旧官幣中社 太宰府天満宮 ― 学問の神様・道真公を祀る社 ― 福岡県太宰府市宰府 

松平隠岐守家(久松家)の家祖は、贈正一位太政大臣菅原道真公です。
隠岐守家では、江戸藩邸や松山城内の天神櫓に天満宮(道真公)を勧請し、お祀りしています。
  
〈太宰府天満宮御本殿〉
天正19(1591)年、筑前国の大守小早川隆景が5ヶ年かけて造営、竣工しました。
国の重要文化財に指定されています。



 天満大自在天神
  ※大自在天とは観世音菩薩の生まれ代わりの一つとされた神をいうそうです。
 
  延喜3(903)年
   従二位大宰権帥として、太宰府の謫居(たっきょ)の地・南館(榎寺)にいた、道真公が薨去されました。
   道真公の御遺骸を牛車に乗せて運んだところ、その牛が伏して止まってしまいました。
   これは、菅公の御心によるものであろうと、その地に御遺骸を葬りました。これが太宰府天満宮のはじまりです。

  延喜5(905)年
   京より追従した、道真公の門弟味酒安行(うまさけのやすゆき)は、その道真公の墓所に祠廟を創建しました。

  延喜19(919)年
   左大臣藤原仲平は、醍醐天皇の勅を奉じて大宰府に下り、社殿の造営を行いました。



  延長元(923)年
   醍醐天皇は、道真公の生前の朝廷尊崇や忠誠を追懐され、右大臣の職を復位、そして正二位を贈位しました。
   これにより道真公は、生前の官職に復されたことになります。
  
  正暦4(993)年5月
   一条天皇は、道真公へ正一位の位と左大臣の職を贈位、同年10月には太政大臣の職を送られました。
   その後、度重なる勅旨の御下向があり、二十二社に准じました。


  明治4(1871)年
   国幣小社に制定。
  
  明治15(1882)年
   官幣小社に転じました。

  明治28(1895)年
   官幣中社に昇格しました。




 松平隠岐守家の元姓は菅原姓です。
 道真公の孫・雅規公の十四世孫である、久松道定公は雅規公の幼名である久松麿から、菅原姓久松氏を称して、足利将軍家に仕えました。
 以来、久松家では道真公を~徳を敬って、定紋を梅紋とするなど、道真公の流れを汲む家を意識していきます。
                   
           久松家共通の定紋となった星梅鉢紋
 (藩祖定勝公から派出した大名家・旗本家の共通紋となっています)
 
 江戸時代になると、久松家からは、大名家や旗本家が派出していきました。
 その本家である、松平隠岐守家は、国許や御在城の松山城や江戸藩邸で、道真公の御~霊を勧請し、お祀りしていました。
 たとえば、初代定行公は伊勢桑名の藩主時代、道真公の御~像を京都で作らせています。それを松山移封とともに、松山城へ御遷座、城の守護神としています。
 そして、4代定直公は、松山城の鬼門を護る位置へ櫓を作らせ、その天神様を遷し、「天神櫓」と名づけています。
       
    松山城本檀の鬼門にある天神櫓
 
 また、11代定通公は、城内に東雲神社を創建、藩祖定勝公の御~霊(東雲大明神)とあわせ、道真公の御~霊をお祀りしています。
        
    松山城の登山道にある東雲神社

 松山城が廃城となると、天神像は松山城から久松家(旧松平隠岐守家)への邸宅へ遷りました。久松家(松平隠岐守家)の前当主(故人)である、久松定武氏は、その自伝書の中で、毎朝天神様に拝礼しているとおっしゃっています。このように、松平隠岐守家と天満宮は強いつながりがあります。
 

伊予の葵