●● 松平中務大輔忠知(16041634)  ●●
従五位下 従四位下 正四位下 侍従

生母 徳川家康女振姫  内室 内藤政長女
慶長9年
(1604)
【誕生】
 蒲生秀行の次男として生まれ、鶴松丸と名付けられ、家臣蒲生郷治によって養育されました。
 生母は徳川家康の女振姫です。
慶長17年
(1612)
【父秀行公薨去】
 忠知公の父秀行公が、会津城で急死しました。享年30歳。
 法号は弘真院殿覚山浄雲大居士。

【殿上元服賜諱】
 江戸城で元服、伯父秀忠公より偏諱を賜り、「忠知」と名乗りました。
 この時、従五位下中務大輔に叙任されました(一説には翌年とも)。
元和2年
(1616)
【母徳川氏振姫の再婚】
 生母振姫が、紀州和歌山城主浅野長晟と再婚しました。
元和3年
(1617)
【異父弟の誕生と母の急逝】
 夫浅野長晟との間に光晟(異父弟)が生まれましたが、母は産後に急逝しました。享年38歳。
 松清院殿英誉杲悦善芳大姉。紀州松応寺に埋葬されました。
元和9年
(1623)
【昇進】
 四品に昇進しました。
 
しかし、病のため江戸へ戻らず、京都に滞留しました。
寛永3年
(1626)
【昇進】
 家光将軍宣下に供奉し上洛、正四位下に昇り、侍従に進みました。
 その後、出羽上山城四万石を賜りました。
寛永4年
(1627)
【松山へ】
 兄忠郷公が会津城で天然痘により、急死。享年25歳。
 法号は見樹院殿三品前宰相公待誉玄光大禅定門。
 幕命により、会津城は収公し、蒲生(松平)家は断絶しました。
 しかし、忠郷公・忠知公兄弟の生母は家康公女振姫、祖母は織田右大臣信長公の女冬姫という間柄から、減移封という形をとり、伊予松山藩20万石に入部しました。
 この時、祖父氏郷公が望んでも与えられなかった蒲生家発祥地日野領4万石を合わせて、授けられました。
寛永12年
(1635)
【急死】
 松山城の整備、城下の整備を続けていましたが、参勤交代の途中、京都で急死。
 享年30歳でした。
法号は興聖院殿四品前中書侍郎華岳宗栄大居士。
 松山城下見樹院(現在の大林寺)へ埋葬されました。のちに見樹院は移転、興聖院と改め現在に至っています。
 忠知公には子がなく、ここに鎮守府将軍藤原秀郷以来の武家名門蒲生家は断絶しました。
寛永18年
(1641)
【祖母冬姫の死去】
 織田右大臣信長の女にして、祖父蒲生氏郷の室であった、相応院冬姫が京都で亡くなりました。
 蒲生(松平)家、断絶後は京都知恩寺で余生を過ごしていたといいます。
 享年81歳。法号は相応院殿月桂凉心英誉清薫大禅定尼。
参考文献:『断家譜』『徳川諸家系譜』