が具現化したものが人間であると説いた。彼は人間の価値・能力を説く際に、階級的身分に論及することが全然なかった。彼の私塾では、全ての階級の者が机を並べていた。
 中江藤樹の宇宙観並びに人間観は、多くの儒学者に影響を与え、以降、日本における儒教思想において朱子学的人間観(インテリだけに思想能力があり、大衆は牛馬の如く思想能力もないとして、身分制階級社会を宇宙意思が要求するものであるとした)は影をひそめて行く。これが明治維新において下級武士と庶民層が江戸期の身分制階級秩序を破壊する原動力となっている。日本人はフランス革命の影響を受けるまでもなく、既に平等な人間観をもっていたのである。
 

江戸中期に出た禅僧・白隠は、キリストが神を父と呼んだように、仏を父と呼び、迷へる人間を、富豪の息子に生まれながら家出をして生活に困窮した放蕩息子にたとえた。これは、キリストが語った放蕩息子のたとえ話と瓜二つである。 

このように、西洋思想史に登場する主要な思想は、それと瓜二つの思想が日本で独自に生まれている。それは、ニュートンの微積分学と同じ数学が、和算としてニュートンと同時期に生まれていたのと同じ現象である(鎌倉仏教はドイツ観念論よりはるかに古い)。 

明治維新後、日本の思想はインテリの目指す方向と大衆を教導した新興宗教家の目指す方向とに二分化してしまう。民間のインテリ思想家たちは、帝国主義の世界において日本とアジアはいかに連携すべきかという政戦略論に進む。一方、人間並びに宇宙の本質論は大衆を教導した新興宗教家・道徳思想家が担うことになった(いくつかの新興宗教はユニークな天地創造理論をもっている)。勿論、アカデミックな世界は西洋思想の圧倒的な影響下に入るのであるが、江戸期の官学であった朱子学の学者に佐藤一斎を除いて見るべき思想家がいなかったのに等しく、西洋思想の影響下に入ったアカデミズムの学者で見るべき思想家は西田幾多郎くらいである(西田幾多郎も西洋思想と距離を開けることによって独自思想を展開した)。 

明治維新後、新興宗教では世界布教に尽力した例がいくつかある。戦前は天理教が朝鮮布教に努め、戦後は世界救世教が自然農法と手かざしのヒーリング手法を発展途上国に広げた。国粋的な生長の家とモラロジーがブラジルの日系人に広がり、今日では日系人以外にも広がりを見せている。創価学会は海外布教の成功を誇っているが、国粋的な日蓮宗の色彩を完全に喪失している。 

日本人の思想的独創性は司馬遼太郎が言うように高く評価できるものの、日本の大衆は自分の信仰生活が日本流であれば満足であり、そのスタイルを海外にまで広めたいとは思わないようだ。アメリカが世界中に福音伝道師を派遣したのとは雲泥の違いがある。「思想は外から来るものと考える」日本人の傾向は、「日本流のやり方を世界に広げようとは決してしない」という意味に限定すると正しい。 

日本人の思想面における非侵略的傾向が、日本に思想なしと誤解される大きな原因となっているが、実際には日本では西洋思想史に登場する主要な思想に相当する思想が生まれ、これらの思想が大衆を教導してきた。これらの思想家がアカデミズムの世界に住む人たちではなかったことが日本思想史の大きな特色である(ドイツ観念論の三大哲学者はいずれも学者としてメシを食べてきた。明治以降の日本のインテリは彼らに威伏してしまったわけであるが、我々はキリストが生涯を通じてアカデミズムの世界とは無縁の人物であったことに思いを馳せる必要がある)。 

明治以降、日本と西洋の思想交流は、アカデミズムの世界に住む人たちだけで行われてきた。日本の学者たちは西洋の思想家の書物は読んでも、日本の新興宗教家・道徳思想家の書物を読むことはなかったので、西洋の学者に「日本に思想なし」と伝えたのだろう。それを日本人一般は別に残念とは思わなかった。日本人一般は日本の思想で人生を送れることに十分満足していたのである。 

ところが世界の舞台では沈黙は必ずしも金ではない。精緻な論理で裏打ちされた外国政府提案の世界像に日本政府の当局者はしり込みをしている。この自信のなさが、日米の外交スタイルの違いに反映されているのだろう。普遍性を持つ世界像を自らは決して提示しないで、それを外国政府に提示させて、そのフレームの中で日本の利益を図ろうとする日本の外交姿勢は明治以来、一貫して変わらない。

 

 


 

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