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                        日本企業の新卒者採用方式はこれでよいのか?

対照的な日米大学生の就職の姿

昨年秋の金融危機以来、若者の雇用問題が深刻化している。私の息子はこの春就職活動を行ったが、息子の後姿を見ながら、私が社会に出た1970年代前半と今日と新卒予定者の就職活動の姿が全然変わっていないことに驚いている。乃ち、卒業予定者は「この就職で自分の一生の全てが決まる」と必死の構えで求職活動を行っている。

 私は1970年代の後半にアメリカに留学して、アメリカの名門校の卒業予定者が最初の就職を腰かけのつもりで気楽に求職するのを見て驚いた。彼らは20歳半ばで複数の企業で社会人としての経験を積み、20歳代後半でロー・スクールやビジネス・スクールに入る。そこを卒業する頃には30歳前後になっており、そこで初めて自分が一生とり組む職業を選択するというのが、アメリカの学卒予定者の一般的な就職の姿だった。1970年代後半のアメリカは経済的な苦境にあったが、彼らの求職の姿には日本の若者のような悲愴さが見られなかった。彼らは、最初の就職がダメでも将来のチャンスに希望をかけることができたからである。


 

日本型雇用の起源

 日米両国で何故、対照的な就職観の違いが生まれたのか。当時の私は次のように考えた。我々ベビーブーム世代は小中高と日教組の教師に教えられ、大学でもマルクス主義教授に教えを受けた。当時は高度成長期であったから、大企業は頭をまっ赤に洗脳された学生でも採用せざるを得なかった。そこで大企業は新入社員の洗脳状況を解くため、徹底的な新入社員研修を数年間もかけて行った。ここまでコストと労力をかけて企業戦士を造り上げた以上、大企業はこれを手放すことはできない。そのため大企業は採用のカルテルを組んで、転職者の採用をしないことにしたのだと20代の頃の私は理解した。


 

日本型雇用のもたらす悲劇

 私が社会に出て35年以上が経過した。この間マルクス主義は死んだ。我々は日教組の教師にダマされたことに気付いた。今の大学生はマルクス主義に何の魅力も感じていない。従って、日本企業は昔より自由な採用形態を取り、学生も昔より気楽に就職活動を行うようになったのではないかと私は勝手に想像していたが、息子や同学年の学生の求職活動の姿を見て、昔と全然変わっていないことを発見した。 

 卒業予定者が就職に必死になるのも無理はない。人の一生の幸、不幸が学校を出た時点で決められてしまうからである。卒業時に正社員として採用されなかった者は、一生非正規雇用に甘んじなければならない。就職氷河期に学校を出た若者で正規社員になれなかった人たちは、未だに非正規社員のままだ。彼らが昨年秋まで続いた好況期に就職した若者に比べて能力が劣ることは決してない。長期間、非正規雇用を強いられた彼らは、今日「自分は一生正社員になれることはないだろう」という絶望感を深めている。本年5月に発表された「平成20年中における自殺の概要資料」(警察庁)によると、就職氷河期に学校を出た年代である20代・30代の若者の自殺が近年上昇傾向にある。

 新卒採用しかしない企業にとって、社会経験のない学生を選別するのに学歴以外の基準がほとんどない。親もこの事情を熟知するが故に子供の受験教育に必死になる。日本で少子化が進みながらも受験競争が終焉しない根本原因は雇用制度にある。どんなに教育改革をしても、雇用制度が変わらなければ受験熱は衰えないだろう。


 

日本人全員が生涯のうちに移転的失業を経験してはどうか?

私はこれまで3回転職をした。このように頻繁に転職したのは、大学の同じクラスで他に一名いるに過ぎない。3回の転職の際に短期間の失業期間があって、私は合計3年近く失業を経験している。もし全ての日本人が私のように転職に伴う失業(移転的失業)を生涯のうちに数年間経験するようになれば、労使が話し合ってワークシュアリングをしなくとも、失業に伴う雇用の空白は誰かが埋めるわけだから、社会全体でワークシュアリングがされていることになる。乃ち、全ての労働者が生涯のうちに短期の移転的失業を何度か体験するようになると、ある労働者の失業期間は他の労働者の在職期間であるわけだから、このローテーションでマクロ的なワークシュアリングが行われていると見ることができるのだ。

 この社会慣行のメリットは何かというと、人間は一度や二度の失業を経験すると、「失業は必ず短期間で終わるはずだ。悲観する必要はない」と自信がついてくることにある。失業が自殺に直結することはなくなる。

 何故日本の雇用がこのような柔軟性のある形態をとることができないのか。大企業で採用にたずさわった経験のある方は本音のところを私まで教えてほしい。私は若者の雇用問題の解決策を真摯に求めています。(平成21515日)

 


 

まとめ 昨年来 派遣切りが社会問題となったとき、これも小泉改革でもたらされたアメリカ型の冷酷な雇用慣行であるとの批判がなされたが、正規社員は守られた。私も企業に余力があるかぎり、企業は正規、非正規を問わず雇用を維持すべきであると考える。

 問題は企業にその余力がなくなったとき、「リストラしないで非正規社員を首斬り、新規採用をゼロにする」日本型と「リストラをする一方で若い人を採用する」アメリカ方式のいずれがよいのかと問われたとき、私は決して日本型に賛成することができない。

 日本型雇用は従業員に暖かい経営のように見えて、不況時には新規学卒世代に犠牲が押しつけられる結果となる。一度就職戦線から追放された年齢層は、一生この不幸から脱却することができない。日本型雇用は、自分の子どもだけは溺愛するが、他人の子には同情すら寄せない親の姿によく似ている。

 失業というものが社会の必然的副産物である以上、これを社会の構成員全体が交代で短期間体験するというのが社会的公正さに適うのではないだろうか? そのためには日本の採用方式をもっと柔軟なものにする必要があるというのが私の主張である。

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