「きょうの論談」巻頭インタビュ草稿

千葉県柏市議会議員 上橋 泉

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教育界の閉鎖性こそが混迷の真の原因教育改革は地方分権・管理責任の単元化で

本文
-----自民党の新憲法草案と民主党の憲法提言が出揃い、改憲論争が本格的になってきましたが、本来的には、憲法改正と密接不可分な重要課題として、戦後教育の根幹をなしてきた教育基本法改正があります。
 この「教育の憲法」と言われる教育基本法の改正について、地方自治の視点から見ていかがお考えでしょうか。

上橋 保守系の人々は、戦後教育の究極の問題点は教育基本法にあると考えています。その考え方に私も同感です。
 しかし、教育基本法が改正されれば、現下の教育現場の諸問題が解決されるとはとても思えません。具体例として、今日教育現場で最大の問題となっている学級崩壊をみてみましょう。
 私が子供の頃までは、どの学校にも「名物教師」がいて、どんなワルガキでも、名物教師の授業には吸い寄せられて熱心に話を聞いたものです。
しかし、今日の生徒は、どんな名物教師をもってしても、授業崩壊をくい止めることはできないと聞いています。
 これは、教育基本法以前の社会問題ではないのか。
 「問題児童」が、「問題教師」からよりも、社会からの悪影響でそうなっていることは明らかです。
 こうした社会の風潮が教育基本法改正で一変するとは、考えられません。


-----保守系の考える教育基本法改正一辺倒では、事の解決にはならないということですね。

上橋 私が保守系の人々の考えに疑問を感じるようになったきっかけは、平成161129日に東京の日比谷公会堂で行われた「教育基本法改正・中央国民大会」でした。
 文部科学大臣と森喜朗氏や西岡武夫氏ら文教族の国会議員が、全国から集まった数千名の人々の期待を裏切って、この集会を義務教育費財源委譲の反対集会に切り変えてしまったのです。
 「なぜ教育基本法改正が義務教育費国庫負担堅持につながるのか」と主催者に尋ねますと、「教育基本法が改正されても、文科省の教育現場に対する管理権が失われてしまったら、改正教育基本法の趣旨が現場まで浸透しないからだ」という返事でした。
 この回答が示すように、文部省の教育現場に対する管理権確保の思いは強いものがあります。

 私は地方自治の現場にいる者として、中央集権的統治が国民から自己責任感覚を奪ってきたことを熟知しているので、教育改革を中央集権的手法ですることには賛成できないのです。

-----なぜそれほどまでに管理権に固執するのでしょうかね。

上橋 保守系の人々は、日教組の支配する地方の教育界に自浄能力など期待できない、という気持なのだと思います。
 しかし、教育界が混迷を続けている理由は、別のところにあると私は思っています。私は、教育界が制度的に世間から遊離した非常に風通しの悪い世界になっているところに根本的な原因があるのであって、教育の理念の欠陥は、教育混迷の二次的な原因だろうと思います。

 そもそも日本人には、非常に潔癖なところがあって、政治を不浄なものと見る傾向が強くあります。明治の日本人は、軍事と教育を政争の手の届かないところにおこうとしました。軍事の政治からの独立(統帥権の独立)が日本をその後どのように導いたか、よく知られるところです。
 一方、教育界の独立が日本をどう導いたかについては、統帥権の独立ほどには論じられることはなかったものの、戦後になって、戦前の日本の教育は、その道徳教育的側面、愛国的性格が厳しく批判されてきました。教育勅語があったために、日本は侵略戦争をするようになったのだという、常識から考えれば、荒唐無稽な主張すらなされています。


-----教育勅語に関しては、いまだに強いアレルギーがありますね。

上橋 戦前の日本の教育の陰惨な印象を教育勅語の責任にするのは誤っています。
 戦後三代目の文部大臣であった田中耕太郎(後の最高裁長官)は、戦前の日本の教育の問題は教育勅語ではなく、師範学校という閉鎖的な教員養成機関にあると考えて、教育学部を総合大学に所属させることとしました。教員がその養成課程において、他学部の学生と交流すれば、幅の広い人間になれると田中耕太郎は考えたのです。
 しかし、戦後の教員も戦前の教員に劣らず、ゆがんだ世界観をもっています。
 日教組、全教という時代錯誤の世界観をもった労働組合が、いまだに教育界を支配している事実は、教育界が一種独特な世界であることを如実に物語っているものだと思います。

ところが、日教組と長年にわたって戦ってきた文科省も、奇妙なところで日教組と価値観を共有しています。
 統師権の独立の論拠が政治の介入の阻止であったのと同じように、文部科学省、地方教育委員会も政治の介入を阻止するために、教育の独立が必要だと考えています。
 彼らが義務教育費の財源移譲に反対するのは、首長に教育の独立を犯されるのではないかと考えているからです。
 イデオロギー的には反対の立場に立つはずの文科省・地方教育委員会と日教組が、教育の独立性の堅持という点で、がっちりスクラムを組んでいます。
 この状況はきわめて日本的な現象です。戦前の軍部が統帥権の独立を主張したのと同じ現象なのではないか、と思えてなりません。


-----日本の教育界は、特殊世界にあるわけですね。

上橋 保守系の人たちは、教育基本法を改正し、その趣旨を全国の教育現場にまで浸透させるについて、文科省に大きな期待を寄せていますが、では、文科省は信頼するに値する官庁なのか、文科省の教育政策は、成果を収めてきているのか、よく考えてほしいと思います。
 実際は、ほとんどの国民が、日本の教育には、どこか根本的に大きな問題があると考えているのが実情です。
 しかし、その究極の責任が、国にあるのか、県にあるのか、市にあるのか、首長にあるのか、教育委員会にあるのか、現場の校長にあるのか、日本の教育は、その所在が明確にできないシステムになっています。


-----まるで伏魔殿ですね。

上橋 議員になって15年間、柏市の教育委員会を観察し続けてきましたが、教育界は、なんと風通しの悪い世界だと思うようになりました。
 教育委員会がアメリカで独立機関とされているのは、教育委員が公選されているところに本質があります。
 教育委員が公選される中で、世間の風が入ってきますが、日本のように教育長が教員
OBから教員OBにバトンタッチされたのでは、風通しが悪くなるのは当然です。
 しかし、市長は、これにメスを入れられない。教員が教員の
OBに管理されているようなことでは、世間の流れについてゆけなくなるのは無理もない話です。

-----淀みの中では、悪弊も数多く生まれて当然でしょうね。

上橋 例えば、教員にも世間並の不祥事がありますが、教員の世界には信賞必罰がなく、教員は教員をかばう傾向が非常に強くあります。
 また、過疎県では、教育の地位は、実質的に世襲されるようになっています。
 つまり、教員の子弟が優先的に教育委員会によって採用されているような実態があるわけです。


-----教育委員会制度に問題点が多いわけですね。

上橋 地方教育委員会制度の問題は、その権限がいくつにも分散されていることにあります。
 知事、県教育長、市町村長、市町村教育長、これらの中で誰が究極的に責任を負うのか、明確にされていないのです。

 折しも、アイディアマンとして全国に知られた埼玉県志木市の元市長・穂坂邦夫氏が「教育委員会廃止論」という本を出版されましたが、そこでは、教育の権限と責任がどこにあるのか、誰にでも明らかな組織が必要であるとの主張がなされています。
 国の地方制度調査会も、その問題意識を共有しているのでしょうか、教育委員会と農業委員会の必置義務を定めた地方自治法の規定を廃止しようという議論がなされているところです。


-----先ほど、「教育の独立」に関しての言及がありましたが、果たして実現可能なことでしょうか。

上橋 教育は、政治から独立する必要があると言われているわけですが、教育ほど政治色の強い行政サービスはないと思います。
 地方自治体の所管する行政サービスの中で、イデオロギーが顔を出してくるのは、教育だけです。 政治から独立した教育というのは、政治から独立した軍事がありえないように、大いなる欺瞞であると思います。

 アメリカでは、「進化論」を教えるべきかどうかをめぐって、教育委員の選挙が行われます。
 教育が政治と不可分一体である以上、教育の諸問題も結局のところ、政治が決めるしかないのです。東京・杉並区の教科書採択も、結局は民主主義の根本原理である多数決によって行われました。これでいいのではないでしょうか。
 逆に、教員や、その
OBたちが密室で教科書採択を決めることほど不明朗なものはないのではないか、と思います。

 今後の教育改革は、どうあるべきでしょうか。

上橋 戦前の対外戦争とその最終的敗戦の原因を、教育勅語に求めるのが誤りであるのと同じように、戦後教育の混迷の原因を教育基本法にのみ求めるのも、また誤っています。
 人間の思考は、抽象的理念に動かされるよりは、制度的枠組みによって、より大きく影響を受けているように思います。
 戦前戦後の日本の教育に問題があるとするならば、私は、日本の教育界が戦前戦後を通じて閉鎖的世界であったことに真の原因があったと考えます。

 ですから、まず日本の教育を風通しのよいものにする必要があります。
 そのためには、教育は政治の一形態であると捉え直すことです。それをふまえた制度改正には、二つの方法があります。
 一つは、教育委員の公選制であり、他方は、教育の管理権限者を首長とすることです。
 いずれの方法でも世間の風が教育に流れ込んできます。
 どちらをとるか、個々の自治体に任せたらよい。
 いずれの方法をとるにせよ、自治体の教育管理権が強化される分だけ、文科省の権限は後退します。

 もう一つ教育現場にとっての大きな問題は、学校長に教員の人事査定権がないことです。
 市町村の教育委員会にも、市長にもその権限がありません。
 県の教育委員会が人事権をもっているわけですが、県教委は教員にとって遠い存在です。
 一般企業であれば、現場の管理者が人事に関する査定をするので、従業員は上司に不承不承でも従います。
 しかし、校長は人事査定ができないので、抵抗する教員をコントロールする術を持たないのです。
 学校は社会に有用な人材を育ててゆく機関です。その目的に沿った管理関係が組織の中になければならないのです。

 今、政府も地方六団体も、「地方分権で21世紀の日本を運営してみよう。
 失敗する地方も出てくるだろうが、自己責任でやってみよう。適者生存のルールにゆだねてみよう」ということで、腹が固まっています。
 ところが、文科省と地方教育委員会と日教組だけがこの流れに厳と反対しています。
 文科省は、教育は国の責任であり、教育の地域的失敗は許されないと考えています。
 しかし、失敗例がなければ、何が成功例なのかどうかもわからない。失敗の自由があってこそ、本当の成功例もわかるのではないでしょうか。
 保守系の人たちは、日本人の優秀さを平素は強調しながら、その実、日本人の自治能力を信用していません。
 教育でも、地方に権限を与えて自立させてみてこそ、真の愛国心ではないでしょうか。

<略歴>上橋泉(かみはし いずみ)

昭和24年、鳥取県生まれ。京都大学法学部卒。外務省からダートマス大学へ留学。在イラン大使館、在ロサンゼルス総領事館勤務。代議士秘書を経て、現在千葉県柏市議会議員(4)

訳書に『ソ連の核戦略』(山手書房)など。

 

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