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雑誌『表現者11月号』上橋泉執筆。

国家合目的主義と庶民の宗教心の

   はざまに揺れる戦没者追悼の姿

柏市議会議員 上橋 泉

庶民は戦死に合理的に向き合えるか

 小泉元首相の靖国神社3拝がかまびすしく論じられた昨平成18年8月、外相の麻生太郎氏は、同年8月8日付の朝日新聞「私の視点」の欄に、「靖国問題・非宗教法人化こそ解決の道」と題する一文を寄稿した。

 麻生外相の主張はその表題のとおり、戦没者を祭る靖国神社並びに各地の護国神社を非宗教法人化して、天皇陛下のご親拝を可能にせよというものだ。

 麻生外相は、国家のために生命を捧げた兵士を近代国家が祭祀する行為は、政教分離の原則に照らし一抹の疑いもあってはならないとし、今日の我が国も、そうすることにより、戦没追悼施設に「諸外国の指導者にもお越しいただく」ことが可能になると主張している。麻生外相は、それに加えて、靖国神社の非宗教法人化は、「戦死者を祀る東京招魂社として生まれた創建時の趣旨に復することになる」

ということも主張している。麻生外相の主張を通じて伺えることは、世界のほとんどの国が政教分離で戦没者の追悼を行っていると、彼が理解していることである。

はたして、そうだろうか?

もっと具体的に言うと、戦死と言う、人の自然の死とは大いに異なる人の死に対して、日本でも世界のいかなる国でも、庶民が宗教的情感をぬきに、これと向きあえることが、はたして可能だろうか? 人間というものが、はたして、そんなに合理的になれるものだろうか? という疑問である。

これを靖国神社の歴史と、諸外国の戦没者の追悼の姿を通じて考えてみたい。

 

靖国神社はどのように変わってきたか

 明治2年5月の太政官布告は、「発丑以来、唱義精忠国事に斃るる者の霊魂を慰し、東山に祠を設けてこれを合祀せしむ」と述べ、戊辰の役の戦死者を追悼することを目的として東京招魂社が建てられることになった。東京招魂社が創建された同年6月29日に、最初の招霊式がとり行われているが、このときの祭主は軍務官知官事の小松嘉彰親王で、副祭主は軍務官副知官事の大村益次郎であった。

 明治8年には戊辰の役以前の維新動乱の戦死者、刑死者も合祀することとなり、東京招魂社は近代国家日本の建設に若き命を捧げた人物を洩れなく追悼する施設としての性格を明らかにしてくる。それ故、それとは逆の道を歩もうとしていると当時の政府が理解した明治10年の西南の役で西郷軍に 参加して戦死した兵士たちは、彼らが維新の功臣であっても、東京招魂社に祭られることはなかった。麻生外相が言うように、この時期の東京招魂社は、天皇をいただく中央集権型近代国家の建設事業に戦争で命を捧げた兵士を顕彰するという国家合目的主義的性格が強かった。

 東京招魂社が神道的色彩を強くしてくるのは、明治12年6月の太政官達によって靖国神社と改称され、別格官幣大社に列せられてからのことである。この太政官達で、東京招魂社はそれまでの陸海軍の専属的管轄であったものが、内務省社寺局が靖国神社の神官の任免にかかわることとなった。祭式も神社祭式に準ずるものとされるようになった。

靖国神社に祭祀される対象についても、昭和に入るまでは厳格に戦地での兵役で、あるいはそれが原因で後日生命をおとす軍人に限られていた。しかし、満州事変の頃から、平時の内地での軍務が原因で亡くなる軍人軍属、軍の要請で戦闘に 参加した民間人、銃後で戦争協力業務に従事した民間人、外地で勤務した文官なども、その業務が原因で死亡した場合には、彼らも祭祀の対象とされるようになった。戦後は、一部のA級戦犯のように国内勤務の純然たる文官まで靖国神社の祭祀の対象とされるようになった。

これは、靖国神社の権威を極限まで発揚しなければ、大衆の敢闘精神の高揚を図ることができないと、当時の政府が考えたことを証明してくれる。それは、とりもなおさず、国全体が戦争を遂行している時代の人の死というものに、靖国神社が庶民の心の中で如何に深く関わっていたかを示すものでもある。靖国神社が宗教施設でなければ、このような精神的権威をもつことが可能であったとは考えにくい。

 

アメリカの戦没者追悼の姿に変化はないか

 戦死した兵士に対する国家の追悼責任を、国家合目的主義の立場から、最も明確に説明した声明として世界にあまねく知られているのは、アブラハム・リンカーンのゲティスバーグ・アドレスである。リンカーンは、アメリカの独立宣言で述べられている「全ての人は創造主から平等に造られた」という合衆国建国理念を守りぬくために生命を捧げた兵士の偉業を、国家は顕彰し彼らを追悼する義務を負うと、その歴史的名演説の中で述べた。

東京招魂社の創建の必要性を感じとった大村益次郎が、リンカーンのゲティスバーグ・アドレスのことを知っていたかどうか、これを知る手立てはないが、奇しくも両名は戦士した兵士に対する国家の追悼責任に関して、きわめて近い考え方をしていたことが伺える。

しかし、日本においては東京招魂社が創建されて10年ほどたった頃から、国家合目的主義的性格が揺らぎ始めていることが、既に述べたように認められる。

では、アメリカにおいて、戦死者に対する追悼につき、その国家合目的主義的性格が、今日までそのまま維持されてきているかどうか検証してみたい。

今日のアーリントン国立墓地の地に兵士が埋葬されるようになったのは、連邦政府の明確な布告があってからのことではない。南軍の将軍であったリー将軍の土地を連邦政府が没収し、ここに北軍の司令部を置き、南北戦争の進展とともに増加してきた北軍兵士の遺体をここに事実上埋葬したところに、アーリントン国立墓地の起源がある。

ここを国立墓地とすることが連邦議会で定められたのは1864年6月のことであるが、前年の1863年11月19日に行われたリンカーンのゲティスバーグ・アドレスとの関連性で、アーリントン国立墓地の誕生を論じた見解に私は未だに接したことがない。しかし、その後のアーリントン国立墓地の歴史は、リンカーンがゲティスバーグで高らかにうたい上げた理念を反映した形での発展をとげて行く。

だが、いささか極端に走りすぎて、非合理的な側面も見うけられる。1892年には、一世紀以上も昔の独立戦争の戦死者の遺体を各人の墓地から掘り起こして、アーリントン国立墓地に移して再埋葬するという愚行に近いことをしている。

 靖国神社とアーリントン国立墓地の違いとして施設の宗教性がよく論じられるが、それ以外にも両者には大きな違いがある。それは、後者がメモリアルの性格をもちながらも基本的には墓地であるのに対し、前者は墓地ではなく純然たるメモリアルの場であるということである。

 アメリカの戦死者のためのメモリアル施設は、アーリントン国立墓地というより、ワシントン・モール(連邦議会のあるキャピトルの丘からリンカーン・メモリアルまでの巨大な緑地)にある各対外戦争の記念碑である。アーリントン国立墓地にしても、これらの対外戦争メモリアルにしても、無宗教の施設である(ただ、誤解してはならないのは、これらの施設で行われる追悼行事は、無宗教で行われてはいないという点である)。

しかしながら、人の死は、いかなる人にとっても宗教的情感なしには向き合うことが困難なテーマであり、戦死にはその情感が一層強く出てくるものだ。20世紀に入って社会の大衆化が進むにつれ、アメリカでもアーリントン国立墓地の国家合目的主義性格は、徐々に薄らいできている。例えば、アーリントン国立墓地への埋葬が、戦死者以外にも開かれてきている。軍人恩給受給資格者、各種勲章の受章者、これら全ての軍人の配偶者及び扶養家族も埋葬可能となった(配偶者及び扶養家族の埋葬は、アーリントン国立墓地が墓地であることから来るやむをえない結果である)。さらに軍歴をもたない著名人にも、埋葬の道が開かれるようになった。

さらに、アーリントン国立墓地は無宗教施設であるので、国家の追悼行事にもっと宗教色があってもよいではないかという庶民感情に配慮してなのか、近年アメリカ政府は、アーリントン国立墓地での追悼行事を補完するものとして、ワシントン特別区にあるワシントン・ナショナル・カテドラルでの追悼行事を年々増やしてきている。

ワシントン・ナショナル・カテドラルは、エピスコパル教会のれっきとした寺院である。しかも、全米のエピスコパル教会を統轄する主教が、ここで職務をとっている。

 ナショナル・カテドラル建設の特許(チャーター)は1893年に与えられていたが、その本堂が完成したのはなんと83年後の1976年のことで、この落成式にはフォード大統領とイギリスのエリザベス女王が出席している。エリザベス女王がこれに出席したのは、エピスコパル教会が英国国教会のアメリカ版だからである。エピスコパル教会は教義・儀式においてもカトリックとプロテスタントの中間に位置し、双方の信者に対して違和感が少ないという特色がある。

 施設の中にはいくつものチャペルがあり、その中の精霊チャペルでは、第2次大戦勃発と同時に戦死者への追悼行事が毎月行われるようになった。

 カテドラルの本堂が1976年に完成した以降は、在イランのアメリカ大使館の人質の解放に対する神への感謝集会、9・11テロ犠牲者への追悼集会、レーガン大統領の国葬、外国で殺害されたアメリカ人外交官の追悼集会など、いずれも大統領が出席してここで儀式が行われている。これらのアメリカ国民全体の心を釘付けにした事件の犠牲者を無宗教のアーリントン国立墓地に埋葬しただけでは庶民感情が満たされないだろうという判断から、アメリカ政府が追悼行事をナショナル・カテドラルという宗教施設で行うこととしているのではないだろうかとも思われるほど、近年ナショナル・カテドラルでの政府主催の追悼行事が増えている。

 

イギリスでの戦没者追悼の姿に変化はないか

 国家へ殉じた人々に対する国家による追悼の姿に大衆の宗教感情が浸透してきている傾向を日本でもアメリカでも認めることができたが、イギリスでもその傾向を認めることができるだろうか?

 第一次大戦で戦死した身元のわからない英国の無名戦士をウェストミンスター寺院に埋葬してはどうかという提案が、1920年のイギリスで、西部戦線で勤務をしたことのある従軍牧師のデイビット・レイルトン師からなされ、これが広範な国民的賛同を呼び、政府はウェストミンスター寺院に無名戦士を埋葬する決定を行った。

 ここで注目すべきは、無名戦士の埋葬場所として、英国議会のおかれているウェストミンスター宮殿ではなく、英国国教会の総本山であるウェストミンスター寺院が選ばれたことである。ウェストミンスター宮殿には、グラッドストーン他英国を代表する政治家が埋葬されている(後年、ウィンストン・チャーチルもここに埋葬された)。しかし、英国の庶民は、偉大な政治的指導者の傍よりも、神のみもとに無名戦士を眠らせることを選んだわけである。

この英国庶民の宗教的感情を裏付けるかのように、1920年11月11日にウェストミンスター寺院に無名戦士が埋葬されてから一週間の間に、125万人の英国国民がウェストミンスター寺院を訪問したという。

これは20世紀初めの出来事であるが、21世紀に入った2003年5月14日にも、ウェストミンスター寺院において、今や地上にはいない名誉軍人に対する追悼行事がエリザベス女王出席のもとに行われた。

 これは、日本の金鵄勲章に相当するイギリスのビクトリア勲章・ジョージ勲章を受章した軍人に対する追悼行事であった。今日生存している少数の受賞者の一部も出席したが、顕彰の主たる対象は没故した名誉軍人である。

これらの名誉軍人に対する顕彰ないしは追悼行事は、これまでも英国各地で随時行われてきたのであるが、2003年5月に行われたこの行事は、過去に遡って全てのビクトリア勲章・ジョージ勲章受賞者を、エリザベス女王が一括して顕彰し、そのほとんどが没故している名誉軍人を追悼するという趣旨の行事であった。

 このようにイギリス政府も、21世紀に入った今日でも、戦没者の追悼に当たって大衆の宗教的情感に配慮せざるを得ない実情が伺える。

 

庶民の宗教心と戦没者の追悼

 国家による戦没者の追悼ということが強く自覚されるようになったのは、国民国家が形成されるようになった19世紀以降のことだろうと思われる。それ以前は、平家物語に出てくる屋島合戦後の戦死した武将に対する写経供養が示すように、総大将(この場合は義経)の部下を思う心に関心がそそがれていた。

19世紀中葉になって出てきた国民国家による戦死者への国家合目的主義からの追悼という意義は、リンカーンのゲティスバーグ・アドレスの中で見事に表現されている。靖国神社でも、創建当時にそのような姿が見られたことも事実である。

 このような合理的な国家合目的主義が、日本でも英米でも、20世紀に入るとなぜほころびを見せるようになってきたのか?

 それは社会の大衆化とともに、為政者が民衆の宗教的心情に配慮せざるを得なくなったからではないのか?

 であるならば冒頭に紹介した麻生外相の靖国神社非宗教法人化の提案は、内容の善悪を問わず、社会の大衆化という歴史の流れに逆行している。人民の意識が時代の流れとともに合理主義的になってゆくというのは、戦後日本の文化人が抱いた空しい夢である。社会の大衆化が進むほど、政治は非合理的になり、国民の宗教的情念を反映するようになるものなのだ。

今日、わが国では戦没者の追悼式は、政府が武道館で行う中央集会から、市町村の行う追悼式まで、全て無宗教で行っている。そこにはアメリカにおける追悼行事のように、チャプレン(従軍聖職者)が来ることもない。遺族にとっては、満たされない気持ちが残っているに違いない。それ故であろうか、中央集会に出席する遺族は必ず靖国神社に足を延ばし、地方の遺族会は各地の護国神社の行う春季・秋季大祭に出かける。

 麻生外相は、戦死という人の死のなかでも受け入れることが最も困難な人の死を、大衆が国家目的ではなく宗教の力で、これをどうにか納得し受け入れている現実を、どうお考えになられるだろうか。

以上

 

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