●● 加藤左馬助嘉明(1563-1631)  ●●
従五位下 左馬助 従四位下 侍従
 贈従三位
内室 堀部市右衛門女
永禄6年
(1563)
【誕生】
 三河国で岸三之丞教明の子として生まれる。
岸教明は三河国の松平家康(のちの徳川家康公)の家臣でしたが、三河一向一揆に加わり、敗退。嘉明もまた流浪の身となっています。
 のちに父教明は近江国に至って、長浜城主羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に仕え、300石を給い、矢嶋郡に住んでいました。嘉明は馬の行商をしていたと伝えられています。この時、加藤景泰(加藤光泰の父)にその才能を見いだされ、秀吉に推挙されています。同時に、景泰の猶子とされ、「加藤氏」を名乗ったと考えられています。
 その後、秀吉は養子・秀勝の小姓としました。
天正4年
(1576)
【秀吉夫人・お禰の逆鱗に触れる】
 播磨攻めにおいて、主君秀勝に無断で、播磨攻めに従軍。秀勝は初陣前であり、秀勝の養母であるお禰は「初陣前の主君をさしおいて、その小姓が初陣を飾ろうとは、何事か!」と大激怒。お禰は「無頼の者」として、放逐するよう、秀吉に迫りました。秀吉は嘉明らの意欲を頼もしく思い、「放逐」どころか、陣中に留め置き、直臣として、300石を賜いました。
天正6年
(1578)
【初陣】
 主君秀吉に従って、三木城を包囲し、初陣を飾りました。その後、備中須久山の戦いでは首二級を上げています。
天正10年
(1582)
【本能寺の変、中国大返し】
 秀吉の主君・織田前右大臣信長公が逝去すると、秀吉は中国大返しを敢行。山崎の戦い直前に嘉明らもこれに加わり、明智光秀を敗退せしめました。この時、山城菱田村300石を加増されています。その後、賤ヶ岳の戦いでは、福島正則、加藤清正、脇坂安治らとともに大活躍し、3,000石を加増され、いわゆる賤ヶ岳の七本槍に数えられています。
天正12年
(1584)
【小牧長久手の戦い】
 かつての主君であった徳川家康公との戦いに従軍。
天正13年
(1585)
【叙爵=大名家の仲間入り】
 主君秀吉が関白宣下を受けると、「従五位下」に叙位、あわせて「左馬頭」に叙任されました。
 従五位下の位は武家にとって、初官であり、五位に叙される事は大名の仲間入りを果たしたことになります。
 この時、23歳でした。

 この年、四国攻めでは小早川隆景の与力となり、伊予国平定に功績をあげ、翌年には淡路國津名・三原郡15,000石に封ぜられ、志知城を与えられ、城主となりました。
天正15年
(1587)
【淡路水軍の活躍
 九州征伐や、天正18年の小田原征伐では、淡路水軍を率いて参戦、主君秀吉の全国平定に功績をあげました。
文禄元年
(1592)
【文禄の役】
 船大将九鬼嘉隆に次ぐ副将格として出兵、李舜臣の朝鮮水軍と交戦。
 翌年、明との講和により、一時帰国をしました。この時、淡路国内で1,700石の加増、さらにその翌年(文禄4年)には、伊予国正木に増封され、合計6万石を治めることになり、蔵入地4万石の管理も任せられています。

【伊予国正木城へ】
 加増を受けた嘉明は、淡路志知城を引き払い、伊予国正木城へ入城しました。
慶長2年
(1597)
【慶長の役】
 明との講和交渉は決裂し、ふたたび朝鮮半島へ出兵。大戦果を挙げる中でも、藤堂高虎には及ばず、また領地も隣同士。これがきっかけで、不仲になってしまいました。
【主君秀吉の薨去】
 主君豊臣秀吉が大坂城で薨去すると、それを秘匿し、徳川家康公や前田利家ら大老の協議により撤収。嘉明も帰国しました。
慶長5年
(1600)
【関ヶ原の戦い】
 福島正則とともに、「東軍」として、岐阜城の戦い、大垣城の戦いに参戦、そして関ヶ原の戦いでも、武功をあげました。その後、10万石を加増され、合計20万国(伊予半国)を治めることになりました。この頃より、嘉明は新城下町の経営を考えていたようで、広大な道後平野を新城下町としようと構想を練っていました。
慶長6年
(1601)
【伊予松山の誕生】
 伊予半国20万石の大守となったの受け、道後平野を流れる、「湯山川」と「伊予川」の改修に着手。足立半右衛門重信の議を受け入れ、両河川の流域を転じさせ、広大な平野を作り上げました。この功績により、「伊予川」は「重信川」と呼ばれるようになりました。
 新平野が完成すると、嘉明は新しい城の建築に取り掛かりましたが、当時の道後平野には、御幸寺山、天山、味酒山(勝山)の独立丘陵がありました。もっとも新城にふさわしい丘陵は勝山でしたが、説話によると、第一候補を御幸寺山、第二候補を勝山、第三候補を天山とし、内大臣徳川家康公に具申をしています。家康公は、最適な候補地に城を築くことを許してしまうと、のちのちに徳川家にとって災いとなると思い、第二候補を許可するふしがありました。嘉明はそこを先読みし、第二候補を勝山として、新城の許可を受けました。
 さっそく、勝山に新城を築き始め、そのふもとから平野には城下町のを作り出しました。
 慶長8年に新城と城下町はだいたいが完成し、正木城下から家臣と正木の住民を移し、新城に入りました。
 この時、新城下町は「松山」と改められ、新城は「松山城」を名づけられました。
慶長11年
(1606)
【天下普請】
 松山城の建築、新城下町の経営にいそしむ毎日でしたが、大御所家康公の命により、江戸城、駿府城、篠山城、名古屋城とあいつぐ天下普請に参加しています。
慶長19年
(1614)
【大坂冬の陣】
 大坂冬の陣では、嫡男明成が出陣しました。
 嘉明は豊臣恩顧の大名として、将軍家より警戒され、江戸城留守居として、江戸に留め置かれました。
慶長20年
(1615)
【大坂夏の陣】
 嘉明は将軍秀忠の軍にしたがい、大坂城を攻めました。これにより、主君であった豊臣家は滅びました。
元和5年
(1619)
【福島家除封】
 広島城主福島正則が改易、除封されると、その身柄を預かり、城の接収役を勤めました。
元和9年
(1623)
【昇進】
 前年、世子家光公の鎧着初では介添役をつとめました。
 その家光公が将軍宣下を受けると、従四位下へ昇進しました。
寛永3年
(1626)
【後水尾院の二条城行幸】
 行幸に際し、その警固役を仰せつけられ、侍従に昇進しました。
寛永4年
(1627)
【会津若松へ増封】
 会津の蒲生忠郷が急死、その騒動で忠郷の弟忠知が家名相続を許されると、伊予松山へ転封されました。
 それを受け、嘉明公は会津若松43万5,500石へ加増され、移封されました。
 この時、藤堂高虎の強い推薦があったと伝えられています。
寛永8年
(1631)
【江戸で逝去】
 病により、江戸の桜田邸で死去。享年69歳。法名は松苑院殿拾遺釈道誉大禅定門。麻布の善福寺で火葬されました。のちに遺骨は東本願寺の大谷祖廟へ埋葬されました。正保四年には、東本願寺十四世法主・琢如(淳寧院)によって、法名を三明院道誉宣興と改められました。
大正6年
(1917)
【従三位追贈】
 大正天皇の特旨により、従三位を追贈されました。
参考文献: 景浦直孝 (1930) 『加藤嘉明公』 伊予史談会

更新年月日:平成29年7月23日